原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

女性にとって「子どもを産む」ことの意義・価値とは??

2024年09月29日 | 人間関係
 ここのところ、エッセイ2本に渡って「故 Aさんの不妊症」について語らせていただいた。


 2度目の大学(院)から最近 送付されてきた同窓会誌の「訃報」欄にて、同年だったAさんの訃報を見たことによる原左都子の心情を元に、それらのエッセイを綴ってきた。

 いやもちろん、この度のAさんの「訃報」とAさんの「不妊症」が繋がるのか否かに関しては、全く心得ていないにもかかわらず。  原左都子の勝手な視点から、それらを繋げて2本のエッセイを身勝手に綴り公開したものである。 (もしも、私の単なる思い違いであり、Aさんが重篤な病等で命を落とされた等々の事実があったとしたら、心よりお詫び申し上げます。)



 この原左都子にとっては、「子どもを産む」とのチャンスは世間一般の他人様と比較して、随分と遅い時期に到来したものだ。

 何分、独身時代は「自己実現」意欲満載の日々だった!!
 「子どもを産むこと」など頭の片隅にも無く、結婚すらしている暇さえなかったのが実情だったものだ!
 上京直後から、昼間は医学業務を真面目に精力的にこなしつつ。
 夜になると、新宿・六本木等々のディスコへ繰り出し、踊りまくる日々だった。 (彼氏には恵まれていました!😜

 当時は、25歳を過ぎると女性が結婚を焦り始める時代であり。
 まさに私が勤務していた医学関連企業内の医学専門職女性ですら、それを第一義として志向し始めたものだ。
 あれには、実に驚かされた!!
 (何で苦労して医学関連国家資格を取得して就職したの?? 適齢期の結婚を望んでいたのならば、その必要は無かったのでは!!?)と、この私など本気で感じたりもした。
 まあもちろん、人それぞれであり。 子育て終了後に医学業務に復帰した女性も少なくないのだろう。

 そんな私にも、晩婚・出産の時期は訪れた。
 当時としては、おそらく誰よりも遅い婚期・出産であったことだろう。

 結婚はともかく、出産に関しては我が脳裏にも多少の不安材料はあった。
 そんな不安感とは当たるもので、高齢出産の娘は不運にも「仮死産」にての出生だった…
 
 ただ 元々医学者であり、教育分野でも活躍した経歴の持ち主である私は、そんな逆境にめげることなく 娘の育児・教育に精一杯励んだ。
 その成果というよりも、我が娘が元々持って生まれた能力や資質が花開いたのであろうが。
 今となっては我が娘は無事に大人になり、親元離れて一人立ちして元気に有意義な日々を送っている。
 特に 医学者である私の教育の賜物か??、あるいは娘が持って生まれた健康体質なのか!?! 
 我が娘は現在30歳を過ぎる年齢に達しているが、何らの病にも縁が無く。 しかも、母親の私のように転んで脚を骨折😱 😭 することも皆無、元気で無事な日々を送ってくれている。
 (後者の “母親の私のように転んで脚を骨折😱 😭 することも無く” に関しては、母親の私の娘教育のひとつが花開いたものと推測する。  娘には幼少の頃よりクラシックバレエを習わせたのだが、これが娘に合っていたようで 中2の終わりまで親しんでくれたし。 その後も娘の好みで大人になってからヒップホップダンスに興じてくれた。 そのお蔭で、身体能力が大いに身に着いたものと推測する。)



 そろそろ、表題の「子どもを産むことの意義・価値」に話題を戻そう。

 やはり、子どもとは産んで育ててなんぼのものと結論づけるしか他に無いのだろう。

 過去2本に渡って取り上げた我が過去の友「Aさんの訃報」に関しては。
 今の私が出来る事とは、その訃報を知った事実に鑑みて、お悔やみを申し上げることに尽きるのであろう。


 ここで三度(みたび)、Aさんの ご冥福をお祈り申し上げます… 
 

私は今現在の年齢で、まだまだ絶対に死にたくない!!

