原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

健康の基準と死生観

2009年03月31日 | 医学・医療・介護
 先だっての飲み会の席で、私がいつも“元気”であることが話題となった。
 元々飲兵衛の私であるが、相も変わらず以前と同じ早いピッチで私が大酒を食らっているのを見て、呆れ半分の周囲の皆さんの感想なのであろう。


 人間は年齢を重ねてくると、誰しも大抵は体のどこかに不調を抱えるようになるのが通常だ。そして、不調を感じた大抵の人は病院を訪れてその不調を医師に訴える。そうすると必ずや種々の検査を行い、その症状に応じた何らかの薬を処方するという現在の検査漬け、薬漬けの医療システムの下、皆さんは医師よりその処方された薬を素直に飲んでいるのが現状なのであろう。

 この私とて決して完全無欠な健康体と言うには程遠く、私なりに体の随所に違和感を憶えることはしょっちゅうである。
 ところが、当ブログのバックナンバー「私は病院へ行かない」で既述した通り、私は滅多な事では病院へ行かない。従って薬を処方される事もないため薬も飲まない。付け加えると私は健康診断も受けない主義であるため、検査結果の「異常値」を押し付けられて不必要に落ち込むこともない。
 病院も行かず、薬も飲まず、健診も受けずにそこそこ普通に生きて、大酒を食らって尚かつ心身共にへこたれない私は、周囲から見ると至って“元気”そうに映るのであろうと察する。

 健康診断に関して詳述すると、最後に受けたのが今から6年前のことである。職場に所属している場合健診は強制受診であるため、それまではほぼ毎年やむを得ず受診していた。職場を去った後は現在に至るまで一切受診していない。
 (善良な市民の皆さんには決して真似はしないでいただきたいのだが。)

 
 私が病院受診、投薬、健診等の医療行為を一貫して避けて生きている理由の詳細については、バックナンバー「私は病院へ行かない」をご参照いただきたい。
 ここで再度簡単にまとめるならば、私の場合、医学関係の仕事に携わっていた経験があるため、ある程度(あくまでも“ある程度”の範囲内だが)の医学的知識があることが第一の理由である。 また、医療行為が人体にもたらす弊害(例えば薬の副作用等)や、診断名や検査結果の異常値を患者に明示することにより患者に与える精神的苦痛の弊害、等々を重々承知していることも理由のひとつである。

 自然治癒で完治する病気であるならば、それに越した事はないと考えている。
 確かに最近の記事で綴った通り「“痛み”は痛い」ものであるため、病気による“痛み”を和らげることは現代医療の重要課題ではあろう。ところが、投薬とは悲しいかな必ずや副作用という危険性を伴う。検査とて苦痛や体の犠牲を伴う。
 それを承知の上で、医療行為なくして生命がつながらないような難病の場合は、その恩恵を受けるしかない。この私でさえも、癌に罹患したと直感した際には医療機関を受診し、その摘出手術を受けた事については当ブログで幾度か既述している。

 ところが私が周囲を観察して感じるのは、相当賢明そうな人物にして安易に医療に頼り過ぎている世間の実態である。 私の観察によると、少し安静にしていれば解決しそうな場合でも、体の少しの違和感で直ぐに病院を受診している人が数多い現実のようだ。自分の健康を守っていくことは人間としての義務ではあるのだが、あまりにも安直に病院受診していることに首をかしげざるを得ない現状である。
 その結果として薬や検査の副作用に苦しみ、それらの副作用が作り出した新たな病気から脱出できずに長年苦しみ、生活の質を低下させている人々が多い世の実態も目の当たりにしている。


 安直な医療機関受診の背景には、個々人の死生観の課題もあろう。
 「死生観」と言うほどの大袈裟な哲学は、現在子育て真っ最中の私にはまだ縁のない話ではある。 だが、もしも我が身が不治の病で死を迎えるならば、延命治療などに頼らずにそれを自然な形で受け入れたい程度の思いはこの私にも既にあるのだ。そういった観点から私は下手にみっともない“命乞い”などしたいとは決して思わない。こういう思いが源泉となり、私は病院にも行かず投薬も避け、健診さえも敬遠するという行為につながっている訳である。

