原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

我が子がこの子でよかった、とつくづく思う…

2018年07月31日 | 人間関係
 我が最愛の娘が、ここのところ体調を崩している。

 出産時のトラブルにより多少の不具合を抱えて産まれざるを得なかった我が子は、幼少の頃より“奇病”のデパートだった。

 一番手こずったのが「不明熱」だ。
 幼稚園卒園頃から中学1年まで、定期的に発病した。 特に小学校低学年の頃はその発病頻度が高く、2週間毎に高熱(41℃程度)を繰り返した。 娘の場合、解熱するまで3日間と短く(参考だが当時の小児医学では不明熱は5日以上の発熱と定義されていたようだが)、4日目からはケロリと平熱に戻るのが特徴だったため、学校からは「仮病」を疑われたりもして保護者としては実に難儀させられた。
 
 「抜毛性脱毛症」も小6時に罹患し、現在も一部所にて続行中だ。
 これにも困惑させられた。 脱毛部位が眉と前頭部のため、どうしても外見的に目立ってしまう。 前頭部に関してはヘアスタイルでカバーしたが、眉に関しては皮膚科医の指示により眉墨でカバーした。
 これに関し、私立中学在校中に「指導」を受けるはめとなったのだ。 “化粧は一切禁止!”と容赦ない。
 本人に説明能力が未だ無かったため、保護者の私がそれに代わって学校側へ説明をした。 それを文書にて実行しつつ、本人も保護者もその病に罹患している事自体に苦しめられているのに、その苦しみに上塗りをする学校の指導が実にやるせなかったものだ。 

 「側彎症」の定期受診にも何年間か同行した。 
 ただ、これは本人が持って生まれた奇病というよりも、DNAによるものだ。 私も実母(娘にとっては祖母)も側彎症である故に、そのように判断している。

 そして、「アレルギー体質」。
 まあこれもDNAによるのだが、娘のその体質は私よりもずっと重症だ。
 今回娘が体調を崩しているのは、この「アレルギー体質」によるものと判断している。 小6時と中2(だったか?)に同じ症状を訴えて病院へ連れて行ったものだ。


 ここから、大幅に話題を変えよう。

 昨日の我がエッセイ集 popular entries の上位に、2008.08.29公開バックナンバー 「人間は『明るく』あるべきか?」 がエントリーしていた。
 2008年8月と言えば、当エッセイ集公開後わずか1年に満たない頃に公開したエッセイだ。
 このエッセイに我が娘が抱えている事情の一部を取り上げたのだが、今現在母親の立場で読み返しても実に感慨深いため、手前味噌ながら以下に今一度繰り返させていただこう。

