原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

枝野さん、「みんなの党」と連携とは無茶苦茶な!

2010年06月29日 | 時事論評
 民主党幹事長の枝野さん、何を血迷い始めたの??  
 参院戦直前の今そんな事を国民の前で公言したなら、「みんなの党」が迷惑するに決まってるじゃないの。  
 それともその発言は背後の小沢氏の差し金なの??  以前より参院選後には民主党と「みんなの党」が連携するという噂話もあったようだし… 

 一昨日の6月27日、民主党の枝野幸男幹事長は東京都内での記者会見に於いて “「みんなの党」の皆さんとは行政改革や公務員制度改革についてかなりの部分が一致していると思っているので、政策的な判断としては一緒にやっていける” と語り、参院選後の「みんなの党」との連携に期待感を示した、との報道である。

 この枝野氏の発言に対し「みんなの党」の党首である渡辺喜美氏は、“寝耳に水の話であり「みんなの党」側としてはそのような民主党からの連携に応えるつもりは一切ない”云々と語り、現在のところは政権与党である民主党との連携を否定している様子である。

 この種の参院選での票取り目的魂胆の“勇み足発言”や参院選後の議席数合わせとしか思えないような政権与党民主党内部での混乱を、国民の前で大っぴらに晒すのはいい加減自粛して欲しい思いの一無党派層の原左都子である。

 未だ無党派層の国民が少なからずのパーセンテージを占める今回の参院選であるようだが、無党派層にとっては今回の参院選ほど選択を熟考させられる選挙は前代未聞とも言えるほどに、投票先の絞込みにあえいでいるのだ。  あえぎつつも前鳩山政権をはじめとする過去の政権の失策続きの反省を踏まえ、それにより多くの新党乱立を招かざるを得なかった現状の中、無党派層国民は各政党が如何なる政策を持って国政に臨もうとしているのかを見極めるための検討熟考作業の最中なのである。


 私論を続行しよう。

 民主党幹事長の枝野氏は、行政改革や公務員制度改革についての「みんなの党」の政策が民主党とかなり一致しているから“連携”の期待感を示したとのことである。
 確かに「みんなの党」の政治家と官僚とのあり方や公務員人員削減に関する政策は、民主党とある程度一致しているのかもしれない。 一方で「みんなの党」は国会議員の歳費特権もその多くを返上するべきだと主張しているのに対して、民主党は昨夏政権を取って以降一切これに関する言及がないため、国家議員歳費特権は今後も死守したい意向と私は捉えている。  また選挙マニフェストのあり方に関しても、民主党は“選挙を経ずに変更してもよい”ことを前提としてそれを身勝手に実行しているのは皆さんもご存知であるのに対して、「みんなの党」は“政権党は選挙後にマニフェストを変更するべきでない”とのポリシーが強靭である。

 さらに、民主党の昨夏の衆院選の看板公約であった「子ども手当て」に関しては、民主党が当然ながら続行(ただしマニフェストに反して減額にて)であるのに対し、「みんなの党」は“廃止”の意向であり医療費等の分野で子どもの援助を考慮しているようだ。  参院選一番の争点である消費税率に関しては「みんなの党」は税率アップ反対の立場を取っている。 昨日一部実験的に実施された「高速道路の無料化」に関しても「みんなの党」は反対の立場のようだ。 「郵政民営化」については「みんなの党」は民営化推進派である。 「永住外国人の参政権」に関しては、民主党が中立の立場を取り政権としての結論を未だ保留にしているのに対して、「みんなの党」はどちらかと言えば反対の立場であるようだ。  これ程までに政策が食い違っている「みんなの党」に連携を申し出る程に切羽詰っている枝野氏の思いとは、如何なるものであろうか??
 それからそれから、鳩山政権において大失策を晒した「普天間問題」をはじめ、「憲法改正」「集団的自衛権」等々、外交・安全保障に関する諸問題についても参院選前に各党内において大いに議論されるべきである。 残念ながら「みんなの党」を含めた新党のその分野の詳細な政策に関しては原左都子は未だ十分に把握できていない。 各政党や参院選候補者には是非共国民の前で政見放送等の媒体においてその詳細を大いに語って欲しいものである。 
 他党の批判は二の次でよいので、自らの政策について国民に熱く聞かせて欲しいものであるぞ!


