昨年10月から始まったNHK連続テレビ小説「純と愛」は、早いもので放送開始後半年が経過し3月30日の本日最終回を迎えた。
視聴率との“ものさし”で計ると、このドラマは前回の「梅ちゃん先生」あるいはそれより前に放映された「カーネーション」等と比較すると若干その率を下げたようだ。
この半年間、「原左都子エッセイ集」に於いてこのドラマを何度かピックアップしてきた。
放送開始後初期段階の11月3日に、「人間の本性が見える」とのタイトルで取り上げたのが一番最初であった。
その内容を少し振り返りながら、NHKドラマ「純と愛」を復習してみよう。
視聴率を若干下げてはいるものの、原左都子の観点からは前回の「梅ちゃん先生」よりも今回の「純と愛」の方がずっと面白い。
その第一の理由は、「純と愛」はドラマ放映当初より脚本に十分な説得力がある、と捉えられる点だ。 主人公純をはじめ、心にトラウマを持っている愛(いとし)、そして二人の家族や職場の同僚達が何故ドラマ内の言動に出るのかに関して説明力がある故に、違和感なく受け入れることが可能だ。
心に抱えたトラウマ故に「人の本性が鮮明に見えてしまう」現象により、就業困難をはじめ悪行を施した他人にいきなり殴りかかる等不安定要因の大きい愛(いとし)。 主人公純はそんな愛との関係に困惑させられつつも、自分自身が抱えているトラウマとも闘いつつ二人は永遠の愛を誓うまでの関係を築いてく。
現在の世間一般的な人間関係においては「人の本性が見える」あるいは「見えない」云々よりも、世界規模で政治経済及び国際関係が混沌としているこの時代背景下では、老若男女を問わず日々の人との付き合い生活がさしあたり差し障りなく移ろい行く事に重点が置かれるであろう。
それでも今回NHK朝の連続テレビ小説において、愛(いとし)を代表する現代に特異的なキャラを取り上げ、それを受け止めようと苦難するこれまたある程度の特異性がある主人公純との人間関係の兼ね合いを描こうとの、実に困難なドラマ設定にあえて挑戦する姿勢を評価する私だ。
(以上、「原左都子エッセイ集」昨年11月バックナンバーより一部を引用。)
ところが、その後このドラマは私にとってさほどのインパクトがなくなってしまった。
いつものこのドラマシリーズにありきたりの 「絆」 強調バージョンに入ってしまい、人間の心のひだの描き方が雑になった印象がある。
そもそも、大阪のホテルオーサキを経営破綻させるのが早過ぎた。 ドラマ初期の重役面談会場で「社長になる!」と啖呵を切った若気の至りの純を、その目標に向けてもっと努力させるべく丁寧に描くべきだったのに、安直にホテルを破綻させるシナリオ展開には失望させられた。
そしてドラマの舞台が「里や」に移り、ここからNHK連続ドラマお得意の“「絆」の安売り”が始まる…。
その後、「里や」の従業員メンバーがドラマの最後まで純と行動を共にするとのシナリオ設定なのだが、原左都子に言わせてもらうとこれまた嘘臭い。 従業員皆それぞれが心にトラウマを抱えているならば、一人ひとりにその個性に応じた人生があるはずだ。 にもかかわらず、皆が皆純に迎合して「一緒にホテルを運営したい」だと?!? この種の安易なドラマ展開を見せられて感動する程私は純粋ではない。
加えて、主人公純には次々と不幸が押し寄せるストーリー展開と一般視聴者の間では捉えられていたようだが、私に言わせてもらうと純はむしろ幸運に恵まれ過ぎていた。
失望の中「里や」の女将に助けられ、ゆくゆくは「里や」の経営を純に任せるとのドラマ設定など、さほどの能力のない若い女性にとって“ミラクル世界”以外の何ものでもない。 と阿呆らしくなっていたところ、これまた安直に火事に見舞われるシナリオにより純が「社長」として努力する場面が描かれる事なく次なるドラマ展開へと移り行く。
コロコロとドラマを新展開するのではなく、主人公純の成長の程をもっと現実味を持って丹念に描写して欲しかったものだ。
民放の3か月ドラマとは異なり、半年以上の期日をかけて制作できるNHK連ドラであるからこそ、それが可能と原左都子は期待していたのだが……
とまたまた失望していたところ、純には次なるアンビリーバブルなラッキー話が持ち上がる。
