原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“ママ”と呼ばないで

2010年01月30日 | 自己実現
 3月に打ち上げられるスペースシャトルへの搭乗を47日後に控えている宇宙飛行士の山崎直子氏が、「ママさん飛行士」と呼ぶのをやめて欲しいと訴えているらしい。

 ごもっともな訴えである。
 宇宙飛行士とは、一般主婦が学校のPTA役員を担当するのとは訳が違い、「ママさん」などとの軽いノリで全う出来得るはずもない過酷なミッションが課せられる職種である。
 もっとも、山崎家の場合は直子氏がNASAの宇宙飛行士候補になった後は、ご主人が仕事を辞めて子育てをはじめ主夫業を一手に担っておられるとの報道であるため、直子氏は「ママ」稼業とは実質縁がない日々なのかもしれないが…
 (余談ではあるが、奥方が宇宙飛行士になど採用された事によるご主人の“はた迷惑”を察して余りあるような気もする。それでもこうも大々的に報道されてしまっていては、イケメンのご主人とてまさか今“離婚”を切り出す訳にも行かないのかとも推測するし、ご主人も奥方が宇宙飛行士であることをちゃっかりと利用しつつ収入を得ているようでもあるし、とにもかくにも山崎一家がうまく機能しているうちはそれでよしと考えるべきか…… )


 話が変わって、この原左都子も「ママ」などという言葉に虫酸が走るタイプの人間である。
 私も子どもを産んだ経験があることに揺るぎはなく、そして産んだ一人娘が若干の事情を抱えて産まれて来たが故に、我が職業経験を活かして「お抱え家庭教師」の役割も果たしつつ、母親として娘とおそらく人よりも数段濃厚な親子関係を築いてきていることも間違いない事実である。
 ただ、私の場合は長い独身時代の多岐に渡る職業・学業経験を経て後の出産であったという経歴があるためかもしれないが、元々子育てに当たって一家庭内の“狭義”の「ママ」感覚で子どもに接するというよりも、もう少し“広義”の意味合いの社会的な子育て感覚で対応してきているように自己分析するのだ。 それ故に、そこには「ママ」の呼び名は到底相応しくないとの違和感を覚えてしまうのである。
 それでも母親を取り巻く社会の現状とはこの期に及んで旧態依然とした有り様で、子どもを産んだ女性を“狭義”の「ママ」に陥れるべくまったく進化を遂げていない模様だ。

 原左都子には上記のような“広義”の社会的意味合いでの子育てをしている自負が元々あるため、子どもにとっての初めての“社会”である幼稚園の頃より母親同士の会合において「○○(子どもの名)の“母”です」ではなく、「○○(私の姓)です」と自己紹介するのだが、周囲の反応は決まって「○○ちゃんのママ(あるいはお母様)ですね」である。 これには愕然とされられ続けたものだ。

 話が飛ぶが、今回の政権交代においても民主党議員の中で「ママ(現役の母親)」である事“それだけ”を武器にして立候補して当選してしまった“素人”女性議員が何人か存在するようだ。 その種の議員などは選挙前から自ら「ママさん議員」であることを前面に出し、民主党がマニフェストで掲げた“子ども手当て”のバラ撒き”に迎合することが当選の条件だった様子である。
 今回の通常国会においての「ママさん議員」の質疑とはやはり狭い「ママさん」範疇をまったく出ておらず、国政全般を如何に捉えて立候補したのかに及んではお粗末で寂しい限りであるのが、一小国民がテレビ映像を垣間見ての印象でしかない。 これでは、学校におけるPTA役員のノリと大差がないと思える(実際問題、地方議員など党派にかかわらずその経歴が“学校のPTA役員”のみで当選している女性が存在する実態なのであるが…)のは、国会議員にして家庭内の“狭義”の「ママ」の域を超えられない故であるのか…

