原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

避難生活能力のない私

2011年03月28日 | 時事論評
 本日(3月28日)午前中の枝野官房長官記者会見の中で、枝野氏は福島第一原発事故による半径20km圏内の避難者に対し、以下のような指示をしたようだ。
 避難指示の対象となった住民が家財を持ち出すための一時帰宅については「原発から20キロ圏内は汚染されている可能性が高く、大きなリスクがある。特に指示がない限り、決して立ち入らないでほしい」

 既に炉心が損傷している恐れがある2号機からは、相変わらず高濃度の放射能が放出され続けている。 近くの海水の汚染度合いは、前回の測定地点より北側の海域でもヨウ素131は千倍を超える測定値を記録しているようだ。 釜石では漁港を再開する動きも出ていると聞くが、一刻も早くこの海水汚染を阻止して欲しいものだ。 
 さらに恐怖であるのが地下水の汚染である。 地下水の流れは同時に土壌を汚染していくことが明白であり、2号機タービン室内の早急な汚染水の回収除去が望まれる。

 このような危機的状況下において、福島原発20km圏内は枝野官房長官も会見で認めた通り、今ここに立ち寄ることは人体への被爆の大きなリスクがあろう。
 着の身着のままで避難を余儀なくされた20km圏内の市民の皆さんが、避難生活に必要な家財を持ち出すために帰宅したい思いは重々理解できる。 そのご不便を承知の上で、原左都子としても今はご自身の安全確保を優先いただきたいものである。


 今回の大地震における避難者は昨日時点で未だ24万人を超過しているようであるが、震災発生より半月余りが経過して、尚先々の見通しが立たず不便な避難生活を余儀なくされているご苦悩を推し量って余りある。 
 当エッセイ集のバックナンバー「大震災被災者支援強化に向けての一提案」において、原左都子は、震災の影響がないかあるいは影響が少ない地域こそが、今こそ避難者を受け入れるべきだとの提案をした。
 日本各地の自治体とて思いは同じだったようで、その後全国各地で避難者受入れ体制が整い、多くの避難者が既に各自治体の避難所で生活を始めているようだ。 被災地である自治体丸ごと県外避難をしている地域もあると聞く。
 ただ、中には被災地域内でのつながりを尊重したり、あるいは受入先への気兼ねや不安から県外移転に踏み切れない避難市民も多く存在するとの報道である。
 そのお気持ちも重々察する事ができる原左都子である。 それ故に、災害を受けた地の安全性を確保した上での「仮設住宅」の建設も急いで欲しい思いである。


 原左都子が何故に自宅を離れて不自由な日々を送る避難者の皆さんを慮るのかと言うと、それはどう考察しても私自身が避難生活を送れる“キャパシティ”がないと判断しているためである。

 今回の東日本大震災のごとくの歴史的大震災にかかわらず、過去における災害に於いて日本各地の市民の皆さんがいずこかに避難を余儀なくされているとの報道を見聞するにつけ、「私は自宅で留まって死を覚悟する方がいい」などと家族に宣言している程だ。

 それ程に原左都子にとっては避難生活とは過酷であることが既に想像できている。

 私の場合、過去における癌罹患の置き土産である“頭のハゲ”の問題がある。 普段外出する時にはウィッグを使用しているが、自宅では当然ながらそんなものは使用せずガーゼで覆って頭皮をごまかしている。 その“ガーゼハゲ頭”のままでは一歩も人前に出られないことは承知しているが、まさか緊急時にウィッグを被る余裕はないであろう。 奇跡的にウィッグを装着できる時間があったとしても、まさか避難所でそれを被り続けたものなら夜も熟睡できないであろうし、それよりも頭皮が不衛生状態を余儀なくされる。
 そんな不自由な思いを半月余りも耐え続けねばならないならば、私はいっそ自宅で“美しく”?? 死に遂げた方がましかとも普段考えているのだが…   ところが、我が家族の誰もがこんな私の“苦悩美談”に耳を傾けないのは、“どうせあいつは家族を捨て置いてでも自分のハゲ頭を振り乱しつつ一目散に逃げるに決まっているぞ!” と判断しているからなのか??