2024年09月28日 | 人間関係
 今回のエッセイは、昨日公開したエッセイ 「2度目の大学時代に仲良しだった同級生の訃報」 の続編の形となる。


 昨日のエッセイでは、我が2度目の大学にて交友していたAさんに関して記載させていただいたが。

 その一部分を、以下に再掲載させていただこう。

 私の場合、この大学(2度目の大学)へは「特別選抜」にて合格し入学している。(参考だが、特別選抜入学者はごくごく少数。 その他大勢は 通常の入試にて入学している学生達だ。)
 その入学後に知り合ったのは、同じく「特別選抜」にて入学していた女性のAさんだった。 年齢が近かったこともあり、私とAさんはまもなく意気投合した。
 それでも 選択したゼミが異なるため、いつも一緒にいるということではなく、学内で会うと食事したり談話したりする仲だった。

 お互いに「大学院進学志望」でも一致して、それを目指していたりもした。  結果としては私は同じ大学の大学院への進学で、Aさんは外部の大学の大学院へ進学したため、その後会う回数は自ずと減少していた。

 実はこのAさん、既にご結婚されていたのだが、子宝に恵まれないことで多いに悩んでおられた。
 
 時が流れ、我が晩婚の際の結婚式会場にAさんも招待したら、喜んでお越し下さった。
 実はその時点で、私は既に妊娠(高齢妊婦だった)している身であることを初めてAさんに告げた。 その時のAさんの反応が今尚忘れられない…
 Aさん曰く、「〇さん(私の事)が子供を産みたいと思っているとは想像もしていなかった…」 
 あの時のAさんの愕然とした表情が私は忘れられない… 😱
 それ程までにAさんは、自身が子供を身ごもれないことを悲壮的に捉えている事実を、私は初めて理解した…

 その後、Aさんとは疎遠となった。  年賀状を投函しても、返事がくることは一切無かった。

 (以上、昨日公開のエッセイより一部を引用したもの。)



 そのAさんとのお付き合い段階で、もしかしたらAさんは「不妊治療」をしている最中なのではないか!?!と、医学者の私はよく感じたものだ。
 その観点から、Aさんと一緒にいる際のAさんの「不審行動」に私は気づいていた故だ。
 とにかく 頻繁にトイレへ行く女性だった。  私の想像では、Aさんはおそらく「生理」の有る無しをしょっちゅう気にかけているものと想像した。
 もしもその月の生理が始まったとしたら、イコール不妊治療失敗との結果だ。 
 いえもちろん、そんなことをAさんに確認する程に 私は疎かな医学者では無かったですよ!
 ただ、まさに私がAさんとお付き合いがあった年月を通して、Aさんはその行動をかかすことなく続けたものだ。

 そしてAさんは、とにかく子供がいる女性を極端に嫌い続けてもいた。
 例えば同じく特別選抜にて入学した人材に、 子どもさんがおられる専業主婦の女性が存在した。 その方、我々よりもかなり年上なのだが、まさに主婦そのものというのか、よくぞ子育て多忙な中、母親である奥さまが学生になる同意をご主人が下されたものだ、とくらいに私は捉えていた。
 Aさんが、その女性に対しても「敵意」らしい感情を抱いていた事実が、私はかなり不思議だった。
 まさにその方、どう見ても「専業主婦」以外の何ものでもないし、ご本人もご自身がこれまで社会経験が皆無だとも周囲に吹聴されていた。
 その方に関してAさん曰く、「何であの人が入学できたのか! 目障りだ!」等々の発言をいつも私相手に、憎しみを込めて発していたものだ。😱 


 要するにAさんとは、ご自身が子供に恵まれない事実をまるでご自身の “人生第一の絶対的に許されざる失策” のごとくに、頑なに捉えられていたのであろう。

 どうして それ程までにご自身の「不妊」に関して悲壮感を持たれるに至ったのかのその経過に関しては、私には未だに計り知れない。


 私が推測するに。
 Aさんとは、東京都内の某私立大学にて助教授に任命された後も、もしかしたら「子宝」に恵まれなかったのではあるまいか??? (年齢的にも既にその時期をとうに過ぎておられたと想像する…)

