我が子の「公共道徳」の教育には、子どもが幼き頃より人一倍厳しい母親の私である。
そんな私の視点で読んで“これはちょっと変だぞ”と感じる投書を、先だっての朝日新聞の「声」欄で発見したため、本日の記事ではその投書に対する「反論」意見を展開することにしよう。
では早速、6月23日(火)の朝日新聞「声」欄に掲載された34歳主婦よりの投書“お母さん「邪魔」と言わないで”を以下に紹介しよう。
小さい子連れの母親の後ろに自転車やスーパーのカートが近づいて来た時に、母親が自分の子どもに向かって「邪魔!」と短く言い放つ光景に何度も出合う。相手に迷惑をかけたくない、しつけをしていないと思われたくない、何より子どもが怪我をしないように、との気持ちからとっさの一言になっているのだと思う。しかし、子どもは状況を一瞬で理解できない。大好きな母親に「邪魔!」と言われこわ張った顔を見ると悲しくなる。邪魔と繰り返し言われて育った子どもは、それを手本にしてしまうかもしれない。「ちょっとよけてあげようね」などと優しく声をかけて欲しい。周りの人も、急ぎの場合でも舌打ちなどせず温かく見守ってあげて欲しい。母親が連れているのは日本の未来である。
さて、私論に入ろう。
何やら未来ある日本の子ども一同をかばったつもりのごとくの、投書者本人は「してやったり!」と自己満足しているのかとも捉えられる一見もっともらしい投書内容である。
ところが、この投書には一読して“一般人”である私に“不快感”を抱かせる部分が何箇所かあるのだ。
その一つは「ちょっとよけてあげようね」のくだりである。
公共の場において最優先されるべきは、“他者に対する配慮心”である。
「ちょっとよけて“あげよう”」の表現は、親が身内である子どもに対して発する言葉としては公共性の観点から明らかに“誤り”である。 そのニュアンスを少々大袈裟に表現すると、(この場では我々親子が最優先して大切に扱われるのが当然で、その他大勢の人々は我々に配慮するべきなのだが、ここでは我々がよけて“あげて”他の人を通して“あげよう”か。)と私の耳には聞こえてくるのだ。
このような公共の場で母親が我が子に対して発するべきなのは、身内である我が子に配慮する以前に“他者に配慮”した言葉であるのが常識だ。 その意味で、自分や我が子をへりくだったニュアンスの「邪魔!」を母親がとっさに子どもに発したのは、この場合“正しい”表現であったと言える。
願わくば、投書者の主張するように子どもを驚かせないよう、母親はより“柔らかい表現”を選択することが望まれるのかもしれない。 だが、とっさの場合、母親が我が子に「邪魔!」と叫ぶのはある程度やむを得ない話である。 そのような場合でも、日頃より親子の信頼関係が成立しているならば、一瞬驚いたであろう子どももその母の言葉は内心承諾できるであろうし、またたとえ子どもが驚き泣き出したとしても、後にいくらでも挽回可能などころか(こういう場合は、今度からは他の人の邪魔にならないようにしようね)と母親としては子どもに再確認でき、むしろ教育的効果がもたらされるとも考察できる。
この投書においてもう一点気になるのは、「しつけをしていないと思われたくない」の部分である。
私が推測するに、この投書者は、自分が子どもに対して“しつけをしていない”と周囲から何度か指摘されているのではなかろうか。それに対して心にトラウマや世間に対する逆恨みの感情でも抱いているのではないかとすら心配してしまう。
子どもの教育のうち特に「公共道徳」に関しては、親としては子どもが幼い頃から取り組んだ方が後々の効果が大きく、日常子どもに接する母親(もちろん父親も)の子育ての大きな一環であると私は捉えている。 この投書者の「しつけをしていないと周囲に思われたくない」との発想の背景には、子どものしつけを“義務”や“強制”として捉えている母親の心情が伺えてしまい、寂しささえ感じる私である。
実際問題、公的場面で「公共道徳」の教育がなされていない親子に出くわす場面は数多い。
電車の中で騒ぎ立てたり、座椅子に窓向きに座って周囲の迷惑お構いなく土足をバタつかせる子供達と、それを放置して携帯を操作し続けたり親同士で話に夢中になっている母親達。 あるいは、スーパーで子どもを好き放題遊ばせて我関せずに買い物をしている母親達。 はたまた、歩道で並列にベビーカートを押して話しながら歩き後続の歩行人に気付かない母親達やその子どもの一家。……
事例を列挙すればきりがない程、子どもの「公共道徳」教育が家庭においてなおざりにされている現状に、皆さんも日常的に遭遇されていることであろう。
子どもをもつ親の皆さん、我が子の「公共道徳」教育は親の役割です。周囲から「しつけをしていないと思われたくない」などとせせこましい事を言っている場合ではなく、親の責任において、子どもの「公共道徳」教育には小さい頃から積極的に着手しましょうよ。
ある時は他者への配慮を優先するがあまり、可愛い我が子に「邪魔!」と叱り倒したっていいと私は思いますよ。公共心が身に付きつつある子どもには、その親の思いは幼心にも必ず通じるものです。
最後は自慢話で恐縮であるが、幼い頃より厳しく「公共道徳」教育を施してきている我が子など、高校生になっている今、礼儀正しく周囲への配慮心の客観性を身につけた何とも親孝行の子どもに育ってくれている。(それだけが取り得の子なんですけどね。)
P.S.