 冗談はさて置いて、原左都子には癌の置き土産の“ハゲ頭”をたとえクリアできても、それ以前の問題として避難所生活の適性はないと言い切れる思いだ。
 元々集団行動が苦手である。 それに加えて人に世話を焼かれる事に関しても多いなる抵抗感がある。 もしも避難所において、どなたかが何らかの“歪んだ”指導をし始めたものなら、それに食って掛かかりそうな体質でもある。 その種の感情を押さえ込んで指導者に迎合する気が一切ない私は、どう考察しても避難所生活は不能である。
 
 そんな私は、本気で今回の東日本大震災において避難を余儀なくされている避難者の皆さんの長い期間に渡る不自由や苦悩、そして精神的忍耐力の程を察して余りある思いなのだ。


 海外メディアや、単に“売名目的”と思しき海外著名アーチストが今回の大震災に際して言うところの、“日本は地域コミュニティ力が素晴らしい”とか“日本人の団結力が凄い”等々通り一遍のメッセージには、これ程までに人間関係の希薄化が蔓延している現在の日本における現実を捉えた場合、“そんな実態は当の昔に消え失せているよ”と一日本人として辟易とさせられる思いの原左都子である。 避難所が置かれている現状とは、そんな綺麗ごとの生易しいものではないはずだ。 
 それを大して売れてもいない日本のスポーツ選手やアーチストどもが、上っ面だけ真似する醜態を晒すなよ! と今ここで訴えたくもある。
 もしも、本気で今回の東日本大震災を救援したい思いが日本の“名ばかりの”著名人にあるのならば、自分の名前を売ることよりも少額の義援金でも差し出したらどうなのか?とも言いたくなるのがこの大震災における被災者の現状ではなかろうか?

 とにもかくにも、原左都子は表題のごとく自らに「避難生活力」がないことを認める。

 おそらく上記の“著名人”達とて、「集団避難生活」という分野においては私と同様にキャパ貧なのではなかろうか? 
 それならば、避難生活を余儀なくされている方々に対して 若気の至りで偉そーに、「あなた方の多難を乗り越える忍耐力や団結力は素晴らしい!」などと心にもないメッセージを発している場合ではなく、窮地の避難所で生き延びるべく命をかけている避難者の方々に対し、自分なりの実直な手段を模索して本気で支援してはどうなのか!? 
 
 今回の大震災にかこつけた売名目的著名人達の中でも特に若年層著名人の、被災者に対する形だけの“上から目線支援活動”を鬱陶しく感じる原左都子であるのだが、どうだろう? 
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「レベル6」汚染列島でどう生き延びようか?

2011年03月26日 | 時事論評
 「スーパーの水」をご存知だろうか?
 我が家の近くのスーパーマーケットにも、この「スーパーの水」の浄水器が設置されている。
 そのシステムとは、初期投資として水を運ぶ容器(500円前後のようだが)のみを購入すれば、その後浄水器から欲しいだけ水を無料で持ち帰れるということのようだ。

 我が家はこの「スーパーの水」を利用していない。 なぜならば、設置してある浄水機器が果たして如何なる科学的メカニズムで浄水を行っているのかに関して、多少の胡散臭さを抱いているのが第一の理由である。 加えて、水を運ぶ容器の家庭での保管の如何によれば衛生面でも問題があろうと判断しているためである。 (それに、3、4㎏の水を自宅まで持ち帰るのも重いしね…)

 昨日スーパーへ行った際、この浄水器から水を持ち帰ろうとしている小さい子どもを連れた若い夫婦に出くわした。
 ご夫婦曰く、「この水は放射性物質が含まれている危険性があるから小さい子どもには飲ませないように、との注意書きが貼ってあるよ。」 「そう言われても、水のペットボトルもただの1本の在庫もないし、子どもには一体何を飲ませればいいのだろうね?」
 要するに、「スーパーの水」とは水道水から水を引き入れて浄水するシステムであるため、放射能を除去する機能など一切ないのだ。 
 この夫婦のごとく小さい子どもさんを抱える家庭においては、まさに生命を支える最低限である安全な「水」の確保においても危機にさらされていることを実感させられる。