 今回の記事を綴るに際して参照させていただいたのが、少し古くなるが朝日新聞1月16日の「声」欄における40代の女性による投書である。
 私論と一致する部分も多いため、この投書を要約して以下に紹介しよう。
 山崎氏の「ママさん飛行士」をはじめ、「ママさん選手」「ママさん議員」など、子どもをもつ女性に「ママさん」とつけたがるメディアの風潮は今に始まったことではないが、ママさんとは「大変な子育てがあるにもかかわらず頑張っている女性」の意味合いでしかないのか? 伝える側には恐らく悪意はなく、むしろ応援する気持ちなのだろうが、余計なお世話だ。 「ママさん」の意味合いには「社会的」に“特別な存在”という意識が潜んでいるように思う。 一方で男性を「パパさん」とは呼ばない。 未だに子育ては「女性の仕事」との意識が働いているのだろう。 たかが呼び名であるが、そんなものは付けずに女性の職業が純粋に評価されることを願う。


 最後に私論でまとめよう。

 産んだ子どもの「ママ(母親)」である前に、社会的に貢献できる存在の一人間でありたい…。 一昔前にはそういう女性が我が国において“国賊”のごとく蔑まれた時代もあったのであろう。
 既に時代が大きく移ろいでいるにもかかわらず、女性同士の会合において子どもを産んだ女性がそれぞれのシチュエーションにかかわらず未だに「ママ」であることを前面に演出しなければならないとするならば、厳しい見方をすれば、そこには女性側にこそ自立でき切れないでいる一面も内在するのかもしれない。 その証拠が、50年ぶりに政権交代したにもかかわらず、「ママさん議員」とやらの国会議員が今尚存在して“母親の視点でしか”物申せない現状が蔓延っていることである。 これは同性として何とも貧弱な現象とも捉えられるのだ。

 一方で山崎直子宇宙飛行士にしても、ご主人に仕事を辞めさせて幼少の子どもを任せた挙句、一家をマスメディア報道にがんじがらめの仕打ちに耐えさせてまでも、自らの宇宙飛行士の仕事を全うしたいという強靭な意思の持ち主であろうかという疑問が私の心の片隅にもたげるのだ。 これでは、過去の日本男児が奥方に内助を強いて自分のみ自己実現してきた歴史とさして変わらない。  もちろん、一旦NASAに宇宙飛行士候補として選ばれた以上は仕事を全うするべきなのは当然であるとしても、奥方のまさかの夢に奇跡的に巻き込またが故に、自身の人生を翻弄されているご亭主や子どもさんの現実に同情する私でもある…
 先輩女性飛行士であられる向井千秋氏の場合、名門大学教授のご亭主にこそ迷惑を及ぼそうとも、子どもを産んでいなかったが故に「ママ」どうのこうのの鬱陶しさに巻き込まれずに済んでいるのがまだしも救われた気もする私である…。 
 
 やはりそれ程「ママ」であることとは、プラスマイナス両面で“重い”現状でもあるのか???  
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男に“モテる”ということ

2010年01月28日 | 恋愛・男女関係
 本ブログ「原左都子エッセイ集」で毎度おなじみの朝日新聞の相談コーナー“悩みのるつぼ”なのだが、この相談コーナーの担当者は30代の女性を志向しているのであろうか? そういう訳ではなくて、今の時代において30代の女性とは悩み多きお年頃なのだろうか?? どうもここのところ、30代女性よりの相談が相次いでいるように思われる。


 先だっての1月23日(土)の朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ” においても30代女性よりの相談が掲載されていた。

 早速、33歳独身女性会社員による 「『スキ』ある女しかモテない?」 と題する相談を以下に要約して紹介しよう。
 モテない会社員女性だが、女としてモテるためには「スキ」が大事なのでしょうか? 客観的に見て、私は容姿もかなりのレベルだし仕事もきちんとして評価され、思いやりもやさしさもある方だと思う。 ただ恋愛に関しては恋人候補になる男性が現れても関係を深める事ができずうまくいかない。20代で別れた男性に「君はスキがない。なんとなくかわいくない」と言われた。そのことがずっと気になり考えたが、「スキ」とは結局「すぐセックスできそうな雰囲気がある」と思えてしまうのだ。 周囲を見渡すとそういう女性が現実にはモテて、結婚して幸せそうだし既婚なのにまだモテている。正直悔しい。 「スキ」とはフェロモンなのか、天性のものなのか? 「スキ」がない女には恋愛できないのか?


