原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「原節子」論

2008年06月29日 | その他オピニオン
(写真は、女優の原節子氏)

 「原節子」氏といえば、ある年齢以上の日本人ならば誰一人知らない人がいない程一世を風靡した昭和の時代の大女優である。

 原節子氏が女優として活躍したのは私がこの世に生まれる以前が中心であるため、この私もその名はよく知れども現役時代の氏の活躍ぶりを全く知らない。
 なのになぜ、今回「原節子」を本ブログの記事として取り上げ論評しようとしているのかと言うと、実は私と原節子氏とはある共通点があるからだ。個人情報保護上の理由によりその共通点が何であるかはここでは申し上げられないが、それのお陰で私は日頃得をすることが多いのである。
 その共通点を介して見知らぬ方や初対面の人と会話がはずむ事がよくあるのだ。
まずは皆さん、その共通点を知ると間違いなく驚かれる。「へえ~、そうなんですか!」と。先だっても歯科で診療中に歯科医の先生と原節子談議になり、「私もファンだったのですが、私の恩師が原節子さんの後援会に入っていたこともある程の大ファンで、どうのこうの……」とおっしゃるのだ。 そして皆さん、例外なく異口同音に原節子氏を褒め称える。 絶世の美女であること、“永遠の処女”のキャッチフレーズが物語るように汚れなき清純なイメージであること、今で言う癒し系であること、等々…。

 他にも世間を一斉風靡した女優や歌手は存在しなくはない。例えば、美空ひばりや最近では山口百恵(若干印象は弱いが)なども芸能史に残る輝ける存在であろう。だが、例えば美空ひばりの場合は「歌い方を好まない」「美女とは言えない」「不健康そうで若死にしている」等々のマイナス評価も存在する。また、山口百恵の場合もやはり「決して歌がうまいとは言えない」「美女とは言えない」「芸人として円熟せずして引退している」等のマイナスイメージがある。
 これに対し、原節子氏にはマイナスイメージが一切ないのだ。百人中百人が絶賛するのである。

 前置きが長くなったが、そこで本記事においてはその存在を知る人が皆絶賛する昭和の大女優「原節子」を取り上げて、その魅力を探り分析してみたいと考える。
 ただし、既述の通り何分私は現役時代の原節子氏を存じ上げないため、人からの伝え聞きや資料による分析とならざるを得ない。本文に不足や誤りを発見された方はコメント等で何なりとご指摘いただけたら幸いである。


 それでは、「原節子」氏の魅力のポイントを絞りながら個々に分析していこう。

 まず魅力の第一点。 絶世の美女である。
 好みはあろうが、この女性を「美女ではない」と言う人はいないのではなかろうか。
 原節子氏デビューの背景として、時代劇「河内山宗俊」の監督山中貞雄氏が、そのヒロイン像として“すべての無頼の男達が、この美しい瞳のためなら死んでもいいと思うような清純で可憐な女優”を条件にヒロインを捜し求めた挙句、当時まだ16歳の原節子を大抜擢したといういきさつがあるらしい。
 顔立ちが洋風なのが特徴と私は捉える。もしかしたらハーフか?とも思われるような彫りの深さなのであるが、実際はどうなのであろうか。 1930年代後半の当時、海外との交流がまだまだ少ない時代背景の下、この原節子氏の斬新とも受け取れる洋風の風貌を日本男子がもてはやしたのであろう要素も考察できそうである。

 そして魅力の第2点。 清純なイメージである。
 日独合作映画「新しき土」(1937年)の撮影のために来日したA・ファンク監督は、上記の「河内山宗俊」の原節子を見てその映画のヒロインに抜擢したらしい。
 “神聖にして犯すべからず(永遠の処女)の背光を帯びたまま今日に至っている”と言われるごとく、その後の27年間の女優人生の銀幕作品すべてにおいて原節子氏は色褪せることなく初々しいままだそうだ。
 プライベートにおいても、原節子氏にはスキャンダル的要因が一切ないようなのだ。この頃既に、スキャンダラスな女優は何人か存在している。原節子氏よりもう少し前の時代になるかもしれないが、岡田嘉子氏などはその最たる存在ではなかろうか。
 やはり時代背景的に清純なイメージの女性が好まれたのであろう。それにしても、デビューから27年後の引退までそのイメージを一貫して演じ抜いた原節子氏はやはり一種超越した存在であろうと私は捉える。演技力のみではカバーしきれないご自身の生き様そのものがその役柄に投影され、清純な雰囲気を醸し出していたのであろうか。

