原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

左都子の「科学哲学」 小講座 Ⅳ

2020年05月31日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学に於ける「科学哲学」の授業内の“米哲学者ローティ”に関する講義の一部を撮影したもの。)


 3日ぶりに我がエッセイ集のテーマを「科学哲学」に戻そう。


      

 今回のW先生の授業は、米哲学者ローティの哲学論を取り上げている。

 参考のため今一度ローティの略歴を紹介すると。  Rorty (米国の哲学者 リチャード・ローティ ネオプラグマティズムの代表的思想家。 後にスタンフォード大学教授となり、哲学と比較文学を教えた。)

 どうやら夏期休暇前の最後の授業で、W先生が配布したローティの論文(もちろん英文)を読んで自分の意見を述べる小論文課題が学生達に課せられたようだ。
 その提出日が夏期休暇明けの10月とのことで、休暇前にW先生のローティ授業が成された部分が、冒頭と上記の写真である。

 実はこのローティに関しては、我が記憶が現在明瞭ではない。
 当然ながら小論文課題は夏期休暇中に消化して提出したのだろうが、おそらく“ピント外れ”の記載をしたことであろう。😫 
 
 そして私のみならず他の学生も同様だったのだろう。😵 
 小論文提出後の10月のW先生の講義は、それら“ピント外れ小論文”を受けて、今一度「哲学」の基本を一から述べて下さった上で、ローティに関しても再度分かり易く解説されたようだ。


      



      


 それを聞き取り筆記したのが上記講義ノート2ページだが、以下に要約しながら転載しよう。

 (哲学とは)ある意味ではあたりまえのことを言っている。(これは大事なことである。) 過去や現在の哲学的なことを批判している。
 哲学とは、あたりまえの事を言うもの。 しかし、その先は何であるかという点に関しては述べられていない。
 哲学には、様々な分野や問題がある。
 ある種のリアリティを前提にしているような問題へと進んでいくものであるが、ローティはそれを駄目だと言っているのではない。 
 ローティは対話しかないと言っている。 dialogue connversation
     realは問題ではない。 単に話し合いをする。 相対主義ではない。
  ethnocentlism
  話し合って白黒つけるのではなく、基本的には我々側に引き入れようとする活動。 ある意味では、そうであると言えるが、そう見ると非常に表面的。
 しかし、あたりまえのことを誰も言わなかった。 
 (他の人は)話の中身に立ち入って議論しようとしてきた。 ローティはそうしない。 あたりまえであるので反論も出来ないが、それで一体どうしたと言いたい。
 “我々”という言葉が、この論文内で一つのkey。 “我々”とは、一体誰を指しているのか? (これはローティにとって、現代のアメリカ社会、西洋)
 ただ、意見の一致しているcommunityは存在しない。 
 ローティはミッションのような話し方をするが、背後には何もない。
 西洋的デモクラシーと言っても、様々な慣行や考え方があるはず。
 ローティは、細かいことはどうでも良いとしている。 細かい議論になると、おそらく破綻する。
 現実には様々な具体的問題がある。 東と西の問題(これは大きな問題)もそうである。
 我々が問題としなければいけない様々な問題がある。
 どちらかに加担するしか解決策がないように、ローティの論文からは見える。
 それが正解だ、とローティは言っているのかもしれない。
 しかしそうすると、やはりtribial(あたりまえ)である。 tribialなことは批判出来ないため、認めるしかなくなる点がひっかかる。
 対話とは常に何かについての対話であり、その何かが問われている。 おしゃべりだけでは済まない側面がある。 埒があかない。 実際やってみる、研究をする事を欠くことは出来ない。
 単なる話を超えて、実際にあるものへ向かう。 この姿勢がRealism。
 この姿勢を求めていかないと、むしろtribialではなく、馬鹿げている。 行為、研究を話の中に取り入れようとすると、この話は成り立たない。
 あまりにもtribialな側面に目を奪われている。
 dialogue 対話が続けられないことを前提としている。
 もはや対話が続けられない場合、どうなのか? “対話可能性”はいつもあるとは限らない。  ① 翻訳可能性が無い(何を言っているのか分からない)場合はどうなのか?  ② 推論の様式が違っている場合、話しても無駄、続行する意味が無い、ということもあり得る。
 その辺をローティはどう考えているのか?