 子育て中の母親とは、子どものために生き抜く覚悟が必要である。我が子の場合、前回と前々回の記事で綴った通りの特殊な事情を抱えていることもあり、私は我が子の自立を見届けるまでは生き抜かねばならないことも、重々承知しているつもりだ。

 このような私を取り巻く現実の厳しさが、医療機関の受診を敬遠している私に確かな生命力を与えてくれて、周囲から“元気者”とのうれしい評判をいただけるものと確信するのである。

 人間とは安泰な人生を送るよりも、苦難な状況にあってその中で希望を抱くべく対処する生き方を貫く方が、むしろ長く充実した人生をもたらしてくれるような実感が私には既にあるのだ。 
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存在自体が迷惑??

2009年03月29日 | 教育・学校
 今回の記事は、前回の「We can graduate!」の続編のような形になるのだが、事情を抱えて生まれてきた子どもを持つ親の苦労は、日頃のケアや教育においてのみではない。
 子どもが持つ“事情”に対する周囲からの誤解や無理解に苦しめられる日々なのである。
 一般人からの誤解、無理解に関してはある程度やむを得ないものと、元より諦め半分である。これに対し、子どもをその道のプロとしての立場からケアし自立へと導くべく専門職である教育関係者や医学関係者等からの誤解、無理解は保護者にとって耐え難いものがある。

 今回の記事においては、その種の専門家からの度重なる誤解、無理解を耐え忍んだ我が子育ての歴史の一部について振り返ることにする。


 子どもの小学校入学前に我が家が「就学相談」に臨んだことについては前記事でも公開したが、この「就学相談」における教育委員会の担当者の発言内容を取り上げてみよう。

 前回の記事において既述した通り、我が子の場合、6歳時点までの家庭におけるケアが功を奏したのか、表向き(あくまでも表向きであるが)は事情を抱えていることに気付かれない程度にまで成長を遂げてくれていた。
 だが残念なことに、生まれ持っての“事情”とは本人がどれ程努力をしても完全に克服できるという性質のものではない。その辺の事情を、親としてはあらかじめできるだけ正確に教育委員会を通して今後お世話になる学校へ伝えておくべきだと考えたことが主たる理由で、入学前に「就学相談」に臨んだとも言える。
 医学関係の職業経験があり元教育者でもある私は、生後6年間の子どもの生育状況に関する医学的教育学的な科学的データと共に、6年間で私自身が培ってきた子どもの持つ事情に関しての専門的、学術的なバックグラウンドについて担当者に分かり易く説明しつつ、我が子の生育暦に関する私見を伝えようとした。
 ところが、定年を目前にしている教員経験もある女性の担当者は、私の話にはまったく耳をかさず、持参した子どもに関するデータ等の資料を見ようともしない。
 そしてその担当者は持論を述べ始めた。

 「障害児は障害児なんですよ。これは誰が見てもわかります。あなたの子どもさんは“普通の子”です。お母さんが勘違いしているだけで、この子には障害なんてありませよ。むしろ今時こんな“いい子”は珍しいくらいで、この子は十分に普通学級でやっていけます。」
 (親の私だって我が子は“いい子”だと思っている。出産時のトラブルさえなければ、もしかしたらこの子は非の打ち所がない程の“お利口さん”だったかもしれないとも思う。だた、それを思うと無念さが募るだけだ。現実を見つめて生きなければ親の役割は果たせないのに…)

