この原左都子など長かった独身時代より、人間とは一人で生きて一人で死んでいくもの、と信じて疑っていなかった。
その思考は晩婚後も変わらない。 と言うよりも、変わり様が無い現実だ。
何故ならば、親族の皆が私の世話・介護に期待する一方、誰一人として私の老後の面倒を看てくれる気など毛頭無い事が歴然としているからだ。
(参考のため、若干の事情を抱えている娘には、“私は100歳超まで生きるから、母娘でずっと仲良くしようね。” と時々冗談交じりで話したりする。 少し切実な課題であるが、本心で娘をこの世に残したままサリバンの私は死に切れない。)
いや、実際万が一、私が若死にしにそうになったら親族の皆はどうする気なのだろう??
ところがこれまた親族の誰もが、私はいつもピンピンしていてずっと元気なものと信じて疑っていない有様だ。
ある時亭主に聞いてみた事がある。 「もしも私が重い病に倒れ若死にしたらどうする?」 そうしたところすかさず、「〇子が病気する訳がないよ」 反論して私曰く、「でも事故死なども考えられるよ」 亭主曰く、「〇子の場合せいぜい骨折程度だよ。最悪の場合でも何か月か入院したら退院できるよ。」
いやまあ、それ程までに私がいつまでも元気で家族のために働き続けると信じてもらえている事実とは、有り難い話であろう。
そんな私は、近しい人を“孤独死”で2人亡くしている。
その一人は実父だが、60代の若さで急性心筋梗塞で突然死した。 父の場合、決して孤独死ではないのだが、自宅で苦しんでいるのを母が発見した時には既に手遅れ状態で、一人であの世へ旅立ったようなものだ。
あるいは我が生涯に於ける唯一と言える腹心の友も、やはり60代で一人暮らしの自宅にてくも膜下出血にて孤独死した。 ちょうど4年前の出来事だ。 彼女の場合は、正真正銘の“孤独死”だった。 死後ご親族が発見するまでにある程度の日数が経過していたとの事で、その後葬儀を済ませた後に、生前親しかった私に連絡を頂戴した。
それらの経験がある私は、“孤独死”とは他人事でない感覚を必然的に脳裏に描いている。
行く行く私は孤独死を遂げる運命にあろう。 その際に、死後なるべく周囲へ迷惑を掛けない体制を整えておくべきと日々考えている。
さて、朝日新聞1月18日付別刷「be」 “between” のテーマは、「孤独死はひとごとでない?」だった。
当然ながら、原左都子の回答は「いいえ」である。
その理由とは上記に記した通り、人生の最後に及んでも自己単独責任で死をまっとうしたい故だ。 そのため孤独死を我が事として捉えていて、特段恐れていないという意味で「いいえ」と応えよう。
朝日新聞の回答によると、私と同じく「いいえ」と回答したのは30%。 その他70%は、孤独死を我が事として恐れおののいている様子だ。
ところがこの記事をよく読むと、「いいえ」と回答した少数派30%の人々のご意見が我が思考と大幅に食い違う事に愕然とさせられる。
要するに、“孤独死など他人事”と考える読者のほぼすべてが「死に際に助けてくれる人物が身近にいる」故、と結論付けられそうだ。
ははあ、要するにこの設問の回答者とは未だ若き世代が多いのかもしれない。
あるいは高齢域に達している身で、ご自身の親族等々身内のどなたかが自分の死を看取ってくれると信じ疑っていない“ノーテンキ人種”がこの世に蔓延っている証拠か??
となると、むしろ当該設問に「はい」と応えた多数派こそが自分の未来を直視出来ているとも捉えられよう。
当該朝日新聞記事は、一般的に「孤独」とされている概念にも議論を展開している。
それを以下に要約して紹介しよう。
誰にも看取られる事無く息を引き取り、一定期間発見されない孤独死。 高齢化、核家族化が進む中、「ひとごとでなない」と思う人が増えている。 不安の声が寄せられる中、「望むところだ」「良くないものとして捉えるのはどうか」という声も。 自分の望み通りに死にたいと願う人は多いようだ。
平成28年版「高齢者社会白書」では、孤独死を「誰にも看取られることなく亡くなった後に発見される死」としている。 「おひとりさま」は増え、日本人男性の生涯未婚率が2035年で29%になると推定する。
そんな中、「孤独死が悪として取り上げられる理由はない」との意見もある。 「孤独死が悪ならば、高齢者独居者でそのリスクが高い人達全員を施設へ入れないといけなくなる」 「死を看取られるから幸せともいえない」 「人生の最後が一人だったことが寂しい事か、悲惨な事か? 少し表現を変えて欲しい気もする」 等々の様々な意見が交錯している。
最後に、原左都子の結論でまとめよう。
実父の突然死、あるいは腹心の友の自宅での孤独死……
様々な辛い経験を身近に重ねて来た私は、自身の死に関しても“孤独死”こそが理想、との腹が据わっている。
そんな私は(娘以外の)親族皆の死後を看取った後は、孤独死こそを希望したい。
近年に至っても、身内親族や自身の支援者・ファン等を出来る限り集めて自分の葬儀を実行したいとの“勘違い人種”は政界や芸能界に於いて今尚存在し、自身の葬儀を大々的に執り行っている。
それを実行可能な経済力ある人間は、身勝手に実行すれば済む話なのだろう。
片や我が身を含めた庶民は、後世に残される者にこそ配慮を成すべきだ。
そのように結論付けたならば、“孤独死” こそが最高にして最大の死に様ではあるまいか??