 民主党は来る7月11日の参院選において比例区ではある程度検討できそうなものの、全国の選挙区において2007年の参院選よりも議席数を減らしそうな様相とのメディアの推測である。
 昨夏の衆院選での大勝に気をよくしたまま、鳩山政権退陣後の参院選対策再構築不能状態を余儀なくされ旧小沢氏体制で臨んだ今回の参院選では、民主党は各都道府県の選挙区において例えば2人区に2名の自党候補者を立てるという“思い上がり”の自滅の醜態を晒している。

 菅政権に移行した後突如として民主党幹事長に任命された若手枝野氏が、その参院選対策の失策をどうにかしたいと苦悩する思いは(特段民主党支持派ではない原左都子にも)重々分かる気はする。
 だが、この期に及んで尚下手な“票取り目的”の切羽詰った連携などを打ち出すよりは、枝野氏持ち前の新鮮かつ勢いのある政策で前鳩山政権の失態を乗り切り、菅新政権の“意味不明の居直り”も軌道修正し、もはや無用の長物である小沢氏の影響力も避け切るべきなのが幹事長としての役割ではなかろうか。

 それこそが政権政党たる本来の使命であると同時に、与党は与党らしく自らの主張を堂々と政策化して来たる参院選において国民の審判を仰ぐべきである。        
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菅政権は消費税10%の根拠を明示せよ

2010年06月26日 | 時事論評
 2週間後に控えている参院選の今回の最大の争点は「消費税増税」との報道であるが、私個人的には「消費税増税」そのものに関してはさほどのインパクトを受けていない。
 というのも、財政難にあえぐ国家財政健全化の一手段として、消費税増税は今後避けて通れない議論であろうと捉えているからである。

 理解に苦しむのは、菅氏が首相に就任して以来、前鳩山政権滅亡の根源であった「政治とカネの問題」「普天間問題」に関しては弁明を一貫して避け通しているのに、どうしたことか民主党が参院選直前にして突如として「消費税10%」を高らかに掲げ選挙に臨んでいることである。
 菅氏は首相就任以来、財政健全化に関して政党派閥を超えた“超党派における議論を”とばかり訴え続けているのは皆さんもご存知の通りである。 


 その理由として、民主党の参院選に於ける“票取り目的”故の種々の魂胆が憶測できよう。

 民主党の“票取り目的”魂胆の一つは、国民の“目くらませ”である。
 マスメディアの報道が既に「政治とカネ問題」や「普天間問題」から離れ「消費税論争」に流れてしまい、それを真に受ける形で各政党間の消費税論争が過熱化している。
 一方国民側としては、原左都子同様に既に国家財政難の実情を承知して消費税率アップ政策に対する抵抗感が弱まっている現状である。 それを証明するがごとく、菅総理による「消費税10%」発表直後の国民支持率の低下の程が僅かに留まったようだ。
 これを菅氏は当初よりまんまと読んでいたものと思われる。 もしも参院選の争点が「政治とカネ…」や「普天間…」であり続けたとしたら、支持率の低下を極めた鳩山政権の失策を引きずったまま菅新政権は参院選に臨まねばならない。 これを断ち切る手段として「消費税10%」をあえて持ち出し、国民の“目くらませ”を謀ったということであろう。

 次に考察できるのは、自民党との関係である。
 自民党がこれ程までに落ちぶれ、多くの新党が結成されたとは言え、現在の民主党にとって選挙における最大の“敵”は何と言ってもやはり「自民党」であろう。
 菅氏曰く、政党派閥を超えて「消費税は超党派で議論するべき課題である」… 
 民主党は以前より自民党が公言している「消費税10%」論議をここで持ち出すことにより、最大の敵である自民党を支持率低下の“道連れ”にしようとたくらんでいることが見え見えである。
 こんなところで自民党を“道連れ”にするのはどう考察してもアンフェアであろうと思っていたところ、やはり自民党総裁の谷垣氏も困惑している様子である。  「財源なきバラまきのマニフェストを撤回してくれないと、とても消費税議論は一緒にはやれない」  この自民党総裁の谷垣氏の反論に、原左都子は軍配を挙げたい思いである。