 最後に魅力の第3点。 “癒し系”である。
 かなり以前に私の職場の上司から見聞した話であるが、原節子氏には汚れ役、穢れ役が一切なかったらしいのだ。氏は女優人生27年間を通して潔い“麗人”であり続け、優しく微笑む美しい瞳をファンに投げかけ続けたのである。
 長年に渡り一貫したプロ意識で自分のイメージを持続し通した原節子氏の右に出る女優は、古今東西に類をみないかもしれない。

 そして理由を一切明かさず突然スクリーンから姿を消し、公の場にも姿を見せなくなったそうだ。真実の姿が謎のまま“伝説の女優”として原節子は今なお語り継がれている。 


(参考資料としてインターネット情報を大いに活用させていただいたことを追記する。) 
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ジョニーと別れた理由

2008年06月27日 | 恋愛・男女関係
(本記事は、先週末のバックナンバー記事「彼の名はジョニー」の続編です。)

(写真はジョニーと私とジョニーの愛車ポルシェ。個人情報保護のため不明瞭処理をしています。)


 そして、私の帰国の日がやってきた。
 ジョニー(仮名)がサンフランシスコ空港までポルシェで送ってくれたのだが、その道中ジョニーから少し気になる話が出た。例の「睡眠障害」の話なのであるが、車の運転中に突然睡魔に襲われることがありこれが極めて危険であるとのことだ。経験はないが想像は十分可能である。
 その日のジョニーは多少元気がない。どうやら睡眠不足のようだ。それでも私を送りたいがために無理をして明るく振舞っている様子だった。
 秋頃今度はジョニーが日本に来る約束をして、私はサンフランシスコ空港から飛び立った。

 帰国後ジョニーは毎晩電話をくれた。時差の関係でいつも夜の11時半頃だった。電話での英会話はこれまた大変だ。身振り手振りができないため会話の実力のみが勝負となる。それでも毎夜約半時間位電話での英会話を続けていると、これまたみるみる上達するのだ。
 ジョニーは国際便でよくプレゼントを送ってくれたが、帰国後最初に届いたプレゼントは“answering machine”である。これ、日本語でいうところの留守録装置だが、私の電話には留守録機能が付いていなかった。(当時は留守電がさほど普及していなかった時代である。)たまに私が留守の時があったため、ジョニーが自分で留守録を吹き込みたいがために送ってくれたのだ。(このジョニーの留守電がムードたっぷりだったなあ~。必ず“I love you”をささやいてくれていた。これを聞くと私は気持ちよく眠りにつけたものだ。) 米国人の特徴であろうが、愛情表現やコミュニケーションをとても大事にしてくれる人だった。

 そんなジョニーの電話での頻繁な愛情表現を含めたコミュニケーションのお陰で、遠距離恋愛ではあるが距離感がさほどなく、11月のジョニーの来日が近づいた。
 欧米では珍しくない話だが、サラリーマンも年に2度程長期休暇が取れるらしい。この長期休暇を利用して、ジョニーは東南アジア旅行も兼ねて日本にやって来た。
 ジョニーは3週間程日本に滞在したと記憶しているが、ジョニーとの共同生活を私はこの時初めて経験することになった。ジョニーの日本滞在が長いので、私は職場に通いながら有休を利用して鎌倉、日光、京都方面を二人で旅行したりもした。

 ここで、いよいよジョニーの「睡眠障害」と私は直面することとなる。やはり夜眠りに就けないようなのだ。夜中にまだ慣れないであろう私の部屋をうろうろしている。滞在当初は私も相当ジョニーに配慮して一緒に付き合った。 ところが、私の場合長年の一人暮らしに慣れてしまっていることもあるし、また今回は仕事をしながらの共同生活であるため、私の体内に疲れとストレスが溜まり始めた。

