原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

安易な謝罪の魂胆

2009年05月30日 | 時事論評
 公然わいせつ罪で検挙された人気グループ「SMAP」の草薙何某氏とやらは、早くも芸能界に復帰したらしい。
 詐欺罪で有罪判決が下された小室哲也氏も執行猶予処分となり、やはり今後自分に残された道は音楽で恩返しすることだと宣言し、早くも水面下で音楽界復帰計画が進んでいると聞く。
 金融商品取引法違反で起訴され有罪判決を受けつつも保釈されたホリエ氏は、“あくまでも自分が成した行為は正しく、今回の有罪判決は想定外”云々…、との趣旨の著書を既に出版している模様だ。

 このうちホリエ氏に関しては、マスメディアを通して謝罪をする姿を見なかったように思う。
 それに対し草薙氏と小室氏の2人は検挙された直後より、時には目頭に涙すら浮かべながら、マスメディアの影像でやたらめったら頭を下げてばかりいたような印象がある。


 特に草薙何某氏に関しては私は元々一切興味がないため、ファンの方々には大変失礼ながら何がどうなろうと、どーーーーーでもいいのだが、裏で仕組まれ操られつつマスメディアの表舞台で演じた謝罪の仰々しさに、哀れさが滲んでいたものだった。

 結局、仰々しくわざとらしい謝罪の魂胆とは、早期の芸能界復帰であることが見え見えで、興味が無いからどーーでもいいなりにもアホ臭くて白けるばかりである。

 むしろもっと長期間身を潜めさせて、事件に関しての世間の忘却を待ってから復帰させた方が格好がつくのではないかと私などは思う。
 だが、草薙何某氏の稼ぎの膨大さを推し量ると、裏で操る黒幕どもにとっては本人の人格を無視してでも出来るだけ早期に表舞台に引っ張り出して、稼げるうちにとことん稼がせようという結論になるのであろう。
 事件そのものよりも、失態をしでかして日が経たないうちに表舞台に引っ張り出され、恥ずかしくも笑顔を振りまかなければならない本人の姿の方によほど哀れさが漂う。(復帰の姿を見ようとも思わないため、見もしないで私論を述べていることをお許しいただきたい。)


 小室氏に関しても、検挙された直後からマスメディアを通して一貫して反省と謝罪の姿勢を崩さなかったようだ。
 私は当初からそんな小室氏の姿をマスメディアで垣間見て、わざとらしさの匂いのある質素ないでたちとあの涙の演技力に感心しつつ、その実は有罪判決の回避と自らの早期復帰を狙ったパフォーマンスであろうと読んでいた。(小室氏を裏で支えているスタッフ連中も、本人にそのような哀れな演技をさせる以前に、スタッフとして浅はかな詐欺行為を回避する手段を講じる手腕を発揮するのが先決問題だったはずなのに…)

 案の定、執行猶予判決の出た今、早くも水面下で復帰計画を進めている様子である。
 昔味わった“栄光”とは人間の本能的体感として染み付いているものであるようだ。昔の“栄光物語”に惑わされて再犯などという失態を繰り返さぬよう、小室氏復帰後は純粋な音楽活動に専念して、今まで以上にすばらしい音楽を配信して欲しいものである。


 本ブログの時事論評カテゴリーバックナンバー「謝罪会見はもう終わりにしよう」でも既述しているのだが、この国はいつから“頭を下げりゃ済む”と勘違いし始めたのであろうか? 日々、マスメディアでは謝罪会見のオンパレードである。

 そもそもこの国には決して“謝らない”風土が蔓延っていたように私は記憶している。政治家を筆頭に、どんな悪戯をはたらいても決して自分の非を認めず、秘書や贈賄側に責任をなすりつけるのが得意技だったような記憶がある。
 (つい最近も民主党の小沢何某氏がこの失態を披露したがために、民主党内では今その尻拭いに躍起のようだが、民主党もこの事態をうやむやにせずに党内できちんと責任追及をするべきだぞ。)


 ところがどうしたことか、2、3年前よりこの国ではあっちもこっちも裏を返したかのごとくの“謝罪会見”の数々である。あの見たくもない“ハゲ頭”を下げる謝罪パフォーマンスにより、事件は一件落着したものと市民をはぐらかせるとでも思っているのであろうか。

