原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

もしも赤ちゃんの時取り違えられていたなら…

2013年11月27日 | 時事論評
 「小説よりも奇なり」 なる出来事が、現実の世において無常にも実際に発生してしまう事があるようだ。


 昨日(11月26日)夜NHKテレビにて報道された“赤ちゃん取り違え事件”訴訟結果のニュースを見聞した方々は多いのではなかろうか。
 報道によれば、昭和28年に同じ病院内でほぼ同時刻に生まれた男の赤ちゃん2人が病院の手違いにより取り違えられ、病院側に3800万円の支払命令判決が言い渡されたとの事だ。

 その後のNHK夜9時からの「ニュースウォッチ9」では、このニュースに関する更なる続報を伝えていた。
 当該ニュース続報及びNHKネット関連情報より、以下にこの出来事に関して要約して示そう。

 60年前に生まれた東京の男性について、東京地方裁判所はDNA鑑定の結果から病院で別の赤ちゃんと取り違えられたと認めたうえで、「経済的に恵まれたはずだったのに貧しい家庭で苦労を重ねた」として病院側に3800万円の支払いを命じる判決を言い渡した。 
 この裁判は、東京・江戸川区の60歳の男性と実の兄弟らが起こしたものである。 判決で東京地方裁判所裁判長は、DNA鑑定の結果から男性が別の赤ちゃんと取り違えられたと認めた上で、「出生とほぼ同時に生き別れた両親はすでに死亡していて、本当の両親との交流を永遠に絶たれてしまった男性の無念の思いは大きい。 本来経済的に恵まれた環境で育てられるはずだったのに、取り違えで電化製品もない貧しい家庭に育ち、働きながら定時制高校を卒業するなど苦労を重ねた」と指摘し、病院を開設した社会福祉法人に合わせて3800万円を支払うよう命じた。
 判決について社会福祉法人側は、「現在、判決内容を精査し、対応を検討しています」とコメントしている。
 取り違えられた男性の代理人をつとめる弁護士氏は、「男性は幼いころから母親や近所の人から『両親に似ていない』と言われ自分自身も違和感を感じていたという。 実の両親が違うと知ったことで納得した部分もあると話していた。 そのあとは迷いながらも実の兄弟と交流を深めていき、本当の両親の話を聞いて涙を流すこともあったそうだ」と話している。 また、判決に関しては「男性は喜びよりも病院への憤りが大きい。 60年近く実の両親を知らなかったわけで、取り違えによって男性の人生は大きく変えられてしまった。 本人は『自分のようなケースはほかにもいるのではないか』と話していて、病院にはこの問題に真摯に向き合ってほしいと希望している」と話している。
 (以上、NHK報道ネット情報より引用。)


 原左都子が昨夜このニュースを見聞し我が身に照らして一番辛かった部分とは、当該“取り違え被害者男性”と私がほぼ同時代に我が国にて出生しこの世を生きて来ている現実である。
 それ故に、私には“取り違えられ先家庭の貧しさの程”が目に見えるように実感出来てしまうのだ…。

 昭和28年生まれと言えば、日本戦後復興期終盤と表現するべき時代背景だ。
 ちょうど電化製品が世に誕生しつつあった頃で、過疎地の我が家でさえも例えばテレビなど私6歳頃に買い入れた。 その後小型冷蔵庫や手回しで脱水する洗濯機が開発されれば、東京五輪の頃にはカラーテレビもお茶の間に登場し楽しんだものだ。
 ところがこの“病院取り違えられ”男性は、同時期にして大都会東京で6畳一間の部屋に一家で住み、電化製品の一つもなかったとの上記NHK報道である。 当時はまだまだ国内地域間格差が大きかった時代背景も考慮すると、この男性が辿った“極貧の生活ぶり”が実に痛々しい。
 更にはこの男性は一家のために自分が収入を得ねばならず、中卒で働きに出て、自分の力で定時制高校に通ったという。  原左都子が住んでいた過疎地ですら、当時の高校進学率は98%程だったと記憶している。(参考だが、むしろ経済的に混沌とし高校中退率が高い現在よりも、高校進学率及び卒業率が高かった時代背景だったかもしれない…) 
 この男性についての定時制高校卒業後の人生に関する報道がないため、後は論評のしようがない。
 
