原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

下手な気遣いはない方が長続きする

2010年03月28日 | 人間関係
 人それぞれの年齢や人生経験にもよるであろうが、(多少“あまのじゃく”の)私などは他者から気遣いされると、かえって気を使ったり相手の魂胆を読もうとして疲れるものである。


 「原左都子エッセイ集」で毎度おなじみの朝日新聞土曜日別刷「be」“悩みのるつぼ”の昨日(3月27日)の相談は、30代主婦による「気遣いない夫に困ってます」とのタイトルだった。
 早速その相談内容を要約して、以下に紹介しよう。

 出産するまで17年間正社員として働いていた主婦であるが、職場でコピー用紙やインクがなくなりそうなのに気付いたら補充していたし、古紙回収場所に皆が出した段ボールやパンフレットを回収日には忘れないように率先してまとめていた。 「気付かなくてすみません。」と手伝ってくれた後輩達は、私が率先してやって見せることで自然と成長していった。 
 産後仕事を辞め家庭に入った後も資源ゴミの日などには私が率先してゴミの処理をしているが、夫はこちらからお願いするまで手伝わない。 挙句の果てに「気付いた者が自分でやればいい。わざわざ“やれ”と言いに来る奴には腹が立つ」と言われ呆然とする。 さらに「気付く人は損。それが嫌なら気付かないフリをしたらいい。」とまで言う。
 今後子育てをしていくのに夫と考え方が違いすぎて自信がなくなった。夫はボランティア自体を否定する人間だが、どうしたら夫が自発的に動くようになるのか?
 (以上、朝日新聞3月27日「悩みのるつぼ」より30代主婦による相談を引用)


 早速、私論に入ろう。

 ずい分とストレスを溜めておられる主婦の方と拝察した。
 出産直後とお見受けするが、確かに子どもが小さい頃の子育て中の母親の肉体的精神的負担とは尋常ではなく、大いなるストレスが溜まるものであることは我が身も経験済みで重々実感である。
 そのストレスの発散先として“夫”が矢面に立つのも納得である。 だが残念ながら、乳飲み子を抱えた若き奥方に“理想的”に対応可能な夫がこの世の中に存在し得るのかとの空虚感が、まずは私の頭を過ぎってしまう。

 厳しい育児ストレスとの闘いの真っ最中の相談者を捉まえて、「夫を含めて周囲の優しさやバックアップに頼ること自体を一時きっぱり諦めた方が、むしろ気が楽になるよ」 とアドバイスしようとも、それを受け入れる余裕は恐らくないのがこの主婦の現実であろう。


 この相談内容において大いに気になるのは、既に職場を退職した今となっては自身にとって過去の職業経験における一種の歪んだ“栄光”にこだわり、それとは何のかかわりもない現実の夫との関係にその職業経験を引き合いに出している点である。

 しかも、相談者の過去の職場におけるエピソードに多少の“嫌みったらしさ”が蔭を潜めているのを、相談者の夫同様にこの原左都子も感じざるを得ない。
 例えば職場のコピー用紙やインクの補充など、それがなくなった場合に一職員として実行して当たり前であり、またゴミの処理に関しても自分の時間が許す限り率先して行って何ら損はないはずである。 それを率先して行う人物に偏りがあり不平等と感じるならば、職場における職務分担の合理化に向けてルールを確立するべく動けばいいのだ。 自分の働きのお蔭で後輩が成長したと独りよがりに勘違いしたり、手伝わない相手に文句を垂れている暇があるならば、皆が納得するべく職場改善に取り組むエネルギーを燃やして職場の真のリーダーシップ力を発揮すればよかったのだ。 
 (この原左都子など、過去の職場経験においてその種のエネルギーは惜しまず同僚に嫌われることも物ともせずに、職場改善の努力をしてきたつもりであるぞ。) 


 この相談者のご夫婦関係の険悪度の程度が相談内容からは把握できないが、私が推測するに出産後の一時の意思疎通の行き違いの範疇を超えていないような気もする。 そうであるならば、子どもに手がかからなくなる近い将来の時点で十分に修復可能であろう。

 ここで話が横道に逸れるが、「ボランティア」とは本来は“自ら進んで社会事業等に無償で参加する活動”との意味合いがある。 すなわち、それを実行することにより精神面も含めて何らかのフィードバック等の自己の利益を望む魂胆は存在し得ないはずである。 にもかかわらず、この国の貧弱な教育理念のせいもあって「ボランティア」の概念が国民に大きく誤解されるに至っているように伺える側面もある。 (そういう意味合いでこのご主人が「ボランティア」を否定しているとするならば、一理あると私論も捉える。)