 早速私論に入ろう。

 「スキ」がどうのこうのと、いやはやまったくどうしたことだ。
 もしもこの相談が10代の思春期の未熟なギャルが周囲の男の子達に「モテ」たくて、“ちょっと可愛い子ぶってみようかな~~♪”なんて「スキ」を売り物にお色気作戦にでも出ようとしているのならばその健気さも“可愛いね~”で済ませられる気はする。 ところが、今回の相談者は30年以上この世を渡ってきている女性である。

 どうもこの女性は本人が認める通り、男性との恋愛経験に乏しいと判断せざるを得ないようだ。 自分の容姿はかなりのレベル、仕事も出来るし人にもやさしい…  そんな一見“勝ち組”のバックグラウンドを誇っている自分なのになぜ男にモテないのか??、などと悩むこと自体が既に“恋愛敗者”の素質の持ち主たる所以であるのかもしれないと私論は捉える。

 すぐ私事に入る原左都子をお許しいただきたいのだが、この私も20代後半頃から晩婚での結婚直前に至るまでの十数年に渡り、出会う男どもに散々言われ続けてきた言葉が、上記相談者同様の 「君にはスキがない。なんとなく可愛くない (それどころか“全然可愛くないから、勝手に一人で好き放題して生きろ!”)」 である。 
 ところが私の場合はそれを気にするどころか、そんな男どもはこちらから“願い下げ” だったものだ。 まったくもって、人の生き様やポリシーを理解できないで女の真の“可愛さ”に触れようともしない男など避けて通りたいとずーっと志向しつつ、今まで生き延びてきている原左都子である。
 そんな強気の私でも独身時代を振り返ると、いいお相手に巡り会えて豊かな恋愛体験に恵まれたと自負できるのは、女としての「スキ」へったくれどうのこうのという低俗レベルに踏みとどまることなく、恋愛相手との相互の人間関係において、(たとえ短期の恋愛期間であったとは言え)お互いに成長できた実感があるからに他ならないのだ。


 今回の“悩みのるつぼ”の回答者であられる評論家の岡田斗司夫氏を私はよく存じ上げていないのだが、まだお若い世代の方でいらっしゃるのであろうか? 今回の回答内容(申し訳ないが取り上げるに足りないと判断するため省略するが)を読ませていただいてそのようにお見受けしたのだが、その回答の最後の一言だけは私論と一致している。
 「スキって何? そんなものはどうでもよいことに(相談者も)1年後には気付いているでしょう。」
 

 最後に再び私論に戻るが、平均寿命が長くなり老後にして恋愛を楽しむごとくのよき時代が到来している今、その反面において人々の恋愛観念が幼若化しているのであろうか。 加えてネット世界の氾濫に伴う“相対(あいたい)人間関係”の希薄化現象により、現実世界における人との出会いがままならない事態は特に若い世代において顕著で切実な現象なのであろう。
 私論は決して恋愛の数をこなせと示唆する訳ではないのだが、恋愛とは人間関係の一部(いやいや、生命体発展維持の最たる営み)であることは否めない事実である。 むしろ男女を問わず人間関係の質を豊かにすることで、人間関係の究極表現であるとも言える恋愛関係における成功感覚や達成感も自然な形で紡がれるものなのかもしれない。

 30年以上も生きて来ている一女性が自分の能力や資質を自己容認しつつも、女としての「スキ」を演出するという手段でしか男に「モテ」得ないなどと突拍子もなく低俗な発想に陥るがごとくの、現代の人間関係の希薄化現象を憂える今回の相談内容である。
         
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国会議員という“お仕事”の値打ち

2010年01月25日 | 仕事・就職
 朝日新聞1月23日(土)別刷「be」“between”の今回のテーマは、「『収入』と『やりがい』どっちが大事?」だった。

 その記事のタイトルだけ見て記事を読まないでの私の回答は、「収入」に軍配を挙げたい気がする。 と言うのも、私の半生における職業選択においては「収入」の方に重きを置いてきたように思うからだ。
 「収入」と一言で表現しても、「収入」さえよければ如何なる職種のどのような仕事内容であろうと容認するという訳では決してない。 加えて私の場合は、自分の“生活”がかかっているからある程度の収入がないと生計が成り立たない、というニュアンスとも若干異なる意味合いでの「収入」概念である。
 “コストパフォーマンス”の逆バージョンになるかもしれないが、その仕事へ提供する自己の能力なり働きに見合った評価額以上の収入は手にしなければ納得できないごとくの、一種“駆け引き”とも言える私なりのプライドを伴うバランス感覚を「収入」に反映しつつ、我が職業選択を実現して来ていることを自負する私である。

