10月も本日で終わりを迎える。
今年の10月と言えば、次から次へと巨大台風が発生して過去に例を見ない勢力で日本列島を荒らし回り、特に伊豆大島にて多くの人命を失う等悲惨な大被害をもたらした事には心が痛む。
日本にはもう、「秋」との季節が無くなる程に地球の温暖化が進んでいることを実感させられる思いだ。
人類の「驕り」がもたらした取り返しがつかない自然破壊行動により、我々の故郷であるこの地球も、消滅に向かい急加速している事実を思い知らされる今日この頃である。
今週水曜日あたりからやっと秋晴れに恵まれている東京地方だ。
そんな折、10月30日水曜日の午前10時半頃だっただろうか。 公立小学校に程近い位置にある高層住宅上階の我が家の室内まで、小学校教員による校内放送アナウンスが高らかに響いてくる。
「生徒の皆さん、今日はいい天気です。 校庭に出て遊びましょう!」
そこまでならば、私も許容範囲だ。 ところが、このアナウンスはまだまだ続く。
「外に出て太陽光を浴びましょう。 室内で閉じこもっていては体の発達に悪いです。 皆さん、校庭に出て元気に遊びましょう。」云々…
ここで、原左都子の私論に移ろう。
ちょっと待ってよ、先生。 確かに子どもの発達のためには外で太陽を浴びながら元気に遊ぶ経験も必要ではあろう。 ただし、学校の休憩時間とは20分程度ではなかろうか? (たかが20分程度太陽光を浴びる事による子どもの発育への医学的好影響の議論は、ここでは割愛しよう。)
もっと大きな問題とは、その短時間を生徒個々人の意思で如何に過ごそうと自由ではないのだろうか、という観点だ。
確かに放送担当先生の視点も、元教員である私にも理解可能だ。 ここのところ台風ばかりが到来していて、生徒達が校庭で遊べない日々が続いていた事は事実だ。 やっとこさ秋晴れに恵まれた今日こそ、生徒を思い切り外で遊ばせてやりたい!、との教員視線からの温情だったのかもしれない。
さて、次の日も快晴に恵まれたのだが、同じ時間帯に同じ教員の音声で、同じ校内放送が我が家まで流れてきた。
ちょうど大学の授業が午後からだった娘が在宅していて、我が家の室内でこの放送を聞いていた。 小学校時代には(持って生まれた事情により)自己表出能力に乏しかった我が子であるが、今となっては素晴らしいまでの成長を遂げている娘が、母の私に伝える。 (参考のため、我が娘は小学3年生3学期よりこの公立小学校に転校し卒業まで在籍していた。)
「昔からこの小学校は、晴れるといつもいつもこの放送を同じ時間に流した。 私にとってこの放送ほど辛かった事はない。 校庭になど出たくもなくて教室の座席に一人座っていると、教員が教室までやってきて“校庭に行け!”と強制する。 しかたがなく校庭に出ても大勢の生徒達で混んでいて、私の居場所などどこにもない。 しょうがないから校庭の生徒に不人気な暗い日陰の遊具に、一人ぽつねんと座っているしか自分の居場所がなかった…。 同じ座って休み時間を過ごすならば、自分の教室の慣れた席で座らせて欲しかった……」
我が娘の上記の訴えから、娘が小学生時代に経験した“心の闇の隙間”を改めて認識し直し、親として娘同様に心を痛め涙を流さないはずはない。 (参考だが、現在素晴らしいまでの成長を遂げている我が娘は、今に至って過去に学校で受けた“虐待”とも表現可能な出来事を多く私に語ってくれるのだ。 元々記憶力が優れた娘とは認識していたのだが、遅ればせながら自己表出力も伴いつつある我が子の「過去の暴露」に、教育問題論評を主眼としている原左都子としては今後共大いに期待している。)
表題に話題を移そう。
ここで私事に入るが、日本の過疎地出身、しかも“もはや戦後ではない”数十年前の時代に小学生だった原左都子である。
そんな我が小学生時代にはまさか、学校側からの放送で「校庭に遊びに行きなさい」なる指示すら一切なかったとの記憶がある。 おそらく教員達も生徒の休憩時間を自分達の休憩時間にぞっこん当てていたのであろう。
それでは、私の小学生時代に子ども達は何をして学校の休憩時間を過ごしていたのかと言うと、正直なところ3年生程までのその鮮明な記憶は無い。
原左都子の記憶に少しあるのは、私は小学校高学年頃「小説」らしき文筆を好んでしていた事だ。 この作業にはまり、自主制作ノートに気ままな小説を数多く書き込んでいた。 ある時「それを見せろ!」と迫った男子生徒に、「絶対見せられない!!」と抵抗しつつ、我が小説ノートを死守するべく男子生徒を阻止した記憶が今蘇る。
更なる私論を展開しよう。
たかが小学生と言えども特に高学年に達している場合、上記原左都子事例のように既に自分なりの“世界”を築いている生徒も存在するのではあるまいか?