 確かにこの相談者のご主人も(恐らく若気の至り故に)“売り言葉に買い言葉”の感もあるが、ご主人の発言の論理がまったく誤りだとは言えない感覚が原左都子にもあるのだ。


 育児とは子どもが小さい程激務であり多難な道程ではあろうが、この相談主婦もあと数年を耐え切って子育てからある程度解放されたならば、大いに考え方が変わるに間違いないのだ。
 今は「気遣いない夫」に難儀している相談主婦の思いも理解できるが、あと数年の育児の難局を無事に通過できたならば、人の“気遣い”などむしろ鬱陶しいと思える時が必ずや訪れるのである。

 そうした局面に達した時点でこそ、今の世に蔓延っている自己利益追求目的の“似非(えせ)”とは一味違う本来の「ボランティア」の意味合いも理解できるようになり、ご主人の考えも多少は受け入れられるようになるのではあるまいか? 

 とにかく相談主婦が職場を退職して専業主婦となり育児に専念している今現在は、過去の自身の職業経験にとらわれて身近な人々を責めるよりも、明るい未来を信じて育児に没頭した方が幸せだと思うのだが…。
              
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新党作っていいとは思うが…

2010年03月26日 | 時事論評
 英国には「支持政党の候補者であれば、たとえ “豚” が立候補しても投票する」との冗談があるらしい。


 これは朝日新聞3月23日(火)「声」欄の投書の中から発見した逸話であるが、この投書を寄せた60代主婦の方も、原左都子同様に現在の民主党による国民不在の政治を嘆いておられるようだ。
 私は元々民主党支持派ではないにしても、この「声」欄の投書の前半部分に私論も賛同するため、前半部分のみを以下に要約して紹介することにしよう。
 民主党は、昨年の衆院選で多くの無党派層が民主党政権を選択した背景をよく考えて欲しい。 昨年(夏)の選挙は、民主党の候補者なら誰にでも投票したとでもいえるような状況で、特定の誰かの采配が良くて勝利した訳ではないと思う。 旧政権の国民不在の政治を変えて欲しかっただけである。


 私論に入ろう。


 今後の選挙戦においては、各党共に “豚” の立候補者の擁立だけはもういい加減勘弁願いたいものである。
 この期に及んで尚、選挙戦において国民を馬鹿扱いするという手法で選挙戦に勝ち抜こうとする発想をもうそろそろ終焉させないことには、この国の政治は何処の政党が勝利を収めようとも国政の真の改革は不能であろう。

 
 ところがどうしたことか??
 民主党の国民よりの支持率低迷と平行するかのごとく支持率を下げている野党に成り下がった自民党までもが、“豚”とまで言っては失礼かもしれないが、実力の程がまったく不明の“美人地方市議”の(藤川何某氏とやらの)某女史を夏の参院選に擁立するとの報道である。 現在自民党の大島幹事長がその擁立に向けて熱心に動いているということであるが、大島氏をある程度評価していた私としては、ここに来てとことん幻滅させられる思いである。
 “溺れる者藁をもつかむ”発想で夏の選挙戦に臨もうとしている自民党の魂胆が見え透いていて、何とも辛い思いだ。
 そんなことだから、いつまでたっても自民党の支持率が低迷を続けているのではないのか?


 そんな“ヘボい”政党から離党して、新政党を結成したいと意気込む鳩山(弟)氏の思いもわからなくはないが、それには一国民の私なりの条件もある。
 当然ながら鳩山(弟)氏の狙いは夏の参院選にある。 野党に成り下がって尚“ヘボい”状態を国民に晒し続けている自民党から離れたい思いは理解できる。 だが、新党を結成する魂胆が、鳩山(兄)が“お飾り首相”を勤めている民主党が来る参院選で過半数が取れないことが明白だから、それの傘下に入って新政権に迎合して連立しようとする魂胆であるとするならば、それはとんでもない国民に対する“裏切り行為”である。
 与謝野氏と舛添氏も引き連れるらしいが、その両氏がセレブ鳩山(弟)氏と同様の考えで新党結成に参加するとなると、(与謝野氏のことはあまり知らないが)舛添氏に少しは期待していた原左都子としてはやはり幻滅せざるを得ない。

 その上で、鳩山(弟)氏が立ち上げる新党もその立候補者とは、自らの縁故によったり、あるいは国民の間で知名度のみある “豚” を擁立して夏の参院選に臨む魂胆なのだろうか???
 

