原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

生活保護給付など「最低賃金」の半額で十分!

2014年09月30日 | 時事論評
 朝日新聞9月25日記事によると、“最低賃金が引き上げられる”そうだ。

 そのニュース自体は末端労働者にとって吉報であろう。
 ところがその結果もたらされる社会現象の程が何とも痛々しいし、首をかしげざるを得ないのだ。


 以下に、朝日新聞コラム「いちからわかる!」25日版の記事 「平均16円高くなって、生活保護費との逆転はなくなる」 を要約して紹介しよう。

 現在「最低賃金法」に基づき、都道府県ごとに1時間当たりの賃金(自給)が決められている。 パート・アルバイトも含め原則すべての労働者に適用される法制度だ。 経営者側に対し立場が弱い労働者を守るのがその趣旨だ。 法律で定めることにより、賃金が低く設定され易い非正規社員達の報酬を底上げする効果がある。 最低賃金より低い自給で働かせた場合、雇用主は罰金を課せられる。
 この「最低賃金」が如何に決定されるのかというと、まず物価や賃金、会社の業績等により都道府県をA~Dにランク分けし、その年度の引き上げ目安を示す。 その後各地方の審議会での話し合い結果や、地域の実情を考慮し正式に決定する。
 今年度決定した「最低賃金」全国平均は前年度より16円高い780円である。 その最高額は東京都の888円。 最低額は鳥取や高知など7県の677円だった。
 この「最低賃金」が国や自治体が生活困難者に支給している「生活保護費」を下回る事態も発生していた。 例えば北海道や東京都等では、その「逆転現象」が実際に発生していた。 この現象が「働く意欲が失われてしまう」と問題にもなったが、今回の改定で逆転現象が解消される。
 それでもまだ、「最低賃金」の水準は低い。 677円の都道府県の場合、1日8時間、月20日働いても月収が約10万8千円にしか達しない。  これは、政府と労働者及び経営者が合意した「2020年までに全国平均最低800円、平均1000円」の目標にはほど遠い。
 (以上、朝日新聞9月25日記事より要約引用。)


 話題を変えよう。

 本日昼のNHKニュースによると、大手牛丼チェーン「すき家」が、長時間勤務など過重な労働が指摘された従業員の勤務態勢を大幅に見直すとして、明日10月1日から24時間営業の店舗の60%以上に当たる、およそ1200店舗で深夜営業を中止する方針を固めたとの事だ。
 関係者筋によると、牛丼チェーン「すき家」を展開するゼンショーホールディングスは、長時間の勤務や「ワンオペ」と呼ばれた深夜時間帯の1人勤務など過重な労働が問題化したことを受けて、会社が従業員の勤務態勢を抜本的に見直していた。  その結果、労働環境の適正化を図るには、従来のような営業を続けることは困難との結論に達し、 従来の営業戦略を大きく転換させることになった。
 (以上、昼のNHKテレビニュース及びネット情報より一部を引用。)

 ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。

 何を隠そう、実は私は「すき家」の一ファンである。
 と言うのも、私が住む自宅周辺とは大都会東京メトロ沿線にして(よく言えば“閑静な住宅地”であり)駅周辺に商業施設が至って少ないのだ。  この地に引っ越してきて12年の年月が経過したが、12年前の当初と比し駅前の開発がさほどなされない事実が「長所」でもあり「短所」でもあると認識している…。
 そんな折、「すき家」が駅近に開店したのは“料理嫌い”で名高い原左都子にとって実にラッキーだった。 駅からの帰り際に「すき家」に立ち寄り「牛丼」3個を買い求めさえすれば、帰宅後テキトーなおかずを出せば食卓が何とか見栄えする。  それに加え、「すき家」のアルバイト職員達の手際の素晴らしさは感激ものだ。 券売機でチケットが発券されるよりも早く「牛丼」3個を差し出してくれる超早業にいつも感動させられるのだ。