 自宅での昼食時間に、NHKの天気予報とニュースを見る流れで連続テレビ小説を見ているが、このドラマに最近「境野涼子さん」という役名の中1の少女が登場している。
 この「境野さん」の持つ雰囲気が、我が家の中学生の娘に瓜二つなのだ。 とても他人とは思えない私は「境野さん」の母になった心境で、毎日行く末を見守っている。
 「境野さん」は、寡黙で引っ込み思案で自己表現が下手なところがあるため、周囲から“暗い”イメージを持たれている、との設定だ。 この“暗い”「境野さん」を何とか“明るく”しようと(私に言わせてもらうと“余計な”)お節介をブラウン管の中で周囲が焼いている最中だ。
 主人公の「瞳」はヒップホップダンスを習っているのだが、中学校のダンス校友会で「境野さん」ら女子中学生のダンス指導をすることになる。 そのダンス指導を通じて「境野さん」は少しずつ“明るく”なっていくというような、よくある陳腐なパターンのドラマの流れである。
 ここで、どうしても私は「待った!」をかけたい。
 「境野さん」は“明るく”ならなければいけなのか? そもそも「境野さん」は“暗い”のか??  私の目には当初登場した時消え入りそうな小さい声で「(愛読書は)ドストエフスキー…」と答えた時のそのままで、「境野さん」は十分過ぎる位いいお嬢さんであったのだが…。
 「境野さん」風の我が子を持つ親としては、軽はずみなドラマ造りは勘弁願いたいものである。
 学校等の集団内において、個性を尊重するどころか、小さい頃から「境野さん」同様に寡黙さや自己表現の下手さを一方的に指摘され続けている娘を持つ親としては、他者の性格や特質に関する軽はずみでひとりよがりの判断や誤解のなきよう、周囲にもう少し冷静な思考を望みたいところである。
 では、少し分析してみよう。
 まず“明るい”とは一体何であるのか。
 結論を先に言うと、これは他者の価値基準による主観的な虚像である。
 “明るい”とはすなわち、受け手としての自分に対して笑顔を振りまいて欲しい、楽しくさせて欲しい、あるいは気分が高揚するような情報を与えて欲しい。 少し前進して、できれば楽しいひと時を共有したい。 そういう個人的欲求を満たしてくれるような相手の性質を“明るい”と呼ぶのであろう。
 では、“暗い”とは何なのか。
 それは上記の“明るい”の逆なのであろう。 すなわち、あくまで受身である相手方にとって、そのような影響力をもたらさない性質を指すのではなかろうか。
 このように、人間の性質を表現するとされている“明るい”“暗い”という価値基準は、あくまでも複数の人間集団の中での受身の観点からの主観的な表現でしかない。
 そうなると当然ながら好みの問題もかかわってくる。 価値観が多様化している現在、皆が皆“明るさ”を好むとも思われない。
 “暗い”という言葉はいかにもマイナーな表現であり一種の差別感も読み取れるため好まないが、例えば、人間関係において“落ち着き”だとか“静けさ”を好む人種も増えているのではなかろうか。 私など、まさにそうだ。 だから、テレビのバラエティ番組等の低俗でくだらない造られた“明るさ”を毛嫌いしているのだ。 
 大した意味もないのに大声を出して笑ってみたり、わざとらしい作り笑いをしてみたり、“明るく”あることに悲壮感さえ漂っているような場面にすら出くわすことが多い時代である。 なぜそのように、人間集団において“明るく”あることが義務化されてしまったのであろうか。 人間関係の希薄化がもたらしている、心の歪み、ひずみ現象の一端であるのかもしれない。
 人間は自然体が一番よい。 持って生まれた性質や特質等の“自分らしさ”を大切に育んでいきたいものだ。
 「境野さん」も我が娘も、そのままでありのままで十分に素敵な女の子だよ! 
 (以上、長くなったが我がエッセイ集バックナンバーのほとんどを再掲載したもの。)


 話題を、娘の現在の体調不良に戻そう。
 
 娘の相変わらずの寡黙さ故、(と言うより娘が大人に至って後の方が、母親である私に対する寡黙度が増しているとの懸念感すらあるのだが…  これを分析するに、娘も実際大人になり子供時代の無邪気さが自然と消え失せようとしているのだろう。) その事態を心得つつ、口数少ない娘に敢えて「問診」に挑んだ母の私だ!
 その結果、要するに娘が現在訴える症状とは冒頭に記した「アレルギー体質」の一症状が出現したものと私は推測した。 娘小6時点で受診した医師の診断によれば、“軽い喘息症状”との診断結果だったが、これが再発していると判断した。
 そうだとしても、日々真面目に仕事に励む娘に平日は病院受診時間が取れない。 ただ、娘のそのアレルギー症状がここのところ安定している事もあり、週末に医師診断を受ける事を指南し、今現在は娘の病状を見守っている。


 本日昼間にNHK連ドラ再放送を視聴したところ、偶然にも現在の我が意と重なるセリフが主人公の母親から発せられた。

 これを、今回のまとまりのない我がエッセイの結論とさせていただこう。

 「子供を持つこととは、自分よりも大事なものが出来てしまう、という事……」

 それを娘を通していつまでも実感し続ける事が叶っている私は、世にも恵まれた母親なのだろう。
 と、高齢域に達しようとしている我が身の”幸運”を振り返ったりもする…… 

米西海岸旅行下調べ  ー 博物館・美術館編 ー

2018年07月29日 | 雑記
 (写真は、某旅雑誌より転載した カリフォルニア科学アカデミーの紹介写真。)