 そういう手段でしか国民の票取りができないとの貧弱な発想を政治家がこの期に及んで今尚抱いているとするならば、それは政界の感覚が現在の国民感情から大いに遅れをとっている証拠とも考察できる。

 それ程にまで国民感情と政治家との距離が今尚縮まっていないのは何故なのか?

 昨夏政権交代の実現に大いなる期待を託して民主党が擁立した “豚” にまでも投票せざるを得なかった国民の苦渋の選択が新政権に大きく裏切られる結果となっている現状を把握できず、今まだ国民とは別世界の国政のトップ世界で自分達が国民を牛耳っていると勘違いしている政治家どもが、国民の苦悩を我が身として受け取れないからに他ならないからだ。


 私論としては、 今夏の参院選に多くの新党が乱立出現しそうな現状に関しては、民主党の「政治とカネ」問題等々の大いなる失策により新政権が国民の支持率低迷を余儀なくされ、無党派層が量産されている“無政府状態”とも言える現状の国政において自然の摂理であると捉える。

 ただし新政権に迎合する等の私利私欲追究目的で新党を立ち上げようとしても、今回の新政権のよもやの失策の“お蔭”で、「もう騙されないぞ!」との国民の目が肥えてしまって既にごまかしが効かなくなっていることを肝に銘じるべきであろう。

 実力不明な“美人市議”などをいきなり国政選挙に擁立しようと企んで性懲りも無く有権者のさらなる失望を煽っている暇があるならば、(新たに結成される新党を含めて)各党が成すべき事は、今後国政を実力で操れる実力を備えた人材の開拓であり育成なのではなかろうか。   
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見かけと寿命との相関関係

2010年03月24日 | 医学・医療・介護
 人の年齢ほど、わかりにくいものはない。

 ひと昔前ならば 「お幾つですか?」 というフレーズを挨拶代わりに使用できたものだが、今の時代面識の浅い方にそんな問いかけをしようものなら“プライバシーの侵害”で訴えられかねない。
 そこで、人との付き合いが浅いうちは相手の年齢を“見かけ”で判断するしかないのだが、以外や以外、付き合いが濃くなるにつれ実年齢が浮き彫りにされてくるのを実感するものでもある。


 朝日新聞3月15日(月)夕刊に、“人の見かけ年齢と死亡率”との関係についての興味深い記事があった。 早速、以下に要約して紹介しよう。
 昨年12月に英国医学雑誌が、実際の年齢が同じでも見かけ上の年齢が高いと死亡率も高くなるという論文を発表した。
 研究はデンマークで進行中の双子の高齢者の追跡調査のデータを使って行われた。 対象者の顔写真が何歳に見えるかを看護師が推測してそれを見かけ上の年齢とし、約7年間の追跡調査で675名の死亡を確認した。 その結果、実年齢が同じでも見かけ上の年齢が1歳高くなるごとに死亡率が8%ずつ高くなった。 さらに、見かけ上の年齢が高いと、階段を上るなどの身体機能が低く、記憶力などの認知機能も低かった。
 この研究の著者らは、長寿の指標となる遺伝子がほとんど見つかっていない現状において、DNA標本よりも本人の顔写真の方が高齢者の生存に関してより多くの情報を提供すると思われることを考察している。
 今回の研究は70歳以上の高齢者が対象であるため、より若い世代にも結果があてはまるとは限らない点は留保が必要である。
  (以上、朝日新聞記事より要約引用)


 私事で恐縮だが、私の周囲には実年齢よりも若く見える私よりも年上の人々で溢れている。
 より身近な身内から紹介すると、我が亭主もそうであるし、前々回の記事で紹介した(会うと喧嘩大バトルの)我が郷里の実母も見た目は若い。 そして、80歳が近い義母などは今尚女優が出来そうなほどの美しさである。  それから、私と同年代かそれ以上の世代の知り合いの皆さんも男女を問わずお洒落に凝り外見を気遣っている方々ばかりで、ご自身の社会的業績と共に外見も輝くように美しく立派であられる。

 我が身内はさておいて、知り合いの方々が何故に輝くばかりに美しく立派に映るのかと言うと、それはまさに外見のみではない確固たるご自身の実績を内面に伴っているからに他ならないからであろう。

