昨日朝の事だ。
いつものようにルーチンワークに励んでいると、8時半頃、高齢者施設に住む義母より電話がかかって来た。
「足が痛いから整形外科へ行きたい。」と、病院付き添い依頼だ。
う~~~ん。 (今日は午後、予定があるのに参ったなあ……。)と内心困惑しつつ、一応症状を確認した。 義母曰く、「夕べから右足にしびれるような痛みが出てそれが左足まで広がり、我慢できないから施設の看護師さんに看てもらって湿布薬を貼ってもらったの。その後も痛みが続くのだけど、朝は看護師さんがいなくて、それで〇子さん(私の事)に電話したの。」
「分かりました。それでは今日病院へ行きましょう」と返答する以外に保証人が取るべき道は無い。
そして午後の予定を明日に回す段取りを付けていると、再び義母より電話だ。
「あのね、さっき〇子さんに電話で聞いてもらったら、何だか足の痛みが治って来たのよ。 だから今日の病院受診は辞める。」
これもいつもの事だ。 要するに、誰かに自分の痛みを聴いてもらうことによって一旦安堵するようだ。
それでも私は、整形外科受診を決行する旨を義母に伝えた。 一度病院へ連れて行っておかないことには、後にまた痛みを訴え始めるのが常だ。 行く、行かない、また行くと義母の主体性の無さに翻弄されたのでは、私の日々の生活が成り立たない。
そんなこんなで午後になって義母が住む施設へ行ってみると、な、な、なんと今度は「今日は整形外科はやめて眼科へ行く」と言い始める。
(年寄りはまったく訳が分からんな~~~)と内心呆れつつ、何故整形外科ではなく眼科へ行きたいのか確認した。 そうしたところ義母曰く、「今まで行っていた眼科が遠いから施設の近くの眼科へ移ろうと思って、前の眼科に“紹介状”を書いてもらっているのよ。それを思い出したの。早めに行かないと紹介状が無駄になると思って… どうのこうの……)
で、足のしびれは治ったのかどうかを確認すると、「なんだかね、〇子さんが来てくれると聞いた後、急によくなったのよ。だから今日は眼科へ行く。」
と言う訳で、昨日はあくまでも義母の意向を尊重して、眼科受診と相成った。
さてその義母だが、これまでの生涯を通して「医療依存」を一貫して来ている人物だ。
義母と知り合った23年程前以前よりずっと、あらゆる診療科を受信し山程の投薬を受けていることを私は承知している。 それは我が亭主も同様だ。 そういう家庭に育つと、何か少しでも異常があると直ぐに病院へ行くことが習慣となるのは必然だろう。
そして医師の指示を真に受け、自分で思考する事を一切放棄し、言われるがままにその診断を信じ処方された薬を飲むと治ると単純に考えている。 それがたとえ薬の副作用であろうが新たな病気にかかったと思い込み、またもや別の診療科を受診する。 そして堂々巡りに投薬を増やし、体調の悪さを増長している。
そんな義母の保証人を任されたのは5年程前の事だ。
保証人初期の頃、施設の義母担当ケアマネジャー氏と、この義母の「医療漬け・検査漬け・投薬漬け」の現状に関して話し合いを持ったことがある。
私自身が医学の心得があることをあらかじめ伝え、今後の対策を議論したのだ。
その時にケアマネジャー氏は以下のように発言された。
「義母さんのみならず、ほぼ全員の入居高齢者の皆さんが同じように“医療漬け”の人生を歩まれ、そのままの形で施設へ入居して来ています。 今更ながら“医療漬け”の現状を解除するべく指導するのは困難と考えています。 私どもが出来るのは、これ以上の投薬を増やさない事と承知していますが、何分ご本人の希望もありますしこれまた困難です。 ただ、保証人様の立場でご要望がおありでしたらそれに従いますので、何なりと申し出て下さい。」
この発言は、私も十分に理解可能だ。
まさにホメオスタシス(体内の恒常性)の問題もあるし、今まで常用していた薬を突然やめるのは危険性を伴うことは承知している。 確かにケアマネ氏がおっしゃる通り、これ以上投薬を制限するしか手立てが打てないのかもしれない。
ところが、これすら困難だ。 身体に異常が出ればすぐに医者にかかり薬をもらう事を「常識中の常識」として生涯に渡り実行している高齢者に、それをやめてまずは自分の頭で思考しませんか、と指導したところで誰も聞きやしないだろう。
義母とて同様だ。 “医者に行けば治る”なる哲学をずっと素直に貫き、時が流れ認知症状も出ている今更、若輩者の嫁の私が何を言おうが耳を傾けるはずもない。 義母にとっては“お医者様”程に偉い人は他に存在しないのだ。 「今日病院へ行きたいから付き添って」と嘆願されれば、「はい、行きましょう」と応える以外に方策が取れないのが現実だ。
そんな私は、実母には少しその教育をしている。
はやり実母には、ものが言い易いからだ。