 ここで今一度「謝罪」の意味合いを復習してみよう。
 「謝罪」とは、決して頭を下げりゃ済むということではない。正確には、自分の非や不正を認めて“その責任を取る”、ということなのである。
 政治家に代表されるごとくの、自分の非も認めず謝りもせずに秘書等の他人にその責任をなすりつけて済ませた一昔前の実態は、もちろん言語道断で許し難き事態である。

 だが、頭を下げる謝罪会見のパフォーマンスにより、世間知らずの一般市民のうわべの同意を得て事件が終結したかに見せかけ責任逃れをしたり、ましてや、まんまと次のステップに進んで引き続き暴利をむさぼろうなどとする行為は、私に言わせていただくと“より悪質”であるように感じるのだ。


 たかが芸能人や有名人と言えども、裏の黒幕に踊らされることなく真に自らの非を認め自分の行為の責任を取れる人格を形成しつつ生きた方が、結局はより幸せな人生を歩めるのではないかと、一般人として長年しがなく生きている私などは思うのだけどね…。     
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やっぱり「女」がいいなあ♪

2009年05月28日 | その他オピニオン
 「生まれ変わるなら男と女、どっちがいい?」


 この質問は、朝日新聞土曜版別刷「be」“between"の5月23日(土)のテーマである。
 読者からの回答を元に作られているこのコーナーであるが、今回の読者回答の集計を見ると、男性の6割が生まれ変わっても「男」希望で、女性の4割が「女」希望との結果である。そして、女性の34%は「男になりたい」とのことであるらしい。

 男性が生まれ変わっても「男」であることを希望している理由を上位から順に紹介すると、
 ①一人旅や一人暮らしが臆せずできる     ②大きな事をやるには男が有利
 ③組織のリーダーになりやすい         ④出産・育児で仕事を中断しなくていい
 ⑤男にしかできないスポーツをしたい      ⑥就職などで有利
                                    等となっている。

 同様に、女性が生まれ変わっても「女」であることを希望する理由は、
 ①比較的自由な生き方を選べる      ②出産を経験できる
 ③生活能力が高い              ④化粧やおしゃれを楽しめる
 ⑤厳しい局面で大目に見てもらえる    ⑥きつい仕事を免除してもらえる
                                    等とのことである。

 この記事中にも書かれているが、「生まれ変わったら別の性になりたい?」との質問は、「その性で嫌な思いをしたか」という問いの“合わせ鏡”であろう。

 
 そういった観点で我が半生を振り返ってみると、私の場合、女であることが不利となったり、女であるがために嫌な経験をした記憶がほとんどないのだ。

 女が男よりも不利な扱いを受ける場面の代表格が、仕事・就職に関する待遇であるようだ。
 私事になるが、ウン十年に及ぶ我が人生において様々な職業経験がある中で、私が経験した主たる職業をここで披露すると“医学関係の専門職”と“高校教員”である。この両者共に、私の場合は職場における性差による差別待遇はなかったと言える。
 その分、仕事内容にも女であるが故の優遇措置も一切なかった。上記の朝日新聞記事の女性側の回答にあるがごとくの、女だから「厳しい局面で大目にみてもらえ」たり、「きつい仕事を免除してもらえ」るなどという周囲からの甘っちょろい待遇を、私の職業経験においては一切経験してきていない。 独身期間が長かった私は、むしろ、夜遅くまで取り組む必要のある業務を自ら率先して申し出たり、男女を問わず家庭のある職員が敬遠する泊まりがけの出張等にも喜んで出かけたものだ。
 その結果、男性が生まれ変わっても「男」がいいとする理由のひとつの「組織のリーダー」も、周囲の男性を押しのけて経験してきている。

 加えて、(以下の話をすると“女性解放論”分野の女性達には大いに嫌われそうだが)私は我が人生において、「女」であることを各方面で大いに利用して生きてきているのも事実である。
 上記の朝日新聞記事にも、女性が再び「女」に生まれ変わりたい理由の一つとして“化粧やおしゃれを楽しめる”とあるが、この私もまったく同感である。そういった分野にも昔から興味のある私なのだが、これは楽しい♪♪  ファッションの多様性は、やはり女性でなければ味わえない醍醐味であろう。ミニスカートを履いて脚線美(?)を披露できるのは「女」でなければ成し得ない開放感でもある。