 このように顧客サービスが徹底している「すき家」本体企業が、末端アルバイト従業員犠牲の下にそのサービスを提供していたとすれば、確かに顧客側としては心が痛む。  ただ、サービス業とは「顧客サービス」を最優先してこそ今後共に成り立つ業種ではなかろうか。 その業者が営業時間を短縮せざるを得ない労働環境を作り出している元凶である「行政側」こそがその改善を率先して図るべきだと私は考える。
 その意味では今回の「最低賃金上昇」方策よりも、行政が急ぐべき労働者対策が山積している事実こそを優先課題とするべきであろう。  加えて、末端サービス業にこれ程の熾烈な試練を与え続けている、行政の大いなる過ちこそが今すぐ叩かれるべき!とも考察する。


 私は「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いて、行政が“弱者保護”を如何に捉えるべきかをテーマとしたエッセイを数多く綴り公開している。

 その一つである「足が腐った男」(2011.11.26公開)なる表題を掲げたエッセイの結論部分を以下に紹介しよう。 (参考のため、当該エッセイは「原左都子エッセイ集」スタンダードナンバーの一つです。) 
 国や自治体等の役所においては、市民自らが役所に出向いて申請書を提出する“能力”を保有している(ある程度恵まれた)“弱者”に対しては、例えば「生活保護」対象とする等手厚く支援している有様である。   片や、上記のごとく電車内で“腐った足”を晒して眠りこけている人種が役所にその種の申請書を提出しているとは到底考えられない現状だ。  私に言わせてもらうと、この種の“真正弱者”こそを国や自治体は最優先して救うべきではないのか??
 もしかして近いうちに命を失うかもしれない青年が、何故に電車内で“腐った足”を晒さねばならないのかの元を辿れば、それも国政の教育力の無さ故であると断定できよう。


 最後に「最低賃金」と「生活保護支給額」との“整合性”に関する原左都子の私論を述べよう。

 現在生活保護者に支給されている1ヶ月の金額の一例として、「14万円程度」であるとの噂を耳にしている私だ。 もちろん支給金額とは家族構成にもよる事であろうが、上記の最低県の賃金月額「10万少し」に対して、この金額はべらぼうに高いと結論付けられるのではあるまいか?

 確かに「生活保護世帯」とは“働く意思があれども働けない”身体的事情を抱えている人物が多いとも見聞している。
 ところが、その判断は医師の診断に任せられているのも実情であろう。 特に現在に於いては、精神的疾患もこれに加えらている事実は想像がつく。

 国民の「働く意欲の育成」に於いては、当然ながら幼い頃よりの「労働の価値」教育が欠かせない事であろう。 にもかかわらず、いつまでもそれを教育不能なまま国民の「最低賃金」を上昇させるとの拙劣な手段で末端労働者が活気づくはずがない。
 その結果として、経営困難に陥る企業や生活保護申請に役所へ出向く庶民を量産し続ける国政の現実… 
 一体いつになったら、この国はこの悪循環から脱却出来るのか…

佳子さまが大学中退して再入学するらしいが…

2014年09月27日 | 時事論評
 皇太子の弟君である秋篠宮家の次女、佳子さま(19)が学習院大学を退学されたとの事だ。
 加えて報道によれば、佳子さまは姉の眞子さまが今春卒業した国際基督教大学(ICU)を来春受験される予定でもあるようだ。

 天皇家ご子息にして突然の大学中退、そして再入学を目指し他大学を受験するとの“前代未聞の”事態に、世間では様々な憶測が飛び交っている様子である。


 世論は後程紹介するとして、冒頭から今回の「事件」に関して咄嗟に原左都子の脳裏に浮かんだ感想及び意見を述べよう。

 (大変失礼な発言は承知の上で)一体全体佳子さまは、誰のお陰で大学へ入学させてもらったと思っているの? 国民の税金のお陰でしょう??  しかも天皇家の御子息ともなれば、学力レベルの程が不透明であるにもかかわらず、必ずや“最低限”学習院大学への入学は保障されている。 一旦そこへ行くと決めて入学させてもらったのなら、そこで貴方なりに精一杯学業に励んで4年間できちんと卒業するのが国民に対する礼儀ではなかったのか?!?
 しかも姉君が通ったICUを受験すると言うが、“受験”とは形式だけで貴方の入学は保障されているも同然との事実など、国民の誰もが承知しているよ。