 本ブログの仕事・就職バックナンバー記事において原左都子の過去の職業遍歴を小出しにしてきているが、その中で「パーコン(パーティコンパニオン)」経験について述べさせていただいている。(バックナンバー「パーコン」及び「丸の内でのお仕事」をご参照下さい。)
 我が30代の再びの学生時代の学業の合間に、バンケット会社よりの派遣としてパーコンとラウンジコンパニオンの“横道”経験があることを上記記事内において暴露している。 それまでの私にとってはまったく“専門外”の職種だったとは言え、“(逆バーション)コストパフォーマンス”志向があったが故に接客業に対する私なりのプロ意識の下で仕事に臨めたからこそ、4年間もの長きに渡って私にとっては専門外の職種で短時間労働にして満足な高収入を得られたものと自負するのだ。

 それは自分の本来の専門職業分野においてもまったく同様であるのはもちろんのことだ。
 ところが、職業選択における“(逆バージョン)コストパフォーマンス”のポリシーを長年貫いてきた私にも、陰りが訪れる時代が到来するのである。
 子どもを出産後、アルバイトの身分ではあるが文科省管轄の某研究所で研究助手を経験したことがある。 時は既にバブル崩壊後の長引く経済不況へ移行していた時代であったのだが、職務内容の専門性が高いにもかかわらず、(あくまでも職業経験において海千山千の私故に感じたことなのかもしれないが)その報酬が信じられない程に低いのである。 たとえアルバイトの身分とは言え、いとも頼りない報酬では「やりがい」さえも打ち消されるということを、高齢にして我が人生において初めて実感させられたのだ。 単なる私の我がままに過ぎなかったのかもしれないが、「収入」に不満を抱えつつの研究助手稼業においては「やりがい」などと言う“崇高な”満足感がまったく得られず、わずか3年で終息に至ることになる…。

 そんなこんなで、私の場合は仕事においては「やりがい」ももちろん重要だが、あくまでも仕事の能力に見合うと自分が判断できる「収入」が伴わない限り、「やりがい」に通じる程の魅力を感じ得ないとのスタンスにあるのだ。


 さて、やっと表題の「国会議員の“お仕事”の値打ち」談議に入ろう。

 先だってより開催されている通常国会をテレビ報道で垣間見ていると、この人達、国会議員という“職種”を選択して何らかの「やりがい」でもあるのかと勘ぐりたくもなるほど低俗かつ覇気が感じられないのだ。
 相変わらず“ヤクザ”じみた下劣な「野次」は飛ばし放題。 それを議長の立場にある者が叱咤もしなければ、牽制しようとするベテラン議員も一人として存在しない。
 しかも野党等よりの長引く代表質問時に放映されている影像を見ると、閣僚でさえ(もう飽きたよな~)と言いたげに浮かぬ顔で自分の省庁に関係のない質問に対しては腕組姿勢で辟易としている様子だ。 一般議員席はもっと悲惨で「もういい加減疲れたよ~、早く終わろうよ~」とのごとく眠気をこらえつつ、口をへの字に曲げて飽き飽きしている様子しか放映されない。

 特に下っ端の国会議員の皆さんに提言したいのだが、極端な話をすれば貴方達の“主たる仕事”とは国会に出席すること“それのみ”ではないのですか?  それ以外の場面であなた方が自分に投票してくれた国民の貴重な一票ために何か役に立っている姿を一切見かけないのですが、そんな事でご自身の国会議員としての自負心がどうやって保てるのですかね?
 国会議員にとっての“戦場”であるはずの国会の場で、下劣な“野次”を飛ばすことが自分の仕事だと思って疑っていないのですか?  国会において論議される内容にまったく興味もなく眠いのを我慢するだけの場でしかないとするならば、そんな貴方達に小さい子ども達が学校の先生の話を聞かないことをどうにかしようごとくの教育法案を国会で通せる資格もないですよねえ…
 

 しかも新政権の主体である民主党内においては、親分の資金疑惑にも沈黙を保って独裁に迎合する有り様…。
 沈黙だけならまだしも、親分に洗脳されている直属グループは積極的に特捜部との戦いを宣言する始末だし… (この親分独裁直下にある民主党内グループはそのような行動によってのみ国会議員という自身の“お仕事”に対して大いに歪んだ「やりがい」を見出しているのかもしれないが…。)