 片や昨夜9時からのNHKニュースに於いては、“取り違えられたもう片方”の男性の報道も少しあった。 何でも、経済的に相当恵まれた家庭環境に加えて親も教育熱心で、他の兄弟と共に中高は私立に通いその後有名大学へ進学後、一部上場企業へ勤めている現状だそうだ。(細かい部分で私の記憶違いがある点はお詫びするが。)

 そしてNHK午後9時のキャスター氏は、「赤ちゃんの頃病院で“取り違えられ”翻弄された人生を、今後病院からの賠償金により取り戻して欲しい。」と言ったかどうかの記憶も薄れていることをお詫びしたい。
 だが、そのような“無責任な言葉”でこの話題を締めくくっていいものかとの印象を私は抱いた。


 ここで私事に入ろう。

 原左都子自身は、上記“病院取り違え”男性程の極貧の生活を送って来た訳ではないかもしれない。
 ただもしもそのような環境下で子ども時代を送る運命を無常にも叩きつけられた場合、私はどう行動しただろうかの考察を、ここで是非させて欲しい。

 当時の世の中はまだまだ「男尊女卑」思想がまかり通っていた時代背景だ。 そんな中、女である私は、6畳一間の一家内で“女は飯を炊け!”と強要されたのだろうか? そして私はそれを、現在放映中のNHK「ごちそうさん」主人公メイコさんのごとく頑張ったのだろうか?

 私の単なる歴史認識違いや勘違いかもしれないが、ちょっと違ったような気もする。 「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いて公開しているが、どうも私には生まれ持って元々料理センスが一切無い事は明らかだ。
 それよりも、私の適性において6畳一間に住む一家のために私なりにもっと頑張れるべき方策を訴えたかもしれない。 「私の場合家で皆の食事を作るよりも、昼間は外へ働きに出して欲しい。  その金を一家のために提供する代わりに、私は定時制高校に通って頑張り、その後は大学や大学院へも進学したい。 その時期はいつでもいい。 皆が生活できる頃になってからでも遅くはない。 必ずや私が働いたカネで皆を食わせるから、皆も頑張ろう! 皆で頑張れた暁には、家族一人ひとりがそれぞれに自立して自分の人生を歩もうよ!」

 そんな我が思いとは、単なる未知数範疇なのかもしれない。 それでも私は実際問題親元離れて上京後は、自分の努力と能力一本でこの世を渡ってきているとの自負には揺ぎ無いものがある。 
 要するに極論を述べると、我が親など誰でもよかったとの感覚だ。


 病院側に3800万円の支払いを命じる判決で勝訴した、60歳男性及び兄弟の痛烈な思いの程も理解可能だ。 どうか残された時間が有意義なものとなるように、今後の幸せを血縁一家で紡いで欲しいものだ。
 
 ただ“取り違いベビー”もう片方の、(NHKニュース報道曰く)中高大と私立に通い一部上場企業に就職している(本来貧困家庭に育つはずだった)男性の現在のご心情の程も是非共聞いてみたいものだ。
 この方、もしかしたら極貧の中この世を打破しつつ勝ち進むべく人生こそを享受したかったかもしれないよ?!?

 要するに人の人生など何が幸せなのか計り知れない、と言いたいのが原左都子の私論結論である。

 それだから面白いと実感出来る人それぞれの人生こそが、人間生きて行く上での醍醐味なのではなかろうか?