 そして、担当者はこう続ける。
 「あなたの子どもさんは障害児ではないから言いますけど、今時の母親はなまじっか“学”があるばかりに、その“学”をひけらかして屁理屈を並べる事に一生懸命になっている。障害児とは『存在自体が迷惑』なんですよ。そんな障害児を自分が産んでおきながら偉そうにしていないで、社会に対して頭を下げるべきだ。障害のある我が子の人権を学校に尊重して欲しいのであれば、母親としてまずやるべきことは、入学する学校に頭を下げることだ。PTAの親御さん達に対して、“我が子が入学することで皆さんの子どもさんの足を引っ張って申し訳ない”と頭を下げるべきだ。」

 あなたに言われなくとも、そうしてきている。 特に幼少の頃程周囲に迷惑がかかるので、母の私はどこへ行っても頭を下げる毎日だった。幼稚園でも公共の場のどこでも「申し訳ございません。」の連続だった。家では人の何倍もの手間暇かけて育て、外では頭を下げてばかりの過酷なほどにストレスフルな日々だった。

 そんな過酷さの中にあっても、親とは子どもの成長を願いたい生き物なのだ。それ故に、愛情はもちろんのこと、今の時代は科学的専門的な理解は欠かせない。めくら滅法ケアをするよりも、専門的バックグラウンドに基づいてケアを行っていく方が高い効果が早く得られ、子どもの早期の自立に繋がるのだ。
 だからそこ、公開したくもないプライバシーをあえて公開して「就学相談」に臨んでいるのに、教育委員会がこれ程の野蛮とも言える低レベル状態では話にならないどころか、傷を深められただけの面談に終わった。

 「障害児は存在自体が迷惑だ。」
 そう言い切った担当者を擁する教育委員会が管轄する小学校に入学させる事は、我が子を谷に突き落とすよりも残酷なことのように思えた。4月の入学までの短期間で、小学校入学を取り止める手段を本気で模索したものである。


 こうやって打ちひしがれた思いで、義務教育であるためやむを得ず公立小学校へ入学させた我が子であるが、スタート時点の1、2年生時の担任の先生に恵まれ正しい理解が得られたこともあり、我が子はさらに成長を遂げていくことになる。

 そして何よりも我が子の場合、生来の素直さ忍耐強さと共に、サリバン先生(私のことであるが)の厳しい教育の成果もあるのか、公共心や年齢相応の倫理観を備えた礼儀正しい子どもに育ってくれている。
 そういった子ども本人のプラスの持ち味が幸いして、我が子は今後も将来の自立に向けてさらなる成長を遂げ続けてくれることであろう。 
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We can graduate!

2009年03月26日 | 教育・学校
 長い道程だった。

 一昨日、我が子が中学校を卒業した。
 義務教育の9年間は、我々親子にとって実に長い道程だった。

 一昨日の卒業式において、学校長が述べられた祝辞の中の一節が印象的である。
 「“義務教育”の正しい意味をご存知でしょうか? 子どもが学校に通って勉強をする義務があると勘違いしている親御さんが多いようだが、正しくは、親(保護者)が子どもを学校に通わせて学習に精進させる義務がある、という意味です。子どもの立場から言うと、学校へ通って学習をする“権利”がある、ということです。」


 我が親子の義務教育の9年間は、まるで“ヘレン・ケラーとサリバン先生”のごとくの親子関係だった。まさに、子どもの学ぶ“権利”を最大限保障してやりたいがための、親としての“義務”との格闘の9年間だったと言える。

 当ブログのバックナンバー「医師の過失責任」において既述しているが、出産時のトラブルにより仮死状態で生まれざるを得なかった我が子は、多少の事情を抱えての誕生だった。(当ブログにおいては、プライバシー保護の観点より我が子が抱えている事情に関して、一貫して詳細の記述を避けているのだが。)

