「実年齢より若く見られたい」…
巷の美容関連広告上で、現在このフレーズが溢れかえっている。
「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いても、“実年齢より若く見える事の価値の程” をテーマとしたエッセイを再三公開してきている。
ここで私論を一言でまとめるならば、 「その価値はさほどない」 との結論となる。
と言うよりも、むしろ私の場合は年齢相応に見てもらえない事による“弊害”こそが大きい現実を、自身の経験談を交えつつ綴って来ている。
つい最近も、その類の会話を幾度か経験した。
いつも通っているトレーニングジムで年配男性に声をかけられた事例。
「最近、“お連れさん”の姿を見かけませんね。」
「ああ、あれは私の娘なんですが、学校が始まったのでジムに来る時間が取れないんです。また娘が夏休みに入ったら連れてきます。」と応じる私に、 驚いたように、
「えっ!? あの“お連れさん”は娘さんだったんですか?!?」
娘を初めて同伴した別の場での事例。
「これ、私の娘ですが、今日一緒に連れてきましたのでよろしくお願いします。」
「えーーー! ○さん(私のこと)て、こんな大きな娘さんがいらしたのですか??!」
3月にアートフェア東京会場でお会いした画家の城戸真亜子さんとの会話に於いても、
「娘の好みを尊重して、こちらの絵を購入させていただきます。」と申し上げたところ、
「えっ? こちらの方、娘さんでいらっしゃったのですね!」と、真亜子氏が返して下さった。
これらの事例の場合、年齢云々の問題ではなく私に「母親」らしい雰囲気がないという観点の話なのかもしれない。 まあそうだとしても、私自身にも実際と見た目に大きなギャップが存在することは確かなようだ。
今回この記事を綴るきっかけを得たのは、朝日新聞5月26日付朝刊「ひととき」欄への投稿である。
早速、71歳女性よりの 「見た目より若いのよ」 と題する投稿を以下に要約して紹介しよう。
私が老け顔を意識したのは30歳を過ぎた頃だった。 結婚式に出るため衣装を借りにいったところの店員さんに「まだ40になってないですよね?」と言われ、驚きつつも「まだ少し先です」とだけ答えた。 バスツアーで同席した女性に「何年生まれ?」と聞かれ正直に答えたところ、彼女も正直者だったらしく「思ったより若いのね。」 やはり旅行中に親切な男性が階段で「危ないですよ」と手を取らんばかりに気遣ってくれる。挙句の果てに「昭和1けた生まれでしょう?」 私は16年生まれ。「かろうじて2けたですよ」と答えつつ、せっかくやさしくしてくれたのだから肯定しておいてもよかったかなと思った。 つい最近もツアーの女性グループと同席した食事の時「何年生まれ?」の質問が出た。私の答えにやはり驚きの声。 すっかり慣れて、もはや楽しんでしまっている。
原左都子の私論に入ろう。
投稿者ご自身も書いておられる通り、この投稿内容から何だかほのぼのとした楽しい雰囲気が私にも伝わって来るのだ。
この投稿を一読して、私は2つの意味合いでプラスの感覚を得させてもらえた。
その一つとは、例えば旅先等の“一期一会”の人間関係を如何に作り上げるかとのテーマとなろう。
投稿者女性からは、旅先の場において人と人とのコミュニケーションを一時なりとも成り立たせるべく配慮している姿が見て取れる。 “見た目よりも老けて”見られている自身を卑下するでもなく、投稿者女性は自身に話しかけてくる他者の心理を見抜き、それに沿うべく対応できている。 この「客観力」は素晴らしい、と私は感じる。
階段で手を差し伸べてくれた男性の事例に関しては、おそらくこの女性が醸し出すそんな雰囲気を感じ取って、その種の“やさしさ”が男性から自然と出たのではないかと私は判断する。 せっかくそういう場面に直面したならば、この女性も自身の本性を曝け出しておくと今後の新たな展開もあったのかもしれない… (などと、お年寄り同士の恋愛を身勝手に煽ってる私だね…)
もう一点、この投稿よりプラスに感じる事象とは、近年施行された個人情報保護法など超越してご年配の方々がコミュニケーションを楽しまれている情景である。
既に70歳を超過されている年代の人々の付き合いにおいては、まず年齢を確認することがスタートラインなのであろう。
ところが原左都子程の現役世代の年代においては、上記個人情報保護法の確固たる“強制力”により、今となっては見知らぬ他者に対して「年齢」を尋ねることなど“御法度”の時代背景と相成っている。
この個人情報保護法こそが、一般市民間の人間関係形成に於いて最大のネックとなってしまっていると私は感じる。
この法律の意義を真に理解していないと思しき一般市民同士の関係に於いて、「個人情報にかかわる話は避けねばならない」との認識が蔓延ってしまっている。 そのため人と人との関係作りが“遠回り”になることを余儀なくされている現実だ。