「英語」とはツールに過ぎない

2013年11月25日 | 教育・学校
 私には、米国在住の実姉がいる。

 30年程前に国際結婚で米国に渡り永住権を取得した後、かの地の某日本総領事館に通訳として勤務しつつ、「日本には何の未練も無い。私はこの国に骨を埋める!」と日本の家族に伝え続けている。


 姉は中学生の頃より、将来は「英語」分野に進むとの強靭な志望を抱いていた。 
 ところが何分過疎地のド田舎育ちのため、英語環境らしきものが周囲にほとんどない。 そんな逆境の中、我が姉は外国人神父氏がいるキリスト教会へ通い詰め自主的に英会話を学んだ。
 そしてその後、姉は県内最高位進学校に進学を決めた後、第一志望だった某国立外国語大学に一発合格して更なる英語力を培っていく。

 時が経過して、姉がその大学を卒業後“フリーの通訳”となり日本国内で開催される国際マラソン大会やユニバーシアードレベルの通訳をこなしていたそんなある日の事だ。
 姉の日本人知人男性から厳しい指摘を受ける事と相成った。 ちょうどその席に居合わせた私は、その知人男性が言い放った言葉を今尚明瞭に記憶している。
 「英語とはあくまでもツールに過ぎない。 ○子(姉のこと)がその英語力で将来一体何がしたいのか捉え処がない。 通常学問分野の専門力として英語を専攻した場合、その英語専門力をもってこそ自分の夢が描けたはずである。(例えば、国際会議レベルの同時通訳をしたい等々。) ところが○子の場合は未だにその夢の程が不明瞭だ。 単に外国に渡って生活をしたいレベルの英語力を欲していたのならば、それを学問として学ばなくとも事が足りたであろうに…。」

 この手厳しい指摘を聞いた私は、大いにガッテンしたものだ。 確かに姉の英語力の程(一応「英検1級」や「通訳検定」等の資格は取得しているが)とは、大学にて学問として「英語」を学んだ割には私の感想としても中途半端感が否めない有様だ。
 当時医学分野の民間企業で頑張っていた私だが、そんな私とて過去に学校で学んだ英語力を活かして仕事上医学英文論文を読むことなど日常茶飯事だった。 何も外国語大学を出ずとも、自分の専門分野ともなれば辞書を引きつつ論文を読むことに集中可能だ。
 片や一旦外国語大学出身者ともなれば、学問としての「英語力」が社会から要求期待されるに決まっているではないか! 

 そんな我が姉だが、結局フリー通訳で知り合った米国男性と国際結婚の後米国に永住したとのいきさつである。
 ただ我が姉が褒められるべきは、中学生の頃より長年培ってきている“英会話力”の程が米国領事館での通訳力をはじめ米国での日常生活に於いても十分通用している事態である。 これは私には絶対に真似の出来ない快挙と讃えるべきであろう。 


 話題を変えよう。
 
 現在の進学高校現場では、公私を問わず「英語科」なるクラスが存在する実態だ。
 実は我が娘が通っていた私立高校でも「英語科」コースが存在したのだが、その当時より保護者であった私はそのクラスの存在意義を疑問視していた。
 まさに英語とは「ツール」に過ぎない。 にもかかわらず、その高校では英語科コースの生徒達を某国立外国語大学へ入学させる事のみに躍起になっていたものだ。 この現象こそが、我が姉が辿った道程を思い起こさせるものだった。

 そうだね。 当該国立外国語大学等“いわゆる有名大学”へ所属生徒を一人でも多く入学させる事が高校側の目標であるのかもしれないね。
 ところが、その先は「英語とはツールに過ぎない」現実を学生は突きつけられる運命にある。 それをどれ程に高校教育現場は理解した上で「英語科」コースを設けているのだろうか?
 確かに、今現在日本国内にも多い「帰国子女」やハーフ生徒をそのコースに追い込むことは可能であろう。 ところが特に「帰国子女」とはわずか数年のみ外国へ渡りその間日本人学校へ通うケースが多いとも見聞する。 その英語力の程が如何なものか懸念せざるを得ない。


 朝日新聞が、「英語をたどって」との連載記事をここのところ夕刊紙面で公開していたのをご存知であろうか?
 11月21日の記事がその連載の最終回だったようだが、その内容に原左都子私論も一致するため以下にその一部を要約して紹介しよう。