 もうそろそろ少しは目覚めましょうか、民主党議員をはじめとする国会議員の皆さん。
 貴方達のそもそもの目的はやはり国会議員歳費特権という多額の「収入」にあるのでしょうかね??  それに加えて低俗で歪んだ「やりがい」だけに執着しつつ国会議員と言う立場に甘んじていたのでは、国民は政治不信に陥るばかりで政治離れがますます加速しますよ。
 そんなことには元々“我関せず”でどうでもよくて、どうせやっぱりご自身の私利私欲すなわち「収入」のためだけに国会議員に立候補したのでしょうかね~~ 
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“権力 VS 権力” 思想の根底には…

2010年01月23日 | 時事論評
 今回の記事は、本ブログ「原左都子エッセイ集」の2本前の時事論評記事、「親分の言いなりの子分達も同罪」の続編のような形になろうか。

 小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体の土地購入をめぐる疑惑への、通常国会を直前にしての東京地検特捜部の一連の捜査、 VS 民主党の事実上の独裁者である小沢氏側の党一丸となっての検察に全面対決するべく強気の姿勢。
 この構図を 「権力対決」 「戦い」 と見る世論や報道が横行している現状のようだ。
 
 その代表例が何と驚くべきことに、検察との対決姿勢を前面に出していた小沢氏に対して、民主党トップの鳩山首相自らが「どうぞ戦って下さい!」との力強いエールを贈ったことであろう。 この発言は通常国会においても物議を醸している最中である。 一国の総理にしての突拍子もない発言に対する世論の反発に対して首相は「検察の捜査に介入するつもりの発言ではなく、検察の公正な捜査を信じている」と中途半端な弁明で表面を繕っているようだが…


 マスメディアにおいても「検察VS小沢氏(あるいは民主政権)」の構図について論評する報道が氾濫している。

 例えば朝日新聞1月17日の「検察VS民主政権 どうみる」と題するオピニオン記事の中で、政治学者の御厨貴氏は以下のように述べている。(その一部を要約して引用)
 東京地裁特捜部という強大な権力と時の政権与党との妥協のない戦いが始まった。 今回の特捜部の小沢幹事長への捜査は小沢氏の旧自民党的体質、つまり手段の部分だけに光をあてて政治と社会の変革という目的の部分を意図的に無視しているようにしか思えない。今、小沢一郎という人物を追い詰めることで、検察はこの国をどうしようとしているのか。 一方、小沢氏も党と自らを一体化して検察と全面対決するという愚を犯そうとしている。ビジョンがないという点では検察と同じだ。云々……

 同じ朝日新聞記事より、政治アナリスト伊藤惇夫氏のオピニオンを以下に要約引用しよう。
 小沢一郎氏は細川政権以来一貫して「自民党の崩壊」を狙い今回総選挙に勝った。長年の夢の実現の仕上げを直前に検察が立ちはだかり邪魔しようとしている。小沢氏自身にはそう見えているのだろう。しかも相手は、小沢氏が師とあおいだ田中角栄元首相のロッキード事件以来30年間に渡って緊張関係にある特捜部である。いっそう怒りが高まり、今回の強気の発言につながったのではないか。 鳩山氏の「どうぞ戦って下さい」の発言を受けて小沢氏が断固戦うならば、あれ、民主党は国民の生活が第一ではなかったのか、これでは権力の二重構造どころか、小沢氏への「一極集中」ではないのか、と思われて仕方ない。総選挙で民主党に投票した人たちは、これでは自民党と変わらないと思うであろう。かと言って、自民党への揺り戻しがあるとも思えず、国民の「政治不信」を飛び越えて「政治への絶望」しか残らなくなることを懸念する。