それをすべて無視して、「皆さん、校庭で遊び太陽の恵みを浴びましょう!」との教師側の発言とはいくら何でも無謀と心得る。
今の小学校教育現場が進化しているのか、後退しているのかに関しては、我が子が既に大学生になっている現在に於いては結論付けられない立場だ。
それは承知の上で、幼い子どもを抱える小学校現場と言えども「子どもの個性・多様性を尊重する」べくスタンスに立ち戻っては如何であろうか?
ここで、教員擁護論も披露しておこう。
10月30日朝日新聞夕刊記事によると、今時「虫に触(さわ)れない」「マッチ使えない」小学校教員が存在するとの事だ。
教員経験(元高校教員だが)のある原左都子に言わせてもらえば、「何でそれを責められなきゃいけないの!!」との話だ。 私自身も(ド田舎育ちなのに)今尚絶対に「虫には触(さわ)れない」。 これなど持って生まれたDNA資質によると私は考察している。 要するに努力で変わる性質のものではないのだ。
これこそ、教室の生徒の能力に依存すれば済む問題だ。「先生が触(さわ)れないのなら、ボクが先生の替わりに触ってあげる!」との生徒が必ずや教室内に存在するはずである。そんな生徒の力に頼る事こそが教員たる力量ではあるまいか。
「マッチ使えない」の事例など、3回試行すれば誰でも使えるよ。 今時「マッチ」など使う機会が無い故に若き世代が使えないだけの話だろ?? 何でそんな誰にも分かる安直な事例を持ち出して、教員失格との議論を展開するのかに関しても胡散臭い話だ。
最後に原左都子の私論でまとめよう。
上記において教員擁護論も展開した通り、人間とは子ども・大人に係わらず皆多様で個性豊かな存在なのだ。
どうして、人間がこの世に持って生まれ出た素晴らしい個性や多様性を、この国や自治体の行政は今尚認めず潰し続けるのだろう!?
「晴れたら生徒皆が校庭に出るべきだ」? 「小学校教員とは皆、虫を触(さわ)れないといけない」?
そんな旧態依然としたことばかり言い続けているから優秀な人材達を根こそぎ失っている現実に、もうそろそろ自治体や国家は気付こうよ。
今年の10月と言えば、次から次へと巨大台風が発生して過去に例を見ない勢力で日本列島を荒らし回り、特に伊豆大島にて多くの人命を失う等悲惨な大被害をもたらした事には心が痛む。
日本にはもう、「秋」との季節が無くなる程に地球の温暖化が進んでいることを実感させられる思いだ。
人類の「驕り」がもたらした取り返しがつかない自然破壊行動により、我々の故郷であるこの地球も、消滅に向かい急加速している事実を思い知らされる今日この頃である。
今週水曜日あたりからやっと秋晴れに恵まれている東京地方だ。
そんな折、10月30日水曜日の午前10時半頃だっただろうか。 公立小学校に程近い位置にある高層住宅上階の我が家の室内まで、小学校教員による校内放送アナウンスが高らかに響いてくる。
「生徒の皆さん、今日はいい天気です。 校庭に出て遊びましょう!」
そこまでならば、私も許容範囲だ。 ところが、このアナウンスはまだまだ続く。
「外に出て太陽光を浴びましょう。 室内で閉じこもっていては体の発達に悪いです。 皆さん、校庭に出て元気に遊びましょう。」云々…
ここで、原左都子の私論に移ろう。
ちょっと待ってよ、先生。 確かに子どもの発達のためには外で太陽を浴びながら元気に遊ぶ経験も必要ではあろう。 ただし、学校の休憩時間とは20分程度ではなかろうか? (たかが20分程度太陽光を浴びる事による子どもの発育への医学的好影響の議論は、ここでは割愛しよう。)
もっと大きな問題とは、その短時間を生徒個々人の意思で如何に過ごそうと自由ではないのだろうか、という観点だ。
確かに放送担当先生の視点も、元教員である私にも理解可能だ。 ここのところ台風ばかりが到来していて、生徒達が校庭で遊べない日々が続いていた事は事実だ。 やっとこさ秋晴れに恵まれた今日こそ、生徒を思い切り外で遊ばせてやりたい!、との教員視線からの温情だったのかもしれない。
さて、次の日も快晴に恵まれたのだが、同じ時間帯に同じ教員の音声で、同じ校内放送が我が家まで流れてきた。
ちょうど大学の授業が午後からだった娘が在宅していて、我が家の室内でこの放送を聞いていた。 小学校時代には(持って生まれた事情により)自己表出能力に乏しかった我が子であるが、今となっては素晴らしいまでの成長を遂げている娘が、母の私に伝える。 (参考のため、我が娘は小学3年生3学期よりこの公立小学校に転校し卒業まで在籍していた。)