 貴方(及び秋篠宮家のご両親)は世の中の事情をどれ程把握出来ているのであろうか? 
 今現在大学の学費とは例え国公立とて高額に跳ね上がっていて、貴方と同年代の若者達は学費を支払うに当たり、“出世払い”を条件に奨学金を借りアルバイトをしつつ学業に励んでいるのが実態だよ。 やっとこさ苦労して大学卒業に至った後も、多額の奨学金返済との借金を抱えつつ、身を粉にして働いている現状だ。
 そんな庶民の苦労を知ってか知らずか、貴方は何と学習院大学へ入学直後にそこを退学して、自分の目指す大学へ方向転換すると言う。 これ程の経済難の我が国に於いて、その行為を“我がまま”と表現せずして国民にどう評価せよと言いたいのか?  それをどうしても実行したいのなら、天皇家の身分にぬくぬく浸ってないで奨学金でも借りて自らアルバイトでも開始した後に、自分の夢を叶えては如何なのか?!との極論を、同じ年代の娘を大学へ通わせている親の立場としてぶちたくもなる。

 しかも貴方は“外見が可愛い”との事で国民の間に人気らしい。 (申し訳ないが原左都子の好み観点から言うと、貴方は若くして“小太り”気味でみっともなく全然興味がないのだが…)
 加えて意地悪視点で物申すならば、最近の貴方の厚化粧ぶりに驚かされている私としては、そんな外見的要因で国民に媚を売るよりも、貴方の能力や才能が感じられる分野でもっと貴方らしさを見せて欲しいものだ。
 貴方の姉君であられる眞子さまに関しては、当初よりご自身がICUへ入学されたいご意向が顕著であったのに加えて、大人になられてからはすっかりと自信を身に付けられた様子が伺えるのだ。 外見が可愛いとの事で世間より騒がれている若輩の貴方より、眞子さまこそが今後天皇家のご一員として公務を果たすべく責任感を育成されているような印象を受ける。
 そんな姉君を見習いたいが故に佳子さまがICUへの再入学を希望されているのならば、今まで以上に気を引き締めて受験に挑んでいただきたいものだ。 外見的要素になど頼らず、新たに入学するであろうICUで英語力を磨き、今後ご結婚して平民の立場となるまでは、貴方なりの皇室公務責任を貫いて欲しいものである。 
 

 冒頭より原左都子の“直感的”私論が長引いてしまったが、以下に佳子さまの大学中退及びICUへの再入学志望に関する世の反応の一つを紹介しよう。 

 幼いころから慣れ親しんだ学習院から旅立つ決断をした佳子さま。 女性のキャリア形成を研究する研究員某氏は、「企業側から学生を見た時、評価したいのは学歴や語学力などよりも自立した人であるかどうか。親元を離れて一人暮らしをしたことがあったり、年の離れた弟妹の面倒を見たり、誰かに守られていないところでの努力です」 と話す。 今後佳子さまが新たに経験することが、将来に大いに生かされることは間違いなさそうだ。
 再受験先は眞子さまが卒業したばかりのICUだ。 昨夏、米マサチューセッツ州のハーバード大教員の家で1カ月のホームステイを経験し、海外で視野を広げた佳子さま。 姉の眞子さまが美術、文化財研究を学ばれた国際色豊かなICUに視線が向いたのは、自然の流れだったのかもしれない。早い段階でやりたいことをやりたいと思ったとしても不思議ではない。
 さて眞子さまに続き、佳子さまも迎え入れる可能性が高まっているICU。  ICUには、多様な個性を認め合う風土がある。日本の学校は『出る杭は打たれる』のが一般的。 皇室という特殊な環境で育たれてきたとて、特別扱いされることなく一学生として充実した学生生活が送れると思う。 眞子さまも、学食でご友人とカレーを食べるなど、すっかり溶け込んでいたという。佳子さまは、普段から仲が良い眞子さまから、そんなICUの魅力を聞いたこともあっただろう。
 将来を見据えるとともに、「より自分らしくいられる場所」を目指すことになった佳子さま。ICUのAO入試は書類選考と面接。合格発表は、10月24日だ。

 ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。
 う~~~ん。 そもそも、皇室子女に「自立」を求める事自体が「皇室典範」に沿っていないのではなかろうか?
 皆さんもご存知の通り、現憲法には「天皇は国民の象徴」との明文が記されている。 それに準ずる評価を下すならば、上記キャリア研究所女性研究員氏の発言は明らかに法的な過ちを内在しているであろう。
 ICUなる大学のポリシーとして個々の学生の個性を認める土壌がある事実は評価するべきだが、それと皇室子女の今後の自由度を同化するとの過ちを犯してはならない事は歴然だ。
 

 更に、佳子さまに入学直後退学されるとの打撃を受けた学習院大学側からの意見も紹介しよう。

 元々学習院は「皇室御用達」の学校であったが、秋篠宮家では、眞子さまが国際基督教大学(ICU)に進学され、悠仁さまが御茶ノ水女子大附属小学校に進学された。そして、この度宮内庁は佳子さまの学習院大学中退と来年のICU受験を発表した。
 皇太子の御子息である愛子さまが入学された2009年4月、皇太子さまと雅子さまは「皇族として特別扱いすることなく、他の児童と分け隔てなく教育してほしい」というのが強い要望だった。
 ところが、その後愛子様への“いじめ”が勃発するのに時間を要しなかった。 いじめ問題が起こった後、愛子様への“特別扱い”は度を増していく。
 当時の学習院部長氏が、佳子さまが4月から通われていた学習院大学教育学科の教授に就任した。算数や学級経営論などの授業を担当する教授になったので、佳子さまを指導する立場になった。そして、当該部長は、佳子さま“特別扱い”プランを考えていると報じられたこともあった。


 最後に原左都子の私論でまとめよう。

 学習院大学(小中高附属校も含め)現場に於いて、天皇家ご子息を特別扱いするのは当然の事態であろうと私は考える。
 これを平民と同じように扱え!と皇室側から指南されたとて、元教員経験がある私とてその申し出を辞退したい程に、それは難儀な要求である。

 それを言うならば、皇室側こそが少しずつ国民に近づいては如何なのか?
 他者から「平民」扱いされる事を望むよりも、自分達が積極的に国民に近づけてこそ、その願いが叶うのではあるまいか。  一番手っ取り早いのが、皇室から出て平民となられた元皇族女性達こそがそれを率先して根付かせては如何だろう。

 だからこそ私は、将来平民となられ何処かへ嫁ぐ事が決定していると思しき佳子さまに訴えたいのだ。
 貴方のごとく若い皇室世代こそが皇室制度に依存し甘えた行動をとっている場合ではなく、大学現場等で庶民と相まみえる事により、将来平民となる心構えと意気込みを育成して欲しいものだ。

“愛称”であってこその「あだ名」の価値

2014年09月25日 | 人間関係
 我がペンネーム 「原左都子(はら さとこ)」 のファーストネームである“さとこ”とは、過去に一時期周囲より呼ばれていた「あだ名」(愛称)より名付けたものである。

 「原左都子エッセイ集」を開設するに当たり、如何なるペンネームを用いるかを熟考した。
 そんな折、(名字の“原”は片隅に置いておいて) 名前部分を何にするかに関し、私は直ぐに“さとこ”を思いついたのだ。

 と言うのも、“さとこ”とは私が郷里の親元から一本立ちして上京後、初めて正式に就業した勤務先民間企業内で名付けられた愛称であったからに他ならない。
 その名付けの根源由来とは我が旧姓による事は歴然なのだが、当時私はこの「あだ名」を大いに気に入っていた。  それというのも、郷里ではこの愛称で呼ばれる事が皆無だったためだ。
 上京する以前には、皆私の事を旧姓のファーストネームである一文字を取って「○ちゃん」と呼んでくれていた。

 その旧姓ファーストネームから取った愛称である「○ちゃん」も私は大いに気に入っていた事は確かだ。
 物心ついた頃より周囲の皆から「○ちゃん」と私が呼ばれる事に、我が実姉など嫉妬心すら抱いていた様子だ。 「あなたはいいね。 周囲から呼び易い愛称を付けてもらって。 一言で「ちゃん」付けで呼びにくい名前のためいつも呼び捨てにされる私が傍でそれを聞いていると、何だか姉の私は可愛がられていない感覚だよ…」 (参考だが、我が姉は18歳を過ぎた時点で裁判所に改名を訴え出て、自らの意思で戸籍上のファーストネームを変えた。)