 それでは私論に入ろう。

 今回の事件に関してその政治権力的な歴史的背景にまで遡った場合、元々政治無関心派の原左都子には私論を述べられる力量など毛頭ない。 それは重々認めた上で、今回の東京地検特捜部による小沢氏周辺捜査を “権力 VS 権力” 闘争とみる世論自体に対して、大いなる“違和感”と一種の“嫌悪感”すら抱いてしまう私である。
 大変失礼な表現をすれば、小沢氏の今回の疑惑にかこつけて“争い”や“戦い”を志向するちょっとばかり政治通を自負する連中がこの政治の混乱を利用して、そこに自分の欲求不満をぶつけつつ我こそは“正義の味方”と演技して面白おかしく騒ぎ立てているとしか受け取れない一面もある。  やれ、官僚の頂点にある特捜部が今こそチャンスだと小沢を叩き潰しにかかっただの、いや、小沢は民主党を引き連れて今こそ官僚を叩き潰すべきだ、等々と…
 ちょっと待ってくれよ。 政治家にしても官僚にしても、そもそもその職務の相互の位置付けは“対立”ではなく“職制分担”にあるのではないのか??  元々は政治家に力量がないが故に官僚に頼り切った歴史があるとしても、そろそろ官僚の上位にあるべく政治家が、官僚を潰すという手段で官僚よりも上位を死守しようなどとの“せせこましい発想”ではなく、自分自身が真の力を付けた上で選挙戦に立候補したらどうかと言いたくもなる。  政治家志向の輩がその能力もないのに「投票」という容易い手段で“世襲”や“縁故”で国民から選ばれる事に甘んじて、多額の歳費特権をいつまでも“搾取”し続けている背景があるからこそ、こういう金権政治がいつまでも蔓延り続けるのではないのか??

 本ブログの前々回の記事のコメント欄でも少し述べさせていただいているが、新政権が提言する “「官僚主導」から「政治主導」へ” のポリシー自体に関しては、元々民主党を支持していないこの私とて新政権のその理想論を否定する訳では決してなく、せっかく政権交代したのだからそれを実現するべく新政権は最大限努力するべきであろうと志向している。
 ところがその新政権の実態とは、小沢氏の独裁に“お飾り総理”をはじめ子分議員連中が迎合している有り様が、今回の事件により今まで以上に国民に対して浮き彫りにされた形だ。  民主党の実質的親分である小沢氏を崇拝する国民は昔から多いようだが、子分議員達が親分に楯突けない、そのような民主主義とは相容れるはずもない“異様な独裁政権”が目指している「政治主導」に操られる国家に、明るい未来が訪れるとは私には到底思えないのだ。
 
 今までの国政における長い歴史の歪み切った「官僚主導」を排除して「政治主導」を実現するには、政治家には大いなる政治手腕とリーダーシップ力が要求されるはずだ。
 そうであるはずなのに、その実態と言えば上記のごとく政権交代した政党の実質的親分がその党内で事実上の「独裁制」を敷き“お飾り首相”を前面に立て裏で操り、党員には有無を言わさないハーレムを形成する。 しかも金権政治も過去の政権同様に大手を振って続行となれば、この新政権の存在意義は一体何処にあるのか…。
 上記朝日新聞でオピニオンを記している政治アナリストの伊藤氏がおっしゃるように、こうなると国民には「政治への絶望」しか残らないというのが実情であろう。


 小沢氏は東京地検特捜部の任意聴取に応じた模様のようだ。
 小沢幹事長、貴方がどれ程偉大な政治家であられるのか私は失礼ながら未だに存じ上げていないのだが、過去に犯した過ちは一人間として是非共償われた上で、民主党内の独裁体制を緩和しつつご自身なりの政治家としての理想を貫かれるよう、一国民として期待申し上げたいものである… 
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愛し過ぎる心理の裏側に…

2010年01月20日 | 恋愛・男女関係
 またまた我が目を疑うべくアンビリーバブルな相談を新聞紙面で目にした。
 その相談によると「夫を愛しすぎて困っている」とのことである。 今の混沌とした時代においてはむしろ、人の心理がそのような“一見”「ミラクル愛」に走りゆく傾向にあるのだろうか…???