 メディアが発展した今の時代においては、人間とは自己の活躍に伴う実績に平行するがごとく外的要因においても脚光を浴びるようになる。 それは、単にマスメディアに登場する有名人のみならず、一般人においても共通項であろう。
 その脚光を受けてそれに対応するべく自己の外見にも気遣い、それを繕おうとするのは自然の摂理でもあろう。


 ここで私論を展開させていただこう。

 実年齢よりも若く見える方々とはすなわち、まずは自身の仕事やライフワークの充実なりそれに伴う実績が、外見よりも先行して確固として存在するという揺らぎない事実に後ろ盾されているからではなかろうか。
 それは決して、元々外見を繕うことのみをたくらんで下手な悪徳商法に手を染めて顔にヒアルロン酸を塗りたくる等々の邪道の手段により導かれた結果ではない。 その種の軽薄さとはまったく別格の、自己の実力展開が本人にエネルギーや美をもたらし、その結果として輝きを放っているものと考察する。

 一方で、今の時代は老いも若きも自己の実績云々は二の次で、外見のみを何とか繕うことにより世を渡っていこうとする人種が増殖している社会の実態であるようにも思える。
 ひと昔前の時代には、こういう外見第一の自己主張とは若い世代の特権であったはずなのに、今や、アラフォー、アラゴー、アラ還等々の新語と共に、熟年層にまで“若造り”が浸透しているようだ。
 その種の人種とは、外見を繕うという安易な手段で自己の未来に向けて期待感や情報発信をすることにより、何らかのフィードバックが返ってくることを期待しているのかもしれない。 たとえ“若作り”をそのような安易な手段に頼ろうとも、その“期待感”等のメッセージ性が人々の長寿をもたらすという考察もでき得るのかとも思えて来そうだ。  これも一つの“文化”と言うべきか……


 そういう意味では自己の外見にこだわるという事象自体が、画期的な時代進化であるとも考察できよう。

 「見かけ年齢」と死亡率との間に“正の相関関係”が実証される時代においては、高齢者の皆様もとりあえずご自身の“若き外見”にこだわるエネルギーを今一度持たれてみてはいかがであろうか。
                     
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自己のオピニオンと“公開性”とのかけひき

2010年03月22日 | 自己実現
 今週一杯で終了するNHKの連続ドラマ「ウェルかめ」の本日(3月22日)の放送の中で、編集者として生きていこうとしている若き主人公が、出版物の“公開性”故にもたらされる編集者が負うべき責任について考慮する場面があった。

 (あくまでも原左都子の記憶に頼れば…) 「たとえ一地域限定で無料で配布する小冊子であろうと、編集者にはその公開性に基づく責任がある。」云々…  との主人公のセリフに対し、周囲の友人や家族、元編集者仲間が、 「とりあえずは自分なりのメッセージをまとめて記事を作り小冊子を一冊作成してみてはどうか?」等の後ろ盾応援を贈るというような本日のドラマのストーリー展開であった。 


 上記のドラマにおける若き主人公の悩みは、ネット上で公開されている「ブログ」という情報媒体にも共通する課題であろう。

 ある意味では地域限定の出版物よりも、全世界に張り巡らされているネット上における情報公開の方が、その公開範囲が比較対象にならない程に広大であることは事実だ。 また、地域がコミュニティを形作っている構成体であるのと対照的に、ネット世界とは不特定多数の個々人がアクセスできるという異質な特徴もある。
 さらに出版物が紙を媒体とした実質的な情報源であるのに対し、ネット上の情報とは時間の経過の影響を受けやすく、また削除機能の存在等により実質性に欠けるという“はかなさ”もその特徴とする情報の媒体なのであろう。


 そのようなネットの特質を開設以来心得つつ、情報を公開し続けている我がブログである。
 「原左都子エッセイ集」の場合は、ご覧の通り時事等の社会問題に対する“自己のオピニオン”の公開を第一義の趣旨として発信しているのが特徴である。 一方で、現在国民2000万人のブロガーが公開していると推測されるブログがネット上で発信しているその情報の内容は、皆様もご存知の通り多種多様である。
 例えば世の物議を醸すべくもないような“穏やかな内容”のブログ(例えば、家族やペットの紹介、小説や写真や絵や料理等のご自身の趣味の公開、等々)に比して、我がオピニオンブログなど“公開性”の持つ意味合いが世の多大な反響を伴うのであろうと、筆者である私は重々認識している。
 そのため過去において“公開性”に鑑みた「原左都子エッセイ集」の公開基準に関する私論を、バックナンバー記事において再三公開し続けてきている。 それは我がオピニオンを世に発信することに関して、あくまでも自己の責任において対応しようとの意思を表明したいからに他ならない。