 ここでもう一点決定的な話をしておこう。(私のブログの性質上この話を書いてよいのかどうか迷ったのであるが、この話なくしてこの恋愛物語は半分も語れないと判断したため思い切って書こう。)
 実は、ジョニーには性的特殊嗜好があったのである。ジョニーはいわゆる“M”だった。酒の上での冗談半分の猥談等でこういう話はよく出るが、私が実際にこの事態に直面するのはジョニーが初体験であった。正直言ってこれは大変厳しい世界であり、当事者にとっては冗談では決して済まされない事態である。(もしかしたら日本においてはあくまで冗談の域を超えておらず、真の嗜好者はいないのではないかと私は今でも思う程だ。)真の嗜好者にとっては真剣勝負の世界である。これとて努力家の私は相当努力して演技力でカバーしてジョニーに付き合ったのであるが、自分に“S”的性的嗜好がないと、今後長年それに付き合って行くことは困難であろうことを私は思い知らされた。

 当時私は十二指腸潰瘍を患っていたが、ジョニーの「睡眠障害」と「性的特殊嗜好」による“奇行”が原因の日々の疲れとストレスのために病状がひどくなっていくのだ。遂に私は微熱まで出始めてダウン気味になってしまった。それでも薬を飲みつつ私は仕事も続けていた。
 京都に行ったとき、ついに私はジョニーに大喧嘩を売った。旅先でもジョニーの“奇行”により寝れない私はもう限界だった。当時名立たるホテルでの朝食時に国際恋愛カップルが英語で大喧嘩をしている姿はさぞや奇異だったことであろう。

 ところが、普段のジョニーはすこぶる紳士でやっぱり優しいのだ。いつも相変わらず“I love you.”とささやいてくれる。一生懸命コミュニケーションをとってくれる。このギャップの激しさがさらに私の辛さに追い討ちをかける。まだ若かりし私にとっては何を信じていいのやら頭が爆発しそうになるのだ。
 
 不安定な関係のまま、ジョニーは東南アジアへ旅立った。今度は冬に私がアメリカを再び訪ねる約束をして…。

 その後もやはり毎夜ジョニーは電話を欠かさずくれるのだ。留守電の“I love you.”も引き続き私の心を魅了する。

 そして冬になって再び私はアメリカを訪れた。久しぶりに会うジョニーはやはり素敵だ。最初の2、3日は相変わらず二人はお互いを求め合い、幸せそのものだった。
 ところが、喉元過ぎるとまたあのジョニーの“奇行”は終わりなく始まる…。
結局また私はドロドロの世界へと誘われてしまう。しかも、回を重ねる程お互いに身勝手さが増強してゆく。
 やっぱりこの恋愛の行き着くところは終焉なのか…、との結論が私の頭をよぎりつつ帰国した。

 その後もジョニーは相変わらず毎夜電話をくれた。
 だがさすがにジョニーの“奇行”に限界を感じもう潮時かと考えた私は、ジョニーに長い別れの手紙を綴った。ジョニーをまだ本能的に求めているやるせなく切ない自分のコントロールし兼ねる体と情念を抑えつつ…。

 
 その後しばらくして、私はお見合いで“奇行”のない日本人男性と結婚することになる。
 ジョニーは今、どうしているのだろう。 
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夕刊がなくなる?

2008年06月25日 | 時事論評
 先だっての新聞報道によると、毎日新聞が8月末で北海道での夕刊発行を廃止することにしたそうである。
 新聞各社とも夕刊販売部数は低落傾向にあり、各社で試行錯誤を続ける中の今回の毎日新聞社の北海道地方の夕刊廃止決定である。

 6月14日付朝日新聞朝刊の報道によると、全国紙で夕刊を廃止したのは02年の産経新聞が最初であったらしい。毎日新聞社においても、その前年頃から既に夕刊廃止は経営政策上の重要問題として検討されていたとのことである。
 今回の毎日新聞の北海道での夕刊廃止決定について、毎日新聞社の広報担当は「読者のライフスタイルの変化に対応し、朝刊を増ページして内容を充実させる。記者や社員の削減は考えておらず、コスト削減を狙ったものではない。」と説明しているようだ。
 北海道において新聞の戸別配達を維持するのは大変だという特殊な事情もある。首都圏等と比較して配達区域が広大で、山間部や農村では次の配達先まで1kmあることもざらだそうだ。

 この毎日新聞の夕刊廃止報道を受けて、あるテレビ番組が聴取者に夕刊は必要か不要かの意見を募ったそうである。
 その結果は“不要派”が“必要派”を大きく上回る回答だったようだ。


 夕刊は必要か、不要か?