 日本人に英語力がない元凶に関して、「中高の教え方が悪い」と指摘する人が多い現実であろう。 さらには入試問題を考える大学も悪けりゃ、予備校も悪い。 いや、文科省こそが諸悪の根源だ。 TOEICを課す民間企業もバカなれば、英語教育産業とて同様の罪がある。 もっとも家庭の親どもが子どもに期待しすぎる。……
 そんなことを言っていてもきりがない。 
 東京大学某教授は、「日本人にとって英語はものすごく難しい言語である」と表明している。 文法、語順、発音、文字すべてにおいて日本語とはまったく異なる文化と背景を持つ言語であることを表明している。 しかも日本人にとって日常生活上英語はほとんど必要でもない現状だ。 にもかかわらず、何故これ程現在の日本の子ども達に英語を要求するのか?
 日本の子ども達とて、読むのは好き、話すのなら任せて、書くのは得意。 そんなふうに、得意不得意があって当然だ。日本語に於いてもそうなのに…。
 今回の連載では、主張したり議論したりする経験自体が日本人には不足しているのではないかとの取材をしてきた。
 英語教育をいくら勉強しても、そこに「言いたいこと」は書いていない。
 言いたい事を言う力をまず鍛える。 日本語で出来ない事が英語で出来るはずはない。
 (以上、朝日新聞記事より要約引用。)


 最後に私論を述べよう。

 まさに朝日新聞がおっしゃる通りである。
 日本国民皆が言いたい事を言える力こそを、まずは国政は鍛えるべく努力するべきである。
 それを叶えた時点で、中高学校教育現場に於いて「英語コース」なるものを設けても遅くはなかろう。 (英語とは単に「ツールでしかない」ことを肝に銘じて欲しいものだ。)

 その上で大学に於ける学問としての「英語教育」に関しては、もっと専門力を上げる必然性があるのはもちろんの事だ。


 決して「英語」を大学(及び大学院)に於いて専門としていた訳ではないこの私など、今現在尚、数十年前に過疎地の中高で学んだ英語力のみで世界(とは言っても大したことはないが…)を渡ってきているぞ。
 年老いて英単語力が欠落している部分は「受験英単語集」を本棚から引っ張り出し紐解きつつ、結局は相手と話したい勢いのみで結構通じることを実感しながらのしがない英会話力範疇であるものの…

私もいつかは “ばあちゃん” と呼ばれるのか?

2013年11月24日 | 人間関係
 昨日我が娘がはたちの誕生日を向かえ、ケアマンションに住む義母を自宅に迎えて一家で娘の20歳の門出を祝った。

 ところで我が家では実母と義母の呼び方を違える事により、娘幼き頃より両者を一家内で識別している。 
 当初はそれぞれを「○○(地名)のおばあちゃん」と呼び識別していたのだが、長たらしいのに加えて、同じ祖母とは言え両人の人格やら容貌なりがまったく食い違う事に違和感を抱いていた私から、自然と呼び方を変えていった。

 その結果、義母は「おばあちゃん」、 実母は「ばあさん」と呼んでいる。 (私にとっては実の母など 「くそばばあ!」で十分と思う事も多い程、憎たらしい存在であるが…。)
 ただし、亭主と娘はさすがに我が実母を「ばあさん」と呼ぶことは避け、相変わらず「○○のおばあちゃん」と呼んで気遣ってくれているのが申し訳ない程だ…

 加えて、私は義母に面と向かっては決して「おばあちゃん」とは呼ばない。 必ずや「お母さん」である。 これは今後も徹底してそう呼んでいきたい程に、私にとって義母は尊敬すべき人物でありその存在感は大きい。
 片や郷里の実母とは年に2度程しか会わない関係だが、いつ帰省してもあちらの悪態ぶりに辟易としつつ、ついつい「あなた」ないしは「あんた!!」と自然と口から出てしまう実態だ…。


 今回のエッセイを綴るきっかけを得たのは、「原左都子エッセイ集」でおなじみの朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”11月23日版を見た事による。

 何でも今回の63歳女性相談者は、「『ばあちゃん』はイヤです」 との事だ。 
 早速この相談を要約して以下に紹介しよう。
 夫65歳、私63歳だが、この頃夫が私の事を「ばあちゃん」と呼ぶので傷ついている。 今の60代など「じいちゃん」「ばあちゃん」と呼ぶには申し訳ない程の若々しさだ。 我が夫は自分が若く見られる事を日頃から自慢している。 確かに若い頃より夫より私の方が老けて見られてきている。 それはそうとして、私は夫から「ばあちゃん」と呼ばれる事には耐えられない。 どうしたら、そう呼ばれないようになるのか?