 その上で、ブログというネット上における情報発信媒体を最大限有効利用したいがために、「原左都子エッセイ集」においては開設以来コメント欄をオープンにし続け、読者の皆様より頂戴するコメントに全力で返答させていただいてきた。
 年月が経過して残念なことにその作業に筆者である私が疲れ果てているのも事実であり、先だっての数本前の記事で、皆様より頂戴した「コメント公開に関する基準」を設けさせていただくことと相成った次第である。
 それでも今尚「原左都子エッセイ集」に対する様々なメッセージを(コメント欄以外のルートからも)少なからず頂いている現状である。

 ネットを通じてブログにご訪問下さる方々とのお付き合いとは、あくまでもネット上の“言論”の域を超えていないのは否めない事実であろう。
 それにもかかわらず、「原左都子エッセイ集」の言論によるオピニオンの範囲を超えて、「私」という人間像を「原左都子エッセイ集」と同一化して勝手に創り上げてメッセージを頂くことも多い現状である。  ただの一度たりとてお会いしたこともなく、ましてや語り合わせて頂いたこともない方々から、私の人格にまで触れるがごとくのメッセージを頂戴するのは、この私とてご勘弁願いたいというのが正直なところである。
  一例を挙げると、  “うだうだと文句ばかり垂れてる奴だ”  “社会批判ばかりしている人間は嫌いだ”   “もっと素直になったらどうか” …… 
 (うだうだと文句ばかり垂れて日々暮らしていけるはずがないだろが。 人間とは皆本来多面性を持った生き物だよ、と言いたくもなるよなあ。)

 皆様のお気持ちも分からなくはない。 この種のメッセージを寄せて下さる方々とは、おそらくネット情報に“癒し”や“心のオアシス”を求めておられるのであろう。
 申し訳ないのだが、「原左都子エッセイ集」はその類の要望に応えられるブログではないのかもしれないことを、ここで改めてお詫びしたい思いである。 あしからず…   


 話を冒頭の話題に戻して、「ウェルかめ」の主人公のごとくの若き世代の女性にとっては、情報の“公開性”の責任よりも、失敗や批判を恐れずにとにかく自己のメッセージを編集者としてまとめて発信してみることがさしあたっての課題となろう。 (その意味でこのドラマの終盤での趣旨は正当と言えよう。)

 一方で若くもない私が綴る「原左都子エッセイ集」は、やはり情報の“公開性”の責任を最優先するべきなのは当然の選択肢であると認識する。 
 ただし“公開性”の責任を最優先した上でも「原左都子エッセイ集」があくまでもオピニオンブログの立場を貫く場合、読者の皆様との多少の“軋轢”は今後も覚悟するべきかもしれない。

 ただ、“公開性”の責任と読者への“迎合”は似ているようでまったく異質の存在である。
 “軋轢”を耐えて尚、読者への“迎合”は是が非でも回避しなければ、たとえ無名の一庶民が無料で発信しているブログであろうと“自己のオピニオン発信”の真の継続は不可能であると私は心得るのだ。
            
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生まれ故郷という居場所

2010年03月20日 | 旅行・グルメ
 お彼岸に一週間先立ち、現在春休み中の娘と共に1年半ぶりに我が郷里を訪れた。


 いつもなら一人暮らしの郷里の母の家に寝泊りし母運転の車を移動手段とするのだが、今回は別に宿を予約して、移動手段もあえて路線バスやタクシーを利用することとした。
 これは、今後さらに年老いていく母との親子関係をある程度良質に保ちたいという、娘の私なりの配慮に基づく選択肢であった。
 1~2年に一回程度しか会わない親子であるし、わずか数日間の滞在であるにもかかわらず、面と向かって顔を合わせると必ずや喧嘩大バトルを繰り広げてしまう母娘なのだ。 それも生易しい内容の喧嘩ではなく、人格否定が甚だしくお互いに後々まで根に持ち傷を引きずるような悪質な“いがみ合い”である。親である母が少しは譲ればよさそうなものを、年老いたら何を言っても許されるとでも考えている甘えなのか、娘の私に向かって容赦なくぶった切ってくるのだ。  そんな母娘バトルをいつも端で聞いている我が娘への教育的配慮を鑑みた場合、たかが数日間と言えども母と同じ屋根の下で寝泊りすることは金輪際避けるべきと判断したのが今回の別宿選択の第一の理由である。
 加えて我が郷里のような“後進過疎県”の場合、公共交通の便が甚だ悪く人々の日々の移動はマイカーに頼らざるを得ない。 後期高齢者の我が母も今尚マニュアル車のマイカーを主たる移動の手段としているのだが、その年齢を考慮した場合、さすがに車での遠出は避けるよう普段アドバイスしている。 そこで今回の郷里での我々の移動も、あえて不便な公共交通とタクシーを利用することにしたのだ。
 さらに今回の旅行は年老いた母の慰労のみならず、我が娘と久々に訪れる郷里の観光も合わせて楽しみたい目的もあった。