「貴方も病院にばかり行ってるけど、結局大した病気じゃないでしょ? 病院へ行けば必ず検査するし投薬するし、それを信じて言われるままにしてりゃ救われると信じたいのだろうけど、もうちょっと自分の頭で世の中の実情等を考えてごらんなさい。 政界と医療・製薬業の癒着等々にも目を向ければ、そう易々と他力本願に医療に依存出来ないはずだよ。 後期高齢者医療保険は自己負担分が少ないからと安易に医療依存していると、その保険料負担分が若い世代にのしかかって来るんだよ。 世の中全体の動向も視野に入れてもっと理知的に行動したらどうなの?!」
実母も黙ってはいない。
「貴方の言いたい事は分かるけど、年老いて一人で田舎に暮らしている身にもなってごらん。 身体が痛いと辛いものだよ。 私のかかりつけのお医者さんは優しいし、私はこれからも病院へ行くよ。」
最後に、私論でまとめよう。
その前に昨日義母を引き連れて総合病院へ行った感想を述べよう。
例えば規模の大きな総合病院に、「高齢者医療相談窓口科」のような医療科を設けてはどうだろう。
(既にその種の医療科を設営している病院もあるかもしれないが。)
そのような医療科があれば、例えば昨日の義母のように、数多くの医療科に受診している身にして今日はどの医療科を優先受診するべきかと迷った場合(今回は整形外科と眼科だったが)、その優先度合いを指導可能であろう。
あるいは、薬局へ行くと必ず「お義母さんのお薬手帳ありますか?」との質問をされる。 「それは手元にはありませんが大量の劇薬を飲まされていることは確かです」といつも応える私だ。 これに関しても、上記「高齢者医療相談窓口科」に於いて投薬の是非を判断すれば、不必要あるいは危険性のある投薬処方を回避可能であろう。
とにもかくにも国家や医療界は、この “野放図な医療依存” の現状にもっと本気で危機感を持つべきだ。
この現状を放置していることとは、私など、イコール 高齢者などどんどん劇薬盛って寝たきりにさせ病院へぶち込んで保険点数で末期医療を施せば、病院は経営難に陥らずに済むぞ! と言っているに等しい思いすら抱く。
現在、横浜市にて寝たきり高齢者の点滴に界面活性剤が入れられ死に至る事件が発生している。
気の毒な事件ではあるが、今後類似の事件が多発しそうな嫌な予感すらする……
とにかく、人間幾つになっても「自己の尊厳」を失いたくないものだ。
高齢者に限らず若い世代の皆様も、今から “医療依存” を回避するべく行動しませんか?
いつものようにルーチンワークに励んでいると、8時半頃、高齢者施設に住む義母より電話がかかって来た。
「足が痛いから整形外科へ行きたい。」と、病院付き添い依頼だ。
う~~~ん。 (今日は午後、予定があるのに参ったなあ……。)と内心困惑しつつ、一応症状を確認した。 義母曰く、「夕べから右足にしびれるような痛みが出てそれが左足まで広がり、我慢できないから施設の看護師さんに看てもらって湿布薬を貼ってもらったの。その後も痛みが続くのだけど、朝は看護師さんがいなくて、それで〇子さん(私の事)に電話したの。」
「分かりました。それでは今日病院へ行きましょう」と返答する以外に保証人が取るべき道は無い。
そして午後の予定を明日に回す段取りを付けていると、再び義母より電話だ。
「あのね、さっき〇子さんに電話で聞いてもらったら、何だか足の痛みが治って来たのよ。 だから今日の病院受診は辞める。」
これもいつもの事だ。 要するに、誰かに自分の痛みを聴いてもらうことによって一旦安堵するようだ。
それでも私は、整形外科受診を決行する旨を義母に伝えた。 一度病院へ連れて行っておかないことには、後にまた痛みを訴え始めるのが常だ。 行く、行かない、また行くと義母の主体性の無さに翻弄されたのでは、私の日々の生活が成り立たない。
そんなこんなで午後になって義母が住む施設へ行ってみると、な、な、なんと今度は「今日は整形外科はやめて眼科へ行く」と言い始める。
(年寄りはまったく訳が分からんな~~~)と内心呆れつつ、何故整形外科ではなく眼科へ行きたいのか確認した。 そうしたところ義母曰く、「今まで行っていた眼科が遠いから施設の近くの眼科へ移ろうと思って、前の眼科に“紹介状”を書いてもらっているのよ。それを思い出したの。早めに行かないと紹介状が無駄になると思って… どうのこうの……)
で、足のしびれは治ったのかどうかを確認すると、「なんだかね、〇子さんが来てくれると聞いた後、急によくなったのよ。だから今日は眼科へ行く。」
と言う訳で、昨日はあくまでも義母の意向を尊重して、眼科受診と相成った。
さてその義母だが、これまでの生涯を通して「医療依存」を一貫して来ている人物だ。
義母と知り合った23年程前以前よりずっと、あらゆる診療科を受信し山程の投薬を受けていることを私は承知している。 それは我が亭主も同様だ。 そういう家庭に育つと、何か少しでも異常があると直ぐに病院へ行くことが習慣となるのは必然だろう。