 その延長線上に女性でなければ就けない職業が世の中に多く存在するのだが、私も30歳代の独身時代に勤労学生として、学業の合間に“コンパニオン”等「女」であることを利用できる職種で、したたかに効率良く稼がせていただいたものだ。

 ここまで書いてくると、私が「生まれ変わっても女でありたい」と思う理由において、朝日新聞記事の回答女性達と多少の共通点があれど、その本質が異なることがおわかりいただけることであろう。 


 この朝日新聞記事のまとめとして、東大大学院で“ジェンダー(社会的性差)論”を教える男性(?)研究者からの論述があるので、以下に少し紹介しよう。
 生まれ変わってどちらの性を選ぶかは、その人の人生に対する肯定感を反映する。女性が働き易い社会では自己肯定感も強くなる。 最近の不況で増えている経済的理由による自殺は圧倒的に男性で、男性が悲鳴をあげている。男女の二分法は人間の多様性に照らしてあまりに狭い。

 大変申し訳ないが、専門家にしてずい分と悲観的なご意見との私観が否めないため、以下に異論を提示させていただく。

 上記朝日新聞記事によると、生まれ変わったら「女」になりたい少数派である男性のその理由として、“大黒柱で一人で立ち向かわなければならない男はつらい“とか、はたまた“男は強くあれ、という目で見られるのは正直つらい”との記載もある。

 ちょっと待ってくれよ! 「女」にさえ生まれたならば、弱くても世を渡っていけるとでも思っているのかい??
 冗談じゃないよ。
 そんな“か弱き男ども”に女の立場から一言申し上げたいのだが、弱音を吐く男を支えるのが鬱陶しいから、美味しいところだけを頂きつつ独身を貫き通しているしたたかな女が、今時多い現状じゃないのかなあ。
 「大黒柱」になるのが嫌ならば、「強く生きろ」と言われるのがそれ程辛いのならば、男とて一生独身を貫きつつ、決して自殺などを企てず自分の人生を自己責任でエンジョイすればそれで済む話だろうが。
 (それが一人で立派に出来てこそ、世を渡っていけるということじゃないのかい?)

 何はともあれ、私はやっぱり「女」がいいなあ♪ 
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「逆上がり」の屈辱

2009年05月26日 | 教育・学校
 今の小学校でも、全員が必ず「逆上がり」が出来なくてはいけないなどという“意味不明な縛り”を、まだ全児童に課し続けているのであろうか?


 5月の連休中の朝日新聞の「ひととき」欄に、公園で子どもの「逆上がり」の練習に付き合っていて、「逆上がり」が出来なかったはずの母親である自分が思いがけず出来てしまい、公園で注目の的になったという、30歳代の女性からのほほえましい投書があった。

 似たような経験は私にもある。我が子が小学生の頃までは子どもが苦手なスポーツ種目等様々な事柄に付き合って、公園等でよく一緒に練習したものだ。
 例えば「持久走」であるが、これは私も子どもの頃は苦手だった種目である。ところが子どもと一緒に公園を走ると、以外や以外いつまででも走れるのだ。先に音(ね)を上げた子どもを休憩させて、一人で連日一体どれ位の距離を走ったことだろう。
 それから「縄跳び」である。体力には自信がないもののリズム感には自信のある私は「縄跳び」は子どもの頃から比較的得意種目だったのだが、何十年かのブランクを物ともせずやはり我が子よりも数段上手い。子どもの指導も放ったらかして、公園で一人で没頭して跳びまくったものだ。
 「ボール投げ」もやったなあ。折れそうな細腕だった小学生の頃の私は9m投げるのがせいぜいだったのに、今投げると20m程飛ばせるから不思議だ。

 
 何年か前に、テレビの対談番組で女優の桃井かおり氏も同様のことを話していた。
 昔子どもの頃できなかった「逆上がり」等のスポーツ種目が、50歳を過ぎて体が老化の一途を辿っている今、不思議と何でも出来てしまうのだと。それは単に体力や技術的な問題のみならず人間的成長がものを言っている、云々… そのような趣旨の話をしていたと記憶している。