 これを考察する前に、我が家特有の新聞事情を述べさせていただこう。

 本ブログの読者の皆様は既に十二分にご存知のように、私は朝日新聞の長年に渡る愛読者である。朝刊、夕刊共に毎日届く新聞の全ページを欠かさずチェックしている。
 ところが、私の新聞の読み方は変則的である。大抵は2、3日遅れて読む。極端な場合は1週間以上遅れてまとめて読む場合もある。なぜこれ程読むのが遅れるのかというと、日常生活の合間を見つけて読むという習慣がひとつの大きな理由である。
 だが、もっと大きな理由がある。それは我が家はオートロックの集合住宅なのだが、新聞を一階の集合ポストまでしか配達してもらえないのだ。朝の忙しい時間に一階まで新聞を取りに行く時間がなく、昼間外出ついでに郵便物と一緒に持って上に上がるため、どうしても読むのが遅れるのだ。これに関しては一戸建て住宅と比し明らかに不公平であるため、集合住宅も戸別配達をするようにと何度か新聞配達店に掛け合ったのであるが、残念ながらその回答は“No”である。オートロックマンションに関しては戸配はせず、一階の集合ポストまでの配達が原則となっているという販売店の説明である。(ならば、少し値引きぐらいしてくれてもよさそうなものだが…。)
 そのような事情で、我が家では朝刊も夕刊もごっちゃ混ぜに遅れて読んでいる実態である。

 そういう新聞の読み方をしている私がこの問題を考察すると、自ずと夕刊不要の立場を取る事になる。

 私なりに朝刊と夕刊の違いについては把握している。朝刊はトピックス記事や社説等のオピニオン記事が多いのがその特徴であろう。そして夕刊は科学、学問、芸術、芸能関係等の文化面の話題が多いと把握している。
 これらをひとつにまとめ一日1部の発行として、午後の配達体制にでもしてもらえるならば我が家としては十分である。そのコスト削減分を新聞代金値下げに還元してくれるならより歓迎である。

 53年にテレビ放送が始まり、90年代にはインターネットが普及して、今やマスメディアを取り巻く環境が大きく変化している。人々の生活習慣もめざましく変化してきている。情報入手手段の多様化により、新聞のあり方も今後大きく変遷して行かざるを得ないであろう。

 それでも私は新聞が好きだ。 テレビやインターネットの粗雑さや押し付けがましさ、自由度の低さには未だに抵抗感が大きい。 新聞の広い紙面、情報を一見にして一望でき選択できる自由さや、紙独特の風合いや紙を介してゆったりと流れるあの一種贅沢な寛ぎの時間、空間を私は今後共欠かせない生活の一ページとして享受していきたく思っている。

 朝刊、夕刊という新聞の2部体制に関しては今後変容していく運命にあろうが、新聞という情報文化媒体にはまだまだ生き残って欲しいと、一新聞ファンとしては期待する次第である。
 
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小心者の底力

2008年06月23日 | その他オピニオン
( 前回の記事「……ジョニー」の続編は、週末までお待ち下さいますように。)


 私は以前から、他人から投げかけられる「小心者」「臆病者」等の類の言葉を好まない。
 自分自身で「私って小心者だなあ」「何て臆病者なのだろう」と日常自覚する場面はよくあるのだが、他人から面と向かってこの言葉を投げかけられると、たとえそれが冗談交じりであれ結構傷つくものである。 
  
 と言うように、世間ではこの「小心者」「臆病者」という言葉はマイナスイメージとして使用されているようだ。
 
 ところで、私はテレビの対談番組を好んでいる。近年はテレビをほとんど見ないのだが、昼間在宅時の昼食時間にニュースと天気予報を見る流れで、NHKの「スタジオパークからこんにちは」をゲストによっては見ることがある。最近では現在世界的に活躍中の女性オーケストラ指揮者である西本智実氏の対談をこの番組で見て、その人となりと超越したカッコよさに甚く感銘してしまい、西本氏の指揮によるコンサートを見に行くことが現在の私のひとつの目標となっている。(この件に関してはまたの機会に別記事で詳述しよう。)

 話を戻すが、この種の対談番組を見ていて気付くのは、大抵のゲストの皆さんが異口同音に自分は「実は小心者だ」「実は臆病者だ」とおっしゃることだ。
 かの有名な長身女性歌手のAW氏もいつも言っている。何十年歌手をやっていても舞台で歌う直前は口から心臓が飛び出しそうなくらい緊張するのだと。バラエティ番組に出演する時は一切そのようなことはないのだが、自分の本業は歌手であるという自負があり、歌にかける思いが自分を一瞬臆病にさせるらしいのだ。
 上記の西本氏も同様の事を話していた。コンサートの舞台に立つ直前に極度の緊張感から一瞬頭が真っ白になるため、必ず直前の1分間目を閉じての瞑想時間を設けているそうだ。

