人それぞれの年齢や人生経験にもよるであろうが、(多少“あまのじゃく”の)私などは他者から気遣いされると、かえって気を使ったり相手の魂胆を読もうとして疲れるものである。
「原左都子エッセイ集」で毎度おなじみの朝日新聞土曜日別刷「be」“悩みのるつぼ”の昨日(3月27日)の相談は、30代主婦による「気遣いない夫に困ってます」とのタイトルだった。
早速その相談内容を要約して、以下に紹介しよう。
出産するまで17年間正社員として働いていた主婦であるが、職場でコピー用紙やインクがなくなりそうなのに気付いたら補充していたし、古紙回収場所に皆が出した段ボールやパンフレットを回収日には忘れないように率先してまとめていた。 「気付かなくてすみません。」と手伝ってくれた後輩達は、私が率先してやって見せることで自然と成長していった。
産後仕事を辞め家庭に入った後も資源ゴミの日などには私が率先してゴミの処理をしているが、夫はこちらからお願いするまで手伝わない。 挙句の果てに「気付いた者が自分でやればいい。わざわざ“やれ”と言いに来る奴には腹が立つ」と言われ呆然とする。 さらに「気付く人は損。それが嫌なら気付かないフリをしたらいい。」とまで言う。
今後子育てをしていくのに夫と考え方が違いすぎて自信がなくなった。夫はボランティア自体を否定する人間だが、どうしたら夫が自発的に動くようになるのか?
(以上、朝日新聞3月27日「悩みのるつぼ」より30代主婦による相談を引用)
早速、私論に入ろう。
ずい分とストレスを溜めておられる主婦の方と拝察した。
出産直後とお見受けするが、確かに子どもが小さい頃の子育て中の母親の肉体的精神的負担とは尋常ではなく、大いなるストレスが溜まるものであることは我が身も経験済みで重々実感である。
そのストレスの発散先として“夫”が矢面に立つのも納得である。 だが残念ながら、乳飲み子を抱えた若き奥方に“理想的”に対応可能な夫がこの世の中に存在し得るのかとの空虚感が、まずは私の頭を過ぎってしまう。
厳しい育児ストレスとの闘いの真っ最中の相談者を捉まえて、「夫を含めて周囲の優しさやバックアップに頼ること自体を一時きっぱり諦めた方が、むしろ気が楽になるよ」 とアドバイスしようとも、それを受け入れる余裕は恐らくないのがこの主婦の現実であろう。
この相談内容において大いに気になるのは、既に職場を退職した今となっては自身にとって過去の職業経験における一種の歪んだ“栄光”にこだわり、それとは何のかかわりもない現実の夫との関係にその職業経験を引き合いに出している点である。
しかも、相談者の過去の職場におけるエピソードに多少の“嫌みったらしさ”が蔭を潜めているのを、相談者の夫同様にこの原左都子も感じざるを得ない。
例えば職場のコピー用紙やインクの補充など、それがなくなった場合に一職員として実行して当たり前であり、またゴミの処理に関しても自分の時間が許す限り率先して行って何ら損はないはずである。 それを率先して行う人物に偏りがあり不平等と感じるならば、職場における職務分担の合理化に向けてルールを確立するべく動けばいいのだ。 自分の働きのお蔭で後輩が成長したと独りよがりに勘違いしたり、手伝わない相手に文句を垂れている暇があるならば、皆が納得するべく職場改善に取り組むエネルギーを燃やして職場の真のリーダーシップ力を発揮すればよかったのだ。
(この原左都子など、過去の職場経験においてその種のエネルギーは惜しまず同僚に嫌われることも物ともせずに、職場改善の努力をしてきたつもりであるぞ。)
この相談者のご夫婦関係の険悪度の程度が相談内容からは把握できないが、私が推測するに出産後の一時の意思疎通の行き違いの範疇を超えていないような気もする。 そうであるならば、子どもに手がかからなくなる近い将来の時点で十分に修復可能であろう。
ここで話が横道に逸れるが、「ボランティア」とは本来は“自ら進んで社会事業等に無償で参加する活動”との意味合いがある。 すなわち、それを実行することにより精神面も含めて何らかのフィードバック等の自己の利益を望む魂胆は存在し得ないはずである。 にもかかわらず、この国の貧弱な教育理念のせいもあって「ボランティア」の概念が国民に大きく誤解されるに至っているように伺える側面もある。 (そういう意味合いでこのご主人が「ボランティア」を否定しているとするならば、一理あると私論も捉える。)
確かにこの相談者のご主人も(恐らく若気の至り故に)“売り言葉に買い言葉”の感もあるが、ご主人の発言の論理がまったく誤りだとは言えない感覚が原左都子にもあるのだ。
育児とは子どもが小さい程激務であり多難な道程ではあろうが、この相談主婦もあと数年を耐え切って子育てからある程度解放されたならば、大いに考え方が変わるに間違いないのだ。
今は「気遣いない夫」に難儀している相談主婦の思いも理解できるが、あと数年の育児の難局を無事に通過できたならば、人の“気遣い”などむしろ鬱陶しいと思える時が必ずや訪れるのである。
そうした局面に達した時点でこそ、今の世に蔓延っている自己利益追求目的の“似非(えせ)”とは一味違う本来の「ボランティア」の意味合いも理解できるようになり、ご主人の考えも多少は受け入れられるようになるのではあるまいか?