 早速、朝日新聞1月16日(土)別刷「be」“悩みのるつぼ”から、30代主婦による「夫を愛しすぎているのでは」と題する相談を以下に要約して紹介しよう。
 夫とは1年の交際を経て結婚し6年目の会社員女性であるが、夫のことが好きすぎて困っている。 子どもはいない。 夫と出会ったその日に生涯の伴侶と思い定め、それ以来今日まで毎日起きている間はずっと夫のことが頭から離れない。一緒にいると楽しくてしかたなく、家では常に同じ部屋にいて常にどこかに触れ合っている。 働いている時も夫が今何をしているのかが気掛かりで寂しくてならない。誰と会っても相手が夫ならもっと盛り上がるのにと考えてしまう。 夫が友人と会うのにも嫉妬心に似た感情を抱いてしまい、夫不在の時は事故で死んでいないかと心配になり、夫が死んだら自分は生きていかれないとすら思う。 夫の方も程度の差こそあれ同じタイプのようだ。 私自身は夫に出会えた幸せをかみしめる一方で、あまりにも依存し過ぎて不健康な状態で人生を自分の手で何割か葬ってしまっている気もする。 だが、周囲の人に話しても“のろけ”としか捉えてもらえない。


 今回の“悩みのるつぼ”の相談の回答者は経済学者の金子勝氏であられるのだが、その回答が私論と重複する部分が多いため、私論を述べるに先立ってまず金子氏の回答を以下に要約して紹介しよう。
 一見すると濃密な人間関係のように見えても、実は希薄な場合がある。 人間とは欲望、衝動、ねたみ、不安など理屈では説明できない弱さを沢山抱きつつ生きている。 感情が抑えきれず相手を傷つけるとわかっていても、どうしても止められないという葛藤も抱えている。 人間としての信頼関係は、人間の弱さを「許す」という行為から始まる。親子関係はその典型である。「許す」の裏側には、相手に自分の弱点を晒して許しを請う「謝る」という行為を伴う。 夫婦はけんかをする程仲がよいと言われるのは、「許す」と「謝る」で愛情を確認し合っているからであるとも考えられる。 しかし、この相談の文面からはそのような本音をぶつけ合う関係が見えて来ない。 夫婦の間であれ、家庭の他にお互いに別の世界を持ちつつ仕事をはじめ何かを通じて自己実現しようとするものだ。人間とは外では弱さや葛藤を見せずにいたいため、だからこそ夫婦間においては互いに「許し」「謝り」支え合うことのできる人間としての信頼関係が大事である。 この相談からは、この「支え合う」関係も見えて来ない。 相談者は相手を独占したいだけで、「依存」こそあれ「支え」てはいない。 ただ相談者がそれを「不健康」だと理解しているならば、自分にとっての自己実現とは何かを考え「別の世界」で葛藤する夫を知るしかない。 しかし、無理にそうする必要もなく、このまま一生を終えられるならば最高の幸せでもあろう。
 (以上、“悩みのるつぼ”金子氏の回答を要約)


 最後に私論に入ろう。

 「人を愛し過ぎる」……  残念ながら我が人生においては恐らくそのような経験がないと思えるが故に、一見何とも羨ましい限りの相談内容でもある。
 いやいや、この私とて若かりし頃にはその種の“勘違い”に浸った時期も無きにしもあらずだ。  恋愛相手が好きで好きで、家族も仕事も生活もすべて投げ捨ててでもこのまま一生その恋愛相手と地の果てまでも一緒にいたいと心底思った経験は、私でなくとも誰しも一度は過去に通り過ぎてきた道程であろう。

 ただそういう一時の感情とは単なる若気の至り故の妄想であることは、金子氏が述べられている回答の通りかと私論も捉える。
 人とは悲しいかな、恋愛だけを貫いて一生を生き通すことは不可能に近い動物なのではなかろうか。 人間とは、生きてゆくための日常の「生活」を回避することはどうしても出来ない運命にある生命体である。

 恋愛の行き着くところとは、その究極の表現型である“生殖行為”に終着するようにも見える。  だがその実は、それのみを堪能していたのでは人間はこの世に生き延びられないように運命付けられた存在でもあろう。
 いくら人を愛して愛して愛し抜こうと志そうが、そこには「現実生活」という限界があり、そして人間ならではの個々の「自己実現」の現実が待ち構えているのだ。


 この相談主婦も、夫を愛し過ぎていると自負できる幸せを一生迷いなく実感し続けることが可能であったならば、回答者の金子氏がおっしゃる通り幸せな人生であったかもしれぬのに…。
 結婚6年目に至ってやっと初めて夫への“愛”に迷いが生じてしまった、おそらく今までの人生において(夫以外の人物との)濃厚な人間関係に乏しいと思しき若かりし主婦の行く先は、一体何処に終着するのやら…
        
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