ただし反復するがそれを実行するには、必ずや次世代に自分の死に際に迷惑を及ぼさない配慮を成せる程度の経済力と美学を生前に貫き、伝達しておくべきだろう。
その思考は晩婚後も変わらない。 と言うよりも、変わり様が無い現実だ。
何故ならば、親族の皆が私の世話・介護に期待する一方、誰一人として私の老後の面倒を看てくれる気など毛頭無い事が歴然としているからだ。
(参考のため、若干の事情を抱えている娘には、“私は100歳超まで生きるから、母娘でずっと仲良くしようね。” と時々冗談交じりで話したりする。 少し切実な課題であるが、本心で娘をこの世に残したままサリバンの私は死に切れない。)
いや、実際万が一、私が若死にしにそうになったら親族の皆はどうする気なのだろう??
ところがこれまた親族の誰もが、私はいつもピンピンしていてずっと元気なものと信じて疑っていない有様だ。
ある時亭主に聞いてみた事がある。 「もしも私が重い病に倒れ若死にしたらどうする?」 そうしたところすかさず、「〇子が病気する訳がないよ」 反論して私曰く、「でも事故死なども考えられるよ」 亭主曰く、「〇子の場合せいぜい骨折程度だよ。最悪の場合でも何か月か入院したら退院できるよ。」
いやまあ、それ程までに私がいつまでも元気で家族のために働き続けると信じてもらえている事実とは、有り難い話であろう。
そんな私は、近しい人を“孤独死”で2人亡くしている。
その一人は実父だが、60代の若さで急性心筋梗塞で突然死した。 父の場合、決して孤独死ではないのだが、自宅で苦しんでいるのを母が発見した時には既に手遅れ状態で、一人であの世へ旅立ったようなものだ。
あるいは我が生涯に於ける唯一と言える腹心の友も、やはり60代で一人暮らしの自宅にてくも膜下出血にて孤独死した。 ちょうど4年前の出来事だ。 彼女の場合は、正真正銘の“孤独死”だった。 死後ご親族が発見するまでにある程度の日数が経過していたとの事で、その後葬儀を済ませた後に、生前親しかった私に連絡を頂戴した。
それらの経験がある私は、“孤独死”とは他人事でない感覚を必然的に脳裏に描いている。
行く行く私は孤独死を遂げる運命にあろう。 その際に、死後なるべく周囲へ迷惑を掛けない体制を整えておくべきと日々考えている。
さて、朝日新聞1月18日付別刷「be」 “between” のテーマは、「孤独死はひとごとでない?」だった。
当然ながら、原左都子の回答は「いいえ」である。
その理由とは上記に記した通り、人生の最後に及んでも自己単独責任で死をまっとうしたい故だ。 そのため孤独死を我が事として捉えていて、特段恐れていないという意味で「いいえ」と応えよう。
朝日新聞の回答によると、私と同じく「いいえ」と回答したのは30%。 その他70%は、孤独死を我が事として恐れおののいている様子だ。
ところがこの記事をよく読むと、「いいえ」と回答した少数派30%の人々のご意見が我が思考と大幅に食い違う事に愕然とさせられる。
要するに、“孤独死など他人事”と考える読者のほぼすべてが「死に際に助けてくれる人物が身近にいる」故、と結論付けられそうだ。
ははあ、要するにこの設問の回答者とは未だ若き世代が多いのかもしれない。
あるいは高齢域に達している身で、ご自身の親族等々身内のどなたかが自分の死を看取ってくれると信じ疑っていない“ノーテンキ人種”がこの世に蔓延っている証拠か??
となると、むしろ当該設問に「はい」と応えた多数派こそが自分の未来を直視出来ているとも捉えられよう。
当該朝日新聞記事は、一般的に「孤独」とされている概念にも議論を展開している。
それを以下に要約して紹介しよう。
誰にも看取られる事無く息を引き取り、一定期間発見されない孤独死。 高齢化、核家族化が進む中、「ひとごとでなない」と思う人が増えている。 不安の声が寄せられる中、「望むところだ」「良くないものとして捉えるのはどうか」という声も。 自分の望み通りに死にたいと願う人は多いようだ。
平成28年版「高齢者社会白書」では、孤独死を「誰にも看取られることなく亡くなった後に発見される死」としている。 「おひとりさま」は増え、日本人男性の生涯未婚率が2035年で29%になると推定する。
そんな中、「孤独死が悪として取り上げられる理由はない」との意見もある。 「孤独死が悪ならば、高齢者独居者でそのリスクが高い人達全員を施設へ入れないといけなくなる」 「死を看取られるから幸せともいえない」 「人生の最後が一人だったことが寂しい事か、悲惨な事か? 少し表現を変えて欲しい気もする」 等々の様々な意見が交錯している。
最後に、原左都子の結論でまとめよう。
実父の突然死、あるいは腹心の友の自宅での孤独死……
様々な辛い経験を身近に重ねて来た私は、自身の死に関しても“孤独死”こそが理想、との腹が据わっている。
そんな私は(娘以外の)親族皆の死後を看取った後は、孤独死こそを希望したい。
近年に至っても、身内親族や自身の支援者・ファン等を出来る限り集めて自分の葬儀を実行したいとの“勘違い人種”は政界や芸能界に於いて今尚存在し、自身の葬儀を大々的に執り行っている。
それを実行可能な経済力ある人間は、身勝手に実行すれば済む話なのだろう。
片や我が身を含めた庶民は、後世に残される者にこそ配慮を成すべきだ。
そのように結論付けたならば、“孤独死” こそが最高にして最大の死に様ではあるまいか??
ただし反復するがそれを実行するには、必ずや次世代に自分の死に際に迷惑を及ぼさない配慮を成せる程度の経済力と美学を生前に貫き、伝達しておくべきだろう。