 我が家とて同様である。
 水道水にヨウ素131やセシウム134等が含まれていると言われたところで、我が家には水ペットボトル1本の買い置きもない。 生命体とは水を摂取することなく生き延びられるはずもないため、放射能入りの水道水を日々摂取する他に方策はない。


 この期に及んで尚、政府や報道は「ヨウ素は半減期が短いこともあり成人には影響は出ない。セシウムも一旦体内に取り込まれてもそのほとんどが排出されるため問題ない」との“安全神話”を繰り返すばかりである。

 元科学者の端くれである原左都子も、ある程度のことは把握できているつもりである。 その上で、政府の判断や報道の信憑性についてやはり疑義を抱かざるを得ないのだ。
 例えば水道水汚染状況の一部である半減期が30年のセシウム134の“安全性”に関しては、上記のごとくの“専門家”とやらの見解を報道で見聞したが、それは一体如何なる研究データに基づいての発言であるのか?  報道機関が自らの報道の信憑性を高めたいのならば、少なくともそのデータの出展元(如何なる科学誌の何年度の研究結果より引用等)を視聴者に対して明確にするべきである。 単にメディアが簡単に入手出来る国内提携大学研究室等の一研究結果から得た報道を、報道機関自らの検証もなく国民に発して「安全宣言」を施すことの罪の深さを、報道に係わる科学者たる者少しは思い知るべきではないのか??
 ここは、少しは“世界標準”も視野に入れて国民を指導する体制に入るべきであろう。


 その世界標準に話を移そう。
 昨日(3月25日)の朝日新聞朝刊報道によると、福島第一原発事故は、放出された放射能の推定量から見て国際評価尺度で大事故にあたる「レベル6」に相当することが判明している。 既に米スリーマイル島原発事故の規模を上回り、チェルノブイリ原発事故に匹敵する土壌汚染も国内で見つかっている。

 福島原発3号機タービン建屋において冷却装置の復旧に向けて作業をしていた東電協力会社の作業員が、原子炉からある程度離れている建屋において通常の1万倍の放射能が検出される中足に被爆し“β線熱傷”を患ったとのことである。 このニュースの続報によると、作業員達が3号機タービン建屋に入るにあたり、事前に室内の放射線量が測定されていなかったとのお粗末さである。
 この不祥事から推測して、どうやら今回の福島第一原発事故に対する国や東電の対応は、原左都子が30年程前に医学関係の仕事で放射能を取り扱っていた頃の放射能管理や職員の健康維持に関する“ずさん”のレベルから一切進化していないと判断できるのではあるまいか??  もしそうであるならば、国内の何処かの放射性物質取扱機関が国や東電に対して適切な指導を出来ないものかとも考慮する私なのだが…

 世界評価尺度では「レベル6」に相当すると判断されたにもかかわらず、国と報道機関はその無知さ故に、今尚国民に対して“安全宣言”を発するしか方策が取れない辛い状況なのであろう。


 「信じるものは救われる」との論理が成り立たないのが、放射能汚染の現状ではなかろうか?
 確かにとりあえずの人体的ダメージに関しては「信じるものは救われる」のが微量放射線の影響と言うものであろう。(当エッセイ集のバックナンバーでも再三訴えているが。)
 放射能には色も匂いもなければ、その被爆を微量受けたところでさしあたって痛くも痒くもないしね~。 (この放射能の特質を国や報道がいい事にして“安全神話”を国民に吹聴し続けていることに、少しは国民が気付こうではないか!)

