(冒頭写真は、ユーチューブより録画した歌手・沢田研二氏が歌う「カサブランカダンディ」の映像。 上の写真は曲名最初の「カ」が抜けましたこと、お詫びします。)
今回のエッセイ執筆のきっかけを得たのは、上記写真の朝日新聞昨日付け記事「自分を貫く無二の表現者」と題する、沢田研二氏のランキング特集である。
私自身は特段、沢田研二(ジュリー)ファンではなかった。
中高生時代にミーハーだった私も、当時男子アイドルに躍起になったものだが。 私の好みとしては、一貫して“可愛い系”男子アイドルに心が傾いた。
具体例を挙げると、フォーリーブス、伊丹幸雄…
(フォーリーブスは皆さんもご存じだろうが、伊丹幸雄に関しては「青い麦」一発屋で消え去ったため、ご記憶にない方が多いことと想像する。)
両者の共通項としては、とにかく“お顔”が実に可愛らしかった😍 のが特徴だ。
それに比しジュリーはその対局をいくがごとく、とにかく美男子だった。
今回の朝日新聞ジュリーランキング10曲は、もちろんすべて十分に知っているしよく聞いて歌った。
その朝日新聞のランキング10内楽曲の中で、我が印象に一番鮮烈に残っているのが、表題の「カサブランカダンディ」である。
この楽曲は、ジュリーがザ・タイガースから独り立ちして年数が経って後のシングル曲でなかっただろうか?
♪ ボギー、ボギー、あんたの時代はよかった
男がピカピカのキザでいられた
ボギー、ボギー、あんたの時代はよかった
男がピカピカのキザでいられた~~~~ ♪
歌もよかったし、ジュリーの振り付け演技力の完成度も高く、実にエンターテイメント性の高いヒット曲だった。
この曲が当時ディスコで流れると必ずステージへ行って、皆で両手を挙げて踊りつつ歌ったものだ。
昨夜ユーチューブにて当該曲を聴くついでに、画像撮影したものを以下に紹介しよう。
さて次に、ネット上で当該「カサブランカ・ダンディ」に関する‘優れた”論評を発見したため、その一部を以下に紹介させていただこう。
こんにちは。平成生まれの昭和好き、さにーと申します。
斜めにかぶったハット、耳には花を差し、ウイスキーの瓶を片手に、それを口に運び天に噴き出す姿。こんなキザでスカした演出がサマになるアーティストは、昨今とおして一体どれだけいるでしょうか。
リリースされてから40年の時を経て、私もその姿に魅せられた一人です。初めて沢田研二さんがこの曲を歌う映像を見たときの衝撃・・・あれを一生忘れることはできないでしょう。(できることなら、もう一度ジュリーを知らない頃に戻って、あの衝撃をもう一度味わいたい)
『カサブランカ・ダンディ』は、そんなジュリーの曲の中で、私の大好きな一曲です。
暴力的にも感じる歌詞のインパクトやパフォーマンスにつられて、よく歌詞の意味を考えたことがなかったという方もいると思いますので、あらためてここで考えていきたいと思います。 (中略)
まず、歌の入りが強烈。「女の頬をはりたおして」なんて今の時代に歌ったら、世間様からなんと言われるか。でも、世間から見ても沢田研二自身がこの歌詞がサマになる存在だったのかもしれません。たしかに、ジュリーにだったらひっぱたかれてもいい。むしろひっぱたいてくれ。
『パントマイムを演じていたよ』のパントマイムとは、「身ぶりや表情で表現する無言劇で、まるでないものがあるかのように見えるように見せる芸」のこと。2人にとって幸せな頃を思い出すあのフレーズが流れて来ても、ことばも交わさず、まるで聞こえていないかのようにやり過ごそうとしている様子です。
歌詞の「ボギー」って誰?