 今回の“悩みのるつぼ”回答者は社会学者 上野千鶴子氏であられるのだが、氏は、「『呼び方』は関係を反映してますね」 と題する回答内容を紙面に展開されている。
 
 この上野氏の表題を一見して、原左都子はまさに人の「呼び方」とは人間関係の実態を如実に描写している! と同感申し上げた次第である。 
 冒頭に掲げた私からの義母と実母の呼び方が異なる事例など、まさに我が現実の人間関係の有り様を物語っているのだ。


 ここで私事に入ろう。

 我が夫婦の場合、婚姻以来一貫して夫婦間では“名前呼び捨て”である。(欧米式と言えば聞こえがよいが、そんな思惑など一切なくして晩婚後自然とお互いにそう呼び合っている。) それは今現在に至っても一切変わりはない。
 これを自然体で貫き通し、娘誕生後も決してお互いに「おとうさん」「おかあさん」などとは呼び合わなかった家庭のせいか、我が娘も(ごく小さい頃を除き)父母を「おとうさん」「おかあさん」とは一切呼ばず名前(及びニックネーム)で呼んでいる風変わりな一家だ。  (参考のため、「パパ」「ママ」は私自身が反吐が出そうな程気持ち悪いため、子どもにはそれを絶対に使用させなかった。)
 少しだけ原左都子のポリシーを語るならば、親子なれどもそもそも人間皆対等に生きるべきある。 我が娘も成人を迎えた暁には「父」も「母」もへったくれもなく、自己責任で生きていかねばならない立場にある一個人体である。 その娘幼き頃から「名前」で呼ばれようが何らの不都合も無いどころか、その方が娘自立に向けて近道であるようにも考察した。
 おそらくそんな私にたとえ80歳、90歳が訪れようが、亭主や娘から「ばあちゃん」類ではなく、実名かあるいは我がニックネームで呼び続けられそうな実感がある。


 それはそうとして、上記上野千鶴子氏の回答の中で大いに気になる部分があった。

 上野先生には申し訳ないが、その箇所を以下にピップアップして紹介しよう。
 私(上野氏)は最近電車の中で座席を譲られることがとみに増えました。 ショックを受ける人もいるそうですが、年齢相応に見えるのだろうとありがたくお受けしております。 日本もそんなに悪い社会じゃないんだ、と思いながら。
 (以上、“悩みのるつぼ”上野氏の回答内容からごく一部を紹介したもの。)

 上記のご回答にこそ、大いなるショックを受けた原左都子である。
 何と言っても上野千鶴子氏とは原左都子世代の女性達には、一貫した学問力によりこの世を変革するべく働きかけた先駆者たるべく印象があるからだ。
 その上野氏が現在電車に乗ると、席を譲られるのだと???

 その回答内容に少なからずの衝撃を受けた私は、上野千鶴子氏が現在何歳なのかに関してウィキペディアで検索させていただいた。 その結果は、1948年生まれの65歳……

 私が上野氏の年齢に達するまでには、まだまだ我が人生を試行錯誤しつつ刻み続けねばならない。 還暦に近づいているとはいえ、未熟者の私がその年齢に及ぶ頃までに庶民レベルで一体何の業績が残せるというのか?


