原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

左都子の「科学哲学」 小講座 Ⅴ

2020年06月01日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学に於ける「科学哲学」講義ノートより一ページを撮影したもの。)


 どうやらW先生による「科学哲学」授業は、更にローティを語っておられるようだ。


      


      



 「科学哲学」一番最初の授業で、世界中の哲学者の中で特に偉大なのは“ウィトゲンシュタイン” と “プラトン” であることに関してW先生は熱弁された。

 それに加えて、米哲学者ローティにも相当のご興味があられたのだろう。


 上記写真内の一部を反復しよう。

 ① 言語が異なると、会話は困難 ーーー 難しい問題が根底にある。 
    辞書を使用しても、厳密な翻訳は困難、支障の無い程度の翻訳しか出来ない。  この点が、ローティの論文では話題になっていない。

 (ここで一旦原左都子の余談だが、確かに特に学術書の英文和訳をしていると、専門用語以外の翻訳の難しさを実感させられる。 まさに支障の無い翻訳しかできない、というよりも、いっそ思い切って自分の想像力で筆者はこういうことが言いたいのではなかろか?!と推論して訳すことも多々ある。 後に教官に見て貰って、それが的を射ていると嬉しいものだ。   その点、自然科学分野の論文等に於いては、ともかく専門用語をマスターしておいて、後の文章は肯定か否定かを取り違えなければ、大筋ではとんでもない失敗訳にはならないようにも我が経験から感じたりもする。)

 ② 推論の様式の推移
    統計的推論  ex. こういう相関があるから、こう推論できる。
     19世紀半ばから使われ始めた。
    A,B であるから X である。  Xでない。 価値観のばらつき
    本質的な意味において、対話の可能性が閉ざされている。

 以上のような場合に、ローティの“対話しかない” という意見は疑問。

 ethnocentrism     自分の属している輪の中へ入れていく運動
 この状況下で、浮かび上がってくるのが、 「実在」 reality  本当
 
 
 と言うことでW先生の授業は、いよいよ次なるテーマである 「実在」 に突入する。

 次回の小講座では、私が「プラトン哲学」と共にすっかりはまった「量子力学的実在論」をいよいよ語れそうだ! 😃   

左都子の「科学哲学」 小講座 Ⅳ

2020年05月31日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学に於ける「科学哲学」の授業内の“米哲学者ローティ”に関する講義の一部を撮影したもの。)


 3日ぶりに我がエッセイ集のテーマを「科学哲学」に戻そう。


      

 今回のW先生の授業は、米哲学者ローティの哲学論を取り上げている。

 参考のため今一度ローティの略歴を紹介すると。  Rorty (米国の哲学者 リチャード・ローティ ネオプラグマティズムの代表的思想家。 後にスタンフォード大学教授となり、哲学と比較文学を教えた。)

 どうやら夏期休暇前の最後の授業で、W先生が配布したローティの論文(もちろん英文)を読んで自分の意見を述べる小論文課題が学生達に課せられたようだ。
 その提出日が夏期休暇明けの10月とのことで、休暇前にW先生のローティ授業が成された部分が、冒頭と上記の写真である。

 実はこのローティに関しては、我が記憶が現在明瞭ではない。
 当然ながら小論文課題は夏期休暇中に消化して提出したのだろうが、おそらく“ピント外れ”の記載をしたことであろう。😫 
 
 そして私のみならず他の学生も同様だったのだろう。😵 
 小論文提出後の10月のW先生の講義は、それら“ピント外れ小論文”を受けて、今一度「哲学」の基本を一から述べて下さった上で、ローティに関しても再度分かり易く解説されたようだ。


      



      