 8月下旬に娘と二人で実施する米国西海岸旅行の下調べも大詰めに入っている。

 一番行きたい U.C.バークレーは既に旅日程として丸一日確保している。 (詳細の下調べは、これからだが。)

 シリコンバレー、そして、モントレー・カーメル方面のバスツアーも予約を入れた。 後は現地ホテルでピックアップサービスの予約を”英語で電話にて”入れるだけだ。


 残っているのは、今回の宿泊地であるサンフランシスコ近辺の観光予定決めだ。

 サンフランシスコへは19歳時のUCバークレー短期留学時点、そして姉が米国西海岸在住のためその関係で30代に4度程訪れている。
 8月の旅行では、過去に訪れて“いない”場所を是非とも観光したく狙っているのだが。 (参考だが、米国の姉には20年前にこちらから“絶縁状”を叩きつけているため、今後一生会うつもりはなく、今回の旅行はあくまでも娘と“2人珍道中”を貫く予定だ。)


 さてネットにても散々旅検索をしたのだが。 各種情報が散在しているのに加え、信憑性が疑われそうな情報が交錯しているのがネットの特徴でもあるし、どうも総合的な情報収集がしにくい。 

 そこで、上記冒頭写真の旅雑誌をネット通販にて買い求めた。 
 今更ながら改めて「本」の長所を実感だが、とにかく一覧性に優れているし、パラパラと好き放題にめくれるし、永久保存が可能だし、実に便利だ。


 その旅雑誌内で発見したのが、冒頭の「カリフォルニア科学アカデミー」だ。
 これは、“元科学者の端くれ” でなくとて興味深い事であろう。

 以下に、当該「カリフォルニア科学アカデミー」に関して“ネット情報”より引用しよう。
 (ネット情報の一番の利点とは、即座に“コピペ”出来る事だしね… 

 サンフランシスコ西側のゴールデンゲートパーク内にある植物園、水族館、プラネタリウムそして、研究・教育機関を持つ大型施設。 150年以上の歴史のあるこの施設は、2008年に3年間の改装期間を経て、リニューアルオープン。 環境にやさしいハイテク科学施設と言う感じになった。
 現在の建物は、建築界のノーベル賞といわれるプリッカー賞受賞建築家のレンゾ・ピアノが設計したもの。 環境に考慮した造りになっていて、現在、“世界で最もクリーンな施設”と言われている。
 この建物の最大の特徴は丸い屋根(Living Roof)。 屋根が緑で覆われている。 ここには、サンフランシスコ周辺に生息する170種もの植物が植えられていて、1年中きれいな花を楽しむことができる。
 世界中の海洋生物たちが集う水族館には、海の生物に直接触ることのできるコーナーもある。 地下1階は水族館スペース。 世界中の海に住む900種類以上の海洋生物が約38000匹飼育されている。
 熱帯雨林を再現した植物園の中を歩くと、汗びっしょりになる。 熱帯雨林に生息する植物や鳥、蝶、虫などを観察できる。
 世界最大のモリソンプラネタリウムでは、平日は後1時間ごと、週末は45分おきにショーが行われている。 事前予約はできないが、夏休みなどのピーク時は当日整理券が配布されていて早くもらわないとすぐになくなってしまうため、アカデミーに到着したら、まずはプラネタリウムの時間を調べ、整理券が必要ならゲットしておくべき。
 誰でも参加可能アカデミックプログラムコーナーでは、海の生き物についてのレクチャー中。 その他、建物内の様々なところで誰でも無料で参加できるアカデミックプログラムが行われている。
 <DATA>
■California Academy of Sciences(カリフォルニア科学アカデミー)
住所:55 Music Concourse Dr. San Francisco CA 94118
TEL:1-415-379-8000
 (以上、カリフォルニア科学アカデミーに関するネット情報の一部を要約引用したもの。


 ここから私見だが。

 いやはや、この博物館凄いなあー! と直感したのが第一印象だ。
 我が娘がもっと小さい頃に連れて行きたかった…。 
 別ネット情報によると、混雑が無ければ半日で何とか一覧可能との事でもあり、遅ればせながら娘を当該博物館へ誘いたいものだ。 (などと言いつつ、私自身がちゃっかりと楽しみたいのが本音だが…)