 ところが、土壌においても、そこで育った野菜類やそれを食した乳牛等全てにおいても通常の放射線量を大幅に超過しているからこそ、さすがに政府もそれらの農産物に関しては出荷制限を強制しているのだ。
 さらに、福島原発近くの海水中では原発から流れ出た放射線量がヨウ素131に関しては通常の1250倍、セシウム134は117倍との信じられない程の高値である。 これに関しても、“そのうち海水で希釈されるから今現在は影響のない数値である”との東電の“責任逃れ”報道に及んでは呆れ果てる思いの原左都子である。 (海を隔てた海外への影響にも配慮して言葉を選べないものなのか…)


 いえいえ、既に平均寿命の半ばを大幅に過ぎている原左都子としては、今回の大震災が引き起こした原発事故が原因で何十年か後に再び癌を罹患して死に至ろうとて、私なりの“死生観”に基づきそれはそれで受け入れようとの覚悟は出来ている。

 ただ、今回の福島原発事故はやはり“人災”の観点が否めないのではなかろうか?
 それだからこそ、九州地方における原発再起動中止のみならず、タイ等海外においても今後の原発建設をしばらく延期する計画を打ち出している。

 今回の福島原発事故が国際判断において「レベル6」までの危険性の評価をやむなくされたこととは、特に先進国に生きる現代の人類が(原子力に限らず)電力に頼り過ぎた過去の科学面文化面での進化の過程における“大いなる過ち”を警告しているとも原左都子は受け取るのだ。

 日本を含めた世界は今こそこの「レベル6」原発事故をきっかけとして、人類の発展の原点にまで遡って粛々と歩み直すべきなのではなかろうか?
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“ファンタジー”の芸術空間も寒々と冷え渡り…

2011年03月24日 | 時事論評
(写真は、4月17日まで東京白金台の松岡美術館にて開催中の ~松岡コレクションの幻想世界 ファンタジー~ のチラシを転写したもの)


 娘が高校の学年末試験後の休暇に入ったら上記松岡美術館のファンタジー展を一緒に観賞に出かけようと計画していた矢先、歴史的大地震が発生し、その後の計画停電等の影響によりその実現がお預け状態になっていた。
 
 ここ3日ほど、東京においても福島第一原発から届く放射能の空気中の測定結果が雨天の影響か?以前より高値を記録し続けている模様である。
 こんな中、親である私が娘を引き連れて外出するのは不謹慎とはわきまえつつも、重苦しい空気の日常の気分転換を試みたい思いもあり、昨日上記の松岡美術館を訪れたのである。

 この松岡美術館とて大震災による計画停電等を配慮して、つい先だってまで閉館していた。 ネット検索によると現在は16時までの時間短縮開館とのことである。
 
 美術館を訪れる前にランチを食するためレストランに立ち寄った。 震災発生後、原左都子が外食をするのは初めてのことである。
 この時間帯はいつもなら混雑しているはずの店内は空席が目立つ。 メニューの中には「現在提供していない」旨の×印も多い。 そんな中、希望のメニューをオーダーしたところ「本日は既に売り切れた」との回答で、別のものをオーダーすることに相成った。 やはり、外部の食事処においても当然ながら食糧不足等震災の影響を受け苦労しつつ営業していることを実感である。(こんな時に外食などを楽しんで、被災者の皆さんには誠に申し訳ない話ですが…)

 そして、いよいよ松岡美術館へ向かう。
 自宅最寄の東京メトロ駅でも現在は電車の運転本数が通常の数割程度とのことで、いつもの倍近い待ち時間を過ごした。 松岡美術館へ向かう東京メトロ南北線の駅でもやはり同様に電車が来ない。 寒々とした地下ホームで「16時の美術館閉館までに間に合うといいね」などと冗談半分に娘と会話しつつも、電車が動いているだけでもありがたいと言うものだ。

 松岡美術館に到着すると、玄関先から薄暗く開館している気配がない。 もしかしたら、今日も臨時休館か? との思いと共に足を踏み入れると、エントランス担当者の方が丁寧に説明して下さるのだ。 「大地震の影響で16時までの開館です。館内に暖房は入れておりませんので、寒い中ですがご了承下さい。」
 それは当然了承の上で展示室に入ると、(もしかしたら今日は美術館が我々の“貸切”か??)と思うほどに観覧者がいない。 原左都子など(これはじっくりゆっくり観賞できるぞ!) とラッキー感を抱いたほどだ。  実際問題、首都圏の美術館とはその特設展によっては“超ゲロ混み状態”で、一体全体美術作品を観に行ったのか、人の頭を観に行ったのかが判別できないほどの不快感を抱くものである。