「昔からこの小学校は、晴れるといつもいつもこの放送を同じ時間に流した。 私にとってこの放送ほど辛かった事はない。 校庭になど出たくもなくて教室の座席に一人座っていると、教員が教室までやってきて“校庭に行け!”と強制する。 しかたがなく校庭に出ても大勢の生徒達で混んでいて、私の居場所などどこにもない。 しょうがないから校庭の生徒に不人気な暗い日陰の遊具に、一人ぽつねんと座っているしか自分の居場所がなかった…。 同じ座って休み時間を過ごすならば、自分の教室の慣れた席で座らせて欲しかった……」
我が娘の上記の訴えから、娘が小学生時代に経験した“心の闇の隙間”を改めて認識し直し、親として娘同様に心を痛め涙を流さないはずはない。 (参考だが、現在素晴らしいまでの成長を遂げている我が娘は、今に至って過去に学校で受けた“虐待”とも表現可能な出来事を多く私に語ってくれるのだ。 元々記憶力が優れた娘とは認識していたのだが、遅ればせながら自己表出力も伴いつつある我が子の「過去の暴露」に、教育問題論評を主眼としている原左都子としては今後共大いに期待している。)
表題に話題を移そう。
ここで私事に入るが、日本の過疎地出身、しかも“もはや戦後ではない”数十年前の時代に小学生だった原左都子である。
そんな我が小学生時代にはまさか、学校側からの放送で「校庭に遊びに行きなさい」なる指示すら一切なかったとの記憶がある。 おそらく教員達も生徒の休憩時間を自分達の休憩時間にぞっこん当てていたのであろう。
それでは、私の小学生時代に子ども達は何をして学校の休憩時間を過ごしていたのかと言うと、正直なところ3年生程までのその鮮明な記憶は無い。
原左都子の記憶に少しあるのは、私は小学校高学年頃「小説」らしき文筆を好んでしていた事だ。 この作業にはまり、自主制作ノートに気ままな小説を数多く書き込んでいた。 ある時「それを見せろ!」と迫った男子生徒に、「絶対見せられない!!」と抵抗しつつ、我が小説ノートを死守するべく男子生徒を阻止した記憶が今蘇る。
更なる私論を展開しよう。
たかが小学生と言えども特に高学年に達している場合、上記原左都子事例のように既に自分なりの“世界”を築いている生徒も存在するのではあるまいか?
それをすべて無視して、「皆さん、校庭で遊び太陽の恵みを浴びましょう!」との教師側の発言とはいくら何でも無謀と心得る。
今の小学校教育現場が進化しているのか、後退しているのかに関しては、我が子が既に大学生になっている現在に於いては結論付けられない立場だ。
それは承知の上で、幼い子どもを抱える小学校現場と言えども「子どもの個性・多様性を尊重する」べくスタンスに立ち戻っては如何であろうか?
ここで、教員擁護論も披露しておこう。
10月30日朝日新聞夕刊記事によると、今時「虫に触(さわ)れない」「マッチ使えない」小学校教員が存在するとの事だ。
教員経験(元高校教員だが)のある原左都子に言わせてもらえば、「何でそれを責められなきゃいけないの!!」との話だ。 私自身も(ド田舎育ちなのに)今尚絶対に「虫には触(さわ)れない」。 これなど持って生まれたDNA資質によると私は考察している。 要するに努力で変わる性質のものではないのだ。
これこそ、教室の生徒の能力に依存すれば済む問題だ。「先生が触(さわ)れないのなら、ボクが先生の替わりに触ってあげる!」との生徒が必ずや教室内に存在するはずである。そんな生徒の力に頼る事こそが教員たる力量ではあるまいか。
「マッチ使えない」の事例など、3回試行すれば誰でも使えるよ。 今時「マッチ」など使う機会が無い故に若き世代が使えないだけの話だろ?? 何でそんな誰にも分かる安直な事例を持ち出して、教員失格との議論を展開するのかに関しても胡散臭い話だ。
最後に原左都子の私論でまとめよう。
上記において教員擁護論も展開した通り、人間とは子ども・大人に係わらず皆多様で個性豊かな存在なのだ。
どうして、人間がこの世に持って生まれ出た素晴らしい個性や多様性を、この国や自治体の行政は今尚認めず潰し続けるのだろう!?
「晴れたら生徒皆が校庭に出るべきだ」? 「小学校教員とは皆、虫を触(さわ)れないといけない」?
そんな旧態依然としたことばかり言い続けているから優秀な人材達を根こそぎ失っている現実に、もうそろそろ自治体や国家は気付こうよ。