 例えばの話がそんなことに思いを馳せた場合、他者からの「呼び名」などどうでもよいとも思える。 自己の人生を自分らしく歩み刻めたならば、他者に何と呼ばれようが、高齢になってたとえ電車内で席を譲られようがそれを容認可能との話題であろう。 
 
 若かりし頃より結婚願望も子育て願望も希薄だった私は、晩婚で産んだ娘が昨日20歳を迎えるずっと以前より、「自分の人生はすべて自己責任で好きなようにしなさい」と教育指導し続けている。
 そんな我が娘がもしも将来孫を設けるような選択をした場合、この私も「ばあちゃん」と呼ばれる日が来るのであろうか??

 そんな日が訪れることが自分自身の生き様に照らしてまったく想像も付かない、電車に乗れば未だ痴漢に遭う (あくまでも背面からだが…) 事を鬱陶しく感じつつ、お年寄りに席を譲る日々の原左都子である。  

「人物本位入試」が掲げる“人物”善悪の基準って何??

2013年11月21日 | 教育・学校
 11月上旬頃、大学入試改革案として「人物本位」を政府教育再生実行会議が打ち出した記事を新聞で発見した。

 この記事の表題のみを一見した私は、咄嗟に、我が娘が高校時代に大学推薦を受けるに当たり、その“推薦基準”に関し学校面談時に担任相手に説明責任を迫った事を思い出した。

 私自身が高校教員経験者でもある立場にして多少大人気なかったかもしれないが、その内容を以下に紹介しよう。

 「高校による大学推薦に際し、貴校の場合は生徒の学業成績以外に“人物評価”も吟味していると聞く。 その“人物評価”に関してお尋ねしたい。 既に指定校推薦者は決定済みのようだが、如何なる“人物評価”基準によりそれを決定したのか? 我が家の娘は“指定校推薦”を得られなかった立場だが、学業成績に関してはその基準を満たしていると捉えている。 そうなると、娘の場合“人物評価”面で指定校推薦決定者より劣ったとの結論となろう。 それが得られた生徒との間に如何なる差異があったのかを明確に説明して欲しい。」 
 これに応えて担任曰く、「○さん(娘のことだが)の場合、高3直前に進路変更したことが最大のネックとなった。 指定校推薦を決めた他生徒の場合、もっと早くから当該大学の推薦を狙いずっと頑張り続けていたためこちらの生徒を推薦した。」
 分かったようで分からない解答ではあるが、要するに決して“人物評価”でお宅の娘さんが劣ったとは、担任の口からは発されなかったのだ。
 これには親として多少救われると同時に、親との面談の場で担任が“禁句”を発しないよう、よくぞまあ徹底的にマニュアル化されていると、当該私学の教員指導ぶりに根負けの思いも抱いた。

 ただ、元教育者である私は更に食い下がった。
 「娘が指定校推薦を得られなかった事由に関しては、一応納得しよう。 それはそれとして、推薦制度に於ける“人物評価”の不透明さを私は常々懸念している。 例えば、一基準として“リーダーシップ力”が挙げられるようだが、たかが10代の子どもの如何なる能力を持って“リーダーシップ力”が優れていると捉えるのか? 学校行事や部活動現場で生徒のトップに立って働いた生徒には“リーダーシップ力”があると判定するのか? それも一つのリーダーシップ力の芽かもしれないが、特に年齢が若い場合は本人が天然気質で無邪気に騒いでいるのみの要因も否定できなければ、単に学校現場にとって扱い易い生徒にしか過ぎない場合もあろう。 そうではなく、10代レベルでは表出し得ない“リーダーシップ特性”を水面下に内在している今だ未完成の生徒も数多く存在する現状を如何に評価出来るのであろうか?」 等々… 
 この私の問いかけに関して、おそらく担任は「今後の検討事項とします。」と応えたような気もするが、明確な回答は得られずに面談が終わったと判断する。


 私事が長引いたが、以下は冒頭に掲げた「人物本位入試」が実際に大学入試現場で実施されることの大いなる弊害の程を検証していこう。

 大学入試担当者の判断とて、高校現場の推薦制度とさほどの差異はないと捉えられる程の低レベルどころか、もっと劣悪な結果を導きそうな懸念を抱かされる。
 と言うのも高校現場での大学推薦とは必ずや保護者面談を通過せねばならないため、下手をすると私のような元教育者等手厳しい保護者より「その基準を明確にせよ!」と突かれる場面も想定可能であろう。