 と言うことで、実にゆったりと松岡美術館の常設展と特別展である“ファンタジー”を多少寒い感覚はあったものの、じっくり味わえた我が親子である。


 松岡美術館を原左都子が訪れるのは、今回で4度目である。
 この美術館を私が好むのは、白金台という都心にしては閑静な土地柄であろうか?今回の大地震は特別の事情であったとしても、いつもさほどの“混雑”がないことである。
 そして、都心の個人美術館にして心休まる中庭が展望できることも捨て難いものがある。
 さらに松岡コレクションは多岐に渡っており、エジプト、インド等古代文明からヨーロッパ近代現代彫刻に渡る常設展に加えて、今回の“ファンタジー”展のごとく現代日本の作家による特別展も開催されることが大いなる魅力であろう。

 今回の松岡美術館特別展である 「幻想世界“ファンタジー”」 に関しては、美術分野ド素人である原左都子が考察するに、寒い中全館空調を止め照明も最小限とする等配慮し、そして観覧者がごく少数だったことが、特別展の趣旨である“幻想性”を大いに導いていたのではないかと結論付けるのだ。 これはあくまでも芸術素人の原左都子の感想でしかないが、やはり美術館観賞とは“ゲロ込み”状態だけは避けたいものである。 (そういう意味では、大震災によって社会が自粛を余儀なくされている今こそ美術鑑賞のチャンスかもしれない!?とも考察できるのである。 津波原発被災地より遠い者として、大いに不謹慎な発言であることを再度お詫び申し上げます。)

 そして帰路に着き、携帯電話をオンにするなり携帯トップ画面のニュース速報テロップに愕然とさせられたものだ。
 福島原発から40kmの地点の土壌が高濃度のセシウムに汚染されている! はたまた、東京の水道水に乳児に影響を及ぼす高値のヨウ素が検出された! ……


 まだまだ大地震被災地の被災が拡大されつつあることに心を痛めると共に、相も変わらずメディアは“安全神話”を報道し続けている現状である。

 こんな危機的状況下において、本日東京都知事選が告示“されて”しまった。
 今、この期に及んで東京都知事に立候補した輩どもの脳ミソやハートの中身とは一体どうなっているのであろう? 
 日本の歴史上最大の危機的状況下において、被災が少ない東京都民に次期知事を選ぶキャパシティを発揮して欲しいと我が身息災に考えているのだろうか?  決してそうではなく、都知事選に立候補する程の力量があると自負している貴方達が今取るべき行動とは、都知事選を勝ち抜くために尽力することではなく、そのエネルギーを東日本大震災の被害者の今後に注ぐことではないのか!!?
 
 今は国家を挙げて東日本大震災の早期の復興を優先するべき時期であるはずだ。
 知事選を含めて地方選挙など当然ながら全国で延期するべきと考えていた原左都子は、今回の都知事選立候補者の誰にも投票したくない心境である。

 (松岡美術館の芸術性の高さを評価申し上げている原左都子は、今回の記事は我がエッセイ集に於いては「芸術」カテゴリー記事として公開申し上げる予定でおりました。 ところが現況の大震災の被害が未だ拡大し続けている現状において、そんな社会情勢とごちゃ混ぜにして「時事論評」カテゴリーとなりましたことをお詫び申し上げます。
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確証なき 放射能“安全報道”に警告を発したい!

2011年03月22日 | 時事論評
 「原左都子エッセイ集」においても、もうそろそろ通常版のエッセイを綴りたい思いが無きにしもあらずの側面もある。
 
 ただ、今回の歴史的大震災により大被害を被った津波被災地及び原発被災地で今尚不自由な日常を余儀なくされている避難者の皆様へのせめてもの配慮心と自粛の意味合いで、さらに大震災に対する我が意を伝えることにしよう。


 元医学関係者でもある原左都子としてやはり一番気になるのは、福島第一原発から今尚放出されている放射能の人体への影響である。

 自衛隊や消防庁による懸命の放水、あるいは外部電源からの電力引き込み等々、その作業に係わらざるを得ない決死の覚悟の作業員の被爆量を慮っては心を痛める原左都子である。
 ところがその甲斐があるのやら無いのやら、相変わらず福島原発の各号機は灰色の煙や白煙を放出し続ける現状である。
 
