私は、「お気に入りの有名人は?」「尊敬する人物は?」等の類の質問に対して、「明川哲也氏」と応えることにしている旨については本ブログでもう3回位述べてきているため、ご存知の読者の方も多いと思われる。
「お気に入り」と「尊敬」とでは意味合いがまったく異なるではないか、との感想をお持ちの方もいらっしゃることと推測する。
私はテレビは滅多に見ない、ネットもあまり検索しない等、普段マスメディアにはほとんど接しない生活をしているという理由により、元々「有名人」と名の付く方々のことをほどんど知らないのだ。もちろん、情報が暴力的に氾濫している今の時代であるから、世間が「有名人」だと騒いでいる人々の名前ぐらいは嫌でも頭の中に侵入してくるのだが、それらの人物の人となりを存じ上げたいと思う程興味をそそられる有名人には、滅多やたらとはお目にかかれるものではない。
一方「尊敬する人物」の方であるが、これとて歴史上の人物を持ち出す程の初々しさもなければ、ましてや、親や恩師や先輩等、身近な存在の人物については普段より覚めた目で観察、分析する習性のある私にとっては元々「尊敬」の対象とはなり得ないのだ。
そんなこんなで、両要素を兼ね備えている人物として白羽の矢が立ったのが「明川哲也氏」なのである。(明川哲也さん、ご迷惑な事とは存じますが、何卒ご容赦下さい。)
なぜ、明川哲也氏なのか。これについては、バックナンバーで再三述べてきているのだが今一度繰り返すと、明川氏は繊細なハートの持ち主でいらっしゃるのに心が大きな人物であると共に、明川氏の思想の根底にすべての人間の人格をまずは認めようとするハート、包容力の大きさを感じさせていただけるためである。加えて、図々しいのではあるが私と思考回路に共通点があるように感じるのだ。
テレビ、ネット等のマスメディアにはほとんど接しない私が、普段、情報収集のよりどころとしているのは新聞である。
私は朝日新聞の長年の愛読者であるのだが、昔から朝日新聞の様々なコラムが好きだ。各方面、分野でご活躍中の方々が執筆されたコラム(特に連載もの)のエッセイを読ませていただくと、その執筆者の人となりを直(じか)に感じさせていただくことができるからである。
明川哲也氏は、朝日新聞朝刊で連載中の「相談室」の回答者として長年読者(?)の相談に対する回答を担当されているのであるが、その回答ぶりから私は上記のごとくの明川氏のご人格を感じ取らせてただき、ファンになったといういきさつである。
実は、私はそれ以前の明川氏をほとんど存じていなかった。“ドリアン助川”の芸名で音楽活動をしていらっしゃったという情報は得ているのだが、実際にその時代の明川氏をほとんど認識していなかった。
そんな折、私が明川氏のファンであることを知った当ブログの読者の方から、明川氏の“ドリアン助川”時代の音楽活動の映像を送信していただいたことがある。その映像を見て、私は少なからずショックを受けた。明川氏のモヒカン頭の外見に…。 音楽を通じて自己主張をされている若かりし頃の明川氏の思いは通じるのだが、その外見には到底受け入れがたいものが私にはあった。(明川さん、ごめんなさい。)
時代は移り変わって、明川氏は現在「創作家」を名乗っていらっしゃる。今の明川氏の多少白髪混じりの優しそうな眼差しの外見には現在の明川氏の人物像が垣間見れて、なかなかの雰囲気なのである。
そんな明川哲也氏が、哲学者の永井均氏、作家のあさのあつこ氏と共に、朝日新聞4月第2週から、毎週金曜夕刊「こころ」のページ「悩みのレッスン」と題したコラムで、若者と共に考えるコラムを展開されるということである。
明川哲也氏の一ファンとしては、見逃せないコラムである。この記事を元に我がブログもまた私論を展開していけそうである。