 とにかく 私がAさんと知り合った頃には、Aさんには「不妊症」以外には特段の疾患を抱えておられる様子では無かった。
 その後も某私立大学の助教授になられた後に、彼女なりの「論文」を発表されている事実を鑑みるに。
 
 私にとって、Aさん(私とほぼ同年の女性です)の死因の特定が不可能だ。

 いやもちろんのこと、人間とは突発的に難病を患ったりする事態も考え得るのは当然だが。…


 とりとめのないエッセイになりそうなため、この辺で終焉するが。

 とにかく 過去に一時仲よくさせて頂いたAさんの訃報に触れた今、 ご冥福をお祈り申し上げます… 


2度目の大学時代に仲良しだった同級生の訃報

2024年09月27日 | 人間関係
 昨日、私の手元に毎年届く2度目の大学・大学院時代の「会報」が届いた。

 
 卒業(修了)後、既に30年以上の年月が流れているが。 毎年必ずこの「会報」が手元に届けられる。

 30年もの年月が流れると何処の大学(院)も同様だろうが、すっかり「学部・学科」の名称が目新しく変貌しているものだ。
 私が所属していた「商学部・経営学科」あるいは「経営学研究科」なる名称の科は既に当の昔に名称を変え、今時の学部・学科の名称に移り変わっているものだ。

 この会報の一番裏のページに「訃報」があるのだが。
 私の場合、既に高齢域に達している我が身に照らして、これを見るのが一番興味深いかもしれない。
 この欄には「恩師」の訃報も掲載されていて、今まで何人の恩師の訃報を見届けてきたことだろう。 やはり、授業にてご指導いただいた教授氏の訃報は訴えてくるものがあり、「ああ、あの先生、お亡くなりになったんだ…」などと、私なりの追悼の思いが巡ったりもするものだ。

 さて、昨日届いた当該「会報」の最終ページの「訃報」を見て、私は今までで一番驚かされた!!

 何故ならば、同年に入学して卒業した同級生の「訃報」を見つけたからに他ならない!!!

 私の場合、この大学へは「特別選抜」にて合格し入学している。(参考だが、特別選抜入学者はごくごく少数。 その他大勢は、通常の入試にて入学している学生達だ。)
 その入学後に知り合ったのは、同じく「特別選抜」にて入学していた女性のAさんだった。 年齢が近かったこともあり、私とAさんはまもなく意気投合した。
 それでも、選択したゼミが異なるため、いつも一緒にいると言うことではなく、学内で会うと一緒に食事したり談話したりする仲だった。

 お互いに「大学院進学志望」でも一致して、それを目指していたりもした。  結果としては私は同じ大学の大学院への進学で、Aさんは外部の大学の大学院へ進学したため、その後会う回数は自ずと減少していた。

 実はこのAさん、既にご結婚されていたのだが、子宝に恵まれないことで多いに悩んでおられた。

 
 時が流れ、我が晩婚の際の結婚式会場にAさんも招待したら、喜んでお越し下さった。
 実はその時点で、私は既に妊娠(高齢妊婦だった)している身であることを初めてAさんに告げた。 その時のAさんの反応が今尚忘れられない…
 Aさん曰く、「〇さん(私の事)が子供を産みたいと思っているとは想像もしていなかった…」 
 あの時のAさんの愕然とした表情が私は忘れられない… 😱 
 それ程までにAさんは、自身が子供を身ごもれないことを悲壮的に捉えている事実を、私は初めて理解した…

 その後、Aさんとは疎遠となった。  年賀状を投函しても、返事がくることは一切無かった。



 あれから30年以上の年月が経過しただろうか。

 昨日、私は郵送されてきた2度目の大学(院)の会報誌にて。
 Aさんの訃報を発見した。
 
 このAさんに関して、本日ネット検索してみると。
 Aさんはどうやら、その後某私立大学の助教授になられ論文を世に公開されているようだった。 その一つに触れることが叶った。
 ただ、既に当該私学の職員名簿には当然ながらAさんの氏名は無かった。(おそらく昨年度内に死去されたのだろう…)