 (以上、我が講義ノートより転載したもの。)


 先程、このローティの論文を探してみたのだが、残念ながら見つからなかった。
 一体私が如何なる小論文を書いて提出したのかも、まったく思い出せない。

 実は、W先生が夏期休暇前にこの小論文課題を出した後の後期初めての授業に於いて、元々少なかった受講生の数が更に減少していた。 (おそらく当該小論文課題が重荷となり、受講をやめたのであろう。)
 残された受講生は、私を含めて3,4名だった記憶がある。
 (おそらく私が一番の劣等生だったのだろうが、この少数の学生達が小論文課題に於いて“的外れ”だったことを認識したW先生は、さぞや落胆されたことであろう… 😰
 それにもめげず少数学生相手に、こんな「哲学及びローティ」に関する初歩解説をして下さった事に、今更ながら感謝申し上げたい。

 この後も、(劣等生なりに)我がW先生の「科学哲学」への思い入れは続く。

日本人は勝手にやってこれたのか??

2020年05月30日 | 時事論評
 今回の我がエッセイは、本日2020.05.30付朝日新聞 別刷「be」内コラム記事、 作家 保坂和志氏による 「夏の手前で 日本人は勝手にやってきた」 に対する反論の形となろうか。


 今回のエッセイは、保坂氏論評の部分部分を取り上げつつ、我が私論を展開させていただく形式としよう。


 「(日本は)政府が無能なのに、コロナ対策がなぜかうまくいっている」 
 これに対し保坂氏の友人男性は、「無能なのに、じゃなくて、無能だからこそうまくいっているんだ」とのご見解だそうだ。 
 日本人は放っておけば勝手に努力して、勝手にせっせと働いて、勝手にあれこれ工夫する、そういう人達の集まりなんだと、保坂氏のご友人がおっしゃるとのことだ。

 原左都子の見解だが。
 そもそもこの国の「コロナ対策」がうまくいっているとは思わない。 当初“日本のコロナ対策はばくち”とまで諸外国から後ろ指をさされた日本政府だった。 どうやら現在コロナが小康状態に入ったように一見国民皆が勘違いさせられているだけで、必ずや第2波、第3波が押し寄せるであろう。 (個人的には特に来年の冬が怖い気がしている…)  その原因とは確かに「政府が無能だから」であろう。 これには同意する。
 「日本人は放っておけば勝手に努力して…」云々に関しても、私は決してそうは思わない。   確かに日本人の特質として、“馬鹿素直”なところがある点は認めるがそれは「努力」と表現出来るほどの代物ではなく、そもそも主体性無き国民性と捉えている。  その“主体性の無さ”を作り上げたのは我が国の教育体制、すなわち政府の責任と判断している。  「工夫」に関しても、ちまちまどうでもよい事に関してはそれをする国民が存在する(失礼な表現をお詫びしますが)ようだが、基本的に創造性無き国民が多数である感覚を私は抱いている。 これに関しても教育体制が一番の原因であろう。

 
 保坂氏による「日本人は規則に対する強い敬意がある」との記述にも同意する。  
 原左都子の視点で少し言葉を変えるならば「規則に対する敬意」ではなく「規則に対する従順さ」の方が適切かも知れない。 とにかく、“主体性”に欠けた国民性を学校教育により作り上げられてしまい、それにいつまでも国民ががんじがらめになっている印象がある。 


 保坂氏が面白い表現をされている。
 「無能だからうまくいっている」と言ったご友人が、日本人が勝手に努力して勝手に働くことを喩えて、「猫が暇さえあれば毛づくろいをしているのと同じ」と言っておられるらしい。
 原左都子の感覚としても要するにそういう事だ。 これを努力とは言わないだろう、と言いたいのだが。


 保坂氏は作家であられるが、小説を毎日書いておられるらしい。 周囲から「創作活動は大変ですね」と言われるが、勝手にやっているだけだから大変ではないとのことでもある。 出来不出来など関係無く、とにかく毎日書いておられるとのことだ。 そしてそれが一番好きだからやっているだけ、とのご記述でもある。

 原左都子の場合、保坂氏とはまったく立場が異なり、単なる“しがない”ブロガーであり、これによる一銭の収入も得ていない。 
 まあそれでもやはり自分で勝手にやっているだけ、との自由度に救われている感覚はある。 私の場合も現在に於いてはこの業が一番の達成感が得られるため、日々励んでいるだけのことと言えよう。