 それを聞き取り筆記したのが上記講義ノート2ページだが、以下に要約しながら転載しよう。

 (哲学とは)ある意味ではあたりまえのことを言っている。(これは大事なことである。) 過去や現在の哲学的なことを批判している。
 哲学とは、あたりまえの事を言うもの。 しかし、その先は何であるかという点に関しては述べられていない。
 哲学には、様々な分野や問題がある。
 ある種のリアリティを前提にしているような問題へと進んでいくものであるが、ローティはそれを駄目だと言っているのではない。 
 ローティは対話しかないと言っている。 dialogue connversation
     realは問題ではない。 単に話し合いをする。 相対主義ではない。
  ethnocentlism
  話し合って白黒つけるのではなく、基本的には我々側に引き入れようとする活動。 ある意味では、そうであると言えるが、そう見ると非常に表面的。
 しかし、あたりまえのことを誰も言わなかった。 
 (他の人は)話の中身に立ち入って議論しようとしてきた。 ローティはそうしない。 あたりまえであるので反論も出来ないが、それで一体どうしたと言いたい。
 “我々”という言葉が、この論文内で一つのkey。 “我々”とは、一体誰を指しているのか? (これはローティにとって、現代のアメリカ社会、西洋)
 ただ、意見の一致しているcommunityは存在しない。 
 ローティはミッションのような話し方をするが、背後には何もない。
 西洋的デモクラシーと言っても、様々な慣行や考え方があるはず。
 ローティは、細かいことはどうでも良いとしている。 細かい議論になると、おそらく破綻する。
 現実には様々な具体的問題がある。 東と西の問題(これは大きな問題)もそうである。
 我々が問題としなければいけない様々な問題がある。
 どちらかに加担するしか解決策がないように、ローティの論文からは見える。
 それが正解だ、とローティは言っているのかもしれない。
 しかしそうすると、やはりtribial(あたりまえ)である。 tribialなことは批判出来ないため、認めるしかなくなる点がひっかかる。
 対話とは常に何かについての対話であり、その何かが問われている。 おしゃべりだけでは済まない側面がある。 埒があかない。 実際やってみる、研究をする事を欠くことは出来ない。
 単なる話を超えて、実際にあるものへ向かう。 この姿勢がRealism。
 この姿勢を求めていかないと、むしろtribialではなく、馬鹿げている。 行為、研究を話の中に取り入れようとすると、この話は成り立たない。
 あまりにもtribialな側面に目を奪われている。
 dialogue 対話が続けられないことを前提としている。
 もはや対話が続けられない場合、どうなのか? “対話可能性”はいつもあるとは限らない。  ① 翻訳可能性が無い(何を言っているのか分からない)場合はどうなのか?  ② 推論の様式が違っている場合、話しても無駄、続行する意味が無い、ということもあり得る。
 その辺をローティはどう考えているのか?

 (以上、我が講義ノートより転載したもの。)


 先程、このローティの論文を探してみたのだが、残念ながら見つからなかった。
 一体私が如何なる小論文を書いて提出したのかも、まったく思い出せない。

 実は、W先生が夏期休暇前にこの小論文課題を出した後の後期初めての授業に於いて、元々少なかった受講生の数が更に減少していた。 (おそらく当該小論文課題が重荷となり、受講をやめたのであろう。)
 残された受講生は、私を含めて3,4名だった記憶がある。
 (おそらく私が一番の劣等生だったのだろうが、この少数の学生達が小論文課題に於いて“的外れ”だったことを認識したW先生は、さぞや落胆されたことであろう… 😰
 それにもめげず少数学生相手に、こんな「哲学及びローティ」に関する初歩解説をして下さった事に、今更ながら感謝申し上げたい。

 この後も、(劣等生なりに)我がW先生の「科学哲学」への思い入れは続く。

左都子の「科学哲学」 小講座 Ⅲ

2020年05月28日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学にて受講した「科学哲学」授業の“米哲学”分野の講義ノートを撮影したもの。)


 W先生の授業では、英語をはじめ外国語が多発した。

 大学生たる者、当然ながらそれらを聞き取ったり読み書き出来て当然、とのご認識があったことだろう。

 それが証拠に、授業中に配布される資料のほとんどが「英文」だった。
 それを配布した直後に、「じゃあそこの貴方、訳して下さい。」と振られた事に関しては、バックナンバーにても述べた。
 昨日公開した「プラトン」の授業内で、いつも前方の席に座っていた私がトップバッターとして突然指名され、難解な資料を訳すことになった話題は既に述べている。

 私の場合、過去の医学業務に於いて医学論文を読み込んだ経験があるため、ある程度即興でそれが可能だったかもしれない。 
 よく覚えているのは、「positive」を「陽性」と訳して、W先生が「この場合は“実証的(だったかな??)”と訳した方がよいでしょう」等々と比較的優しくアドバイスして下さったことだ。