 まさに私も同感なのである。
 人生経験を積み重ねていく中で自然と体力面や技術面の力が向上し、体の各部位の効率的な使い方というものを誰に教わる訳でもなく心得てくるように感じる。子どもの頃には訳がわからずただただやみくもに頑張っていたことが、今では力加減を心得るようになっている。
 それに加えて、人間としての“成功感”が大きくものを言うようにも私は感じる。人生における様々な分野での成功体験を通じて自信が芽生え、チャレンジする対象事象の如何にかかわらず「自分は出来るぞ!」とのごとくのエネルギーが内面から湧き出てくるのだ。このような精神力が力強い後ろ盾となって、体を突き動かしてくれるように感じることをよく経験する。


 話を冒頭の小学校の頃の「逆上がり」に戻すが、この私もなかなかクリア出来ずクラスで最後の2、3人にまで残った“「逆上がり」落ちこぼれ”児童だった。 
 あれは、我が幼き日の屈辱的な光景として今尚忘れずにいる。

 上にも書いたが、まず我が折れそうな細腕が体を支えられない。
 それ以前の問題として、昔の小学校には体育専任教師など配備されていなかったため、技術的に「逆上がり」を指導できる指導者が誰一人いないのだ。そんな環境の中で、ただただ周囲の児童が成功するのを見よう見真似で頑張るのだが、どう足を上げても成功には程遠く疲れ果てるばかりだ。
 更に極めつけは、昔の学校においては“出来の悪い子を責める”教育がまかり通っていたのだ。「皆出来るのに、何であんたは出来ないの!」との教員の罵声が「逆上がり」が出来ない児童の劣等感に追い討ちをかける。 「だったら、あんたがちゃんと教えろよ!」と今なら言い返すだろうが、当時の幼き私に教員に逆らう手立ては何もない。

 それでも、その“出来の悪い”2、3人で日が暮れるまで学校の校庭で毎日頑張った。一緒に残って元気に遊び回っている“出来る子”をお手本にしつつ、ある日、何とか「逆上がり」が出来た私であった。
 残念ながら“ひねくれ者”の私には何の達成感もなく、豆だらけで血が滲み鉛筆を持つにも痛む手と、“劣等感”を抱かされた屈辱的な「逆上がり」を、もう金輪際しなくて済むという開放感のみが我が幼な心に残った。

 昔の小学校の体育教育において、何故にたかだか鉄棒の一種目でしかない「逆上がり」ごときに、教育行政があれ程までにこだわったのかは不明である。(当時教員経験等がおありで、その教育的理念の背景をご存知の方がいらっしゃれば是非ともお教えいただきたいものである。)
 もしかしたら、東京オリンピックで男子体操チームが大活躍したことに、単に浮かれたて連動した安易な教育行政だったのだろうか??? 

 現在高校生になっている我が子も、所属小学校から「逆上がり」をクリアする事を強制されてはいなかったようだ。 恐らく現在では「逆上がり」クリアを全員強制とするがごとくの子どもの個性や多様性を無視した安直な教育理念は、教育現場から排除されていると信じたい。


 そのような教育現場における時代の進化を喜びつつ、さて明日は公園へでも行って、今度は「逆上がり」にでも挑戦してみようかな!! イエイ!
 (えっ? 原左都子の場合、今となっては骨粗しょう症対策が先決問題だろう、ですって???)  
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放任と過保護の狭間で…

2009年05月23日 | 教育・学校
 自分を棚に上げて言うが、近頃の親は子どもとのかかわりの様々な場面において、放任か過保護かの両極端な対応をしている感が否めない。


 先日、ある旧友と久々に会ったのだが、大学へ入学させるために上京させた子どもが1年足らずで勝手に大学を退学してしまったのだと言う。そして退学後も東京に残り、そのままフリーターをしながら東京で遊んで暮らし続けたいという本人の意向であるらしい。 その子どもに対し、東京での家賃と携帯料金は今尚親が負担し続けていると言うのだ。
 この話、“放任”要素と“過保護”要素が入り乱れているのであるが、子を持つ同じ親としてこの状態を放置しておいてよいのか、どう考えても合点がいかない内容である。