 最後に保坂氏は、「ならば国家は何をすればよいか?」とのテーマで結ばれている。 そして、これを機に一気にベーシック・インカムにするのがいい、との結論に至っておられる。
 以下、保坂氏の記述を引用するが。  「一律10万円の給付を毎月続けるのだ。 家計に余裕のある人は寄付なりクラウドファンディングなどするだろう。 国が自動的にお金をくれたら、働かなくなってギャンブルばかりする、なんて心配は無い。 そんなことをするのは(国民の)一部で、大半はマイペースで働き続ける。 課された労働でなく、喜びとしての仕事をそれぞれが見つける。 これこそ、コロナ以後の大転換。 コロナが人類に与えた、試練と恩恵だ。」



 最後に、原左都子の私論でまとめよう。
 
 作家の保坂先生。
 最後のご論評は冗談か、あるいは“見果てぬ夢”でいらっしゃいますよね??

 原左都子として“コロナ後”を語るのは、(まだまだ“コロナ禍”が続行するとの論者として)もっとずっと先に伸ばしたいが。

 この国の国民それぞれが“喜びとしての仕事”に就けるまでの国家の大転換など、“コロナ禍”にはかかわり無く夢また夢の物語であろう、と結論付けて。

 今回のエッセイを終焉に持ち込もう。

「羽田新ルート問題」、大都市低空を平然と飛ばす安倍政権の神経の程を疑う

2020年05月29日 | 時事論評
 (冒頭写真は、本日2020.05.29付 新聞折込み広告を転載したもの。)


 この広告は、某野党政党が作成した紙面だが。
 
 我が家の上空も、この「羽田ルート」に該当している。
 試験飛行の時点から、「騒音問題」「威圧感問題」「危険性」、そして「落下物問題」に関して、特に羽田に近い該当地域より厳しく提示されていた。

 にもかかわらず、その後政府からは該当地域住民に対する検証結果発表等々のフィードバックが何ら無いままに、平然と正規のルートとして採用されてしまっている。
 その無神経さには驚かされるばかりだ。😱  
 


       
        本日、つい先程我が家のバルコニーより撮影した羽田新ルートを飛ぶ航空機(おそらくJAL機)。 我が家は上記広告内の75デシベル地域辺りだが、それでも機体のロゴが確認出来る程の低空飛行だ。
 しかも、“新型コロナウィルス禍”による国際便大幅欠航により、現在国際便は通常の2割程しか飛ばしていないはずなのに。  試験飛行の検証もせずして何故敢えて危険性が高い大都市低空飛行を採用するのか! 安倍政権の魂胆の程が見え見えだ。 要するに、将来的にこのルートを羽田メインルートとして定着したいのであろう。
 参考だが、現在の国際便運航率2割と言えどもその時間間隔は2分に1分程の便数だ。
 これが全線運行となると…
 空恐ろしい本数の航空便が、我が家の上空を轟音と共に落下物をまき散らしながら?? 飛ぶ日も近いのか!!?😨 


       
        バックナンバーにて掲載済みの写真。


       
        同じく、バックナンバーにて掲載済みの写真。


       
        試験飛行中に我が自宅バルコニーから撮影したもの。 一番低空航空機の場合、我が家からも手が届きそうな程の低空飛行だ。 このまま新宿高層ビル群まで進んで、冒頭の都庁上空を飛ぶ広告写真と相成るのであろう。 



 我がエッセイ集において近い過去に2度程、当該問題に関する問題提起をしているが。
 
 この地に引っ越して来る時点では、こんな事態になるとは思ってもいなかった。 
 とにかく東京生まれにして“閑静”を好む亭主の嗜好を優先して(娘の私立中学受験も視野に入れたが)、18年前に引越先としてこの地を選択した我が家だ。
 実際、東京メトロ沿線にしてこれ程閑静かつ交通便の良い立地条件に恵まれている地とは他に無いのではなかろうか? と言えるほどに、この地での生活環境に恵まれて来た。

 その幸運が、この「羽田新ルート」により確実に脅かされる事態だ。😰 


 どうか野党政党には今後も頑張ってもらって、何とか「羽田新ルート」を廃案に持ち込んで欲しいものだ!
 