 どうも、「小心」「臆病」等人間の持つ内面の潜在的“弱さ”を自分でコントロールしプラスに転化していくエネルギーを持てる人達にとっては、その種の“弱さ”さえもが芸や技の肥やしとなり成功を掴む鍵となっているように、私は対談を見ていていつも感じるのである。 逆に考察すると、いつも自信に満ち溢れ“恐れ”や“畏れ”を知らない根っから図々しい人というのは、大変失礼な言い方をすると実は“単純馬鹿”なのではないかとさえ私は思ってしまう。


 先だっての新聞広告に、「臆病だから、勝ち抜ける」と題するベテランロッカーEY氏の談話が掲載されていた。この談話の中の“臆病”に関する部分を以下に抜き出して要約してみよう。
 僕は自分の中に鋭敏なレーダーを持っている。芸能界で当たり前のように人が準じているルールに対しても、変だとレーダーが働く。それはきっと僕自身が臆病であるからだ。自分で自分を臆病だと認めるのはなかなか難しい。しかし、本当は臆病と緻密な考えとは背中合わせにあって、怖いからこそ有効な防衛策を繰り出せるのだと思う。とにかく目をそらさずに自分の現状をはっきり把握したいと思う。
 以上がEY氏の対談の一部要約である。

 上記の私の既述と共通項があるが、まさに「小心」や「臆病」とはただ単に“恐れ”や“畏れ”に怯えて小さくなって逃げ腰になっている状態ではないのだ。それらの感情はいつも繊細さや緻密な考えと背中合わせなのである。「小心」や「臆病」は人間に畏れ怯える時間や空間を持たせてくれる。そして、直面した事態から一旦引き下がらせてくれ、次なる発展に向かうステップを冷静沈着に緻密に練る余裕を溜め込ませてくれる。そして、その結果醸し出されるエネルギーというのは怖さに怯える経験をする以前よりもより強力なのである。

 弱きを知る者こそが真の強者だ、とはよく言われる言葉であるが、まさにその通りである。
 小心者だからこそ、臆病者だからこそ持てる繊細で緻密な思考により裏付けられた底力は何よりもパワフルであるように私も思うのだ。  
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彼の名はジョニー

2008年06月21日 | 恋愛・男女関係
 (この物語の当時の写真。右が私、左が姉、米国西海岸にて)

 先週末に引き続き今週末も恋愛もののエッセイを綴ろう。
 今回は“国際恋愛の巻”である。読者の方は既にご存知の通り、数打ちゃ当たる的な失敗続きの私の恋愛騒動、今回はうまく進展するのかどうか…。


 米国人男性ジョニー(仮名)との出逢いは米国西海岸に住む姉の家の玄関だった。

 独身の頃、私は米国在住の姉のところへ単身で何度か訪れている。 その訪問の一番のお楽しみは、華やかで交際範囲の広い姉のネイティブの友人に会い、片言の英語で楽しいひと時を過ごす事だった。
 日本でも翻訳されてベストセラーとなった「カッコウはコンピュータに…」の著者であるC・S氏とも姉が交友があったお陰で、氏にもお目にかかった事がある。C・S氏は作家であると同時に天文学者でもあり当時大学教授をされていたと記憶しているが、ふわふわのカーリーヘアが可愛らしく、とても控えめで優しくごく普通の庶民的な方だった思い出がある。

 ジョニーもそんな姉の広い交友関係の中の友人のひとりであった。
 
 その日、ジョニーが日本から遥々訪れた私のために西海岸めぐりのドライブに連れて行ってくれるということで、愛車のポルシェで姉の家まで迎えに来てくれたのである。(ちなみにジョニーは離婚暦もなく子持ちでもない正真正銘の独身男性であった。)

 姉の家の玄関でジョニーと初めてご対面した時、ジョニーの私を見るその眼差しから私は直感で一目惚れされたことを感知した。(こんな事を書くと、何だかしょってる勘違い野郎で馬鹿みたいだが本当の話なんです…)あちらの方は表現が直接的だ。それからというもの、ジョニーは私から視線を外さず穴が開くほどずっと見ているのだ。