そして医師の指示を真に受け、自分で思考する事を一切放棄し、言われるがままにその診断を信じ処方された薬を飲むと治ると単純に考えている。 それがたとえ薬の副作用であろうが新たな病気にかかったと思い込み、またもや別の診療科を受診する。 そして堂々巡りに投薬を増やし、体調の悪さを増長している。
そんな義母の保証人を任されたのは5年程前の事だ。
保証人初期の頃、施設の義母担当ケアマネジャー氏と、この義母の「医療漬け・検査漬け・投薬漬け」の現状に関して話し合いを持ったことがある。
私自身が医学の心得があることをあらかじめ伝え、今後の対策を議論したのだ。
その時にケアマネジャー氏は以下のように発言された。
「義母さんのみならず、ほぼ全員の入居高齢者の皆さんが同じように“医療漬け”の人生を歩まれ、そのままの形で施設へ入居して来ています。 今更ながら“医療漬け”の現状を解除するべく指導するのは困難と考えています。 私どもが出来るのは、これ以上の投薬を増やさない事と承知していますが、何分ご本人の希望もありますしこれまた困難です。 ただ、保証人様の立場でご要望がおありでしたらそれに従いますので、何なりと申し出て下さい。」
この発言は、私も十分に理解可能だ。
まさにホメオスタシス(体内の恒常性)の問題もあるし、今まで常用していた薬を突然やめるのは危険性を伴うことは承知している。 確かにケアマネ氏がおっしゃる通り、これ以上投薬を制限するしか手立てが打てないのかもしれない。
ところが、これすら困難だ。 身体に異常が出ればすぐに医者にかかり薬をもらう事を「常識中の常識」として生涯に渡り実行している高齢者に、それをやめてまずは自分の頭で思考しませんか、と指導したところで誰も聞きやしないだろう。
義母とて同様だ。 “医者に行けば治る”なる哲学をずっと素直に貫き、時が流れ認知症状も出ている今更、若輩者の嫁の私が何を言おうが耳を傾けるはずもない。 義母にとっては“お医者様”程に偉い人は他に存在しないのだ。 「今日病院へ行きたいから付き添って」と嘆願されれば、「はい、行きましょう」と応える以外に方策が取れないのが現実だ。
そんな私は、実母には少しその教育をしている。
はやり実母には、ものが言い易いからだ。
「貴方も病院にばかり行ってるけど、結局大した病気じゃないでしょ? 病院へ行けば必ず検査するし投薬するし、それを信じて言われるままにしてりゃ救われると信じたいのだろうけど、もうちょっと自分の頭で世の中の実情等を考えてごらんなさい。 政界と医療・製薬業の癒着等々にも目を向ければ、そう易々と他力本願に医療に依存出来ないはずだよ。 後期高齢者医療保険は自己負担分が少ないからと安易に医療依存していると、その保険料負担分が若い世代にのしかかって来るんだよ。 世の中全体の動向も視野に入れてもっと理知的に行動したらどうなの?!」
実母も黙ってはいない。
「貴方の言いたい事は分かるけど、年老いて一人で田舎に暮らしている身にもなってごらん。 身体が痛いと辛いものだよ。 私のかかりつけのお医者さんは優しいし、私はこれからも病院へ行くよ。」
最後に、私論でまとめよう。
その前に昨日義母を引き連れて総合病院へ行った感想を述べよう。
例えば規模の大きな総合病院に、「高齢者医療相談窓口科」のような医療科を設けてはどうだろう。
(既にその種の医療科を設営している病院もあるかもしれないが。)
そのような医療科があれば、例えば昨日の義母のように、数多くの医療科に受診している身にして今日はどの医療科を優先受診するべきかと迷った場合(今回は整形外科と眼科だったが)、その優先度合いを指導可能であろう。
あるいは、薬局へ行くと必ず「お義母さんのお薬手帳ありますか?」との質問をされる。 「それは手元にはありませんが大量の劇薬を飲まされていることは確かです」といつも応える私だ。 これに関しても、上記「高齢者医療相談窓口科」に於いて投薬の是非を判断すれば、不必要あるいは危険性のある投薬処方を回避可能であろう。
とにもかくにも国家や医療界は、この “野放図な医療依存” の現状にもっと本気で危機感を持つべきだ。
この現状を放置していることとは、私など、イコール 高齢者などどんどん劇薬盛って寝たきりにさせ病院へぶち込んで保険点数で末期医療を施せば、病院は経営難に陥らずに済むぞ! と言っているに等しい思いすら抱く。
現在、横浜市にて寝たきり高齢者の点滴に界面活性剤が入れられ死に至る事件が発生している。
気の毒な事件ではあるが、今後類似の事件が多発しそうな嫌な予感すらする……
とにかく、人間幾つになっても「自己の尊厳」を失いたくないものだ。
高齢者に限らず若い世代の皆様も、今から “医療依存” を回避するべく行動しませんか?