 こんな形での過去の同級生とのご対面もあるのだろうと、感じざるをえない事件だった。

 Aさんが、あれ程までに私が先に子どもを身ごもった事実を否定的に捉えることが無ければ。 
 我々の交友関係はもう少し続いていたのかもしれない。


 Aさんがその後、子どもさんを授かったのか否かは私には計り知れないが。

 それでも Aさんは長くはなかった人生に於ける、後の大学にての助教授職を全うされたことであろう。


 陰ながら、Aさんのご冥福をお祈り申し上げます…


再々掲載 「長生きは一生の得(火傷の編)」

2024年09月20日 | 人間関係
 本日公開する「再々掲載」エッセイは、原左都子本人が今読み返してみても感激するというのか。
 
 私は基本的に子供時代は父方の祖母に育てられた身であり、その両者関係を私なりによく表現出来ているエッセイであると今尚感じる作品である。

 昨日の「原左都子エッセイ集」上位にランクインしていたバックナンバーでもあるため、今一度再掲載させていただこう。


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 皆さんは、今までの人生に於いて“大怪我”をされた経験がおありだろうか?


 本日は、我が幼少期に経験した“大怪我”にまつわるバックナンバーを紹介しよう。
 
 早速、2008.08.05公開の「長生きは一生の得(火傷の編)」を以下に再掲載させていただこう。

 私は幼稚園児の頃、腕にかなり大きな火傷を負ったことがある。

 昔は台所のガスコンロの燃料として(少なくとも私が住んでいた過疎地では)プロパンガスを使用するのが通常であった。プロパンガスのボンベから直接ホースを引いてコンロにつなげるという簡易構造なのだが、ある朝そのホースを幼い私は腕に引っ掛けてしまったのだ。
 コンロの上の作り立ての味噌汁を鍋ごとひっくり返して、その一部を腕に被ってしまった。その様子を目撃した家族は誰一人としていなかった。
 朝食前の忙しい時間でもあり、味噌汁を鍋ごとこぼした事を家族に叱られるのを避けようという発想しか私の未熟な頭には浮かばす、幼心に腕を負傷したことは自らのとっさの判断で伏せることにした。
 案の定、すぐさま味噌汁をこぼしたことを家族から叱られたため、尋常ではなく痛む腕のことは言えず、ひた隠したまま私は幼稚園へ行った。

 長袖の園児服のゴムの袖口から腕を覗き込むと、火傷を負った腕に何個かの水脹れが出来ている。一番大きいので直径3cm程ある。 こんな異様なものが私の体に発生したのを見るのは生まれて初めてのことで、言い知れぬ恐怖感ばかりが私に襲い掛かる。 事の重大さに怯えつつも一人で痛みを我慢しつつ幼稚園での日課を何とかの思いでこなすしか手立てはないまま、やっと帰宅の時間となった。
 両親が共稼ぎだったため昼間は祖母に世話になっていたのだが、帰宅後もやはり自分がしでかした事の重大さが後ろめたくて腕の火傷の事は言えない。 早く消えてくれないかな、と水脹れを何度も見るのだが消えるどころか大きくなっているような気さえする。 痛みもまったく治まらないどころかさらに激しくなってきているようにも思える。
 その日の放課後は家での遊びにも身が入らない。 どうしても腕の水脹れが気になる。 庭にある松の葉の先でこの水脹れを潰して証拠隠滅しようかとも思うのだが、そんなことをしたらもっと事態が悪化しそうなことが当時の私は幼心にも予期できてしまい、実行に移せない自分との闘いが続く。

 夜になって母が帰宅した時に、もう隠し通せないと覚悟を決めた私は母に腕の火傷を見せた。 一日中小さな心に背負い続けていた後ろめたさや恐怖心から一気に解放された私は、母に告白した事でどっと押し寄せた安堵感で大泣きした。 母は私の腕の水脹れに一瞬にして驚き、すぐに私を病院に連れて行った。
 負傷後の措置が遅れてしまったため、火傷は治っても水脹れの跡形が腕に残ると医師が母に告げるのを、私も診察室で聞いた。