 今回は「学習」に的を絞って、我々親子が歩んだ道程を少しだけ紹介することにしよう。 

 ケアは早期から着手するほど効果が高いとのことで、子どもが3歳時より親子で某教育研究所に通いつつ、家庭では“ヘレン・ケラーとサリバン先生”のごとくの娘に対する私の本格的な「教育」が早くも始まった。
 我が子は“見よう見まねで育つ”という部分において多少の困難があり、すべての事柄を手取り足取り教え込む必要があった。 一例であるが、“スプーンを口に運んで食する”という行動が見よう見まねで出来ない。これを、まずスプーンを手に持つ動作、食べ物をすくい取る動作、それを口まで運ぶ動作、口の中へ入れる動作、等々、一動作毎に分解して段階を経つつ、時間をかけて学習できるように導くのだ。
 生活上のほぼすべての行為に関して、上記のような懇切丁寧な指導を必要とした。何事の習得においても、おそらく人の10倍以上の時間を要した。

 小学校へ入る直前に学校は保護者を対象に説明会を開催するが、その時点で「自分の名前を“ひらがな”で書けるようにしておいて下さい」との指示がある。誰だってそれくらいのことは出来るに決まっている、とお考えの方が多いのであろうが、世の中には自分の名前をひらがなで書かせることに手取り足取りの指導を要して、何年もかかる子どもも存在するのだ。 現在では公教育においても様々な障害児の存在を認識、理解しつつあり、対応に柔軟性を持たせている様子であることに私も少しは安堵している。
 我が家の場合、某教育研究所を通して既にその情報は得ており、小学校入学時に名前をひらがなで書けるようになるための段階を経た学習(相手は幼児であるため、当然ながら何事の習得においてもお遊び感覚で楽しみながらの学習の形を取るのだか)を3歳時から開始している。線を引くことから開始し3年間かけて、入学までに何とか間に合ったというのが実情である。
 (我が家は子どもの小学校入学時点で“就学相談”を受けている。上記のような家庭での苦労を露知らない教育委員会の担当者が、「この子は普通学級で十分大丈夫ですよ」と無責任に言い放った“無知さ加減”が今尚私は印象的でもある。お陰で普通学級に入学できて、胸を撫で下ろした我が家でもあるのだが…)

 小学校入学後は子どもの学習机をリビングにおいて、学校での学習の復習を来る日も来る日も私が付きっ切りで行い、確実な学習内容の理解に努めさせた。義務教育段階で学習に遅れをとったのでは、その先々の自立が危ぶまれるためである。低学年の頃は、国算社理4教科のみならず音楽や体育等の復習まで付き合った。(どういう訳か図工と家庭科の実技に関しては本人が興味を示し、下手で時間はかかるのだが独力で成し遂げてくれた。)さすがに高学年以降はそこまでの時間が取れず、4教科の復習のみとなったのだが。

 中学校進学段階で我が家が私立の中高一貫校を志望したのは、高校受験における私の指導の負担を回避するためというのが、実は本音の理由である。
 進学した中学校が学習指導力のある学校だったため、そのお陰で家庭学習における私の負担は大幅に軽減した。それでも、中学2年の半ば頃までは、国数英の3教科に関してはやはり私がそのすべてに目を通した。
 我が子の場合、天性の素直さと相当の努力家であることが学習能力の向上に大きく幸いしたようだ。加えて幼少の頃からの親子二人三脚での学習への取り組みにより、娘には学習習慣が確実に身に付いている。中2の半ば以降は本人の学習意欲を尊重し、私は子どもの家庭学習から一歩退き、子どもの疑問質問にのみ答える方針に切り替えて現在に至っている。

 以上のように、私も共に学んだ9年間だった。
 私は人生において2度、義務教育の学習をしたような感覚である。いや、自分で学ぶことは容易であるが、人に指導する事とは自分が学ぶ何倍ものエネルギーと忍耐力を要するものだ。
 底辺高校(失礼な表現をお詫びしますが)での教員経験のある私ですら、我が子の指導は特に小さい頃程難儀を極めた。堪忍袋の緒が切れて娘に手を上げたことも何度もある。自己嫌悪から泣けてしょうがなかったものだ。子どもが泣く横で私も大いに泣いた。親子二人でどれ程の涙を流してきたことであろう。
 そんな娘も、上記のごとくの持って生まれた素直さと忍耐力の賜物で、学習面においては何ら見劣りがしない程の学習能力を身につけての中学卒業である。
 もしかしたら、我が子ほど9年間に渡り弛まぬ努力を続けた小中学生は他に類を見ないかもしれない。