 片や、大学入試現場にまさか保護者がしゃしゃり出る訳にはいかない。 そうなると、大学入試担当者の“思う壺”となる。 一体全体如何なる“人物本位”基準で合格させたり振り落とされるかの明暗とは、入試担当者の勝手気ままな趣味によるしかないであろう事は誰しも想像が付く事態だ。
 この事態とは不透明性が高いと表現するより、試験委員の“好き放題”あるいは“学内で取り扱い易い受験生”を入学対象としている意図が目に見えるとの制度となろう。


 ここで、朝日新聞11月6日の文化面記事「『人物本位』入試の怪シサ フーコーらの議論から考える」なる記事の一部を要約して紹介しよう。

 戦後になって推薦入試やAO入試など学力本位ではない試験が次々と登場した。 この背景には学科の成績が悪くても逆転可能なことに着目する「下克上の欲望」があったとの理論を展開する学者氏が存在する。 
 そもそも試験制度が人間社会で如何なる意味を持つのか? との示唆に富む分析をしたのは20世紀フランス哲学者ミシェル・フーコー氏だ。 氏は近代の試験を「教育実践の中に組み込まれた観察の装置」と位置づけた。 フーコーは、学校のほかにも病院や監獄にも同じ機能があると見ていた。 このフーコーの分析を踏まえ、入試で「人物本位」が強制される場合、「監視装置としての試験の役割はより広がりを持つようになる」と話すのは某東大教授氏だ。 氏曰く、「勉強以外で何をしたの?と試験で問われた場合、「監視」の目が日常生活や心の内までに及ぶ可能性がある。 そもそも、“人物”とは言語化したり計量化したり出来ない領域のもの。 それを評価できると思い込んでいる事自体が問題である。」
 フーコーは一方で、権力からの強制が強まったとして、それを意に介さずのらりくらりと跳ね返す力もまた人間に備わっていると考えていたという。 


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 いやはや、時の政権は何故今さら教育再生実行会議において、無責任にも大学入試制度に「人物本位」なる新案を持ち出したのであろうか??
 この世のどこの誰がそれを見抜ける“神的能力”があると判断したのだろう??? 
 何だかせせら笑いたくなる制度としか表現できない有様だ。 上記のフーコーを手始めとして過去の哲学者達の教えを少しは学び直した後に、政権担当者が大学入試改革案を再び持ち出しても遅くはなかろう。

 人間の個性とは実に多様だ。
 大学進学時点で既に大学試験委員相手にアピールできる“程度”の人物像を描ける若者も、もしかしたら存在するのかもしれない。
 ただ、大方の若者とは社会に進出した後に自分の真の人生を刻み始めるのではなかろうか?

 大学とは入学してくる未熟な学生達に学問を享受させるべき府であるはずだ。

 それを基本と位置付け、大学の門をくぐる学生皆に学問を教授する能力を“大学側こそが”切磋琢磨して身につけるべく精進し直す事が先決問題であろう。
 それをクリア出来た時点で、政府は大学入試改革を叫んでも遅くはないと私論は捉える。

絵むすび (朝日新聞2013.11.16編)

2013年11月18日 | 自己実現
 (写真は、朝日新聞11月16日別刷「be」に掲載されたパズル「絵むすび」に原左都子が解答したもの。 いつもながら、応募期間締切日に先立ち解答を公開しましたことをお詫び申し上げます。)


 「原左都子エッセイ集」に於いて、朝日新聞「絵むすび」解答を公開するのは今回で4度目となる。

 実にありがたい事に、朝日新聞がパズル「絵むすび」を紙面で公開する都度、本エッセイ集“絵むすびバックナンバー”の閲覧数が大幅に増加するのだ。  この現象とは、ネット各社の検索画面に於ける「絵むすび」検索上位に我が「原左都子エッセイ集」がランクアップされていることを物語るものであろう。