 民主党は昨夏の衆院選において単なる“票取り目的”のみの魂胆で、国家が財政難にあえいでいるもかかわらず“子ども手当て”等の名目により国民に対しカネのばら撒き作戦に出た。 その“財源なきカネのばら撒き作戦”が財政危機により続行不能であることが国民にバレバレの事態となった暁には、自らが高らかに掲げたマニフェストを国民が気付かぬ間に内部で変更して、軟弱にもばら撒くカネの減額を当然のごとく決定したのである。
 その一方、昨夏には「4年間は絶対に消費税は上げない」とこれまた高らかに掲げたマニフェストの公約を、党首の首をすげ替えたことにより当然の権利であるかのようにご破算にして、(自民党もそう言ってるんだから共犯なんだよ~)と国民に吹聴して参院選直前にそれを争点としたのである。  そうする前に、民主党は少なくとも国民に対して自らのマニフェストの過ちを謝罪するべきだったであろうに… 
 まだまだある。 菅首相はその増額した消費税の使途に関しては、自民党の主張を借りて社会保障分野に当てるとの考えを表明しているのみのお寒い実情なのである。

 
 いずれは消費税を上昇するという手段を採らねば国家財源健全化が図れないことに関しては不本意ながらも承諾する原左都子であるが、それでは民主党政権が掲げた“10%”の根拠とは何なんだろう?  これも自民党案に単に真似ただけなのか??  それとも“10%”という数値が数的単位上計算が容易で、商業経済の現場においても扱い易いからなのであろうか?
 まさかそうではなく、消費税増税に関しても新政権なりのその財政立て直し面での数的根拠が必ずやあるはずである。 現状5%をいきなりその倍の10%にする根拠が明確でなくして国民の理解が得られるはずもない。 例えば7%でも、あるいは11%が適切ならばそうであってもよいはずだ。 
 是非共参院選前に、民主党が掲げた10%の数的根拠の詳細を国民に呈示して欲しい思いの原左都子である。


 参院選の争点は「消費税増税」のみであってはならないはずだが、今現在最大の争点とされている消費税問題に関してもまだまだ議論すべき課題が多いのが現状である。

 今回の記事においては、民主党が掲げた“いきなり”の「消費税10%」政策に関して異論を唱えてきたが、野党や新党においても“票取り目的”の表向きの消費税アップ反対のみではない確固とした反対の根拠を国民に披露して欲しいものである。  そうしてもらえないことには、国政選挙において国民が選択するに値する政党がなく困惑するばかりである。
 選挙が差し迫った今、たとえ解散制度がなく国政に於いて二の次の位置付けの参議院選挙とは言えども、一体どこの政党のどなたに投票していいのやら一国民としては心底困り果てるよ~~。
           
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参院選前に総理は普天間問題を直言するべき

2010年06月24日 | 時事論評
 昨日(6月23日)沖縄糸満市の平和記念公園を会場に開催された戦没者追悼式典に於いて、沖縄県民を代表して高校生が朗読した詩の中で語られた“平和を思う願い”に、一体どこにその救いを求めていいのやら一国民としてやるせない心境になり、止めどなく涙が溢れた私である。
 それ程に、普天間に住む高校3年生女生徒の昨日の「変えていく」と題する朗読詩は、普天間で生活する人々の何気ない日常の中に理不尽に存在する米軍基地の描写がリアルであった。 そして、沖縄がその地理的定め故に過去の戦争において多大な犠牲となってきた県民の置き場のない悲しさを思い知らされるインパクトがあった。