 予想以上に母が気丈に元気に一人暮らしを遂行していたことに助けられ、宿泊先を別に予約したことが母との“喧嘩大バトル”回避に功を奏したように思われる。

 
 上記のごとくの選択により、母の家を訪れるのも観光に行くのにも別宿から路線バスやタクシーを利用することになったのだが、これが今回の旅行の醍醐味となった。

 まずは、航空便での到着先の郷里の空港から母の家へ向かう時に乗車したタクシーの運転手氏と小一時間に及ぶ“郷里談議”が展開された。 なかなかの反応力で“ツーカー”に応答してくれる運転手氏に恵まれ、久々に郷里に訪れた私の畳み掛けるごとくの質問に次々と回答が返って来る。
 市町村の財政破綻に伴う経営合理化を目的とした統合による新しい市町村の誕生…  その例外ではない我が故郷であるのだが、その名付けに何故由緒ある旧名を使用しないのか? 外部者となった今、新しく誕生した自治体が元々県内のどこにあった町村なのか判断し辛い程に旧地名が捨て去られたのは如何なる魂胆あってのことなのか…
 学校の統廃合等も進んでいるようだが、これも外部者からは前進の学校が何処だったのか分かりにくい。
 後進県特有の“自治体とゼネコンとの癒着”は我が郷里にも根強く蔓延っているようだが、新政権に移行して尚、この不況期に公共事業が更に活性化しているとも捉えられる現実を垣間見る思いだ。これは後進県故の宿命として済まされるものなのか…  茨城空港が騒がれているお蔭で、この郷里に4月に誕生する新空港が表面化せずに済んでいるが、このド田舎に今時新空港を建設する目的とは一体何なのか? これに関しては“政府とゼネコンの癒着”以外の要因として“政府と米軍との癒着”の密約が水面下で交わされているしわ寄せをこの後進県が一手に引き受けている??… (このド田舎の過疎地を、あわやの場合米軍の戦闘機の着陸拠点として使用する目的でわざわざ新空港を建設しているのだと???) 等々…  なかなか興味深いお話をタクシー運転手氏より拝聴できたのである。
 客観的に郷里の実情を捉えられる人材が我が郷里にも育成されていることに、一安心の私であったものだ。

 路線バスの風情もなかなかなものである。
 何分、1、2時間に1本程度しか運行していない交通網ではあるが、ネットで発車時間をあらかじめ検索して利用すると、これは結構使える。
 地元の人もほとんど利用しないというバス路線を利用して我々親子は観光地を巡った。 都市部のバス料金に比してかなり割高ではあるものの、車内は空いているしタクシーよりもゆったりとした空間の中で寛げるのだ。 しかも、バスも統廃合の影響で目的地以外の場所にも停車するために立ち寄るため、時間が許すならば車窓からの風景を広範囲に存分に楽しめるのだ。


 そんなこんなでタクシー運転手氏との会話や路線バスの寄り道を堪能できた今回の旅行だったのだが、何と言っても我が心に滲みたのは、その車窓から垣間見た我が郷里の“原風景”のフラッシュバックであり、また“現風景”の(豊かとは言い難い)営みの実態である。

 私が郷里に暮らしていた頃から長い年月が流れ、高度成長期、バブル期、そして現在の不況期を経つつ歩んできたであろう後の今の我が郷里の“成れの果て”がそこに確実に存在していることを実感できた。
 半世紀前の遠い昔からずっと残されているもの、失われたもの、それでもまだ力強く生命を宿しているもの、 それらすべての集大成が現在の我が故郷のありのままの姿であることを改めて目の当たりにした思いである。 

 もしも将来我が母が他界しようとも、私はまたきっとこの地を是非訪れたい思いを抱きつつ、我が娘と共に航空便で東京への帰路に着いた。 
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