 その分野の素人ながら美術館・博物館ファンの私としては。

 「サンフランシスコ近代美術館(SFモマ)」へも訪れたいと欲している。
 こちらは、近代・現代美術館として著名なようだ。 所蔵品数が3万3千を超える等、ニューヨークの美術館に勝るとも劣らない充実度の様子でもある。
 近代・現代美術展示が特徴の美術館だが、レストランやカフェ、そしてミュージアムショップが充実しているというのも私にとっては外せない。 
 

 ところで米国がトランプ政権に移行して以来、どうやら米国の物価高騰具合が尋常では無い様子でもある。
 米国民の所得も同時に高騰しているとの情報もあるが、外国人旅行者にとって厳しい米国物価高騰事態なのかもしれないと、今更ながら実感させられている。

 既にネット両替したドル札が、我が旅行計画を実施するためには“足りない”と判断せざるを得ない厳しさだ。 
 明日以降再び為替レートを確認し、更なる追加のドル両替を実行せねばならない様相でもあるのが少し痛いかなあ。

片方から依存性ある人間関係の終焉はさほど辛くない

2018年07月28日 | 人間関係
 分かりにくい表題を提示したが。
 本文をお読み頂ければ、私が言いたい論点をご理解いただけると信じたい。

 逆視点より言い直すならば、「対等に付き合えた相手との別れは実に辛い」ものだ。


 今回はまったく別の時事論評ものを用意していたのだが。

 先程本日2018.07.28付朝日新聞“悩みのるつぼ”を読んで、どうしてもこの表題でエッセイが書きたくなった。

 それでは早速、“悩みのるつぼ” 本日の相談 40代女性による「親との永遠の別れが怖い」の内容を要約して以下に紹介しよう。
 子供がいない40代既婚女性だが。 死に支度を始めた70代の両親とお別れが近づいている事を近頃強く意識するようになり、その事が頭から離れない。 後何年とか今日会うのが最後かもしれないと考えて、仕事中にも涙が出てくることがある。 順番通りなら私が独り残され、老後の孤独を想像して恐れている。 
 今から友人を作ったり地域活動をせねばと思いつつ、生来の人見知りで先延ばしにしている。 今が一番幸せだと思うと感謝の気持ちでいっぱいの半面、なお辛く感じる。
 皆さんはどうやってこの恐怖と闘っているのか。 実際に別れが来た後、心が崩れる事無く、どうやって生き延びてきたのか。
 子に恵まれず大人になり切れない私の贅沢な悩みだと思うが、今の私は5歳の子供に戻ってしまっている。 アドバイスをお願いしたい。
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”より、相談内容を要約引用したもの。)


 私見に入ろう。

 何とも“お目出たい”相談と、一読して呆れ果てた。
 冒頭に私が記した、「対等に付き合えた相手との別れは実に辛い」 とはまったく異質・異次元の“辛さ”に独りよがりにがんじがらめになっている相談者の様子だ。

 本エッセイ集内で多発している表現を繰り返すが、とにかくこの相談女性の人生の“経験値” が低いことこの上なさそうだ。
 既婚ならば、子どもが出来ずとて旦那はいるだろう? 仕事に通っているのならば、そこでの人間関係もあるはずだ。 しかも、未だ40代との若さ!
 何故、相談者の孤独のターゲットが両親の死後にばかり向くのかが、どうしても理解しかねる。


 私事に入ろう。
 40代手前で晩婚に至った私だが、もしも当時見合結婚相手に恵まれなかったら私はその後も独身を貫いた事だろう。 そして引き続き“青春”を謳歌し続けたことに間違いない!
 