 そして、私の左腕には未だに直径3cmの火傷後が刻まれることとなった。(年数の経過と共に小さいのは消えてなくなり、3cmのもずい分と色合いが薄くなってきてはいるが。)
 小さい頃は私の腕の火傷の水脹れの後が焦げ茶色で大いに目立っていた。 私の地方ではこういう皮膚の跡形を“こと焼け”と呼んでいたようである。

 上記の負傷から間もない頃、まだ幼い私は祖母からある迷信の話を聞いた。“こと焼け”のある人間は長生きできない、と言う昔から伝わる迷信の話を…。 それで私は祖母に尋ねた。「長生きできないって言うけど、何歳くらいまでは生きられるの?」 祖母曰く「50歳くらいだと思うよ。」
 それを聞いた私は大いに安堵したものである。「50歳までも生きられるならば十分!」と。 その頃の私はまだ5歳位だった。その時の私にとっては、50歳という年齢が想像を絶する程遠い未来に感じられた。

 私は今尚、自分の左腕に刻まれている、もはや色が薄くなった“こと焼け”を見る度にこの祖母の迷信の話を思い出す。

 年月が流れ、50歳が近づくにつれ私の頭の片隅でこの“50歳”の数値の意識が強くなっていった。 5歳の頃にははるか遠い未来であった50歳が、年齢を重ねる毎にどんどんと間近に迫り現実味を帯びてくるのだ。 私の命は50歳までなのか!?? あの祖母の話は、確かに神のお告げだったのかもしれない…、と少々恐怖心まで伴ってくるのである。

 そして、その“神のお告げの”ハードルを既に何年か前に無事に越えてまだ生き長らえている今、体も程ほどに丈夫で、生活もある程度安定し、外見もそこそこ年齢よりも若く(??)、この後に及んで自分なりのポリシーも貫きつつ人生を刻み続けている我が身がここにあることに感謝するのだ。

 私にとっての“50歳の命の神話”は、あくまで神話であり迷信であったのかと少しずつ実感できるこの頃である。

 先週の新聞等の報道によると、2007年度の日本人の平均寿命は過去最高を記録した模様である。女性が85、99歳、男性が79、19歳とのことで、女性は23年連続で世界一、男性も世界で3位の長寿国であるらしい。

 何と言っても、長生きは一生の得である。
 続編で更に、これに関する私論について述べることにしよう。

 (以上、「原左都子エッセイ集」2008.08.05付バックナンバーより再掲載したもの。)



 このバックナンバーを読み返す都度、私の脳裏に様々な感情が行き交う。
 そんな我が深層心理を2019年8月の今、以下にまとめてみよう。

 まずは、親の責任論だ。
 この事件、どう考察しても我が親どもの“愚かさ”が前面に出てしまう。 
 未だ幼き我が子が燃え滾る味噌汁をひっくり返したとなれば、いくら私が忍耐強い娘だとせよ、親として開口一番問うべきは「怪我(火傷)をしていないか!?」に決まっているであろうに。
 何故、我が親どもはそれを問うてくれなかったのか!? との“恨みつらみ感情”が今尚我が脳裏に燦然と存在する。
 とにかくいつもいつも「共働きなんだから」との言い訳を、一番最初に子供に押し付ける両親だった。 姉は高校生時点で、そして妹の私は20歳前半期の就職時点で親元を離れることと相成ったのも、そんな家庭環境がもたらした自然の成り行きなのだろう。

 祖母が私に告げた“迷信”を母親に話した事もあるのだが。
 これを母が完全否定して私に言うに、「あの人(祖母の事)古い時代の人間でいつもくだらない迷信を他人に告げる癖があるのよ。そんな戯言を信じないように!」

