公然わいせつ罪で検挙された人気グループ「SMAP」の草薙何某氏とやらは、早くも芸能界に復帰したらしい。
詐欺罪で有罪判決が下された小室哲也氏も執行猶予処分となり、やはり今後自分に残された道は音楽で恩返しすることだと宣言し、早くも水面下で音楽界復帰計画が進んでいると聞く。
金融商品取引法違反で起訴され有罪判決を受けつつも保釈されたホリエ氏は、“あくまでも自分が成した行為は正しく、今回の有罪判決は想定外”云々…、との趣旨の著書を既に出版している模様だ。
このうちホリエ氏に関しては、マスメディアを通して謝罪をする姿を見なかったように思う。
それに対し草薙氏と小室氏の2人は検挙された直後より、時には目頭に涙すら浮かべながら、マスメディアの影像でやたらめったら頭を下げてばかりいたような印象がある。
特に草薙何某氏に関しては私は元々一切興味がないため、ファンの方々には大変失礼ながら何がどうなろうと、どーーーーーでもいいのだが、裏で仕組まれ操られつつマスメディアの表舞台で演じた謝罪の仰々しさに、哀れさが滲んでいたものだった。
結局、仰々しくわざとらしい謝罪の魂胆とは、早期の芸能界復帰であることが見え見えで、興味が無いからどーーでもいいなりにもアホ臭くて白けるばかりである。
むしろもっと長期間身を潜めさせて、事件に関しての世間の忘却を待ってから復帰させた方が格好がつくのではないかと私などは思う。
だが、草薙何某氏の稼ぎの膨大さを推し量ると、裏で操る黒幕どもにとっては本人の人格を無視してでも出来るだけ早期に表舞台に引っ張り出して、稼げるうちにとことん稼がせようという結論になるのであろう。
事件そのものよりも、失態をしでかして日が経たないうちに表舞台に引っ張り出され、恥ずかしくも笑顔を振りまかなければならない本人の姿の方によほど哀れさが漂う。(復帰の姿を見ようとも思わないため、見もしないで私論を述べていることをお許しいただきたい。)
小室氏に関しても、検挙された直後からマスメディアを通して一貫して反省と謝罪の姿勢を崩さなかったようだ。
私は当初からそんな小室氏の姿をマスメディアで垣間見て、わざとらしさの匂いのある質素ないでたちとあの涙の演技力に感心しつつ、その実は有罪判決の回避と自らの早期復帰を狙ったパフォーマンスであろうと読んでいた。(小室氏を裏で支えているスタッフ連中も、本人にそのような哀れな演技をさせる以前に、スタッフとして浅はかな詐欺行為を回避する手段を講じる手腕を発揮するのが先決問題だったはずなのに…)
案の定、執行猶予判決の出た今、早くも水面下で復帰計画を進めている様子である。
昔味わった“栄光”とは人間の本能的体感として染み付いているものであるようだ。昔の“栄光物語”に惑わされて再犯などという失態を繰り返さぬよう、小室氏復帰後は純粋な音楽活動に専念して、今まで以上にすばらしい音楽を配信して欲しいものである。
本ブログの時事論評カテゴリーバックナンバー「謝罪会見はもう終わりにしよう」でも既述しているのだが、この国はいつから“頭を下げりゃ済む”と勘違いし始めたのであろうか? 日々、マスメディアでは謝罪会見のオンパレードである。
そもそもこの国には決して“謝らない”風土が蔓延っていたように私は記憶している。政治家を筆頭に、どんな悪戯をはたらいても決して自分の非を認めず、秘書や贈賄側に責任をなすりつけるのが得意技だったような記憶がある。
(つい最近も民主党の小沢何某氏がこの失態を披露したがために、民主党内では今その尻拭いに躍起のようだが、民主党もこの事態をうやむやにせずに党内できちんと責任追及をするべきだぞ。)
ところがどうしたことか、2、3年前よりこの国ではあっちもこっちも裏を返したかのごとくの“謝罪会見”の数々である。あの見たくもない“ハゲ頭”を下げる謝罪パフォーマンスにより、事件は一件落着したものと市民をはぐらかせるとでも思っているのであろうか。
ここで今一度「謝罪」の意味合いを復習してみよう。
「謝罪」とは、決して頭を下げりゃ済むということではない。正確には、自分の非や不正を認めて“その責任を取る”、ということなのである。
政治家に代表されるごとくの、自分の非も認めず謝りもせずに秘書等の他人にその責任をなすりつけて済ませた一昔前の実態は、もちろん言語道断で許し難き事態である。
だが、頭を下げる謝罪会見のパフォーマンスにより、世間知らずの一般市民のうわべの同意を得て事件が終結したかに見せかけ責任逃れをしたり、ましてや、まんまと次のステップに進んで引き続き暴利をむさぼろうなどとする行為は、私に言わせていただくと“より悪質”であるように感じるのだ。
たかが芸能人や有名人と言えども、裏の黒幕に踊らされることなく真に自らの非を認め自分の行為の責任を取れる人格を形成しつつ生きた方が、結局はより幸せな人生を歩めるのではないかと、一般人として長年しがなく生きている私などは思うのだけどね…。