 えっ? 実親が死ぬのが怖い?? 
 生みの親など20代初頭に捨て去って単身上京した我が身だ。 その段階でこちらとすればもはや親など他人の位置付けでしかなかった。 片やあちら(特に母親)は、我が上京後も特に次女である私に精神的に依存し続けているようだ。(今現在に至っても)

 ただ我が母がそれを私に面と向かって押し付ける事は無かったのが幸いした。
 父亡き後も過疎地にて一人暮らしを頑張った後、一昨年次女の私の「指導」に素直に従い高齢者自立支援施設へ入居し、比較的元気に過ごしている。 日々種々の問題が発生するものの、施設入居の現状を受入れ実行した母を私も評価している。
 後は死期を待つのみだが、近い(遠い??)未来に母の葬儀を滞りなく実行すれば、我が実母に対するノルマ(我が実母に対するお勤め)は終焉する。
 実際、あちら側から一方的に依存される関係の身内高齢者を抱える身としての心境とは、正直なところそんなところだろう。
 我が父は突然死にて60代に他界している。 当時多少事情を抱えて出生した娘の教育指導が大変な時期であり、父が死んだ直後に遠方まで葬儀に駆けつけねばならない事態に実に困惑させられた。 ただまさに現在理想のPPKであり、死後数年経過した暁には母と「父は良き死に方をした」と語り合ってもいる。

 私の場合義母の保証人も担当しているが、これまた難儀な行脚だ。 
 もちろん誠心誠意出来る限り、日々保証人の務めは果たしているつもりだ。 義母も施設入居の身であり直接的に面倒を看ねばならない訳ではなく、この状況下に於いて良き関係を続行したい(するべき)と常に欲している。
 ただ正直なところ、義母がいざ死に至ったら辛いか?と問われると、決してそうではない。 人間の死とは突然訪れる場合が多く、その際にこちら側が別の重要案件を抱えていたりすると、迷惑だろう… と想像したりもする……。

 要するに何が言いたいかといえば、表題に掲げた通り、両者の人間関係が対等ではなく、あちらがこちらに全面的に依存している関係の場合、それが終焉(死も含めて)する際にはさほどの辛さは無いのではなかろうか?、とのことだ。


 “悩みのるつぼ”相談に戻ろう。

 この40代女性相談者も、少しは“死に支度”を始めたご両親の世話でもしてみては如何か!?!と言いたくもなる。

 ただし今時の70代とは、私が知っている範囲では皆さん若いよねえ。
 私もそうありたいと願いつつ、それらの元気な70代の皆さん(ブログ上の知り合いの方々も含め)のご様子を日々伺っているのだが…。

 ご両親が未だお若いからこそ、相談者40代女性は寂しいのであろう。 
 もう少しご両親が老いぼれ認知症状でも出現し、どうしても貴女の世話になりたいと言い始めたならば、きっと相談者の貴方は“孤独”だなどと泣いている場合では無くなるよ。

 だからこそ、今はご亭主や職場仲間との交流を楽しむ事に主眼を置き、その努力に精進しては如何だろうか?

 冒頭に掲げた通り、40代とは「対等に付き合えた相手との別れは実に辛い」事こそを経験するべき世代であり、それが未だ可能な年齢であるはずだ。
 (ところが40代との若い時期に自分が寂しいと嘆く人種程、後に老後に至っても自己中心人生を歩みそうに考察するが…。 要するに将来、自分の親の面倒すら看る能力が無いのかと想像する。)


 そういえば、「対等に付き合えた相手との別れは実に辛い」なる切実な出会いを、私は“今現在”果たして経験出来ているのかどうか???
 今後も可能ならば一生に渡り、「対等な出会いと別れ」に胸躍らせたい思いであるが…… 

高齢者医療、認知症者との間に「問診」が成り立ち得るのか?