 上記高校生の詩「変えていく」の中で、原左都子が特に感情移入した部分を以下にピックアップして紹介しよう。
  今日もまたはじまる / いつもの日常 / 当たり前に基地があって / 当たり前にヘリが飛んでいて / 当たり前に爆弾実験が行われている / そんな普通の一日
  一見「平和」に思えるこの小さな島 / そこにいつの間にか当たり前ではない / 当たり前であってはならないものが / 入り込んでしまっていた / 普通ならば受け入れられない現実を /  当たり前に受け入れてしまっていた    (中略)
  忘れてはならない / この島であった悲しい記憶 / 目を背けてはならない / 悲しい負の遺産 / それを負から正に変えてゆく / それがこの遺産を背負い生きてゆく / 私たちにできること   (中略)
  こんな悲惨な出来事は / もう繰り返してはならない / だから… / 「一度あったことは二度ない」に / 変えてゆこう  平和で塗りつぶしてゆこう  その想いはきっと届いているはずだから


 この高校3年生による沖縄県民の思いを真摯に適切に綴った詩の朗読の余韻で静まり返っている会場に於いて、何ともバツが悪いことに、その直後に新政権の菅総理が登場してしまったのである。            
 未成年である高校生がこれ程にインパクトのある詩の朗読をした直後にマイクの前に立たねばならない国民の指導者的立場に置かれている大人の役割とは、まずはその感性のすばらしさをねぎらい、それに相応するべくコメントを述べるのが常識であろうかと私は考え、この私も即座に私なりのコメントを考慮したりもした。
 ところがどうしたことか、菅総理は直前の高校生の朗読を全面的に無視して、冒頭から自ら持参した“通り一遍”の至ってつまらない原稿を読んで場を濁し続けたのである。
 これには大いに落胆させられた原左都子である。 ましてや沖縄県民にとってはおそらくその落胆の度合いは私の比ではなく、あの場における菅氏の何とも貧弱な“ビジネスライクの対応”にはとことん失望させられたのではあるまいか??


 菅総理は首相就任当初の所信表明演説において、既に今回の沖縄の戦没者慰霊祭に出席することを公言していた。 前鳩山政権時代より普天間問題に関して一切触れたことのない菅氏は、所信表明演説においてすらそれに関して言及しない一方で、沖縄戦没者慰霊祭にだけは出席するとの意向を示していた。 
 菅氏にとっては参院選を2週間後に控え多忙な中での今回の沖縄訪問であったはずだ。 そんな貴重な時間を割いて“公費を使って”沖縄を訪れたにもかかわらず、何故に鳩山政権“滅亡”の一つの根源であった「普天間問題」を遠方の沖縄の地において少しでも前進させるべく努力を怠ったのか? 
 (本音を言ってしまうと、参院選への悪影響が避けられないから「普天間問題」を新総理の沖縄訪問のみでごまかしたのが見え見えで、民主党は返って墓穴を掘ったとも言えるよね~。)

 「普天間問題」が国政にとって至って困難な課題であることは一国民として理解できる気はする。  ただし、その進展こそが“党首をすげ替え”てまでも生き残ろうとしている新政権に今後国民が立て直しを期待する最重要課題(「政治とカネ問題」も含めて)であることを、菅氏は新総理の立場で理解できているのか?  少しでも沖縄県民の置かれている立場やその虐げられ続けてきた過去の歴史を考慮しようと努力する方向性が、新政権内に本当にあるのであろうか??

 沖縄県民(あるいは徳之島の住民も)をないがしろにしたまま、参院選で一番票が集め易い東京都心で参院選公示直後の今朝一番、大声を張り上げて演説することにどれ程の意味合いがあると考えているのか?? 
 結局、今回の菅氏の沖縄訪問は民主党内の参院選での票取り作戦の一環でしかなかったことを暴露しただけのお粗末な結末でしかなく、再度民主党には失望のみが募る私である。


 朝日新聞6月22日の社説においても記述があったが、鳩山首相が辞任した後その不始末が菅内閣において何一つ解決していないのが現政権の実態である。 
 特に沖縄普天間移設問題に関しては上記朝日新聞指摘の通り、単に“振り出し”に戻ったに過ぎないのだ。 菅首相は今回の沖縄慰霊祭出席を、昨年秋に「最低でも県外」と豪語した公約を新政権が果せなかったがために深く傷ついている沖縄県民との関係を再構築する足がかりとするべきだったはずだ。
 それさえも出来ず何の進展もないまま昨日沖縄からとんぼ返りに帰京直後、今朝票取り目的で東京都心で参院選に向けて大声を張り上げている菅氏が操る新内閣の行く末を虚しく思うのは、原左都子だけなのであろうか??  
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“青服日の丸軍団”の心理とは…