 ここで参考のため、私の名前と類似した“愛称”を紹介するならば、「あっちゃん」「えっちゃん」「さっちゃん」「てっちゃん」「りっちゃん」のごとくだ。  確かに実姉が言う通り、私の名前とは日本人が発音しやすい「っ」なる吃音を伴う代表的な名前だったことは認める。 

 そんな過去に於ける誰にも呼び易い愛称に比し、上京後公的場面との企業内で、姓の一文字を活かし私の事を「さとこ」あるいは「さとちゃん」と呼んでくれた企業内仲間達の粋な命名に感激したものだ。
 ファーストネーム愛称を脱皮した後、何だか私が真に大人になれ、独り立ち出来た気がする我があだ名「さとこ」だったのだ。


  さて、ここで話題を変えよう。

 朝日新聞9月20日別刷「be」between のテーマは「あだ名でふだん呼ばれていますか?」だった。
 この記事の結果によれば、「はい」が29%、「いいえ」が71%と、大きく「いいえ」が上回っているではないか!

 意外や意外「あだ名」で呼ばれている人は少数派なんだ、とその結果に驚かされると同時に、記事を読み進めていくと、な・な・なんと現在の公教育現場では児童生徒間での「あだ名」を禁止するとの指導まで実施されている事態のようだ。
 教育者側のその根拠とは、例えばその「あだ名」が児童生徒の身体的要因による場合、「いじめ」を増強してしまうとの事情によるらしい…。
 (それって要するに、公教育現場こそが「あだ名」に基づく児童生徒個々の特質をマイナスイメージとして捉えている事実を証明するようなものだよね?!)

 ここで原左都子自身の、小学6年生時の「あだ名」を振り返ろう。
 元々長身だった私だが、ちょうどその頃第二次成長期にさしかかり、更に1年間で10cm以上身長が伸びた。 元々スリム体型だったのだが、身長の伸びに伴い全身的に「痩せ細った」ような外見を呈していた事を記憶している。 その時にクラスメートの一女児から付けられたのが「骸骨骨子(がいこつほねこ」なる異名である。
 ところが、私自身はこの“あだ名”がまったく気にならなかったものだ。 と言うのも、その頃既にテレビが子供の間でも流行していて、そのテレビに出演する女性歌手やタレント達が皆スリム体型でカッコよかったからだ。  むしろ、小6の頃学校で付けられた「骸骨骨子」とのあだ名とは、私にとってはその後の我が人生に於ける長身スリム体型維持志向に繋がったとも言えそうだ。


 学校現場に於いて「あだ名」を禁止する風潮が増殖している事態に関して追記しよう。

 「変なあだ名を付けてからかうのは“いじめ”の常套手段だ。」
 そんな訴えの下に、現在では「あだ名」が“いじめ”に繋がるとの理由で禁止する学校が増えているという。
 これに対し賛否両論あるようだが、「一律に禁止するのは個別に対応するのが面倒との役所的な考えだ」なる意見があれば、「あだ名」禁止は言葉狩りではなくいじめの根本的解決には繋がらない」なる世論もある。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 私自身が小学6年生の頃に「骸骨骨子(がいこつほねこ)」のあだ名を教室内一女児童より賜った時点で、私は既に身長が伸び悩んでいた当該女児の劣等感を鑑み、その女児を「超越」した感覚こそを抱いたものだ。
 「そうだったんだ。 元々長身の私がもっとスリム体型になっていく事実が、この女児童は羨ましかったのかな?」  まさにその感覚で小学校を卒業した後、更に身長を伸ばした私である… 

 そんな私自身の経験に比し、確かに「デブ」「ブタ」なるあだ名は誰しも厳しいであろうし、いじめに繋がる可能性がある行為なのかもしれない。
 ただ、それとて将来に向かい自分自身の利益にせんと(例えば「大相撲界」や「柔道重量級」等)、その体型を有効活用すれば済む話でもあろう。
 要するに如何なる「あだ名」とて、それを活かして将来の糧に繋げればよい事だし、身体的あだ名がとことん嫌なのならば、早期にそんな体型的特徴を自助努力で打破すれば済む話と私は結論付けるのだが…

 片や、苗字や名前から名付けた「愛称」とは何らの弊害もなく生涯に渡り長く息づく「あだ名」であろう。

   
 今尚、郷里に帰省した暁にはファーストネームの「○ちゃん」の愛称で呼ばれる私だ。
 
 郷里の親が高齢化の一途を辿る現在に至っては、その名で呼ばれる機会が徐々に減っていく事実を再確認すると同時に、自分が名付けた「原左都子」なるペンネームを、今後一生かけて大事にしていきたい思いの私でもある!