 さらに、放水溝から放出されて海面に流れ出た放射能の現実とは、 I(ヨウ素)131に関しては通常の数千倍との報告であるが、これに関しては半減期が8日間であるため今後さほどの被害を及ぼさないことであろう。 これに対してセシウム137の半減期は約30年! これが海水中の魚介類の体内に取り込まれ、今後それを人間が食した場合の被爆は当然ながら考慮されるべきである。

 昨日より降っている雨の影響か、原左都子が住む東京地方でもここ2日間は一昨日の放射線量のデータの2倍近い線量が記録されているようだ。 外は雨模様であることだし、洗濯物は室内に干して娘と共に外出を見送りつつの2日間を過ごしている。


 そんな中久しぶりに溜まった朝日新聞をまとめ読みしていて、原左都子と思いを同じくする3月21日付「声」欄の投書を発見した。 
 東京都に住む66歳男性の 「確証なしに『安全』と言われても」 と題するその投書を以下に要約して紹介しよう。
 事故を起こした福島第一原発は冷却再開へ前進しているようだが、深刻な状況には変わりない。 現場で作業する方々には頭が下がる思いだが、一方で政府をはじめとする報道機関からの報道は確証のないままの「安心せよ」との言葉ばかりが目立つ。 これまで安全神話を一緒に作ってきたであろう(議員や学者?)先生方に「心配するな」と言われても素直には聞けない。 今後の対策がうまくいかなかった時にどのような事態が想定されるのかを具体的に説明せずして(国民に)冷静に、と呼びかけるのは虚しい。 例えば炉心爆発が起きた時の影響範囲のシミュレーション結果などは、あらかじめ公表しておいてもよいのではないか。 それは今後可能性のある危機から国民を守るためには必要な処置と思う。 政府や報道機関には、次に起こり得る最悪の状況も想定した対策や情報提供を願いたい。


 ごもっとものご見解であり、原左都子もまったく同感である。

 さらに、元医学関係者である私の懸念を少し申し述べよう。
 現在のメディアの報道とは「今現在福島原発から発生している放射線量は“さしあたり”人体に影響を及ぼす量ではありませんから、安心して冷静に対応して下さい」……
 福島原発からの放射線量データの上下動にもかかわらず、日々この種のアナウンスの繰り返しである。 (当然ながら、国からの指導に従っての報道の結果であろうが…)

 今現在福島原発が放出している放射線量とは、確かに今現在は“さしあたり”人体に害を及ぼす測定値ではない。
 ところが、当エッセイ集のバックナンバーでも再三述べている通り、放射線被害とは人体への「積算量」で考察していくべきなのだ。 これに関しても、メディアのコメントは「一度に多量の放射線を浴びる事が危険性が高いのであって、少しずつ浴びた場合はさほどの影響はないため落ち着いて行動して下さい」 これを繰り返すばかりである…
 それも認めるが、今回の福島第一原発事故による放射線放出量はその距離の近さによっては、現実問題として既に報道が言うところの“安全域”を超過しているのではあるまいか??

 いつまでもいつまでも“安全神話”を市民に発する国や東電、そして報道機関の姿勢から、原左都子は既に将来に及ぶ「責任逃れ」の匂いを感じ取ってしまっているのだ。
 
 と言うのも微量放射線被爆の影響とは、国民の記憶に新しい1999年に東海村でおきたJCO臨界事故で死者及び667名の被爆者を出した原子力事故の不祥事とは大きく異なる。 あの東海村事故で亡くなった2名の作業員とは、多大な被爆量を一瞬にして浴びたがために身体に大きなダメージを受けて亡くなったのだ。
 
 あの事故と比較すると、今回の福島原発事故による周辺住民への放射能放出量は確かに微量である。 それをいいことに政府や東電は「今すぐ健康被害は出ない」と責任逃れを押し通しているとしか思えない。
 確かに「今すぐ健康被害は出ない」線量ではあろうが、将来において何らかの健康被害が出る可能性もあり得ることを、少なくとも福島原発周辺地域から脱出できないでいる市民の皆さんに何らかの形で伝えるべきなのではないのだろうか?