 当該折込み広告によれば、過去に於いて「東京飛行ルート」を変えさせた歴史があるとのこと! 
 私は当該政党を積極的に応援している立場ではないが、“打倒「安倍政権」派”の立場で今後もこの問題を注視していこう。

再掲載 「専門力を身につけてから上京しても少しも遅くない」

2020年05月29日 | 時事論評
 本日の「原左都子エッセイ集」編集画面の上位50位内に、冒頭表題のバックナンバーがランクインしていた。


 これを現在読み返しても同感また同感だ! (自身が過去に執筆・公開したエッセイ内容に同感する、とのナルシストぶりを重々自覚の上だが…😖

 そこで、2019.05.27付 「専門力を身につけてから上京しても少しも遅くない」 と題するバックナンバーを、以下に再掲載させていただこう。


 少し前の話になるが。
 2019.05.22付朝日新聞朝刊「耕論」のテーマが「東京の大学めざすな?」だった。

 私がサリバンを担当している一人娘が無事大学を卒業し、社会人となって早くも4年目の春を迎えている立場にして。 
 現在の「大学」の制度や「大学」が置かれている現況に関して、興味が薄れているのが実情だ。
 
 そんな我が目に留まったのが、上記朝日新聞の「東京の大学を目指すな?」だった。
 一体どうしたと言うんだ?? と思いつつ記事の冒頭のみ読んでみるに。
 どうやら、東京23区の大学定員を抑制する法律が施行されたらしい。 一極集中化対策として地方の若者の東京流入を抑える狙いであるようだ。 ただ、「東京の大学へ来るな」という不公平なメッセージにならないかとの懸念も存在する、とも記載されている。

 更に記事を読み進めるに… 
 その背景に、“東京の大学入学・卒業 → 大企業入社 → 明るい未来”  との図式が大前提として存在する事実を私は嗅ぎ付けた。

 早速私事及び私見に入ろう。

 これ、要するに「文系」学生に特有の現象ではなかろうか??
 私が卒業した「医学部」など、世間では“偏差値が高い職業訓練校”と揶揄されているその文言が物語る通り…。 実際卒業後は都会であれ田舎であれ新卒就業が保障されているのに加えて、本人にその意思があれば定年まで(あるいはそれを通り過ぎても)その専門を活かせる分野である。
 
 その“就職有利性”をまんまと利用した我が政策とは。
 郷里過疎地医学部卒業直後に上京し、医学専門(パラメディカル分野)職員として東京本社の民間医学関連企業(東証一部上場企業だが)への就業との道を選んだ。
 その後医学専門職の恩恵に十分授かり、私なりに大都会にて今後に渡り生き抜くべく資産も拡大しつつ、この東京こそが我が“活躍の場”!と確信し、別分野へも活躍フィールドを拡大しながら“東京人”としての人生を歩み続けている。
 この大都会東京にこそ我が骨を埋める予定でもある。

 時代を遡れば、私が過疎地の高校生だった1970年代初頭頃より、東京の大学を目指す若者は少なからず存在した。 何分専門分野がまったく異なるとの理由が大きいが、それら面々が現在一体如何なる人生を歩んでおられるのかを知るすべも無い。
 たまに(まさに“たま”だが)出席する同窓会等にて一部の同窓生の現況に触れるに。 (特に女性陣は)東京の大学卒業後早い時期に婚姻に至り、主婦としての人生を歩んでおられる様子だ。 正直申し上げて上京後の生き様が大幅に異なるが故に、今更懇親にしたいとの私からの希望は一切無い…

 今回の朝日新聞記事に、3名の“有識者”らしき人物が朝日新聞の取材に応えているようだが。
 そのうち2名の記述は要するに現在の「文系」がおかれている苦悩中心の記述かと思われ、原左都子にとって興味が無いと言うよりも、我が人生と交錯する部分が少ないのが残念だ。

 そんな中、歴史学者 藤田覚氏が記載されている 「江戸時代に失敗した政策」と題する文面のごく一部を以下に要約して紹介しよう。
 江戸の人口増加の原因は、地方農民が出稼ぎなどで江戸へ流入した結果だ。 なぜ農村を捨て江戸をめざすのかと言えば「食うため」である。 農村を支配する幕末代官の言いなりで「江戸へ行けば何とかなる」と村で考えられ、実際に「何とかなった」のだ。
 奉公を積み主人にのれん分けされるのはごくまれな例だが、食うや食わずの農村に比べ、江戸には様々な仕事があり農民を受け入れる余地があった。 その後、水野忠邦により出された「人返しの法」も政策として出されたが…
 地方の実情を考慮せずして江戸の人口抑制に取り組んでも成果は上がらない。 結果的に「人返しの法」は効果がなかった。 疲弊する地方への支援策に取り組まずに、地方から都市へ来る人間の数を抑制したり、強制的に地方へ戻したりする政策がうまくいくことはない。
 歴史は、そう教えている。  
 (以上、朝日新聞記事より歴史学者 藤田覚氏の記述の一部を要約引用したもの。)