 一方、私の解釈は決してそうではなかった。
 その後私の火傷を哀れんでくれたのは、いつも私達姉妹に日頃寄り添ってくれている祖母だった。 “こと焼け”を抱える運命を背負った私を心より心配してくれているからこその発言だったと、幼き私は認識する事が出来ていた。


 そんな父方祖母は、90代半ば頃まで長生きした。

 私が上京後郷里へ帰省する都度、幼き頃日々寄り添ってくれた祖母に会いに行くと、「大きくなったね、綺麗になったね。立派になったね。」と必ずや褒めてくれたのを思い起こす……。


「雑談が出来ない人」って実際存在する。

2024年09月10日 | 人間関係
 (冒頭写真は、少し前の朝日新聞広告欄より転載したもの。)


 この原左都子は、多少“気難しそう”な印象があるかもしれないが。 
 「雑談」はけっこう得意かも!! 😜 

 とは言えども、「雑談」と「本論」の区別は意外と困難かもしれない。
 と言うより、話術に長けた人物とは、「本論」の中にウィットに富んだ「雑談」を何気なく入れ込んだりする多彩(多才)さがあったりするものだなあ。



 私が身近に思い起す「雑談」が出来ない人物とは。
 30年前に縁を切った、我が実姉(Hとしておこう)だ。

 Hはそもそも人との会話が苦手な性格だった。
 大人になって以降は、自身が好む相手との会話はある程度 自由にできるようになったようだが。 
 若い頃より、どういう訳か自身に好意をよせてくれている相手に対してすら自由会話が成立しない人格だったのを記憶している。
 Hは元々外見が良く、進学した高校の男女比が8対2と、男子生徒が多かったこともあり。 とにかくモテまくったようなのだが…
 デートのオファーが沢山舞い込んできて、そのデートによく出掛けたのは私も承知している。 にもかかわらず、一向に「彼氏」が出来ない。😥 😷 
 ある時、未だ子どもの私が姉に何度か尋ねたことがある。「この前デートした男の子とは付き合わないの?」 
 姉が応えて、「あの男子はダメだった…」 その類の回答ばかりが連続して返って来た。
 
 当時の私は女子生徒が多い高校に通っていたこともあり、そんな姉が羨ましい時もあったのだが。
 結果として、姉は高校時代には誰一人の男子とも交際に至らないままに、大学へ進学した。

 姉が大阪にて大学生になった後に、私がその住まいを訪ねたことがあるのだが。 その際にも、姉が付き合っている(??)らしき男子学生より電話がかかってきた。
 その電話に出た私の印象から言うと、十分に利発で良き青年のイメージが湧き出るような男性の電話にての対応だった。

 にもかかわらず、姉からの回答とは「この人ダメ!」だったのだ。

 あの時私は18歳だったと記憶しているが、その年齢にして思ったことがある。
 (もしかしたら姉という人間とは、老若男女を問わず真っ当な相手と渡り合えないのではなかろうか?!? それは女性に対しても同様で、事実今までの人生に於いて ただの一人の女友達もできないし… )

 その後、そんな姉は米国へ移住したりして結婚・離婚を3度繰り返しつつ。結果として高齢域に達している現在は、独り身で相変わらず懇親の男性を“とっかえひっかえ”しながら、現在に至っているようだ。


 その姉だが、元々“育ちが悪い”(これに関しては、私も“同じ穴の狢”だが)。😖 😵 
 
 特筆するべきは 表題の如く、一切の「雑談が出来ない」人種だった事実である!!

 我が父も母も、この私も。 “雑談“は出来る人種だった。
 にもかかわらず 姉は、まさに全く“雑談が不能な人種であることに、妹の私は姉が高校生時代から気付いていた。



 いやもちろんのこと、人間関係が「雑談」のみだったならば 世は成り立ちようがないのは歴然だ。

 ところが、「雑談」とは人と人との心のオアシスとでも言える貴重な存在ではなかろうか?!?

 これを人間関係上、上手く操れる人材こそがこの世を心地よく成果を掴みつつ渡っているものと私は捉え、その努力を続けている。😃