 何故に原左都子が、微量放射線被爆の人体に対する影響をこれ程に訴えたいのかについて説明しよう。
 過去において医学関係の仕事に従事していた私は、RI(放射性同位元素)や医学目的の紫外線をある程度長期に渡り浴び続けることを余儀なくされていた。(その頃の時代の職場におけるRI、紫外線等危険物管理や、その種の業務従事者の健康管理は至ってお粗末だったものだ。) 
 医学関係の仕事から離れて10数年の後、私は皮膚癌を患ったことに関しては当エッセイ集のバックナンバーでも再三述べている。 癌発症のメカニズムとは今現在の医学においても解明不明なものではある。 それは承知の上ではあるが、健康体を誇る私が何故に皮膚癌など罹患せねばならなかったのかと考察した場合、自分の癌発症と我が過去における一般人が通常経験しない量の医学関係業務上の危険物質取り扱いとの間に、必ずや何らかの因果関係があったとしか考えられないのだ。


 放射能の影響とは、国やメディアが日々報道している程に生易しいものではない。
 歴史的大震災発生後、この期に及ぶ安全の確証なくして“安全神話”を国民に吹聴し続ける国の指導者の置かれている現状の裏側に、既に国力を失った我が国の将来に渡る国民に対する「保障力」の無さを垣間見てしまう原左都子の論理は歪んでいるだろうか??
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非日常の日々が通り過ぎつつある中で…

2011年03月20日 | 時事論評
 歴史的大震災が東日本を襲った悪夢の3月11日から9日間の日時が経過した。


 福島第一原発の原子炉爆発事故は、自衛隊や警視庁消防隊による懸命の放水活動にもかかわらず現場付近の放射線量に目立った変化はなく、未だ危機状態を脱出できない状況である。
 一方、東日本各地における放射線量のデータがネット上等で容易に入手できるようになる等、市民への“情報公開面”での進捗が大いに見られる今日この頃である。
 東京に住居を構えている原左都子の場合も、日々刻々と発表される東京地方の放射線量や風向き等をチェックしては、「今日は何時から何時頃まで洗濯物と布団をベランダに干そう」「今日はのびのびと外出できるぞ」等々、自己管理しつつの日々である。 
 参考のため、福島から200kmの距離がある東京地方の放射線量は昨日IAEAによっても測定報告された通り、その測定値は今のところ人体にほとんど影響を及ぼさないデータである。 申し訳ないことに当然ながら福島に距離が近い程放射線量値が高くなっているため、その地方の皆さんは引き続き我が身を守るべく行動されますように。


 前回の本エッセイ集の記事 「大震災被害者支援強化に向けての一提案」 の中でも訴えたが、大震災被災者に対する被災地ではない(あるいは被災の程度が軽い)遠隔地の避難支援の動きがここにきて著しい進展を見せていることに、大いに安堵する原左都子である。
 昨日(3月19日)の段階で、日本全国47都道府県が被災者受け入れのための避難所や公営住宅の提供、あるいはホームステイの実施等何らかの方策を提供したことにより、既に1万5千人を超える避難者が県外に移動した模様である。
 当然ながら医療弱者やお年寄り等の県外避難が最優先された様子だが、それら遠隔地避難者の中には家族や近親者と離れて不安感を募らせている人々もいるとの報道である。精神的ダメージを重々理解申し上げつつ、今はどうか医療環境が整った中でご自身の体調を復活することを優先いただきたい思いである。
 昨日(3月19日)の朝日新聞朝刊報道を原左都子が集計してみると、全国の自治体において総計16万人を超える避難者を受け入れる体制が整っているとのことだ。 特に隣県の神奈川県など6万3千人もの大量避難者を受け入れるとのことで、個人的立場ながら頭が下がる思いだ。
 (一方、東京都は昨日の報道によると都営住宅600戸のみの提供に過ぎないとは、日本の首都の立場としてその支援対策が貧弱過ぎるのではなかろうか? もしかしたら、都知事選出馬の準備で多忙な“某年老いた現知事”の頭が回っていないのではあるまいか??)