“初対面同士で年齢を聞いて、聞かれて何が悪い!?” と、私など感じる種の人間である。
人を勝手に若く見て身勝手で失礼な対応をする前に “真っ先に年齢を聞いたらどうなの?” と主張したい思いを若き頃よりずっと引きずっている私だ。
そんな折、原左都子が昨日訪れた美容院に於ける新たな担当美容師氏の対応は十分に“合格”だった。
以前にも公開したが、私が通っている美容院はウィッグ専門会社経営であるため「個室対応完全予約」制を採用している。 ところが前回まで担当してくれていた美容師氏が転勤し、今回新たな美容師氏の担当となった。
この美容院では「カルテ方式」を採用しているのだが、我が新たな担当美容師氏(男性)が今回自分の顧客となる私の過去のカルテ情報を十分に確認した上で、昨日対応してくれたのだ。 これは感激である。 過去に於いては恐らく「個人情報保護」観点から故であろうが、担当者が変わる度(おそらく若い世代の)担当者に対してこちらからいちいち“事情説明”をせねばならなかったのに比して、ずい分と楽チンできた思いだ。
その上、新担当美容師氏は「お客様と同年代です」と自己紹介して下さる。 これも良かった! そうなるとその後個室内で2人の会話がはずまない訳がないのは歴然の事実だったという事だ。
今回のエッセイのテーマは 「見た目と実年齢のギャップをどう埋めましょ?」 と題した。
そのギャップを埋めるために一番手っ取り早い手法とは、“年齢を公開すること”と結論付けたい思いだ。
こちらから他者の年齢を尋ねることは控えた方が良い場合もあろうが、自分から年齢を語る事がどうして否定されねばならないのだろう?
「自分の方が年上だと公開して、それを根拠にえばるな!」 との若い世代よりのご意見もあろう。
だが、私はあえて自分の年齢を公開したい思いだ。 何故ならば見た目の程はともかく、相手がたとえ初対面であろうと同時代を生き抜いてきた“同士”との会話とは、自然体で楽しく活気付ける時間と場を共有できる源泉となるからに他ならない。 “見た目が同じ位の若き世代”との会話に参加して同調を無理強いされる事とは、正直言って時折窮屈で鬱陶しい場合もある。
原左都子に娘がいるように見えようがそうでなかろうがそんな事は二の次でよいのだが、 今後年老いて更なる他者との充実した関係を続けるためには、ますます「年齢」がキーワードになりそうに考察する私だが、如何であろうか?
巷の美容関連広告上で、現在このフレーズが溢れかえっている。
「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いても、“実年齢より若く見える事の価値の程” をテーマとしたエッセイを再三公開してきている。
ここで私論を一言でまとめるならば、 「その価値はさほどない」 との結論となる。
と言うよりも、むしろ私の場合は年齢相応に見てもらえない事による“弊害”こそが大きい現実を、自身の経験談を交えつつ綴って来ている。
つい最近も、その類の会話を幾度か経験した。
いつも通っているトレーニングジムで年配男性に声をかけられた事例。
「最近、“お連れさん”の姿を見かけませんね。」
「ああ、あれは私の娘なんですが、学校が始まったのでジムに来る時間が取れないんです。また娘が夏休みに入ったら連れてきます。」と応じる私に、 驚いたように、
「えっ!? あの“お連れさん”は娘さんだったんですか?!?」
娘を初めて同伴した別の場での事例。
「これ、私の娘ですが、今日一緒に連れてきましたのでよろしくお願いします。」
「えーーー! ○さん(私のこと)て、こんな大きな娘さんがいらしたのですか??!」
3月にアートフェア東京会場でお会いした画家の城戸真亜子さんとの会話に於いても、
「娘の好みを尊重して、こちらの絵を購入させていただきます。」と申し上げたところ、
「えっ? こちらの方、娘さんでいらっしゃったのですね!」と、真亜子氏が返して下さった。
これらの事例の場合、年齢云々の問題ではなく私に「母親」らしい雰囲気がないという観点の話なのかもしれない。 まあそうだとしても、私自身にも実際と見た目に大きなギャップが存在することは確かなようだ。
今回この記事を綴るきっかけを得たのは、朝日新聞5月26日付朝刊「ひととき」欄への投稿である。
早速、71歳女性よりの 「見た目より若いのよ」 と題する投稿を以下に要約して紹介しよう。
私が老け顔を意識したのは30歳を過ぎた頃だった。 結婚式に出るため衣装を借りにいったところの店員さんに「まだ40になってないですよね?」と言われ、驚きつつも「まだ少し先です」とだけ答えた。 バスツアーで同席した女性に「何年生まれ?」と聞かれ正直に答えたところ、彼女も正直者だったらしく「思ったより若いのね。」 やはり旅行中に親切な男性が階段で「危ないですよ」と手を取らんばかりに気遣ってくれる。挙句の果てに「昭和1けた生まれでしょう?」 私は16年生まれ。「かろうじて2けたですよ」と答えつつ、せっかくやさしくしてくれたのだから肯定しておいてもよかったかなと思った。 つい最近もツアーの女性グループと同席した食事の時「何年生まれ?」の質問が出た。私の答えにやはり驚きの声。 すっかり慣れて、もはや楽しんでしまっている。