 原左都子の私論でまとめよう。
 
 まさに最後に紹介した歴史学者 藤田覚氏のおっしゃる通りではなかろうか。 
 再度我が家に話を絞れば、既に娘も大学を卒業し一応大都会の企業に勤務する一社会人として活躍してくれているし。
 サリバンの私とて、40年程前に医学部卒業直後に上京を決断した事実、そしてこの大都会東京こそが我が自己実現の夢を一生に渡り叶えてくれる大舞台と、今尚感謝している身だし。  

 これ、またもや安倍政権の“悪あがき”としか捉えられない現実だ。
 こんな安易な法律施行をしたとて一極集中化対策になどなり得ない事実を、どうして“かの”安倍政権は政権終盤期に際して未だに分からないのか!

 実に腹立たしいのと同時に。
 世の“若手有識者”らしき人物達の論評力の乏しさ(と言うよりも人生経験の浅さ?)に、正直言って落胆させられた朝日新聞記事でもあった。 

 (以上、本エッセイ集バックナンバーを再掲載したもの。)



 最後に、現時点での我が感想だが。

 上記の「東京23区の大学定員を抑制する法律」なるものが、現在も生きているのであろうか? 生きているとして、それが東京23区への“一極集中化”対策となり得ているのであろうか??
 (ただもしこの法律が施行されているとしても。 現在の“新型コロナ禍”下に於いて昨年度末頃より学校現場全体が大混乱状態を余儀なくされていて、“一極集中化”もへったくれも無い状況であろう。)

 我が私見の結論としては、2019.05.27記載内容通りであり、追加することは無い。 

左都子の「科学哲学」 小講座 Ⅲ

2020年05月28日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学にて受講した「科学哲学」授業の“米哲学”分野の講義ノートを撮影したもの。)


 W先生の授業では、英語をはじめ外国語が多発した。

 大学生たる者、当然ながらそれらを聞き取ったり読み書き出来て当然、とのご認識があったことだろう。

 それが証拠に、授業中に配布される資料のほとんどが「英文」だった。
 それを配布した直後に、「じゃあそこの貴方、訳して下さい。」と振られた事に関しては、バックナンバーにても述べた。
 昨日公開した「プラトン」の授業内で、いつも前方の席に座っていた私がトップバッターとして突然指名され、難解な資料を訳すことになった話題は既に述べている。

 私の場合、過去の医学業務に於いて医学論文を読み込んだ経験があるため、ある程度即興でそれが可能だったかもしれない。 
 よく覚えているのは、「positive」を「陽性」と訳して、W先生が「この場合は“実証的(だったかな??)”と訳した方がよいでしょう」等々と比較的優しくアドバイスして下さったことだ。


 冒頭写真も“英語”連発のため、ここで現在の私が訳してみよう。

 Dewey(米国の哲学者 ジョン・デューイ プラグマティズムを代表する思想家。 米哲学者の中でも、代表的かつ進歩的な民主・民衆主義者。)
 真理とは、保証された主張可能力である。
 何かを主張してよいが、その主張する内容が保証されたものでなければならない。
 Rorty (米国の哲学者 リチャード・ローティ ネオプラグマティズムの代表的思想家。 後にスタンフォード大学教授となり、哲学と比較文学を教えた。)
 合理的であることとは真実ではない。 まだ見解に達していない。
 我々にとって合理的だと思うことが、必ずしも真実でないかもしれない。
 もっと可能性あるより良きことがあるかもしれない。
 そのギャップを考える。
 我々を超越するのではなく、我々をより良く広げていこうという要求。

    一つの意味しか持たない  ←→  曖昧な

      自国民(自集団)中心主義 




     


     
    

     


     


 米哲学に触れるのは、私にとってW先生のこの授業が最初で最後だったかもしれない。
 原左都子としては不本意ではあるが本日はこの後多忙でもあるため、ここまでで素通りさせて頂くことにしよう。😝