 冒頭写真も“英語”連発のため、ここで現在の私が訳してみよう。

 Dewey(米国の哲学者 ジョン・デューイ プラグマティズムを代表する思想家。 米哲学者の中でも、代表的かつ進歩的な民主・民衆主義者。)
 真理とは、保証された主張可能力である。
 何かを主張してよいが、その主張する内容が保証されたものでなければならない。
 Rorty (米国の哲学者 リチャード・ローティ ネオプラグマティズムの代表的思想家。 後にスタンフォード大学教授となり、哲学と比較文学を教えた。)
 合理的であることとは真実ではない。 まだ見解に達していない。
 我々にとって合理的だと思うことが、必ずしも真実でないかもしれない。
 もっと可能性あるより良きことがあるかもしれない。
 そのギャップを考える。
 我々を超越するのではなく、我々をより良く広げていこうという要求。

    一つの意味しか持たない  ←→  曖昧な

      自国民(自集団)中心主義 




     


     
    

     


     


 米哲学に触れるのは、私にとってW先生のこの授業が最初で最後だったかもしれない。
 原左都子としては不本意ではあるが本日はこの後多忙でもあるため、ここまでで素通りさせて頂くことにしよう。😝 

左都子の「科学哲学」 小講座 Ⅱ

2020年05月27日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学にて受講した「科学哲学」のプラトンによる“3つの比喩”より「洞窟の比喩」のページを転載したもの。  字が既に乱雑になっているが、夜間働く勤労学生の身にしてどうしてもノートの清書時間がとれなかった…。 今後は授業中に殴り書きしたそのまま状態の公開で失礼します。)


 早速だが、上記写真内にある「eikasia」の意味に関して、ネット上より引用しておこう。
 
プラトンの『国家』第六巻で語られる「線分の比喩」においては、
人間の認識のあり方には、エイカシア(映像知覚)とピスティス(知覚的確信)、そしてディアノイア(間接的認識)とノエーシス(直知的認識)という全部で四段階の認識の階層があることが説明されます。
そして、エイカシア(映像知覚)とピスティス(知覚的確信)が現実の事物が存在する感性的世界(現象界)のみを対象とする認識であるのに対して、
ディアノイア(間接的認識)とノエーシス(直知的認識)は現実の世界の背後にある真なる実在であるイデアが存在する知性的世界(イデア界)を対象とする認識であるとされることになるのですが、
「線分の比喩」の議論では、こうした四つの認識のあり方は、数学的な比例関係において捉えられることができると説明されることになります。
 (以上、「eikasia」の意味に関してネット上より引用したもの。)



      


      


      


      


 どうやら「科学哲学」2校時目から、早くも“プラトンの世界”に突入だ。
 
 やはりプラトンは著名哲学者であるし学生が感情移入し易いであろうと、W先生が配慮して下さったものと思われる。
 これが、私にとっては大々的なインパクトだった!

 よく分からないなりにも、面白くて面白くて!! 
 お陰で、私が「科学哲学」とW先生のファンになるには時間がかからなかった。
 他の授業も面白いと言えばそうなのだが、この「科学哲学」の魅力に勝るものはなかった。
 (後に語る「量子力学的実在論」共々、「プラトン哲学」は確実に我が脳裏に永遠に刻み込まれた。 と言える程に理解できているかどうかは不明😝 だが、とにかく私にとって後々までのめり込める対象学問となった。)😍 


 そんな私が、このW先生のプラトンに関する授業等々をまとめる形で、後に当該「原左都子エッセイ集」初期頃2007.11.23付けで「プラトンのイデア論」と題する“学問・研究カテゴリー”エッセイを公開している。
 それを、以下に引用させていただこう。

 今日は、プラトンから命名した娘の14回目のバースデー。
 素直に着実に、あなたらしく成長してくれてありがとう。
 14歳になったあなたに、母からブラトンの「イデア論」を贈ります。