「褒める」 V.S 「叱る」

2014年09月23日 | 教育・学校
 原左都子が所有していた賃貸借物件売却後、ほぼ2ヶ月の月日が過ぎ去った。

 そろそろ我が心理面で“時効”かと思える節があるため、今回思い切って、当該物件売買契約締結に際し売主顧客である私が売買契約仲介会社担当者を 「叱り飛ばした」 事実に関して、我がエッセイ集で公開しよう。

 
 元々売買仲介を大手不動産企業に一任しようかと目論んでいた矢先、今の時代ネット上で仲介企業を競合させ、その中から顧客に有利な条件で売却してくれる仲介会社を選択可能なシステムが存在する事実を偶然知った。  早速そのシステムに登録するなり大手を中心に数社が競って電話をかけてきて、その日の午前中はその電話対応に追われた。
 何処の企業も「我が社こそ売ります!」なる売り込みに必死の中、「リストグループ」とやらの中小企業担当者が真っ先に我が家までやって来た。 そして訴えるには「○様(私のこと)の言い値で売りますから、率直に売りたい価格をおっしゃって下さい。」  その後その会社との売買仲介専属契約を締結した2日後に、まさに「○様ご希望の売値で買い手が付きました!」との返答が来た時には実に感激ものだった。
 
 ところが話はそれ程甘くはなく、その後売買物件最終引き渡し日直前まで私は実に難儀させられる事態と相成った。
 と言うのが(これぞ中小企業の弱みか??)20代の若き担当者氏は元より、その上司とやらの人物も僅か30代の若輩者らしいのだが、両人共に売買契約に関する「専門力」に大いに欠けていたのだ!
 ここは嫌味ったらしい事は承知の上で、私が「経営法学修士」取得者であり、ある程度の法的知識がある事を表明せねばならなくなった。  私としては不本意ながらそこまで個人情報を公開したにも関わらず、その担当者は自分の企業や上司の方針を信じる方策を取り続け、その後事態が難航してしまったのだ…。

 そこで私は、意を決して仲介担当者を何度も「叱り飛ばす!」との手段に出た。
 「物件仲介に於いては法的バックグラウンド等専門力こそが最重要であろうに、それを満たしていない貴社はそもそも仲介企業たり得ない! 今後の経営努力の程を期待するが、専門力が無い現状に於いては下手な仲介を避けるべきだ!」 
 結局その後、この仲介会社は「物件引渡し日延長」とのとんでもない不祥事をしでかす結果と相成った。  売り手である私は仲介会社に正規の仲介料を支払っているにもかかわらず、その後自分の力量で動くしか方策が採れなくなり、買い手企業へ直接仲介実施を願い出る等により最終的に売却に漕ぎつけたとの実態だ。 
 これ程までに顧客である私自身が時間面でも心労面でも経済面でも大変な思いをさせられ、損失を計上させられたにもかかわらず、その後仲介会社よりの正式な謝罪が一切無い事実に、これぞ中小企業たる所以か?と寂しい気もしている。 (当該企業、一体いつまで持ちこたえられるのか…。たとえ中小企業とて企業の立場から一言謝罪が欲しかったものだが。 他人事ながら当該企業の行く末が気になる…)


 話題を変えよう。

 朝日新聞9月中旬頃の「声」欄に、「褒め過ぎる」現代の風潮に違和感があるとの男性よりの投稿があった。 
 いつものことながら原左都子の記憶のみに頼って、その投稿内容を以下に紹介しよう。
 地方の大学教官をしているが、学生達からの意味不明の「褒めて欲しい」なる嘆願に困惑し続けている。 私(大学教官氏)とてもちろん褒めるべき時には褒めようと思っているが、そうでない場面でも学生から「褒め」を求められることに限界感を抱かざるを得ない。 加えて「褒める」事こそが“上から目線”ではないかとの疑問点もある。 


 ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。

 辛口論評で名高い原左都子にして、実は現実世界では他者を「褒める」事には長けていると自己分析する。
 ただしこの場合の「他者」とは、私の視点から判断して“守ってあげるべく対象”との思いを描ける相手に限定される事を最初に伝えておこう。  (要するに上記「声」欄と同様、あくまでも“上から目線”で弱者を褒めようとしていると言い換えられよう。)

 例えば私は過去に於いて、高校教員を経験している。
 私が高校教員なる職種に就いていた頃とは、まさに国内がバブル経済崩壊期に差し掛かっていた真っ最中である。 それでも現在同様に貧富の格差は元より、生徒間での上下差が明らかに存在していた時代背景だった事実を私は承知していた。
 私の根底から漲ってくる思いとは歪んだ「弱者保護」でしかありえなく、私の勝手な感覚で弱者生徒を「褒める」との行動に出ていたものだ。
 ところがある時、私が教室内「強者」と捉えていた一生徒より、「先生が(弱者の)生徒を叱った事を今すぐその生徒に詫びなさい!」なるバッシングを受けるとの事件があった。  その「強者」生徒が教員である私の影響を受けて、その種の感覚(強者弱者の差別感覚)を育成していた事実に驚くと同時に、我が教育姿勢の過ちを反省させられたものだ。


 つい最近のメディア情報によれば、現在の若者世代とは、「叱って欲しい」感覚があるとの事だ。

 そう言われてみれば、冒頭で紹介した不動産仲介企業の担当者氏も、物件引渡し全てが完了した暁に、私に対し「今回は担当者である私が至らないばかりに多大なるご迷惑をおかけしました。それでも○様(私のこと)に叱っていただけた事に感謝申し上げます。」なる挨拶をしてくれたものだ。
 一末端社員がその言葉を“社交辞令”として顧客相手に発しねば事が終焉しない程に、中小企業の現実とは厳しい現状であろうと私も心得ている。

 そんな現実をぶち破るべく、とりあえずの課題として下っ端組織員達こそが率先して「専門力」を確実に身につけようではないか!  それが叶ったならば上司から叱咤されようが「専門力」との底力にて打破可能であろうし、若者の将来性が繋げる事を原左都子自身の経験から伝授しておこう。
 若者達よ、他者から無責任に褒められて、うだうだいい気分になっている場合ではないぞ!

スコットランド独立住民投票、日本も模倣しようか?

2014年09月20日 | 時事論評
 (スコットランド時間で)9月18日に投票が行われたスコットランド独立の是非を問う住民投票は、即日開票の結果反対票が賛成票を上回り、スコットランドが英国にとどまることが確実となった。
 32地区中31地区の集計を終えた段階で、独立反対の票が賛成票を上回った。 英国BBCは開票率60%の時点で独立反対派の勝利を予測していた。
 独立派を主導してきたスコットランドのサモンド自治政府首相は19日、敗北を認める声明を出し、スコットランドの独立を支持した160万票に感謝すると表明。 86%という記録的な投票率に達したことを評価した。
 中心都市エディンバラ地区は反対が19万4628票を獲得し、賛成は12万3927票にとどまった。一方、独立推進陣営の中心拠点だったグラスゴーは賛成票が反対票を上回ったものの、劣勢は覆えせなかった。 投票率はほとんどの地区で80%を超えたが、グラスゴーは75%にとどまった。
 (以上、ネットCNN情報より引用。)


 ここで一旦私論に入ろう。

 昨日(日本時間9月19日)昼のNHKニュースにて上記スコットランド独立住民投票の中途結果を見た段階では、賛成、反対が五分五分と拮抗していた。 その拮抗度合いにまず驚くと同時に、世論が真っ二つに分かれる現象にプラスの意味で「先進国ならでは」感を抱いたものだ。
 これがもしも宗教闘争等が激しい発展途上国の一地域で独立住民投票が実施されたとすれば、おそらく地域内部で独立「賛成」「反対」に対する多大なる地域差が露呈した事であろう。 しかも表向き住民投票とは言えども、今回のような穏やかな投票との形式では済まされず、国家からの弾圧や内部闘争により血に染まる内乱勃発が避けられず、多くの住民犠牲者を出した事とも推測する。 
 それに対し今回のスコットランド独立住民投票の場合、実に冷静に住民が対応した事実に一種の感激すら抱いたものだ。