 そして3人でポルシェに乗り込むのだが、私はポルシェに乗るのはこの時が初めてだった。ジョニーのポルシェは後部に小さな座席がひとつあるタイプなのだが、この後部座席がとてつもなく小さいのだ。私と姉のどちらが後部座席に座るかということで、私が後部座席を申し出た。ところがどうもジョニーは私に助手席に座って欲しそうだ。そうしたところ姉が「私の方が痩せてるから後ろに座る」と言い、席は決まった。
 
  何分私は英語が片言なため、姉の通訳付きでジョニーと話した。おそらく自己紹介風の話を中心に、姉が通訳係に徹してジョニーと私の二人が対話をしながらのドライブだった。
 その日の3人でのドライブが終了する時、ジョニーが私に言う。私が滞在中に是非もう一度今度は二人で会いたいと。姉もジョニーの私への気持ちを既に察していて私にそうすることを勧めてくれる。私もまんざらではないのだが、何分英会話力の問題がある。(経験がおありの方は理解していただけると思うが、英会話力がなくてネイティブと話す場合、英語をしゃべるという行為自体にエネルギーを使い果たし、肝心のコミュニケーションがとれているのかどうか後で考えるとよくわからないのである。)そういう事態を予想して私は二人で会うことを躊躇したのだが、ジョニーの熱意に押されて会うことになった。

 そして二度目のデートであるが、この日ジョニーは私に自分のことをよく知って欲しかったものと思われる。やはりポルシェでとりあえずジョニーの住むサンフランシスコ周辺をドライブした。ジョニーはコンピュータ関連のT社に勤める技術者なのであるが、自分の職場へ連れて行ってくれたのが印象的である。あちらの会社は、特に専門職の場合ひとりひとりが個室を持っているのが特徴のようだ。人口密度がやたら少ないオフィスなのであるが、やっと一人ジョニーの仕事仲間に出会った。ジョニーが早速私のことを紹介してくれる。「ハイ!○○(私の名前)、ナンタラカンタラ……」と相手はフレンドリーであるが、よくわからない私は笑顔でごまかす。
 途中であるが、ここで英語での会話について補足説明をしよう。ジョニーに会うのは2度目となるため、さすがにジョニーの英語に対しては耳が慣れてきている。そしてジョニーが私に好意を持ってくれているお陰で、私の下手な英語を真剣に聞いてくれるのだ。という訳で、意外や意外、ジョニーとの二者関係においては会話が会話として成り立ちコミュニケーションがとれるのである。 ただし相手が変わると若干勝手も変わる程度の私の英会話力であることには変わりない。
 ジョニーのガラス張りの個室オフィスを訪れ米国のサラリーマンは恵まれていることを実感した後は、今度は西海岸の少し郊外にあるジョニーの本宅を訪れた。  ジョニーは不動産を2件所有していた。サンフランシスコのコンドミニアムは仕事のための普段の住みかであり、郊外の本宅は普段は使用しないため若者数人にルームシェアで賃貸しているのだ。この本宅でも在宅していた若い世代の住人達が私を出向かえてくれる。「ハイ!○○(私の名前)、ナンタラカンタラ、ナンタラカンタラ……」と若い皆さんが異口同音に歓迎してくれるのであるが、やはり詳細は捉えにくい。
 そして、帰り道でジョニーが少し真剣な話を始める。この頃にはわずか一日で私の英会話力は相当上達していた。その話によるとジョニーはある深刻な身体的事情を抱えているということである。それは「睡眠障害」なのであるが、若かりし頃のドラッグ経験の後遺症であるらしい。今後もずっと抱えていく事情であるという。
 補足説明をすると、1960年代後半頃のアメリカではベトナム戦争反戦運動をきっかけにヒッピーが流行り若者の間でドラッグが蔓延していた。その頃ジョニーはちょうど学生でやはりドラッグを経験したらしいのだ。このドラッグ問題は当時のアメリカでは大きな社会問題であった。今尚その後遺症で苦しむ人達は多いのだ。 
 
 ジョニーの口からその話を聞いた直後は、私は米国人としては考え得る話程度に捉え軽めに受け流していた。
 ところが、その後そのジョニーの後遺症が二人の関係に大きな影を落とすことになる。(続編へ続きます。)
  
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