一週間程前の12月23日付朝日新聞に、「考えるプロセスを問う 大学入試新テスト問題例」なる記事が掲載されていた。
早速、以下にその内容を要約して紹介しよう。
大学入試センター試験に代わって2020年度に始まる「大学入学希望者学力評価テスト」(仮称)につき、文科省が示した問題例は、従来と違い考えるプロセスも問う記述式を盛り込んでいる。 思考力や表現力を測ると共に、出題方法を工夫して採点し易い客観性も考慮するという。
例えば、国語。 答えが一つとは限らず多様な見方や考え方ができる題材につき、図や文章を読み解き、自分の考えをまとめる力が求められた。 選択式と記述式を組み合わせて解答する問題もある。
次に、数学。 身近な事象について取り上げ、情報量の多い問題文の中から、解決に必要な情報や条件を見分けて考える問題だ。
文科省が今回示した問題例について、識者らの意見は分かれている。 「受験生は正解を当てる技術を磨く傾向にあったが、論理的に筋道を立てて考え抜く力がつく。」 あるいは、「これからの時代に合った思考力を問う内容。問題としてはいいが、選抜試験に使えるかとなると難しいのでは。」 さらに、「公平な採点方法や大学の負担、実施時期の検討など課題は多い。」
予備校生の意見として、「応用的名問題で求められる基準が高いと感じる。新テストを避けて、推薦入試などに流れる人が増えるのでは」
(参考だが、当該問題例については、文科省のホームページにて公開されているとのことだ。 以上、朝日新聞記事より一部を要約引用。)
原左都子の私事に入ろう。
私自身、高校教員経験があるが、定期試験時の出題には私なりの大いなるこだわりがあった。
それは生徒個々のオピニオンを文章にて書かせることだ。 と言うのも、私が担当していた教科が「商業」「社会」であり、両者共々日々目まぐるしく変化を遂げる社会情勢を伝えねばならない使命感があったからに他ならない。
例えば、当時(バブル絶頂期からそれに陰りが見え始める時期だったが)政治経済等々社会全体が再編され揺れ動く激動の時代背景だった。 単に規定化された事象を伝える事ももちろん重要だが、移り変わる時代の真っ只中で今後生きて行く生徒達には、是非とも自分なりのポリシーを抱いて欲しかったのだ。
ただし、私が勤務していたのは(大変失礼な表現をお詫びしておくが)底辺高校だ。 そうだとしても、生徒個々のポリシーは必ずやあるはずだ。 それに期待し、私は毎回の定期試験に於いて生徒達の反発をものともせずに、自由オピニオン解答を求め続けた。
そうしたところ、これが面白い!
文章以外の設問(要するに上記大学新テストの“選択式設問”の類)で高得点が取れる生徒が、文章題にて一切の自己オピニオンが書けない事態を発見する事と相成る。
片や、選択式問題では冴えない生徒が、文章課題にて私の心に響くようなオピニオンを書いて来るのだ!
教師の立場としては一応両者共々高評価を下すのだが、採点をする立場として私が感じたのは、「自己のオピニオンを表出可能な生徒にこそ輝ける未来が待っているだろう!」という事だ。
多い時には一度に150名程の生徒のオピニオン解答を読んだと記憶しているが、私はそれら生徒が書いてくれたオピニオンに対し、必ずや全員に私なりの返答メッセージを書いた事が懐かしい。
私事が長引いたが、十代の若者の「考える力」を育てるには、自己のオピニオンを自由に書かせることが一番ではないかと私は考えている。
ただ、それの採点が困難な事は重々承知だ。
私の場合は、多い時でたかが150名程の採点だったため、それを一人でこなすことが十分可能だった。(ただ自宅にて真夜中まで時間を要したのが実態だが。)
しかも、それを複数の採点者で実施するとなると、採点者による「価値観の行き違い」との事態に必ずや遭遇するとの問題が発生する事だろう。
ここで大きく観点を変えよう。
文科省が世界基準に比して日本の大学学生のレベルの低さを嘆いている事実は、私も十分に理解している。
ところがその元凶を、文科省が大学に“入学して来る学生の質”に求めている事実に、そもそも大きな誤りがあると私は常々考えているのだ。
ここは、その発想を原点に戻そうではないか。
日本の大学が「学問の府」であるべき事は既に法的規定がなされている。 ならば、大学入試により優秀な学生を確保しようとの発想をそろそろ止めては如何であろうか? それよりも優先するべきは、大学自体の質を高める事だ。
現状の日本にごまんと存在する大学の質とは千差万別であろうが、「学問の府」の名に相応しいとは到底言えない大学の設立を認可し続けている文科省の体質こそを、まずは改めるべきだろう。
そんなみすぼらしいまでの大学の実在を文科省が認可している事実から、自ら問い直して欲しいものだ。
原左都子から一つ提案がある。
文科省が今やるべき事とは、入学前の17,8歳の子供を捕まえて、やれ、「考えるプロセスを問うぞ!」と脅す事である訳がない!
そうではなく、現在日本国中に存在している大学の実情を今一度再確認して欲しいものだ。
もしも可能ならば、2020年「大学入試新テスト」を実施する時点で、「学問の府」としての機能を果たしていない底辺大学には「新テスト」を受けさせない、との手段により斬り捨てる事を視野に入れても許されるのではなかろうか?
大学の使命とは、まさに学生に学問を教授する場であるべきだ!
それを文科省が大学現場に真に実行させる指導力を果たせてこそ、学生達の「考えるプロセス」が育つと私は信じる。
P.S.