とにかく相談主婦が職場を退職して専業主婦となり育児に専念している今現在は、過去の自身の職業経験にとらわれて身近な人々を責めるよりも、明るい未来を信じて育児に没頭した方が幸せだと思うのだが…。
「原左都子エッセイ集」で毎度おなじみの朝日新聞土曜日別刷「be」“悩みのるつぼ”の昨日(3月27日)の相談は、30代主婦による「気遣いない夫に困ってます」とのタイトルだった。
早速その相談内容を要約して、以下に紹介しよう。
出産するまで17年間正社員として働いていた主婦であるが、職場でコピー用紙やインクがなくなりそうなのに気付いたら補充していたし、古紙回収場所に皆が出した段ボールやパンフレットを回収日には忘れないように率先してまとめていた。 「気付かなくてすみません。」と手伝ってくれた後輩達は、私が率先してやって見せることで自然と成長していった。
産後仕事を辞め家庭に入った後も資源ゴミの日などには私が率先してゴミの処理をしているが、夫はこちらからお願いするまで手伝わない。 挙句の果てに「気付いた者が自分でやればいい。わざわざ“やれ”と言いに来る奴には腹が立つ」と言われ呆然とする。 さらに「気付く人は損。それが嫌なら気付かないフリをしたらいい。」とまで言う。
今後子育てをしていくのに夫と考え方が違いすぎて自信がなくなった。夫はボランティア自体を否定する人間だが、どうしたら夫が自発的に動くようになるのか?
(以上、朝日新聞3月27日「悩みのるつぼ」より30代主婦による相談を引用)
早速、私論に入ろう。
ずい分とストレスを溜めておられる主婦の方と拝察した。
出産直後とお見受けするが、確かに子どもが小さい頃の子育て中の母親の肉体的精神的負担とは尋常ではなく、大いなるストレスが溜まるものであることは我が身も経験済みで重々実感である。
そのストレスの発散先として“夫”が矢面に立つのも納得である。 だが残念ながら、乳飲み子を抱えた若き奥方に“理想的”に対応可能な夫がこの世の中に存在し得るのかとの空虚感が、まずは私の頭を過ぎってしまう。
厳しい育児ストレスとの闘いの真っ最中の相談者を捉まえて、「夫を含めて周囲の優しさやバックアップに頼ること自体を一時きっぱり諦めた方が、むしろ気が楽になるよ」 とアドバイスしようとも、それを受け入れる余裕は恐らくないのがこの主婦の現実であろう。
この相談内容において大いに気になるのは、既に職場を退職した今となっては自身にとって過去の職業経験における一種の歪んだ“栄光”にこだわり、それとは何のかかわりもない現実の夫との関係にその職業経験を引き合いに出している点である。
しかも、相談者の過去の職場におけるエピソードに多少の“嫌みったらしさ”が蔭を潜めているのを、相談者の夫同様にこの原左都子も感じざるを得ない。
例えば職場のコピー用紙やインクの補充など、それがなくなった場合に一職員として実行して当たり前であり、またゴミの処理に関しても自分の時間が許す限り率先して行って何ら損はないはずである。 それを率先して行う人物に偏りがあり不平等と感じるならば、職場における職務分担の合理化に向けてルールを確立するべく動けばいいのだ。 自分の働きのお蔭で後輩が成長したと独りよがりに勘違いしたり、手伝わない相手に文句を垂れている暇があるならば、皆が納得するべく職場改善に取り組むエネルギーを燃やして職場の真のリーダーシップ力を発揮すればよかったのだ。
(この原左都子など、過去の職場経験においてその種のエネルギーは惜しまず同僚に嫌われることも物ともせずに、職場改善の努力をしてきたつもりであるぞ。)
この相談者のご夫婦関係の険悪度の程度が相談内容からは把握できないが、私が推測するに出産後の一時の意思疎通の行き違いの範疇を超えていないような気もする。 そうであるならば、子どもに手がかからなくなる近い将来の時点で十分に修復可能であろう。
ここで話が横道に逸れるが、「ボランティア」とは本来は“自ら進んで社会事業等に無償で参加する活動”との意味合いがある。 すなわち、それを実行することにより精神面も含めて何らかのフィードバック等の自己の利益を望む魂胆は存在し得ないはずである。 にもかかわらず、この国の貧弱な教育理念のせいもあって「ボランティア」の概念が国民に大きく誤解されるに至っているように伺える側面もある。 (そういう意味合いでこのご主人が「ボランティア」を否定しているとするならば、一理あると私論も捉える。)
確かにこの相談者のご主人も(恐らく若気の至り故に)“売り言葉に買い言葉”の感もあるが、ご主人の発言の論理がまったく誤りだとは言えない感覚が原左都子にもあるのだ。
育児とは子どもが小さい程激務であり多難な道程ではあろうが、この相談主婦もあと数年を耐え切って子育てからある程度解放されたならば、大いに考え方が変わるに間違いないのだ。
今は「気遣いない夫」に難儀している相談主婦の思いも理解できるが、あと数年の育児の難局を無事に通過できたならば、人の“気遣い”などむしろ鬱陶しいと思える時が必ずや訪れるのである。
そうした局面に達した時点でこそ、今の世に蔓延っている自己利益追求目的の“似非(えせ)”とは一味違う本来の「ボランティア」の意味合いも理解できるようになり、ご主人の考えも多少は受け入れられるようになるのではあるまいか?
とにかく相談主婦が職場を退職して専業主婦となり育児に専念している今現在は、過去の自身の職業経験にとらわれて身近な人々を責めるよりも、明るい未来を信じて育児に没頭した方が幸せだと思うのだが…。