(決して、私は朝日新聞の“回し者”ではございません。あくまでも明川哲也氏の一ファンとして、今回のブログ記事を綴らせていただいたまでのことです。)
「お気に入り」と「尊敬」とでは意味合いがまったく異なるではないか、との感想をお持ちの方もいらっしゃることと推測する。
私はテレビは滅多に見ない、ネットもあまり検索しない等、普段マスメディアにはほとんど接しない生活をしているという理由により、元々「有名人」と名の付く方々のことをほどんど知らないのだ。もちろん、情報が暴力的に氾濫している今の時代であるから、世間が「有名人」だと騒いでいる人々の名前ぐらいは嫌でも頭の中に侵入してくるのだが、それらの人物の人となりを存じ上げたいと思う程興味をそそられる有名人には、滅多やたらとはお目にかかれるものではない。
一方「尊敬する人物」の方であるが、これとて歴史上の人物を持ち出す程の初々しさもなければ、ましてや、親や恩師や先輩等、身近な存在の人物については普段より覚めた目で観察、分析する習性のある私にとっては元々「尊敬」の対象とはなり得ないのだ。
そんなこんなで、両要素を兼ね備えている人物として白羽の矢が立ったのが「明川哲也氏」なのである。(明川哲也さん、ご迷惑な事とは存じますが、何卒ご容赦下さい。)
なぜ、明川哲也氏なのか。これについては、バックナンバーで再三述べてきているのだが今一度繰り返すと、明川氏は繊細なハートの持ち主でいらっしゃるのに心が大きな人物であると共に、明川氏の思想の根底にすべての人間の人格をまずは認めようとするハート、包容力の大きさを感じさせていただけるためである。加えて、図々しいのではあるが私と思考回路に共通点があるように感じるのだ。
テレビ、ネット等のマスメディアにはほとんど接しない私が、普段、情報収集のよりどころとしているのは新聞である。
私は朝日新聞の長年の愛読者であるのだが、昔から朝日新聞の様々なコラムが好きだ。各方面、分野でご活躍中の方々が執筆されたコラム(特に連載もの)のエッセイを読ませていただくと、その執筆者の人となりを直(じか)に感じさせていただくことができるからである。
明川哲也氏は、朝日新聞朝刊で連載中の「相談室」の回答者として長年読者(?)の相談に対する回答を担当されているのであるが、その回答ぶりから私は上記のごとくの明川氏のご人格を感じ取らせてただき、ファンになったといういきさつである。
実は、私はそれ以前の明川氏をほとんど存じていなかった。“ドリアン助川”の芸名で音楽活動をしていらっしゃったという情報は得ているのだが、実際にその時代の明川氏をほとんど認識していなかった。
そんな折、私が明川氏のファンであることを知った当ブログの読者の方から、明川氏の“ドリアン助川”時代の音楽活動の映像を送信していただいたことがある。その映像を見て、私は少なからずショックを受けた。明川氏のモヒカン頭の外見に…。 音楽を通じて自己主張をされている若かりし頃の明川氏の思いは通じるのだが、その外見には到底受け入れがたいものが私にはあった。(明川さん、ごめんなさい。)
時代は移り変わって、明川氏は現在「創作家」を名乗っていらっしゃる。今の明川氏の多少白髪混じりの優しそうな眼差しの外見には現在の明川氏の人物像が垣間見れて、なかなかの雰囲気なのである。
そんな明川哲也氏が、哲学者の永井均氏、作家のあさのあつこ氏と共に、朝日新聞4月第2週から、毎週金曜夕刊「こころ」のページ「悩みのレッスン」と題したコラムで、若者と共に考えるコラムを展開されるということである。
明川哲也氏の一ファンとしては、見逃せないコラムである。この記事を元に我がブログもまた私論を展開していけそうである。
(決して、私は朝日新聞の“回し者”ではございません。あくまでも明川哲也氏の一ファンとして、今回のブログ記事を綴らせていただいたまでのことです。)