2010年06月22日 | 時事論評
 ワールドカップサッカーが南アフリカにおいて開催されている真っ最中にこんな記事を公開すると、「非国民!!」とのバッシングが殺到しそうで多少恐怖心もあるが、何分サッカーに関してド素人が綴る単なる“たわ言”記事である故に、どうか大目に見てお許しいただきたい思いの、いつになく弱気な原左都子である。

 正直に言うが、私はサッカーを好まない。
 いや、もっと正確に言うと、決してサッカーという競技自体が嫌いな訳ではない。
 そうではなく、あのサポーターとやらの団体応援団(日本の場合は原左都子名付けて“青服日の丸軍団”がそれに当てはまる)が私にとっては目障り極まりないのである。

 サッカー競技自体は私も中学校の頃体育の時間に経験している。 運動音痴の私がボールを蹴ると必ずやあらぬ方向へ飛んでしまうため、試合ではメンバーに迷惑をかけぬようボールが飛んでこない場所を選んでは、走っているふりだけして何とかごまかしたものである。
 一方、部活のサッカー部員に私好みのカッコイイ男の子がいたため、放課後の部活の時間には校舎の3階で私自身はブラスバンド部の楽器の練習をしつつ、グラウンドを見渡してはその男子生徒がボールを追う姿を目で追いかけたものである。


 ワールドカップサッカー日韓合同大会が開催された8年前、私は某独立行政法人研究所で医学分野のアルバイトをしていた。 その職場は医学分野の研究者やそれを支える実験担当者等々、若い世代の人達が未来の医学医療を支えるべく研究に励んでいる職場であった。 (私を含めた少数以外は)皆さん若い世代であるにもかかわらず普段は言葉少なに自分の研究等に没頭しているのに、その時ばかりは様相が違ったのだ。 どうやらワールドカップに臨んでいる日本代表のサポーターと思しき数人の研究者を中心に職場が浮ついている。こんな私語が多い騒々しい研究室で仕事をするのは私は初めての経験で、大いに戸惑ったものだ。
 サッカーとは個人の趣味の範疇であり、趣味とはあくまでも私的な事象である。 できれば研究室外でサッカー談議をして欲しい思いを昼食中に親しい職場の仲間にこっそり話すと、「へえ~、珍しいわね。○○さん(私のこと)はサッカーのファンじゃないんだ。私だって気分は高潮してるわよ!」と私がサッカーファンではないことに驚き、至って心外との不快感を露骨に表現されてしまったのだ。 当時、確かに国内がサッカー一色であり、サッカーを好まない私のような人種は身の置き場に困惑させられたものである。

 2大会前の日韓合同開催とは異なり、今回は南アフリカという遠方国での開催のため、日本国内において当時ほどの馬鹿騒ぎがないことに私は命拾いする思いである。
 ただ、先週日本がカメルーン戦で勝利を挙げた翌日に東京都心のターミナル駅近辺を歩いていた私は、青服を着て日の丸を振りかざしつつ闊歩する青年と偶然出合い、この若者は一体何を考えているのかと愕然とさせられたものである。


 サッカー日本チームのサポーター団体である“青服日の丸軍団”の挙動に関しては、原左都子以外にもそれを論評する見解は存在するようだ。
 彼らが「日の丸」を振りかざし「君が代」を大声で斉唱するのは、決して「愛国心」に基づいたエネルギーに端を発する訳ではないとの論評も存在するのだが、まさにその通りであろう。

 それでは、一体彼らが何を心の拠り所としてサッカー競技場や街頭で「日の丸」を力一杯振りかざし「君が代」を大声で叫ぶように熱唱するのだろうか??
 彼ら全員が“一種の新興宗教団体のごとく”自ら青服で統一して、日本サッカーチームをあれ程の勢いで応援するのは、一体どういった心理やポリシーに基づいているのか、それが知りたいのだ。
 (あの若者達の青服姿にはかつての「オウム真理教」を呼び覚ます匂いを感じさせられたりもする。 その得体が知れない団結心を本気で恐れるとまでは到底言えないが、その軽薄さには辟易とさせられる原左都子である。