2018年07月26日 | 医学・医療・介護
 先週末の事だが、高齢者介護施設に暮らす義母より久々の電話があった。

 何分、認知症状悪化の一途に加え耳の聞こえにくさ加減も極限に達しようとしている中、義母本人の電話能力が極度に低下している。 
 そのお陰で義母からの電話着信が激減しているのを、“これ幸い”としている保証人の私だが…


 猛暑続きのこんな折に、施設にて何かのトラブルか?!? と嫌な予感がしつつ電話口に出てみると。

 義母曰く、「施設の訪問医先生から定期問診の際、肺の“再検査”を受けるように言われたの。1度ならばともかく、その医師先生から2度も言われたのよ。 それまでは特段肺の症状は無かったのだけど、医師先生からそう言われると何だか肺がおかしいような気もするし…  それで、もう一人の訪問医先生と施設の看護師さんにも相談したのだけど、二人とも再検査の必要はないのでは…、と言うのよ。 〇子さん(私の事)はどうすればいいと思う?」

 実はこの問題、既に決着が付いている。
 その後、直ぐに義母保証人の私から施設のケアマネージャー氏に文面(手紙)にて詳細に渡る“事実確認”をした。 そうしない事には、認知症状を抱える義母の言い分が真実なのか否か、判断不能なためだ。 
 そして判明したのは、訪問医師は義母に対して「再検査」を促してはいない、との結論だった。
 5月の健診後、訪問医が「肺陳旧性陰影 D1」 結果が出ている事実のみを訪問医問診時に義母に伝えたが、「再検査」の言葉は発していない、とのケアマネ氏調査結果だった。 別の医師と看護師が再検査の必要は無いと言っているとの事実は、義母の言い分通りだった。

 何故、認知症状を抱える義母に上記のような聞き違い・勘違いが出現してしまうのかに関しては、既に分析済みだ。 
 とにかく、義母とは若い頃から現在に至るまで、医療依存・医師依存を貫いて来ている人物である。 身体の何処かに異変が生じるとすぐさま病院受診し、医師の診断とその後の医療措置に“ぞっこん身を委ねる”歴史を刻んで現在に至っている。 この世で医師程“偉い”人はおらず、その人が発する言葉こそが崇高だと信じて疑っていない。
 おそらく6月・7月と2度の施設での問診時に、当該訪問医が健診結果報告を義母相手に2度繰り返したのだろうが、それを義母が「再検査が必要だ」と勝手に捉えたということであろう。


 ただ医学経験がある私にとって、今回の義母の再検査騒動に関し釈然としない点が残っている。

 実は、施設にて5月に実施された義母の「健診結果個人票」内容に関しては、直後に施設から郵送されてきたその書面にて、重々把握していた。 
 義母との人物は本人が騒ぎ立てる程に身体的欠陥を抱えておらず、むしろ長生きをするのではないかと毎年「健診結果」を見ては思い知らされている。 健診結果によれば致命的分野など何ら無いが故に、このまま事故等に遭遇せねば、おそらく後5年、下手をすると後10年生命を繋げそうだと保証人である私は覚悟を決めている。 (参考だが義母はもうすぐ87歳…)

 今回の「肺陳旧性陰影」に関しても、過去に於いて肺炎にでも罹患した痕の残影であろう。(義母もそれを認めている。)  参考だが、この私も子供の頃に罹患した肺炎の残影を、過去の健診・胸部X線検査後に複数回指摘された経験がある。
 それを高齢者施設訪問医が、1度ならともかく2度にも及んで認知症状が進んでいる高齢者相手に問診時に伝える必然性があるのか!?! と義母から電話を受けた時点で実に腹立たしかったものだ。


 以下の記述は、私が義母施設のケアマネ氏宛の文書(手紙)にも記載した内容だが。

 高齢者医療の実態を、その訪問医がどれ程我が事として理解出来ているのか、認知症等々高齢者が置かれている立場を真に慮って健診結果を問診時に高齢者本人に伝えているのか? 
 「医師」と名の付く人物に無責任に高齢者に対応されたものならば、本人はもちろんのこと、保証人である家族も如何に混乱させられるか、少しは医療従事者の立場でもう少し広い視野で物事を考えて欲しいものだ。

 残念ながら、我がこの訴えに対するケアマネ氏の回答は無かった。

 そりゃそうだろう。

 未だに「医師」とは、医療界に於いて“絶大な権力”の下に君臨している最高権力者である故だろう。 
 その僕(しもべ)に位置するパラメディカル人材が、底辺で何らかを発言出来るすべもないのは、我が過去経験から重々思い知らされている。
 (それを嫌悪したが故に、私は臨床現場への就職を徹底的に避けたとも考察可能だが…。)