そして、サビであるこのフレーズを聴いて「ボギーって誰だろう?」と思った方もいるでしょう。ボギーというのは、1940〜1950年代を象徴する名優、ハンフリー・ボガートのニックネーム。曲名の由来にもなっている『カサブランカ』という映画の主演を務めました。「君の瞳に乾杯」というフレーズが、この映画によって有名になっています。ハンフリー・ボガートは映画の中で数々の名言を残しているのですが、そのどれもが非常にキザ!今の時代からすれば「クッサ〜」とも言われそうなレベル。歯が浮くセリフってやつです。
しかし当時はそれが「クサい」とは言われることはなく、人々の心を熱中させた時代でした。キザなことを言ってもカッコよくいられた時代、ということです。
主人公の男は、まず女との関係がうまくいっていない。今でいうDVもしちゃってる。でも、女め!ざまあねえな!と思ってるわけではなく、むしろなんか傷ついている気がします。そして、『ボギーの時代なら良かったなあ』とすこし自嘲気味になっているように感じます。ボギーの時代の、いったいなにに憧れているというのか。
2番に続きます。
カサブランカ・ダンディの歌詞(2番)
本当に注目したいのは歌詞の真意。
男と女は、もう修復不可能な関係
その次の歌詞で、1番の『苦しい顔できかないふりして』に続き、『辛い芝居を続けていたよ』と出てきます。
だって、「もう身体を重ねることしかすることはない」って言ってんですよ。それなのに辛いとか、もうそれ、男と女は破綻しているってことじゃないのか。
もう、話し合いを重ねたって、あの頃は良かったなあと懐古したところで、どうにもならない。だけど離れられないってことなんじゃないのか。。
そして、そんな恋人芝居だって本当は、したくなかった。でも離れられないから、破綻していることは承知の上でそうしつづけるしかない。マジかよ。悲しいけど、そういうことなんじゃないかと思います。
ようは……男のもっともおそれている「別れ」から目をそらし続けるには、もう、そんなことくらいしかできないのです。他の方法が男にはわからないし、女が何を訴えてこようと(『しゃべり過ぎる女の口を』)、もうこの不器用すぎる男にはどうしようもできないのです。
だから『さめたキスでふさぎながら』という歌詞も、「男がもう女に冷めている」という意味ではなく、破綻しかけている関係を修復することもできない中ではそうするしかなかったんじゃないかな。
お互いの愛を確かめるのがキスだとすれば、この二人は今にも消えそうな細い糸をたぐりよせることでかろうじて繋がっているだけの関係を続けるための「キスするしか方法がわからなかった」のキス。お互いに求めあっていても交わらない、一方通行どうしの愛を守るためのもの。それがさめたキスなんではないかと。。
もう何も言うんじゃねえというか、頼むからやめてくれってのに近い感情なんではないでしょうか。
男は、女をまだ愛してるけど、幸せになるための愛し方がわからない。今やっていることも恋人芝居でありパントマイムだとわかっていて、続けることしかできないのです。
だから、彼が本当に恐れていることが起こるのを遠ざけるかのように、あるいは来るとわかっている上で先のばしにするために、いまは聴かないふり、見ないふりをする。
もうさ、あほだよね。苦しいわ。。どこで歯車が狂ってしまったんでしょうか。取り返しがつかなくなる前に、何かできなかったんでしょうか。もうね。。
やっぱりこの不器用な男にはそれしかできないのですね。
そして、ここで出てくるのがボギー
ボギーの時代は「やせがまん」をすること自体もサマになる、男がキザでいられた時代。ひとつの恋が終わってしまっても、意地を張って女の前では涙も見せずに別れていくような姿とか、ボギーならサマになったんじゃないかな。
男もそんな粋でありたいと思う一方、そうはなれない自分がいる。
せめてボギーの時代だったら、俺のこのしんどい芝居も絵になったのかなあ。今じゃただただかっこ悪いだけの男だ。サビの歌詞は、そういう意味だと思っています。
それに本当は「時代のせいではない」と男は気づいてたんじゃないでしょうか。男は純粋に、ボギーのようにカッコつけながらもまっすぐに人を愛せる人になりたかったのかもしれません。
もしそうなら、こんなやり方じゃない方法で女を愛していけたかもしれないのに、と。
(以上、ネット上で発見した ‘’平成生まれの昭和好き、さにー” さんの記述を引用させていただいたもの。)
さにーさんの分析の程が素晴らしいため、あえて原左都子が付け加えることもないのだが。(さにーさん、もしも著作権法に触れるようでしたら対処致しますのでご連絡下さい。)
既に述べた通り、私は特にジュリーファンではなかったものの。
やはりジュリー(沢田研二氏)の“エンターテインメント力”の素晴らしさは、今後世紀を超えて生き残るであろうと。
今再び「カサブランカ・ダンディ」映像を拝見して、感動と共に実感する。