 しかももっと素晴らしいのは、その投票率の凄さである!
 上記CNN報道の通り、スコットランド主要都市の一つであるグラスゴーのみ投票率が75%にとどまったとの事だ。 独立賛成派が過半数を占めるグラスゴー市民の思いが分かる気がする私だ。 (参考だが、グラスゴーとはスコットランド最大都市であるのに加え、英国内でも人口第4位に位置付けている産業文化都市である。)
 その他ほとんどの地区で投票率80%越えを記録した事実に、独立賛成・反対を問わずスコットランド人皆の自らの地域を愛する意気込みの程を垣間見た気がするのだ。

 この場で我が国 日本 を振り返ったとて虚しいだけと心得るが、もしも国内何処かの地域で日本国家から独立する!との住民投票が実施される背景が整ったとして、一体どれ程の地域住民がそれに投票するのだろう??  現在実施している国政選挙ですら投票率が至って低い現実を鑑みただけで、この国に於いて国政選挙以外に「国民投票制度」が未だ法制度化を果たしていない事実を証明するがごとくだ… 
 ましてや経済的苦難を強いられ続けている我が国の過疎地域に於いて、「住民による国家からの独立宣言」など、未だ夢物語なのか?
 国政は「地方創生」なる新たな省庁を立ち上げ、「安保省大臣」を固辞した石破茂氏をその大臣に任命したようだが、一体全体何を実行する省庁なのか私は未だ認識していない。
 いっその事、石破氏には今回のスコットランド独立投票のごとく“力強く”地方を創生した挙句、近い将来日本国家から独立せんとの真の実力を地域住民に伝授する事を期待申し上げたいものだ。


 話題を変えて、スコットランドが何故英国より独立したかったのかのバックグラウンドに関して記述しよう。

 遠い過去に於いて、そもそもスコットランドとは英国とは別の国家であった。
 第二次世界大戦後の動向だが、1970年代にスコットランドに近い北海油田が開発され、イギリスに莫大な利益をもたらす一方で、スコットランドのナショナリズムを刺激した。 スコットランド議会は1707年のイングランドとの合併以来ウェストミンスター議会に統合されていたが、独自の議会設置を求める声が高まった。
 元々スコットランドには北欧のような福祉国家を目指したい人が多いのに加えて、沖合に上記の北海油田があり、独立すれば石油より得る利益を英国に還元せずに済むとの利点があったのだ。 

 独立を叫ぶスコットランドに対して、現キャメロン首相はその引き留めに必死だったとの報道だ。
 例えば、スコットランドが英国に留まればその自治権を拡大すると表明している。 そのキャメロン首相の宣言に応じた結果「独立反対票」が僅差ながら上回る結果となったようだ。


 最後に、原左都子が掲げた今回のエッセイ表題に関する私論を展開しよう。

 上に既に論評済みだが、私は今回のスコットランド独立住民投票にいたく感動させられた。
 結果の程は「独立反対派」が過半数を占めたものの、地域「独立」を願うに際して市民間での動乱が一切勃発しなかったのにも関わらず、地域内での「独立」に関する住民のそれぞれの“熱い思い”が異国に住む私にも大いに伝わったためだ。

 今後の我が国に於いては、スコットランドのごとく国家からの独立住民投票が実施される未来が訪れる事など想像不能な現実こそが無念だ。  もしもそんな動きが国内の一部で起こったとて、それを無視して自分らの歪んだポリシーを国民に強制し続ける国政、そしてそれに迎合するかのごとく“諦め人生”を送る国民達がいつまでもうだうだと存在し続ける我が国であろう…

 「ナショナリズム」にはいつも危険が伴う事は承知の上だ。 
 そうだとして、私も出来れば自らが“愛すべき国家”に生まれ出て、その国の一地域で独立か否かの価値判断を迫られたい思いすら抱かされた今回のスコットランド独立住民投票である…。