 いや、我が過去のマイナーな医学経験を振り返るのはもう辞めにしよう。
 その後素晴らしい臨床医先生との出会いにも恵まれ、現在に至っている。

 そうだとしても。
 高齢者医療に携わる臨床医の皆様。
 特に認知症状を抱える高齢者に向かって、D1レベルの健診結果を幾度も直接伝えるのは控えて頂けないだろうか?!? 
 今まで通り施設を経由する文書にて家族である保証人に健診結果を伝え、その判断を保証人に委ねて下されば嬉しいのだが……

早稲田政経入試に今まで「数学」が無かった事こそ信じ難い

2018年07月24日 | 教育・学校
 私自身は、幼稚園から小中高、2度に及ぶ大学(理系・文系2大学)そして大学院修士課程と、そのすべてを国公立にお世話になった身だ。

 故に、私立大学の実態はあまり知らない。
 その立場で私立大学の論評をする資格は無いのだろうが…。

 ただ、40数年前の高校在学中、周囲に私立大学を目指す生徒が数多く存在したため、私立大学の入試が3科目程度しかなく、“楽(ラク)”だということは知っている。
 特に国立理系の場合、国語、数学(数Ⅲまで)、英語、社会はちろんの事、理科2科目が必修だったため、私立受験生の何倍もの時間をかけて受験勉強に励まざるを得なかったものだ。
 早くから私立大文系1本に絞り込んでいる生徒など、いつ受験勉強しているのか??と不思議な程にラクそうで、“地元国立限定!”を我がノルマと課した親どもを本気で呪っていたものだ。


 早稲田大学政経と言えば、おそらく私立文系最難関の大学学部であろう。
 そこの出身者に、国会議員や国家官僚が数多いとの事実も熟知している。
 そんな最難関私立大学学部入試に、今まで「数学」が無かった事こそ信じ難い。
 現在は、大学受験生のほぼ全員に大学側が「センター試験」通過を課しているため、私立文系受験者の中にはセンター試験で数学を選択する生徒もいるのだろうか?  (何分、私自身が“国立一期校”“国立二期校”世代であり、「共通一次」も「センター試験」も経験が無い故に詳細を承知していないのだが…。 娘もサリバン指導により大学へは秋の“公募制推薦”にて入学させたし…。)

 「数学」を経験しない学生達が学ぶ大学学部が、“難関” と名乗る資格があるのか?!? と、言いたくもなるが。


 一昨日だったか、やっとこさ早稲田大学政経学部が2021年度一般入試から、受験者に「数学」を課す、との情報をネット上で発見した。
 “時既に遅し”の感もあるが、以下にそのネット情報の一部を要約して紹介しよう。