 そこで私は、話の要素の一つひとつを整理しつつ旧友に確認した。

 まず、子どもが大学を中退することに関して正当な理由があったのか、という点だ。
 これについては、そもそも大学入学時点で学業に関するポリシーは何らなく、単に本人が東京で暮らしたい気持ちのみで受験し入学したとのことである。この家庭の場合その子どもが家を出てくれた方が好都合だという、一種深刻な特殊事情を抱えている。(この特殊事情に関してはプライバシー上の問題があるため記述を避けるが、この私もある程度納得できる話ではある。)そのため、親としてもその子が学業にはポリシーがないことを承知の上で上京させ大学に入学させているため、中退に関してはある程度想定内だったそうだ。
 それはそうとして、家庭内の特殊事情があることはこの私も了解しつつも、フリーターをしながら遊んで暮らしたいと言う子どもの家賃や携帯料金を親が負担している現状は、いくら何でも過保護である。 友人が言うには、もちろん本人には定職に就くように勧めていて本人も様々な就職試験にチャレンジしているらしい。晴れて定職に就いた暁にはそれらの援助は全面的に切るのだと言う。 ただこの厳しい不況の真っ只中にあって、大学中退者の就業は困難を極めることであろう。子どものフリーター生活が長引いた場合、一体いつまで援助を続けるつもりなのだろうか? 援助が出来る経済力がある家庭だからこういう事が可能なのだろうが、今後大学へ進学させる子を持つ親である私としてはやはり解せない話である。

 この友人との付き合いは長いのだが、何分遠距離であるため日頃頻繁に顔を合わせることはなく、連絡はほとんど電話かメールによる関係である。 そのため、この友人が今までどのようなポリシーで子育てに臨んできているのか、また普段子どもとどのようにかかわってきているのかの詳細については私は把握できていない。それ故に、一友人の立場として意見できる範囲も限られてしまう。


 そんな中、唯一救われる要素は、その友人の子ども本人の“したたかさ”である。
 今回友人の子どもにも私は会ったのだが、私の目から見て、その子は既に親をはるかに超える強さと、都会を生き抜くために欠かせない“ある種のセンス”をわずか1年にして培ってきている様子だ。 自分の人生にとってさほど重要性がないと判断した大学を自らの意思でとっとと切り捨てて、フリーターをしながら大都会東京をエンジョイしつつ“したたかに”生き伸びる覚悟が、この子には確かに出来ていると私は見た。
 ウン十年前に故郷を後にして単身で上京した私とその姿がダブり、その子に我が青春時代の“都会で一人生き抜く決意”のノスタルジーを見る思いであった。


 たかだか大学を出ただけで就職などあるのか、その先々生き延びられるのかは闇の世の中である。大学に在籍し続けているからと言って、卒業できたからと言ってその学歴に頼っても、何の保証もない今の時代の厳しい現実である。
 言い換えれば、親としては我が子を無事大学卒業させたから、定職をつけさせたから親の責任を果たせたなどという、取るに足りない自己満足に浸っている場合ではない時代でもある。

 子どもとは、愚かな親どもの“放任”や“過保護”の狭間でそれぞれの人格を育んでいく動物なのであろう。
 結局は、親とは子どもを前にして空回りばかりしている無力な存在であることを実感する私である。

 それを承知の上で、子どもとかかわりいつまでもその成長を見届けたいこの私は、今後共我が子に対して“放任”と“過保護”を繰り返し続けるのだろうなあ。
     
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手の平返した行政指導

2009年05月21日 | 時事論評
 昨夜、東京都と神奈川県においても、ニューヨーク渡航直後の女子高生2名の新型インフルエンザ感染が確認された。

 テレビのニュース速報よりも30分も早い時間に、我が子の学校からこの件に関する緊急連絡FAXが送信されてきたのだが、“八王子において女子高生の感染確認…”の文面を見た時には、時間の問題かとは思っていたものの首都圏においてもついに新型インフルエンザ感染が蔓延する時が来たのか?!と驚かされたものだ。

 本ブログの時事論評カテゴリーのバックナンバー記事「何ゆえ渦中に身を投じた?」においても既述しているのだが、新型インフルエンザが世界的広がりを見せていて日本国内で大騒ぎしている真っ只中のこの時期に、あえて感染者の多い地域へ、高校生である未成年者グループに重要性の乏しい団体旅行を決行させる決断を下す指導者に対し、私はやはり首を傾げざるを得ないでいる。