 私の場合、土日の新聞に目を通すのが大抵の場合週明けの月曜日となるのだが、既に土曜日から我がエッセイ集バックナンバーの「絵むすび」検索が急増する現象が起きる。 これを一見して、「ははあ、今週の朝日新聞パズルに『絵むすび』が取り上げられてるな」と直感するのだ。

 本日月曜日になり昼過ぎに朝日新聞土曜日版別刷「be」を開いたところ、案の定、先週のパズル課題の一つが「絵むすび」だった。
 もうそろそろ「絵むすび」解答は個人趣味範疇で楽しもうとの考えもあるのだが、上記のごとく各社検索画面上位に本エッセイ内で公開した「絵むすび」が複数ランクアップされている事実を勘案して、解答を公開するのも我が使命かと思い直し、今回もそれを実行する事とした。


 さて、11月16日版朝日新聞「絵むすび」は“レベル3”である。

 前回公開した「絵むすび(レベル3編)」解答以降、朝日新聞「絵むすび」はレベルが相当上がっているのではなかろうか?との印象を抱いている。
 今回の設問も一見して、今までの“レベル3”にしては難易度が高そうだと判断した。

 いずれにせよ、我が解答方式はいつもと変わりない。

 まずは、一方向のみにしか線をのばせない対象物に着眼した。
 今回の場合、「にんじん」「とっくり」「いか」がその対象となろうか。 特に「にんじん」の場合2個共に一方向へ進むしか手立てが無いため、とりあえずそれを直角線で結んだ。
 次なる標的は右下の「いか」である。これもとりあえず左に線をのばさざるを得ないであろう。 それを実行した後に、下から2~4段目部分に空白が多い事に着眼した。 「いか」はこの空白部分を通せば何とか繋がると予想したと同時に、その合間の横線を「串」の通路と決定した。
 後は簡単。 まずは「どんぶり」を結び、その他の空間を「とっくり」「ふぐ」とつなげば完成だ。

 参考のため、原左都子が今回の解答に要した時間は5分程度だったであろうか。


 などといつも解説しつつ、我が解法が少しも「絵むすび」の基本解法指針とは成り得ていないことなど承知の上だ。
 
 私が思うに、この種の課題を提出されるシチュエーションにより、各自の解答方針が異なってよいのは当たり前と心得る。
 例えば、朝日新聞が“お遊び”範疇で毎週「be」の記事としているパズルなど、まさに読者側も“お遊び”で解答すれば済む話であろう。 何も必死の覚悟で解答する必然性など何ら無い。
 もしも、これが子どもの受験や若者の入社試験の一課題として課された場合には、その意味合いが大きく異なって来る事は私にも理解可能だ。(実際そんな実態があるのかどうかは不明だが…)
 我がバックナンバー検索元の情報を少しだけ得ているのだが、老人福祉施設等でこの種のパズルに皆が挑む事を強制しているらしき記述が過去に存在した。 一旦集団現場でこの種のパズルを自己実現の一端として取り上げた場合、集団施設ならではの“下手な競争”が勃発してしまうことは想像可能だ。 もしかしてその競争を勝ち取るために我がエッセイ集から解答情報を得ているとすれば、人為的競争反対派である私は、今後「絵むすび」解答を当エッセイ集内で公開することを自粛するべきであろう。


 「パズル」とは、元々それに趣味がある人物が楽しむための一娯楽手段に過ぎない。

 過去の学校現場に於ける、まさにパズルごときの「知能指数検査」を児童生徒全員に課した過ちはとがめられるべきであろう。 (原左都子は「知能指数検査」とは単にパズルの延長に過ぎないとの印象を持っていることに関しては、2013.4.22 バックナンバー 元祖「絵むすび」に於いても綴っておりますのでご参照下さい。)


 そうだとしても、「絵むすび」検索により多数の方々が「原左都子エッセイ集」を閲覧下さる事により、大いなる活性化を受けていることも事実だ。

 今後共、朝日新聞「絵むすび」を解答する事により私自身も引き続き脳内活性化を図って参る所存です!