 “学ぶ権利”と“学ばせる義務”。 ふたつの力の二人三脚で、我が子の「学び」に対して真っ向から立ち向かった我が家における義務教育の9年間だった。

 心から、卒業おめでとう。

 We can graduate!  
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「痛み」が痛い…

2009年03月22日 | 医学・医療・介護
 今朝から続く春の嵐のごとくの大荒れの天空を室内から眺めつつ、どうも私の体調も変調を来たしている模様だ。
 今回のような体調不良感はちょっと今までに経験がないのだが、腰痛を中心に手足の若干のしびれ感と頭痛と共に、全身がだるい。熱の出始めかと推測して検温してみると、36,9度。これから上昇するのであろうか? 明日は出かける予定があるし、明後日は娘の中学の卒業式のため何が何でも出席せねばならない。こんな何年かに一度の親としての役割を果たすべく大事な時に限って、嫌な体調不良感である。
 先々週より娘の海外旅行の準備作業や、成田への送り迎え等で疲労が蓄積していることには間違いない。(いや? “成田で外来性の感染症でももらって来たか??”と私がつぶやくと、“それはないだろう”との家族の意見であるが…。)
 ならば今日はブログなんぞ更新している場合ではなくて、安静にして休息すればよさそうなものだが、今日ブログを更新しておかないと後3日先まで更新できないため、どうしても更新を強行したい杓子定規で融通の利かない頑固者の私の性分なのだ。
 ただ、何かに集中している方が気が紛れるという理由もある。(そう言えば、先程からパソコンに向かって以降、少し体が楽になってきたような気もするぞ。♪)


 本日のテーマはこういう体調不良時にピッタリなのであるが、人間とは「痛み」に対する抵抗力の弱い生き物であるという話題を取り上げることにしよう。

 今から13年程前にこの私も癌に罹患して、癌及び周辺組織の摘出手術を受けた事に関しては、本ブログのバックナンバー「癌は突然やって来る」等において既述している。
 私の場合は体の表面に出没した癌であったため、恐らくその“出来物”が癌化した後の発見が早く、「痛み」などまったくない状態での病院受診だった。そのため私本人の体調がすこぶる良い状態での摘出手術だったためか、術後の経過は順調で、私は入院中も至ってピンピンしていた。娘がまだ1歳だったこともあり、早く退院して育児をしなければ!の思いばかりが強かった。
 「癌」であることに多少感傷的になったのは、大学病院での組織診の検査結果を受けて直ちに再度病院を受診することを促す担当医からの電話を、自ら受けた時のみである。医学関係の職業経験がある私はすぐさま「癌」である事を悟ったものの、その翌日は冷静にひとりで病院へ向かったものである。

 そんな私も、癌摘出手術成功後に主治医から抗癌剤治療を告げられた時には、多少パニックに陥り、主治医に対して大いに反論したものである。
 なぜ私が反論したかの詳細はついては、バックナンバー「癌は突然やって来る」をご参照いただきたいのだが、ここで簡単に述べると、当時の抗癌剤は癌攻撃特異性が低かったのに加えて、何よりも患者にとって“「痛み」は痛い”からであった。