本年も「原左都子エッセイ集」をご訪問いただきまして、誠にありがとうございました。
皆様、良いお年を迎えられますように!!
早速、以下にその内容を要約して紹介しよう。
大学入試センター試験に代わって2020年度に始まる「大学入学希望者学力評価テスト」(仮称)につき、文科省が示した問題例は、従来と違い考えるプロセスも問う記述式を盛り込んでいる。 思考力や表現力を測ると共に、出題方法を工夫して採点し易い客観性も考慮するという。
例えば、国語。 答えが一つとは限らず多様な見方や考え方ができる題材につき、図や文章を読み解き、自分の考えをまとめる力が求められた。 選択式と記述式を組み合わせて解答する問題もある。
次に、数学。 身近な事象について取り上げ、情報量の多い問題文の中から、解決に必要な情報や条件を見分けて考える問題だ。
文科省が今回示した問題例について、識者らの意見は分かれている。 「受験生は正解を当てる技術を磨く傾向にあったが、論理的に筋道を立てて考え抜く力がつく。」 あるいは、「これからの時代に合った思考力を問う内容。問題としてはいいが、選抜試験に使えるかとなると難しいのでは。」 さらに、「公平な採点方法や大学の負担、実施時期の検討など課題は多い。」
予備校生の意見として、「応用的名問題で求められる基準が高いと感じる。新テストを避けて、推薦入試などに流れる人が増えるのでは」
(参考だが、当該問題例については、文科省のホームページにて公開されているとのことだ。 以上、朝日新聞記事より一部を要約引用。)
原左都子の私事に入ろう。
私自身、高校教員経験があるが、定期試験時の出題には私なりの大いなるこだわりがあった。
それは生徒個々のオピニオンを文章にて書かせることだ。 と言うのも、私が担当していた教科が「商業」「社会」であり、両者共々日々目まぐるしく変化を遂げる社会情勢を伝えねばならない使命感があったからに他ならない。
例えば、当時(バブル絶頂期からそれに陰りが見え始める時期だったが)政治経済等々社会全体が再編され揺れ動く激動の時代背景だった。 単に規定化された事象を伝える事ももちろん重要だが、移り変わる時代の真っ只中で今後生きて行く生徒達には、是非とも自分なりのポリシーを抱いて欲しかったのだ。
ただし、私が勤務していたのは(大変失礼な表現をお詫びしておくが)底辺高校だ。 そうだとしても、生徒個々のポリシーは必ずやあるはずだ。 それに期待し、私は毎回の定期試験に於いて生徒達の反発をものともせずに、自由オピニオン解答を求め続けた。
そうしたところ、これが面白い!
文章以外の設問(要するに上記大学新テストの“選択式設問”の類)で高得点が取れる生徒が、文章題にて一切の自己オピニオンが書けない事態を発見する事と相成る。
片や、選択式問題では冴えない生徒が、文章課題にて私の心に響くようなオピニオンを書いて来るのだ!
教師の立場としては一応両者共々高評価を下すのだが、採点をする立場として私が感じたのは、「自己のオピニオンを表出可能な生徒にこそ輝ける未来が待っているだろう!」という事だ。
多い時には一度に150名程の生徒のオピニオン解答を読んだと記憶しているが、私はそれら生徒が書いてくれたオピニオンに対し、必ずや全員に私なりの返答メッセージを書いた事が懐かしい。
私事が長引いたが、十代の若者の「考える力」を育てるには、自己のオピニオンを自由に書かせることが一番ではないかと私は考えている。
ただ、それの採点が困難な事は重々承知だ。
私の場合は、多い時でたかが150名程の採点だったため、それを一人でこなすことが十分可能だった。(ただ自宅にて真夜中まで時間を要したのが実態だが。)
しかも、それを複数の採点者で実施するとなると、採点者による「価値観の行き違い」との事態に必ずや遭遇するとの問題が発生する事だろう。
ここで大きく観点を変えよう。
文科省が世界基準に比して日本の大学学生のレベルの低さを嘆いている事実は、私も十分に理解している。
ところがその元凶を、文科省が大学に“入学して来る学生の質”に求めている事実に、そもそも大きな誤りがあると私は常々考えているのだ。
ここは、その発想を原点に戻そうではないか。
日本の大学が「学問の府」であるべき事は既に法的規定がなされている。 ならば、大学入試により優秀な学生を確保しようとの発想をそろそろ止めては如何であろうか? それよりも優先するべきは、大学自体の質を高める事だ。
現状の日本にごまんと存在する大学の質とは千差万別であろうが、「学問の府」の名に相応しいとは到底言えない大学の設立を認可し続けている文科省の体質こそを、まずは改めるべきだろう。
そんなみすぼらしいまでの大学の実在を文科省が認可している事実から、自ら問い直して欲しいものだ。
原左都子から一つ提案がある。
文科省が今やるべき事とは、入学前の17,8歳の子供を捕まえて、やれ、「考えるプロセスを問うぞ!」と脅す事である訳がない!
そうではなく、現在日本国中に存在している大学の実情を今一度再確認して欲しいものだ。
もしも可能ならば、2020年「大学入試新テスト」を実施する時点で、「学問の府」としての機能を果たしていない底辺大学には「新テスト」を受けさせない、との手段により斬り捨てる事を視野に入れても許されるのではなかろうか?
大学の使命とは、まさに学生に学問を教授する場であるべきだ!
それを文科省が大学現場に真に実行させる指導力を果たせてこそ、学生達の「考えるプロセス」が育つと私は信じる。
P.S.
本年も「原左都子エッセイ集」をご訪問いただきまして、誠にありがとうございました。
皆様、良いお年を迎えられますように!!