 その一方で私は、今回の新型インフルエンザの病状の重篤性の軽さにそぐわないちぐはぐな日本政府の対応の仰々しさ、それに平行したマスメディア報道の騒々しさに関して、連休前より“騒ぎ過ぎ”の感が否めないでいると同時に、この不況の時期にあってこの大騒ぎによる更なる経済的大損失を憂えていた。

 米国では、表向きに報道されている感染者数(今現在数千人?)の舞台裏で、実は既に10万人を超える実質感染者が存在すると専門家の間で言われている。
 私事になるが、先だって米国在住の我が姉と電話で話した母の話によると、米国では誰も新型インフルエンザの話題など口に出す人はおらず、文化的歴史的にもマスクなど着用する慣習も元々なく、皆がまったく通常通りに暮らしているらしいのだ。 そして、姉がテレビ等で新型インフルエンザに関する日本の報道を垣間見ると、日本国民皆がマスクで顔を覆って大騒ぎしている影像が、かえって不気味で滑稽でさえある印象を受けているようだ。

 日本においても神戸、大阪での感染の広がりを受けて、数日前に大阪の橋下知事が「今回の新型インフルエンザの症状が重篤でないことを鑑みて、通常のインフルエンザ対応に行政指導を切り替えるべき、云々…」と発言したのだが、私もまったく同感であった。

 神戸・大阪の感染の広がりに伴う医療機関等のパンク状態解消や、国民の経済活動の正常化のために、政府や地方自治体はどうやら今回新型インフルエンザ対策行政を大幅に見直したようだ。
 東京、神奈川においては、学校の休校措置を基本的には一切取らない方針を各学校に指導した様子だ。
 また、例えば神戸市においては、専門の「発熱外来」以外の一般診療機関で受診した患者については、一律に新型インフルエンザの遺伝子検査を実施しない方針を決めたとのことである。 これには私も同意する。この遺伝子検査実施を大幅に減少させるということは、日本においても今後は正確な新型インフルエンザ患者数を把握しないということにもつながる。
 元々、発熱があるからと言って必ずしも全国民が医療機関を受診する訳ではない。 なぜ関西地方における国内感染の感染源が未だに特定できないのかと言うと、新型インフルエンザ感染源の人物が医療機関を受診していないためであると私は推測する。かく言うこの私も基本的に医療機関は受診しない人間であるし、その理由の程はともかく、そういう人種は日本にも多く存在する事であろう。少し論点がずれるが、発熱があるからと言って発熱相談窓口への電話を暗に強要されたり安易な医療機関の受診を強制されることは、個人的には迷惑な話でもある。


 昨夜の東京・神奈川での新型インフルエンザ感染のニュースを受けて、首都圏でもマスクが売り切れ寸前だそうである。(マスクの新型インフルエンザ感染予防の効果の信憑性とて疑わしいのが実情なのだが…)
 国民の皆さんには「風説の流布」に惑わされることなく、信頼できる情報を入手しつつ、今後も自らの健康を守って欲しいものである。


 それはそうとしても、今回の手の平を返したような新型インフルエンザ対策に対する政府の対応には呆れるばかりである。 そして、政府が自信を持っていたはずの“水際対策”をすり抜けた人ばかりから国内感染が広がった(広がりそうな)実態は否めない事実であろう。

 メキシコや米国の感染を受けた4月下旬に、政府は何故に“成田空港”の影像ばかりをテレビで流して、国民に対しあれ程仰々しいがまでの「ここまで頑張っています!」とでも言いたげな、マスメディアを通してのパフォーマンスをする必要があったのか?(選挙対策、あるいは医療業界との癒着と国民から勘ぐられても致し方ないであろう。)
 そうではなくて、当初より政府が専門機関との連結の下冷静沈着な対応を取っていたならば、このような国民の茶番劇に近い大騒ぎは避けられ、日本国民ももう少し余裕を持って新型インフルエンザ対策に臨めたであろうに。

 今回の新型インフルエンザ対策の緩和への方向転換に関しては同意できるのであるが、国は国民に対して、その突然の方向転換の理由やいきさつ、また今までの厳格体制の反省点等を分かりやすく弁明する義務があるのではないかと考える。


 何はともあれ首都圏での新型インフルエンザの蔓延、そしてまたもや国民の大騒ぎを煽って空回りし経済的大損失を積み重ねる事態は、行政の責任において是非共避けて欲しいものである。  
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