 日本におけるサッカーとは、もしかしたらそれは近年人間関係の希薄化を極めているこの国に生かされている若者にとって、唯一“一致団結”できるべく「同調意識」を煽られる矛先であるのかもしれない。 
 と言うのも、日本が初めて1964年に自国で開催した東京オリンピックに於いて国民皆がスポーツに目覚めた時、サッカー競技とは残念ながら五輪競技として存在しなかったのだ。
 その後、何十年も経過した後に“Jリーグ”の発足によりサッカー競技がプロの範疇として認められるようになって以降、我が国においては未だ十数年の年月しか経過していないのである。
 ワールドカップサッカー大会自体は、特に後進国でも盛んなスポーツであることを特徴とするため、世界中においてむしろオリンピックよりもサポーター人口が多いイベントのようである。
 これに、“Jリーグ”の発足以降、人間関係の希薄化の荒波に放り出され孤立感を強めていた日本の若者が飛びついたという図式が成り立つような気がする。 多くの競技が存在するが故にそのファンが分散多様化して入り乱れる五輪よりも、サッカーという一つの競技にファンが一致団結して一筋に応援する方が結束力も強まるという論理なのであろう。


 それでも、若い世代の人々には少し立ち止まって考察して欲しいことがある。
 貴方達サッカーサポーター“青服日の丸軍団”が、まさか右翼思想を持っていないことは明白な事実であろうが、その行為で傷つく在日日本在住者も少なからず存在するような歴史的背景をこの国は抱えているのだ。 また義務教育学校教育現場において理不尽にも「日の丸」「君が代」強制問題が今尚存在し、上記歴史的背景を配慮してその強制に反発しただけの理由で処罰される国民も存在するという、この国のお寒い実態なのである。

 貴方達が純粋に日本サッカーチームを応援している気持ちは原左都子とて理解できている。 ただ、日本が過去に犯した歴史的過ちを我々は今後まだ抱え続けなければならないという課題も残っている事実を、ほんの少しは理解した上でそれをわきまえて、青服を着て「日の丸」を振りかざし「君が代」を斉唱して欲しいものである。
           
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学校は生徒の命を守る体制を整えよ

2010年06月19日 | 教育・学校
 「原左都子エッセイ集」において学校関連の記事が続いている。 
 そろそろ別カテゴリー記事の公開を予定していたところ、またまた学校現場において生徒の死者を出すという不祥事が発生してしまった。
 
 報道でご存知の方も多いと思われるが、昨日(6月18日)浜松市の浜名湖において、梅雨前線の活発化に伴い大雨強風波浪注意報が出されている悪天候の真っ只中、野外教育活動中の中学生が乗った手漕ぎボートが大波に煽られ転覆し、生徒の死者1名と負傷者数名の犠牲者が出たというものである。

 昨日昼間の天気予報で西日本・東海地方では風雨が強まると私も見聞していた。 その後午後より外出したのだが、私が住む東京地方においても一時雨足が強まり強風で傘が煽られそうになったものである。
 夜テレビのニュースで浜名湖において上記中学生達が乗った船が転覆したと見聞して、嵐のような悪天候の中、学校は年端もいかない生徒達に一体何の訓練をさせていたのかと呆然とした。 ボート部等の熟練者の訓練ではなく、一般の公立中学の校外学習の一環と知りさらに愕然とさせられた。 後に1名の死者が出たと聞き、子を持つ親として学校現場における取り返しがつかない事態の無念さに涙せずにはいられなかったものだ。


 私論に入ろう。

 学校の危機管理体制の甘さにはほとほと呆れるばかりだ。 学校には常識的判断が可能な大人が誰一人として存在しないのかと考えるより他にない程に、非常識極まりない今回の事故である。
 新政権の文科省は教師の権威の失墜を避けるため、教師に「学位」を与える新制度の構築に現在躍起になっている様子であるが、学校内における児童生徒の死者、犠牲者が後を絶たない近年の教育現場の惨憺たる現状を直視した場合、「学位」へったくれより何よりも、子どもへの愛情の最大表現である“命の尊さ”を最優先に思考判断可能な人材の育成に、文科省は早急に尽力するべきであろう。