 抗癌剤治療とは副作用が強く体力の激しい消耗を伴うことについては、今や周知の事実である。これは癌患者の体にとって大打撃である。こんな治療をしていたのでは、私は我が子への育児を大幅に先延ばしにせざるを得ない。(当時の抗癌剤は癌特異力があるものが少なかったため、大変失礼な言い方をすれば、医師が“めくら滅法”投与をしているのを承知していたが故に、私は抗癌剤治療を難く拒否したものである。)
 だが一患者の立場からの拒否も程ほどにしないことには医師団に嫌われてしまい、私自身の入院生活そのものが危ぶまれると、私は判断せざるを得ない。そのように悟りを開いた私は、不本意ながら「抗癌剤治療」を受け入れることにした。
 それまで至って元気で快方に向かっていた私の体が、抗癌剤により大打撃を受けることになる。毎晩、毎晩、抗癌剤投与による発熱を繰り返し、私の体はどんどん弱っていく…。
 こうなると、気丈なこの私も本当の「病人」に成り下がっていくのが怖いのである。子どもを育てていた母親としての自負さえどこかに消え失せていく。お見舞いに来てくれる人への対応も苦痛でしかない。もう会いたくもないから来ないで欲しい…。このように、どんどん本来の私らしさ、どころか、人間らしささえも失っていく思いだ…。
 それでも、ラッキーな事に私が主張した“1週間限定”の抗癌剤治療の約束を医師団は守ってくれて、私は晴れて退院となる。


 私はNHKの長年続いている女性が主人公の15分ドラマを、自宅にいる時にはいつも見ている。あのドラマは何十年か前よりパターンが決まっていて、必ず一家3世代が登場する。そしてこれも定番のごとく、主役女性のおじいちゃんかおばあちゃんにあたる人物が物語の途中で死去するのだ。
 お年寄りとて人生をエンジョイしているこの時代に、あのドラマは何故年寄りをいつもいつも死去させるのかと私は大いに疑問に感じていた。 そうしたところ、今回は癌に罹患したおばあちゃんが、(今までのところ)「抗癌剤」によって生き延びるという設定になっているのに驚いたものだ。そんなに医学が進歩しているのかどうかは私は現在勉強不足の身ではあるが、年寄りを直ぐに死なせるドラマ設定はもう時代遅れであろうと感じるため、その点においては今回は評価したい。

 だが、そのドラマの“おばあちゃん”も、「抗癌剤治療は辛過ぎるから、もう勘弁してごしなえ(欲しい)…」と何度も訴えていたことが、元癌患者である私の身に滲みるのである…。
 (新薬の抗癌剤治療をあくまでも勧める若い医者や看護婦に、どれだけの患者の苦痛が伝わっているのか、その辺のドラマの描き方が大いに物足りないという気持ちが拭い去れない思いである…)

 
 経験者でないと理解し難いのかもしれないが、「痛み」とは人間が生きていく上で実に「痛い]ものである。この「痛み」さえなければ、たとえまた癌に罹患しようともいつまでもしぶとく生き延びられるようにさえ、気丈な私は思うのである。
      
 まだまだ先のことであろうが、患者の「痛み」を軽減しつつ、尚かつ生存できるような医学的治療手段の開発を望みたいものである。
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成田空港往復リムジンの旅

2009年03月20日 | 時事論評
 今回は私自身が海外へ旅立った訳ではないのだが、中学生の娘の海外研修旅行の送迎のため、先週と昨日、成田空港まで2往復するはめとなった。
 都心から成田空港までの主たる交通手段は、JR東日本の特急列車“成田エキスプレス”かリムジンバスが代表的であろうが、今回は2往復共、リムジンバスを利用した。

 リムジンバスの長所は、予約が簡単であること、そして成田空港での到着場所が空港ターミナル出発ロビーの入り口であるため、空港到着後航空機のチェックインまでの時間が短くて済むことであろう。加えて料金面でも現在はリムジンバスの方が若干安価のようだ。

 とは言え、我が家の最寄のターミナル駅近くのリムジンバス乗り場から乗車の場合、成田空港まで片道¥3,000-である。
 今回、娘本人の往復も含めて成田空港まで親子3往復で合計¥18,000-也。
 ゆうに近場へ1泊旅行ぐらいに出かけられる料金だ。はやり、日本の主要な国際空港である成田空港の都心からの遠さを実感せざるを得ない。