今度は出生地宮古島の別荘を持つ「里や」の顧客だった有名デザイナーなる人物が、その別荘を純に提供すると言い出すではないか! どう考えてもあり得ないよなあ……
そこでも台風被害に遭うとのシナリオ設定で最終回を迎えたのだが、これまた純の「社長」に向けて努力する姿を描く事を、制作者は全面放棄したと私は捉えている。
今回のNHK連続テレビ小説「純と愛」は、如何なる視聴者をターゲットとしたのであろうか? 私が推測するに、NHK連ドラとはNHKの視聴者一般である“あらゆる世代の庶民”をそのターゲットとしているのであろうと思う。
そんな中、今回のドラマの特に後半部分は、如何なる世代に標的を絞ろうか難儀したとも想像する。
ここで私事を語らせていただくと、還暦近い原左都子など自分自身が過去に於いて癌に罹患したり、父親や親友を突然死で亡くしたり、今現在も義理姉が末期癌で短い余生を余儀なくされたり等々、不幸の連続である。(ただし、この年齢になるとこれを一言で「不幸」と表現できない複雑さもあるのが事実なのだが…)
人間が年老いるまで歩むべき道程を考察すると、身近な人が突然死に至ったり不治の病に襲われたりすることは特段珍しい事象でもないのだ。
好意に解釈すると、人間が置かれているこのような現実を、若い世代にも少しは認識してもらおうと意図したのが今回のNHKドラマ「純と愛」のテーマだったとも考察できよう。
もちろん未だ若き純にとって、身内の不幸とは壮絶で過酷な試練であろう。 それでもこの現象とは、早かれ遅かれこの世を生きる人間が避けて通れない道程でもあるのは事実だ。
それでも人とは夢と希望を抱いて生きていかねばならない。
本日の最終回で自らの意志を純の口からとうとうと語った事に、やっと安堵させられた思いだ。
いやほんと、心身共に老化段階に入って久しい原左都子も今日純ちゃんが宮古島の海で語った「意思表明」と同じ宣言を脳裏で繰り返しつつ、日々生きているよ!
我が娘の将来に向けた自立の手助けを日夜怠らず、実母と義母の今後に渡る介護課題も滞りなくこなしつつ、さらには純ちゃんの夢である「社長になる!」との意向とは少し異なるものの、思いは同じで自分自身の自己実現にも生涯を通して精進したいものであるぞ。
視聴率との“ものさし”で計ると、このドラマは前回の「梅ちゃん先生」あるいはそれより前に放映された「カーネーション」等と比較すると若干その率を下げたようだ。
この半年間、「原左都子エッセイ集」に於いてこのドラマを何度かピックアップしてきた。
放送開始後初期段階の11月3日に、「人間の本性が見える」とのタイトルで取り上げたのが一番最初であった。
その内容を少し振り返りながら、NHKドラマ「純と愛」を復習してみよう。
視聴率を若干下げてはいるものの、原左都子の観点からは前回の「梅ちゃん先生」よりも今回の「純と愛」の方がずっと面白い。
その第一の理由は、「純と愛」はドラマ放映当初より脚本に十分な説得力がある、と捉えられる点だ。 主人公純をはじめ、心にトラウマを持っている愛(いとし)、そして二人の家族や職場の同僚達が何故ドラマ内の言動に出るのかに関して説明力がある故に、違和感なく受け入れることが可能だ。
心に抱えたトラウマ故に「人の本性が鮮明に見えてしまう」現象により、就業困難をはじめ悪行を施した他人にいきなり殴りかかる等不安定要因の大きい愛(いとし)。 主人公純はそんな愛との関係に困惑させられつつも、自分自身が抱えているトラウマとも闘いつつ二人は永遠の愛を誓うまでの関係を築いてく。
現在の世間一般的な人間関係においては「人の本性が見える」あるいは「見えない」云々よりも、世界規模で政治経済及び国際関係が混沌としているこの時代背景下では、老若男女を問わず日々の人との付き合い生活がさしあたり差し障りなく移ろい行く事に重点が置かれるであろう。
それでも今回NHK朝の連続テレビ小説において、愛(いとし)を代表する現代に特異的なキャラを取り上げ、それを受け止めようと苦難するこれまたある程度の特異性がある主人公純との人間関係の兼ね合いを描こうとの、実に困難なドラマ設定にあえて挑戦する姿勢を評価する私だ。
(以上、「原左都子エッセイ集」昨年11月バックナンバーより一部を引用。)
ところが、その後このドラマは私にとってさほどのインパクトがなくなってしまった。