詐欺罪で有罪判決が下された小室哲也氏も執行猶予処分となり、やはり今後自分に残された道は音楽で恩返しすることだと宣言し、早くも水面下で音楽界復帰計画が進んでいると聞く。
金融商品取引法違反で起訴され有罪判決を受けつつも保釈されたホリエ氏は、“あくまでも自分が成した行為は正しく、今回の有罪判決は想定外”云々…、との趣旨の著書を既に出版している模様だ。
このうちホリエ氏に関しては、マスメディアを通して謝罪をする姿を見なかったように思う。
それに対し草薙氏と小室氏の2人は検挙された直後より、時には目頭に涙すら浮かべながら、マスメディアの影像でやたらめったら頭を下げてばかりいたような印象がある。
特に草薙何某氏に関しては私は元々一切興味がないため、ファンの方々には大変失礼ながら何がどうなろうと、どーーーーーでもいいのだが、裏で仕組まれ操られつつマスメディアの表舞台で演じた謝罪の仰々しさに、哀れさが滲んでいたものだった。
結局、仰々しくわざとらしい謝罪の魂胆とは、早期の芸能界復帰であることが見え見えで、興味が無いからどーーでもいいなりにもアホ臭くて白けるばかりである。
むしろもっと長期間身を潜めさせて、事件に関しての世間の忘却を待ってから復帰させた方が格好がつくのではないかと私などは思う。
だが、草薙何某氏の稼ぎの膨大さを推し量ると、裏で操る黒幕どもにとっては本人の人格を無視してでも出来るだけ早期に表舞台に引っ張り出して、稼げるうちにとことん稼がせようという結論になるのであろう。
事件そのものよりも、失態をしでかして日が経たないうちに表舞台に引っ張り出され、恥ずかしくも笑顔を振りまかなければならない本人の姿の方によほど哀れさが漂う。(復帰の姿を見ようとも思わないため、見もしないで私論を述べていることをお許しいただきたい。)
小室氏に関しても、検挙された直後からマスメディアを通して一貫して反省と謝罪の姿勢を崩さなかったようだ。
私は当初からそんな小室氏の姿をマスメディアで垣間見て、わざとらしさの匂いのある質素ないでたちとあの涙の演技力に感心しつつ、その実は有罪判決の回避と自らの早期復帰を狙ったパフォーマンスであろうと読んでいた。(小室氏を裏で支えているスタッフ連中も、本人にそのような哀れな演技をさせる以前に、スタッフとして浅はかな詐欺行為を回避する手段を講じる手腕を発揮するのが先決問題だったはずなのに…)
案の定、執行猶予判決の出た今、早くも水面下で復帰計画を進めている様子である。
昔味わった“栄光”とは人間の本能的体感として染み付いているものであるようだ。昔の“栄光物語”に惑わされて再犯などという失態を繰り返さぬよう、小室氏復帰後は純粋な音楽活動に専念して、今まで以上にすばらしい音楽を配信して欲しいものである。
本ブログの時事論評カテゴリーバックナンバー「謝罪会見はもう終わりにしよう」でも既述しているのだが、この国はいつから“頭を下げりゃ済む”と勘違いし始めたのであろうか? 日々、マスメディアでは謝罪会見のオンパレードである。
そもそもこの国には決して“謝らない”風土が蔓延っていたように私は記憶している。政治家を筆頭に、どんな悪戯をはたらいても決して自分の非を認めず、秘書や贈賄側に責任をなすりつけるのが得意技だったような記憶がある。
(つい最近も民主党の小沢何某氏がこの失態を披露したがために、民主党内では今その尻拭いに躍起のようだが、民主党もこの事態をうやむやにせずに党内できちんと責任追及をするべきだぞ。)
ところがどうしたことか、2、3年前よりこの国ではあっちもこっちも裏を返したかのごとくの“謝罪会見”の数々である。あの見たくもない“ハゲ頭”を下げる謝罪パフォーマンスにより、事件は一件落着したものと市民をはぐらかせるとでも思っているのであろうか。
ここで今一度「謝罪」の意味合いを復習してみよう。
「謝罪」とは、決して頭を下げりゃ済むということではない。正確には、自分の非や不正を認めて“その責任を取る”、ということなのである。
政治家に代表されるごとくの、自分の非も認めず謝りもせずに秘書等の他人にその責任をなすりつけて済ませた一昔前の実態は、もちろん言語道断で許し難き事態である。
だが、頭を下げる謝罪会見のパフォーマンスにより、世間知らずの一般市民のうわべの同意を得て事件が終結したかに見せかけ責任逃れをしたり、ましてや、まんまと次のステップに進んで引き続き暴利をむさぼろうなどとする行為は、私に言わせていただくと“より悪質”であるように感じるのだ。
たかが芸能人や有名人と言えども、裏の黒幕に踊らされることなく真に自らの非を認め自分の行為の責任を取れる人格を形成しつつ生きた方が、結局はより幸せな人生を歩めるのではないかと、一般人として長年しがなく生きている私などは思うのだけどね…。