 今回の記事では、この片道¥3,000-の成田空港までのリムジンバス送迎の旅に皆さんをご案内することにしよう。


 私が利用したリムジンバスは某ホテル出発便で、途中もう一つの某ホテルに立ち寄り成田へ向かうコースであるためか、日本人よりも外国人の利用者が多いようだ。特に目立つのが東洋系外国人である。近年、中国、韓国はじめ東南アジア系のニューリッチ族の日本への旅行客が急増しているが、その中で個人旅行の場合は成田空港までリムジンを利用する海外旅行客も多いのであろう。

 
 昨日の成田空港からの帰り便では、英語圏の10名ほどの旅行グループと、南米系(?)と思われる母と幼児の二人連れが我々のすぐ近くの席に座った。
 英語圏グループの英語での会話が座席の周囲ではずむ中、南米系の親子のおそらく日本人とのハーフと思しき3歳位の男の子が明瞭な日本語で「パパの所へ行きたい!」と、南米系の母親に駄々をこね始めた。
 (余談であるが、この母親が長身でグラマラスで美人でとにかくカッコいい!)この美人ママが南米系(?)言語と片言の日本語で子どもをあやすのだが、男の子の駄々は止まらずリムジン内に響き渡る。 「パパの所へ行きたい。イタバシのおじいちゃんに会いたい。おばあちゃんにも…」子どもは母親に訴え続ける。
 私の推測では、おそらくこの南米系親子はこれから板橋区に住む父親の所へ向かっているものと思われる。リムジンが到着すればもうすぐ日本人のパパやその家族に会えるのであろうが、まだ男の子は幼いため、パパに会いたいはやる気持ちを抑え切れないのだろう。
 美人ママは南米系の歌を親子で歌ったりして幼児のご機嫌をとり続けるのだが、男の子の気持ちはどうしてもパパに向かい続ける。「パパの所へ行きたい…」やはり訴えは止まらない。
 (早くリムジンが到着して、パパに会えるといいね…。)


 ところが、こういう時に限って都心に向かうほど高速道路は渋滞している。
 そうなのだ。リムジンの最大の難点は道路渋滞にはまることである。 リムジンの所要時間は私が利用しているコースの場合一応2時間となっているが、渋滞にはまらなければ約1時間20分程で到着する。これはJRの“成田エキスプレス”よりも速い!(だが、時間的不確実性を嫌う人にはリムジンは不向きであろう。)

 成田空港から都心へ向かう帰りのコースの場合、早い時には東京ディズニーランドのある舞浜を過ぎた頃から渋滞にはまり始める。昨日我々親子が乗った便は3連休の前日の夕刻便だったためか、まんまと渋滞にはまってしまった…  到着地まで距離的には近いのに、ここからが長丁場である。
 「飯田橋まで35分の渋滞」との、道路の電光掲示板の表示。(う~~ん、リムジンの到着まではまだまだだなあ…)


 こういう時には、首都のビル群の夜景でも楽しむしかない。
 おそらく、不況が続く近年はイルミネーションが激減しているのであろうが、それでも3連休前夜のビル群の窓また窓から明かりが漏れ、中で働く人々の姿を映し出している。大都会東京を実感する風景である。

 私が上京した頃には、超高層ビルというと「霞ヶ関ビル」か「京王プラザホテル」位しかなかったのに、今や首都高速の両壁には超高層ビル群が延々とひしめいている。その“企業名”を誇示したビルまたビルをリムジンの車窓から眺めていると、世の中が本当に経済危機であることの感覚すらあやふやになってしまいそうだ。世の中の経済的格差矛盾を実感させられるような、大都会の現実か虚像かの判断がつかないような風景を目の当たりにさせられる思いである。


 さて、渋滞のため2時間10分を要した成田空港からのリムジンバスの旅もそろそろ到着である。
 国際関係の一端を担うリムジンバスの旅で、私は今回も幾つかのドラマを垣間見せてもらえた。
 南米系のハーフの坊やは、もうすぐパパに会えるかな???   
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