いつものこのドラマシリーズにありきたりの 「絆」 強調バージョンに入ってしまい、人間の心のひだの描き方が雑になった印象がある。
そもそも、大阪のホテルオーサキを経営破綻させるのが早過ぎた。 ドラマ初期の重役面談会場で「社長になる!」と啖呵を切った若気の至りの純を、その目標に向けてもっと努力させるべく丁寧に描くべきだったのに、安直にホテルを破綻させるシナリオ展開には失望させられた。
そしてドラマの舞台が「里や」に移り、ここからNHK連続ドラマお得意の“「絆」の安売り”が始まる…。
その後、「里や」の従業員メンバーがドラマの最後まで純と行動を共にするとのシナリオ設定なのだが、原左都子に言わせてもらうとこれまた嘘臭い。 従業員皆それぞれが心にトラウマを抱えているならば、一人ひとりにその個性に応じた人生があるはずだ。 にもかかわらず、皆が皆純に迎合して「一緒にホテルを運営したい」だと?!? この種の安易なドラマ展開を見せられて感動する程私は純粋ではない。
加えて、主人公純には次々と不幸が押し寄せるストーリー展開と一般視聴者の間では捉えられていたようだが、私に言わせてもらうと純はむしろ幸運に恵まれ過ぎていた。
失望の中「里や」の女将に助けられ、ゆくゆくは「里や」の経営を純に任せるとのドラマ設定など、さほどの能力のない若い女性にとって“ミラクル世界”以外の何ものでもない。 と阿呆らしくなっていたところ、これまた安直に火事に見舞われるシナリオにより純が「社長」として努力する場面が描かれる事なく次なるドラマ展開へと移り行く。
コロコロとドラマを新展開するのではなく、主人公純の成長の程をもっと現実味を持って丹念に描写して欲しかったものだ。
民放の3か月ドラマとは異なり、半年以上の期日をかけて制作できるNHK連ドラであるからこそ、それが可能と原左都子は期待していたのだが……
とまたまた失望していたところ、純には次なるアンビリーバブルなラッキー話が持ち上がる。
今度は出生地宮古島の別荘を持つ「里や」の顧客だった有名デザイナーなる人物が、その別荘を純に提供すると言い出すではないか! どう考えてもあり得ないよなあ……
そこでも台風被害に遭うとのシナリオ設定で最終回を迎えたのだが、これまた純の「社長」に向けて努力する姿を描く事を、制作者は全面放棄したと私は捉えている。
今回のNHK連続テレビ小説「純と愛」は、如何なる視聴者をターゲットとしたのであろうか? 私が推測するに、NHK連ドラとはNHKの視聴者一般である“あらゆる世代の庶民”をそのターゲットとしているのであろうと思う。
そんな中、今回のドラマの特に後半部分は、如何なる世代に標的を絞ろうか難儀したとも想像する。
ここで私事を語らせていただくと、還暦近い原左都子など自分自身が過去に於いて癌に罹患したり、父親や親友を突然死で亡くしたり、今現在も義理姉が末期癌で短い余生を余儀なくされたり等々、不幸の連続である。(ただし、この年齢になるとこれを一言で「不幸」と表現できない複雑さもあるのが事実なのだが…)
人間が年老いるまで歩むべき道程を考察すると、身近な人が突然死に至ったり不治の病に襲われたりすることは特段珍しい事象でもないのだ。
好意に解釈すると、人間が置かれているこのような現実を、若い世代にも少しは認識してもらおうと意図したのが今回のNHKドラマ「純と愛」のテーマだったとも考察できよう。
もちろん未だ若き純にとって、身内の不幸とは壮絶で過酷な試練であろう。 それでもこの現象とは、早かれ遅かれこの世を生きる人間が避けて通れない道程でもあるのは事実だ。
それでも人とは夢と希望を抱いて生きていかねばならない。
本日の最終回で自らの意志を純の口からとうとうと語った事に、やっと安堵させられた思いだ。
いやほんと、心身共に老化段階に入って久しい原左都子も今日純ちゃんが宮古島の海で語った「意思表明」と同じ宣言を脳裏で繰り返しつつ、日々生きているよ!
我が娘の将来に向けた自立の手助けを日夜怠らず、実母と義母の今後に渡る介護課題も滞りなくこなしつつ、さらには純ちゃんの夢である「社長になる!」との意向とは少し異なるものの、思いは同じで自分自身の自己実現にも生涯を通して精進したいものであるぞ。