 紀元前4世紀に古代ギリシャのアテナイにアカデメイアを創設した哲学者プラトンの関心は、一方の永遠普遍なものと他方の流れ去るものとの関係にあった。 プラトンは自然界や社会の中で何が永遠普遍なのかに興味をよせた。 プラトンは永遠で変わることのない「本当の世界」をとらえようとした。 何が永遠に真理であり、善であり、美しいのかを示そうとした。
 プラトンは私たちが自然の中で触れたり感じたりできるものはすべて「流れ去る」と考えた。 感覚世界に属するものはすべて時間に侵食されてしまう。 だが、すべてのものは時間を超えた「型」に従って創られている。 この「型」は永遠で普遍である。
 プラトンが永遠で普遍と考えたこの「型」は抽象的なひな型であり、それをもとにあらゆる現象が型どられるひな型である。 プラトンは私たちの身の回りにあるあらゆるものの背景には限られた数の原型があるはずだ、との結論に達した。 そしてこの原型をプラトンは「イデア」と名付けた。 この考え方がプラトンの「イデア論」だ。
 感覚世界にあるものはすべて、つかの間のものでしかない。 動物も植物も衰えていき、いつかは死ぬ。 岩石だってゆっくりと朽ちていく。 私たちは変化するものについての確かな知を入手することはできない。 触れたり感じたりできる感覚世界のものに関して、私たちは曖昧なドクサ(意見)しか持てない。 私たちがエピステーメー(確かな知)を持てるのは、理性でとられることができるものについてだけなのだ、とプラトンは考えた。 理性は永遠で普遍であり、永遠で普遍にかかわることしか語らない。 私たちが知覚するもの感覚するものに関して、私たちは曖昧な意見しか持てない。だが、理性で認識するものに関しては確かな知に達することができることをプラトンは示そうとした。(だから、「イデア」は日本語では「理性」と訳されたりもしている。)
 私たちは何かの陰を見たら、この陰の元にあるものがこの陰を投げていると考える。 でも、確信はない。 それで、私たちは振り向いてその陰の正体を確認する。 その正体は陰よりもずっとクリアで輪郭もはっきりしている。 プラトンは、自然界のすべての現象は永遠普遍のひな型(イデア)のただの陰だと考えた。残念なことにほとんどの人々はその陰の中の人生に満足しきっている。 一部のソフィスティケイトされた人にしかこのイデアは見えない。 プラトンはそう語っている。(プラトンはこの話を「洞窟の比喩」として説明している。)
  参考文献 : ヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界」1995年

 (以上、本エッセイ集バックナンバーより引用したもの。)


 先程の記述の訂正です。
 失礼申し上げました。 上記エッセイの参考文献「ソフィーの世界」は、W先生ご推薦図書ではありません。 (どなたの推薦だったか忘却しております。)
 W先生ご推薦図書は複数あるのですが、当時大規模書店を巡ったのは、ズーカフ著「踊る物理学者たち」(量子力学的実在論等を取り上げた著書)を求めてでした。 紀伊國屋、丸善、最後に行った「八重洲ブックセンター」でやっとこれをゲット出来た時には、どれだけ嬉しかったことか。

左都子の「法学概論」 小講座 Ⅷ

2020年05月25日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学にて受講した「法学概論」授業の最後の講義ノート。)


 S先生による「法学概論」講義もこの8シリーズ目で終焉を迎える。
 最後の最後にS先生が選んだのが法学の基本である「近代市民法」だったのには意外性があった。

 これを終えて私は2度目の大学を卒業し、4月からは大学院生としての学業を引き続き開始することとなる。
 あの春のことはよく覚えている。 またもや自分の目指す新たな方向へどんどん近づけそうな、何ともすがすがしい春だった記憶がある。
 とにかく超多忙の2度目の大学4年間だった。
 夜間や大学長期休暇中は仕事をしつつの勤労学生だった訳だが、実によく学びよく働き、その間に酒も恋愛も存分に堪能しつつ😜 、(何度も言うが)我が煌めくばかりの“華の独身時代”を過ごせたものだ。


 それでは、最後の写真を掲載させていただこう。

      