日頃より「原左都子エッセイ集」へご訪問いただきまして、誠にありがとうございます。
大変勝手ではありますが、現在一時的に“コメント欄休止”の措置を取らせていただいております。 時期を見計らい、また必ずコメント欄を再開致しますので、今後共皆様の変わらぬご訪問をお待ち申し上げております。
そんな私の視点で読んで“これはちょっと変だぞ”と感じる投書を、先だっての朝日新聞の「声」欄で発見したため、本日の記事ではその投書に対する「反論」意見を展開することにしよう。
では早速、6月23日(火)の朝日新聞「声」欄に掲載された34歳主婦よりの投書“お母さん「邪魔」と言わないで”を以下に紹介しよう。
小さい子連れの母親の後ろに自転車やスーパーのカートが近づいて来た時に、母親が自分の子どもに向かって「邪魔!」と短く言い放つ光景に何度も出合う。相手に迷惑をかけたくない、しつけをしていないと思われたくない、何より子どもが怪我をしないように、との気持ちからとっさの一言になっているのだと思う。しかし、子どもは状況を一瞬で理解できない。大好きな母親に「邪魔!」と言われこわ張った顔を見ると悲しくなる。邪魔と繰り返し言われて育った子どもは、それを手本にしてしまうかもしれない。「ちょっとよけてあげようね」などと優しく声をかけて欲しい。周りの人も、急ぎの場合でも舌打ちなどせず温かく見守ってあげて欲しい。母親が連れているのは日本の未来である。
さて、私論に入ろう。
何やら未来ある日本の子ども一同をかばったつもりのごとくの、投書者本人は「してやったり!」と自己満足しているのかとも捉えられる一見もっともらしい投書内容である。
ところが、この投書には一読して“一般人”である私に“不快感”を抱かせる部分が何箇所かあるのだ。
その一つは「ちょっとよけてあげようね」のくだりである。
公共の場において最優先されるべきは、“他者に対する配慮心”である。
「ちょっとよけて“あげよう”」の表現は、親が身内である子どもに対して発する言葉としては公共性の観点から明らかに“誤り”である。 そのニュアンスを少々大袈裟に表現すると、(この場では我々親子が最優先して大切に扱われるのが当然で、その他大勢の人々は我々に配慮するべきなのだが、ここでは我々がよけて“あげて”他の人を通して“あげよう”か。)と私の耳には聞こえてくるのだ。
このような公共の場で母親が我が子に対して発するべきなのは、身内である我が子に配慮する以前に“他者に配慮”した言葉であるのが常識だ。 その意味で、自分や我が子をへりくだったニュアンスの「邪魔!」を母親がとっさに子どもに発したのは、この場合“正しい”表現であったと言える。
願わくば、投書者の主張するように子どもを驚かせないよう、母親はより“柔らかい表現”を選択することが望まれるのかもしれない。 だが、とっさの場合、母親が我が子に「邪魔!」と叫ぶのはある程度やむを得ない話である。 そのような場合でも、日頃より親子の信頼関係が成立しているならば、一瞬驚いたであろう子どももその母の言葉は内心承諾できるであろうし、またたとえ子どもが驚き泣き出したとしても、後にいくらでも挽回可能などころか(こういう場合は、今度からは他の人の邪魔にならないようにしようね)と母親としては子どもに再確認でき、むしろ教育的効果がもたらされるとも考察できる。
この投書においてもう一点気になるのは、「しつけをしていないと思われたくない」の部分である。
私が推測するに、この投書者は、自分が子どもに対して“しつけをしていない”と周囲から何度か指摘されているのではなかろうか。それに対して心にトラウマや世間に対する逆恨みの感情でも抱いているのではないかとすら心配してしまう。
子どもの教育のうち特に「公共道徳」に関しては、親としては子どもが幼い頃から取り組んだ方が後々の効果が大きく、日常子どもに接する母親(もちろん父親も)の子育ての大きな一環であると私は捉えている。 この投書者の「しつけをしていないと周囲に思われたくない」との発想の背景には、子どものしつけを“義務”や“強制”として捉えている母親の心情が伺えてしまい、寂しささえ感じる私である。
実際問題、公的場面で「公共道徳」の教育がなされていない親子に出くわす場面は数多い。
電車の中で騒ぎ立てたり、座椅子に窓向きに座って周囲の迷惑お構いなく土足をバタつかせる子供達と、それを放置して携帯を操作し続けたり親同士で話に夢中になっている母親達。 あるいは、スーパーで子どもを好き放題遊ばせて我関せずに買い物をしている母親達。 はたまた、歩道で並列にベビーカートを押して話しながら歩き後続の歩行人に気付かない母親達やその子どもの一家。……
事例を列挙すればきりがない程、子どもの「公共道徳」教育が家庭においてなおざりにされている現状に、皆さんも日常的に遭遇されていることであろう。
子どもをもつ親の皆さん、我が子の「公共道徳」教育は親の役割です。周囲から「しつけをしていないと思われたくない」などとせせこましい事を言っている場合ではなく、親の責任において、子どもの「公共道徳」教育には小さい頃から積極的に着手しましょうよ。
ある時は他者への配慮を優先するがあまり、可愛い我が子に「邪魔!」と叱り倒したっていいと私は思いますよ。公共心が身に付きつつある子どもには、その親の思いは幼心にも必ず通じるものです。
最後は自慢話で恐縮であるが、幼い頃より厳しく「公共道徳」教育を施してきている我が子など、高校生になっている今、礼儀正しく周囲への配慮心の客観性を身につけた何とも親孝行の子どもに育ってくれている。(それだけが取り得の子なんですけどね。)
P.S.
日頃より「原左都子エッセイ集」へご訪問いただきまして、誠にありがとうございます。
大変勝手ではありますが、現在一時的に“コメント欄休止”の措置を取らせていただいております。 時期を見計らい、また必ずコメント欄を再開致しますので、今後共皆様の変わらぬご訪問をお待ち申し上げております。