原左都子の私論に入ろう。
投稿者ご自身も書いておられる通り、この投稿内容から何だかほのぼのとした楽しい雰囲気が私にも伝わって来るのだ。
この投稿を一読して、私は2つの意味合いでプラスの感覚を得させてもらえた。
その一つとは、例えば旅先等の“一期一会”の人間関係を如何に作り上げるかとのテーマとなろう。
投稿者女性からは、旅先の場において人と人とのコミュニケーションを一時なりとも成り立たせるべく配慮している姿が見て取れる。 “見た目よりも老けて”見られている自身を卑下するでもなく、投稿者女性は自身に話しかけてくる他者の心理を見抜き、それに沿うべく対応できている。 この「客観力」は素晴らしい、と私は感じる。
階段で手を差し伸べてくれた男性の事例に関しては、おそらくこの女性が醸し出すそんな雰囲気を感じ取って、その種の“やさしさ”が男性から自然と出たのではないかと私は判断する。 せっかくそういう場面に直面したならば、この女性も自身の本性を曝け出しておくと今後の新たな展開もあったのかもしれない… (などと、お年寄り同士の恋愛を身勝手に煽ってる私だね…)
もう一点、この投稿よりプラスに感じる事象とは、近年施行された個人情報保護法など超越してご年配の方々がコミュニケーションを楽しまれている情景である。
既に70歳を超過されている年代の人々の付き合いにおいては、まず年齢を確認することがスタートラインなのであろう。
ところが原左都子程の現役世代の年代においては、上記個人情報保護法の確固たる“強制力”により、今となっては見知らぬ他者に対して「年齢」を尋ねることなど“御法度”の時代背景と相成っている。
この個人情報保護法こそが、一般市民間の人間関係形成に於いて最大のネックとなってしまっていると私は感じる。
この法律の意義を真に理解していないと思しき一般市民同士の関係に於いて、「個人情報にかかわる話は避けねばならない」との認識が蔓延ってしまっている。 そのため人と人との関係作りが“遠回り”になることを余儀なくされている現実だ。
“初対面同士で年齢を聞いて、聞かれて何が悪い!?” と、私など感じる種の人間である。
人を勝手に若く見て身勝手で失礼な対応をする前に “真っ先に年齢を聞いたらどうなの?” と主張したい思いを若き頃よりずっと引きずっている私だ。
そんな折、原左都子が昨日訪れた美容院に於ける新たな担当美容師氏の対応は十分に“合格”だった。
以前にも公開したが、私が通っている美容院はウィッグ専門会社経営であるため「個室対応完全予約」制を採用している。 ところが前回まで担当してくれていた美容師氏が転勤し、今回新たな美容師氏の担当となった。
この美容院では「カルテ方式」を採用しているのだが、我が新たな担当美容師氏(男性)が今回自分の顧客となる私の過去のカルテ情報を十分に確認した上で、昨日対応してくれたのだ。 これは感激である。 過去に於いては恐らく「個人情報保護」観点から故であろうが、担当者が変わる度(おそらく若い世代の)担当者に対してこちらからいちいち“事情説明”をせねばならなかったのに比して、ずい分と楽チンできた思いだ。
その上、新担当美容師氏は「お客様と同年代です」と自己紹介して下さる。 これも良かった! そうなるとその後個室内で2人の会話がはずまない訳がないのは歴然の事実だったという事だ。
今回のエッセイのテーマは 「見た目と実年齢のギャップをどう埋めましょ?」 と題した。
そのギャップを埋めるために一番手っ取り早い手法とは、“年齢を公開すること”と結論付けたい思いだ。
こちらから他者の年齢を尋ねることは控えた方が良い場合もあろうが、自分から年齢を語る事がどうして否定されねばならないのだろう?
「自分の方が年上だと公開して、それを根拠にえばるな!」 との若い世代よりのご意見もあろう。
だが、私はあえて自分の年齢を公開したい思いだ。 何故ならば見た目の程はともかく、相手がたとえ初対面であろうと同時代を生き抜いてきた“同士”との会話とは、自然体で楽しく活気付ける時間と場を共有できる源泉となるからに他ならない。 “見た目が同じ位の若き世代”との会話に参加して同調を無理強いされる事とは、正直言って時折窮屈で鬱陶しい場合もある。
原左都子に娘がいるように見えようがそうでなかろうがそんな事は二の次でよいのだが、 今後年老いて更なる他者との充実した関係を続けるためには、ますます「年齢」がキーワードになりそうに考察する私だが、如何であろうか?