 この「近代市民法」に関しては、我が「原左都子エッセイ集」初期頃の“左都子の市民講座”内で取り上げている。

 その一つ、2007.12.16 公開の「近代市民法の基本原理とその修正(その1)」を、以下に再掲載させていただこう。

 近代市民法とは何か?
  近代市民社会において施行されている法のこと
   近代っていつ?  → 市民革命以降の時代
   市民社会って何? → 資本主義社会が市民社会
              (社会主義社会は市民社会とは言わない。
               生産手段の社会的所有により横並び社会では
               あるが、反面、自由が制約されているため。)
 我が国における近代市民法とは?
   私権を確立するために制定された私法の基本法である「民法」のこと
     これに対し、「憲法」とは、国家統治のあり方を定めた根本規範
            政治指針であり、具体的な権利義務は表れない
  近代市民法の根本理念 = “自由と平等”
    ここから、次の3つの基本原理が導き出される。
            ↓
        近代市民法の基本原理
          ○所有権絶対の原則
          ○契約自由の原則
          ○過失責任の原則

 ○所有権絶対の原則とその修正
   所有権絶対の原則とは
    近代市民法の根本理念 = “自由と平等” であるならば、
    個人が自由な意思で、平等な地位において手に入れた財産権、特に
    その代表的な所有権は何人によっても侵害されない、という原則
                ↓
    この財産権をどのように行使しようが、これまた自由
               = “権利行使自由の原則”
    権利を行使する過程において他人に損害を与えようと、法に触れない
    範囲内でならば責任は問われない。
    資本主義経済の高度発展は、この原則に負うところが大きい。
   しかし…
    資本主義の発展 → 貧富の格差の拡大
     一握りの独占企業がみずからの財産権を行使することにより
     他人に損害を与えてもよいのか?多くの人が不幸になってもよいのか?
       例: 公害問題、現在多発中の賞味期限偽造問題、etc…
    20世紀に入ってから、この基本原理に歯止めがかかった。
     「公共の福祉」 = 社会全体の共同の幸福  の思想の導入
       この枠を超える権利の行使は 「権利の濫用」となる。
        ワイマール憲法153条3項「所有権は義務を伴う」
         (「公共の福祉」を世界に先駆けて明文化した。)
    このように、「所有権絶対の原則」に制限を設けた。     
      ところが、この「公共の福祉」概念は抽象的かつ曖昧であり、
      “諸刃の剣”の側面もあるという弱点を抱えている。
        個人の自由が制限される。
        権力者がこのような尺度を利用して、私権を恣意的に侵害する
        危険性もある。
      両者の整合性を取ることは、今なお困難な課題である…
 
 次回の“左都子の市民講座”において、「近代市民法の基本原理とその修正(その2)」と題して「契約自由の原則」を、次々回「同(その3)」と題して「過失責任の原則」について解説します。お楽しみに! 

 (以上、本エッセイ集バックナンバーより引用したもの。)


 ところが…

P.S.
  本エッセイ集の著者である原左都子が 2007年公開 「原左都子エッセイ集」内に綴った当該文書が、数年後の年月日の日付にて 見知らぬ人物により yahooに於いて丸ごと無断転載され、 “yahoo 知恵袋”内某質問事項の“ベストアンサー”として公開され続けております。 
 この案件に対し、私どもより yahoo相手に善処を要求したものの、なしのつぶての有様です。
 yahoo には、一なる大手企業として「著作権」侵害に対する更なる認識をお持ち頂きたい思いですが、それが叶わない現状に即し、読者の皆様にお願いがございます。
 我がエッセイ集より、ネット上の別サイトへ転載・引用する場合には、必ず 「原左都子エッセイ集より転載・引用」 の一言を末尾に記載して頂けますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
                 「原左都子エッセイ集」  著者  原左都子

 との事件が発生したものの未だにyahooからは“なしのつぶて”状態…、 そのまま(別人の名で)ベストアンサーとして公開され続けている… 



 さて、本日は私が住む東京都でも“新型コロナ非常事態宣言”が解除されるらしい。

 明日以降も「左都子の小講座」を続行せんと志しているが、ガラリと学問分野を変えて。  
 一般教養科目だった「自然科学概論」か、あるいは2度目の大学に於いて私にとり一番インパクトが大きかった 「科学哲学」 を思い切って取り上げてみようかと、虎視眈々と狙っている。😐