 とにもかくにも、今回の歴史的大震災の復興には、過去における我が国の震災被害とは比較対象にならないレベルの多大な時間を要することは明白であろう。

 被災地域では義務教育小中学校をはじめ高校、大学等の校舎が全半壊したり、あるいは地域住民の避難所としての役割を果すべく機能している地域も多い。
 4月の新学期に至るまでさほどの時間的余裕がない現状であるが、当然ながら文科省はその対策に追われていることであろうと推察する。 どうか、特に義務教育課程である被災地の小中学生全員が4月から何らかの手段で学校に通える方策を急いで欲しい思いだ。 (3月下旬に至ろうとしている今尚、文科省大臣よりその方策を一切聞けない状況であるのが一国民として辛いものである。)


 ここで原左都子自身の現在の日常に話を移させていただくことにしよう。

 本日もつい先ほど午後3時前後に「緊急地震速報」が発令される等未だ余震が続く中ではあるが、上記のごとく福島原発の放射能の影響に関して客観的データが得られる現状において、既に“非日常の日々”が遠ざかったのかとの安堵感もある。

 来年度(この4月)高3に進学する我が娘の“お抱え家庭教師”の役割を我が子が生まれて以降担っている原左都子であるが、今後娘が大学受験を目指すための本格的役割が強化される中、新たな予備校への新規登録等を開始する精神力が我が内面に復活しているのはありがたいことである。 子を持つ母である私に課せられている任務を冷静に捉え既にその活動に戻り、その処理を随時進めている段階である。

 話を変えて、前回の記事でも首都圏における食糧不足について綴ったのだが、この状態を作り出している元凶とはやはり心無い人々による“買占め”行動であることが裏付けされているようだ。
 私が大震災発生3日後に初めて近くのスーパーマーケットに行った時には、既にスーパー内の食料品がほとんど無いに等しい状況だった。 当時の私は「これはこの店舗が地震災害地の避難民にボランティアで食糧を届けたため、ここには食料品がないのだ」と解釈したものだ。 ところがそうではないことは直ぐに判明した。交通網が遮断されている中、そんな輸送が叶うはずもないのだ。 
 結局、大した被害を被っていない首都圏の市民が“買占め”行動に走った結果であることはその後直ぐに把握できた。
 それにしても不思議なのは、震災発生後9日が経過した今尚カップラーメンやレトルト食品、缶詰、そして冷凍食品等の保存食が大型スーパーにおいて未だにすべて売り切れている現状である。 元々これらの食品愛好家がその種の食品を買占めしているならばある程度話は分かる。ところがそうではなくて、一般市民がこの種の食品の“買占め”に今尚走っているとの報道にはほとほと呆れるばかりである。
 食べもしないものを買い込んで一体どうするつもりだ?? としか思えない原左都子とて、日頃多少の保存食にお世話になっていることは否めない。 ところが何も保存食を買い占めずとて、現状の首都圏における食糧配給量で十分栄養バランスを考慮した食事が可能なのである。
 一時、枝野官房長官がこのむやみな“買占め行動”が収束しないならば“法案を成立”させてでも買占め状態を制限する!と発言していた。 どうか国民(少なくとも大震災の被害が少ない地方の市民)の皆さんには愚かな消費行動を控えて欲しい思いである。 自宅内に買い溜めて賞味期限が切れたらゴミとして捨てるつもりならば、今現在食糧がなくて難儀している被災地に少しでも多くの食糧が届くことに思いを馳せよう。


 福島第一原発事故の危機的状況は今後も予断を許さない。
 そして東京地方に於いても余震や若干の食糧不足のごとくの多少の不自由が続行するとは言えども、震災発生後9日目にして、原左都子にとっては既に“非日常の日々が通り過ぎた”と表現できる段階に入っている。

 まだまだ“非日常”の続行を余儀なくされている被災者の皆さんの過酷な日常を慮ると共に、日本を挙げての援助活動により、少しでも早く“非日常”から脱出できる日が到来することを望んでおります。
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