 早稲田大学政治経済学部の入試改革が教育業界に波紋を広げている。 6月7日、現在の高校1年生が受ける2021年度一般入試から、受験者に数学を必ず課すと発表したのだ。
 現在同学部の一般入試では、外国語・国語の2科目と、世界史・日本史・数学の3科目から1科目を選択することを求めている。
 今回の入試改革では、現行の学部独自試験である3科目受験を廃止。 一般入試受験者には「大学入学共通テスト」(大学入試センター試験に代わって始まる共通テスト)を課し、さらにTOEFLのような英語民間検定試験と、政治学や経済学に関する日英両言語の長文読解の記述式試験の受験が求められる。
 数学の必須化とは、大学入学共通テストの数学Ⅰ・Aを受験することが必要になることを指す。
 これまで私立大学の文系学部のみを受験する学生たちは、「国語、英語、地歴公民(社会)の3科目のみを勉強して備える」(首都圏私立高校教諭)のが当たり前だった。 早稲田の政経学部は、いわばその象徴といえる学部だった。
 早稲田大学政治経済学術院長(政治経済学部長)の須賀晃一教授は「現行の一般入試でも選択科目である数学、日本史、世界史の選択者の割合はそれぞれ4割、3割、3割と、数学選択者が実は最も多い」と数学を必須化しても受験者数に大きな影響は出ないとみる。 そして、須賀教授は「数学を多用する経済学はもちろん、政治学でも統計・数理分析など数学が求められている分野が増えており、数学的なロジックに慣れ親しみ続けてほしい」と数学必須化に込めた狙いを解説する。
 今回の入試改革にあたっては、学部内からも不満の声が出ていた。 経済学では微分・積分が必須で、高校数学でいえば数学Ⅱ・Bから数学Ⅲ・C以上のレベルが求められる。 経済学科の複数の教授は「ミクロ経済学の必修講義では数学ができない人が多くて、約4割の学生が再履修することもある。やるなら数学Ⅱ・Bまでを必須化すべき」と話す。 逆に、政治学科の一部の教員からは「数学を必須化することで絶対に早稲田の政経にいきたいという受験者がいなくなるのでは」と、伝統や独自色が薄まることを懸念する声もある。
 須賀教授は、そうした学内の批判があったことを認めたうえで、「これからの時代をグローバルリーダーとして生きていく若者たちに数学がいらないと断言できる人はいないだろうし、また数学の入門レベルのロジックを忘れないでほしいというメッセージとしては、数学Ⅰ・Aだけで十分だろう」と説明する。さらに「独自試験で政治や経済に関する日本語と英語の長文を読解してもらうことで、受験生の政経学部への適性は把握できる」と政経学部の独自色はむしろ強化されるとする。
「早稲田政経学部にとっても、今回の改革は単なる受験科目の変更だけを意味しない。 10年以上前から始まった「学部改革の一環」(須賀氏)だ。
 政経学部は2004年にもともとあった政治学科と経済学科に加えて、国際政治経済学科という新学科を設置した。 グローバルリーダーを養成するという政経学部の目標とともに、「政治学と経済学が車の両輪のようにつながっている『政治経済学』部を象徴する学科」(須賀教授)である。
 その両輪である政治学と経済学をつなぐ軸として、数学的方法論や公共哲学を国際政治経済学科のカリキュラムで必修化していった。 今後、政経学部の全学科でも必修化が予定されている。入学後に学生がついていけなくなることを防ぐためにも、入試における数学の必須化が必要だった。
 今回の入試改革のキモは、単なる数学の必須化だけではない。 政経学部を目指す学生、そしてそれをサポートする学校、学習塾は、しっかりとした準備が求められることになりそうだ。
 (以上、ネット情報より一部を要約して引用したもの。)

 
 私論に入ろう。

 上記ネット情報内の、早稲田大学政治経済学術院長(政治経済学部長)の須賀晃一教授がおっしゃる通りであろう。
 「数学を多用する経済学はもちろん、政治学でも統計・数理分析など数学が求められている分野が増えており、数学的なロジックに慣れ親しみ続けてほしい」との須田氏の談話に同意する。
 まさに社会科学分野と言えども数理発想は必須だし、社会科学を学ぶ者にロジカル思考は外せない。

 私の場合 「経営法学修士」を取得してる身だが、“法解釈論”に於いても数理思考が役立ったものだ。 修士論文(法解釈論ものだが)に「グラフ」を書いたのは恐らく世界中でも私が最初で最後だろうが、学説間での解釈論対立の有様を「グラフ」化した経験がある。 (指導教官は単に呆れていた記憶があるが、それでも元々理系出身である我が“冒険”を一応評価して下さった。)

 上記ネット情報によれば、早稲田政経学部の場合、数学経験の乏しい学生が中途で学問に行き詰っているとの記述もある。
 そりゃそうだろう。 特に「国際政治経済学科」の場合、上記記述にある通り、数学的方法論や公共哲学を国際政治経済学科のカリキュラムで必修化せずして、学科の存続が成り立たないはずだ。

 
 早稲田大学政経学部さん。
 
 「数学」を入試必修化すれば受験者が減るぞ!! と塾側から脅されて弱気に陥っている場合ではなかろう!
 早稲田政経学部が” “私立文系の最難関” の誉れ(原左都子としては未だそれを疑わしく思っているが…)を死守したいのならば、ここは是非とも学部長須田氏の“英断”を尊重し、是が非でも「数学」を入試必修科目とするべきだ!