 学校に通う子どもを持つ親として、子どもを義務教育である小学校へ入学させた当初より不可解に思い続けている事象がある。 それは、上記の惨事を引き起こした“校外学習”をはじめとする学校の正規のカリキュラム“以外の行事”に関してである。 (正規のカリキュラムに関しては教員経験もある私には子どもを通じて目に届きやすい事象であり、家庭での軌道修正等のフォローが可能であるためさして問題はないと言える。)

 我が家の場合、義務教育である中学校は私立を選択した。 私立においては、義務教育範囲内の正規カリキュラム以外の私立独自の行事等についての詳細の説明は入学前に十分になされており、保護者としてはその内容を承諾した上で子どもを入学させるに至ることとなる。(例えば、我が家の場合子どもが公立小学校でとことん苦しめられた“プール指導”だけは金輪際避けたかったのだが、我が家が選択した私立中学校においてプール指導が一切ないことも学校選択の一つの基準であった。)

 これに比し、公立中学において現在「学校選択制」が採用される自治体が増えているとはいうものの、多くの家庭においては自宅の近隣に位置する中学校へ子どもを入学させるのが実情のようである。
 その義務教育学校が、今回の事故のごとく例えば大雨強風波浪の嵐の湖でボート指導をするのを、一保護者の立場で異論申し立てする手立てがないのが現状でもある。 そこで保護者が信じるべくは引率者である教職員とそれを指導する学校の責任者、そしてそれを管轄する教育委員会の適切は判断でしかないのだ。
 このような生徒の命がかかわる意思決定の重要な役回りが、学校の教職員や教育委員会、ひいては文科省の大臣を含めた学校関係者には“自らの責任の範囲”であることを、今一度肝に銘じて欲しいものである。 
 それにしても新政権の川端何某とやらの文科省大臣は昨年9月以降教育に関して何の働きも国民に披露していないのにもかかわらず、今尚大臣としてのさばり続け、昨今は大相撲の不祥事にしかコメントをしないのはどうしたことか、との“薄ら寒い”感想を抱いているのは原左都子だけなのであろうか…… 


 最後に私論でまとめよう。

 義務教育の公立学校において、今回のような一種“特殊分野”とも言えるボート訓練を、(一部を除いて)今後一般人として生きていく公立学校の全生徒に課す意味がどれ程あるのだろうか。
 視点を変えると、これは単に教員をはじめとする教育行政にかかわる“どなたか”の一趣味、あるいは“個人的利益”に過ぎない範疇の話なのではなかろうか?? 
 今回事故を起こした公立中学が校外学習を行っていたとされる浜松の「青年の家」の施設も、現在では民間企業が管理者となっているそうである。 もしかしたら、政府とその民間企業との“癒着”が存在するが故に義務教育の公立学校生を全員強制的にその施設を利用させているとも推測出来得る話である。

 
 我が子が公立小学生だった頃にも、正規カリキュラムであるプール指導を筆頭に、学校の“特殊分野”の各種行事や課外学習のあくまでも専門性に欠ける“中途半端な指導”に関して、一保護者としては「百害あって一利なし」感覚の大いなる抵抗感を抱いたものだ。
 “特殊分野”の指導に関しては、部活動等希望者が選択して実施するものを除き、今後は是非共子どもの適性を一番見抜いている各家庭の自治に全面的にお任せいただきたいものである。

 その上で義務教育に於ける公立学校が果たす役割とは、在籍する生徒全員に愛情を注ぐことであるのには間違いないのだが、その基本中の基本とは「生徒の命を守る」ことである。 下手に余計な素人もどきの指導は一切してくれなくてよいので、とにかく何が何でも在校中の子どもの命のみは保障していただきたいものだ。
 学校行政には、今一度その原点に帰って欲しい思いの原左都子である。 
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