本日のエッセイは、2021.08.30付朝日新聞「取材考記」より、テーマを選定させていただく。
早速、朝日新聞オピニオン編集部 、真鍋弘樹氏による「東京五輪 議論・異論はね返し突き進んでだ『ええじゃないか』の日本かえないと」題する記事を、以下に引用させていただこう。
数十年前、新国立競技場近くの都立高校へ通っていた。 通学路だった神宮外苑は、今年の夏、空虚となっていた。
駅から歩くと、かなり手前で道が封鎖されていて通れない。 最も近付ける地点には数mのフェンスが何者も寄せ付けぬ風情で立っている。
何から何を守っているのだろう。 新型コロナとテロ、二重の対策は分かるが、これほど国民と断絶した「平和の式典」って、いったい何なのか。
日本のダメなところを煮詰めた五輪運営だった、という感慨が広がっている。 高齢男性が支配する組織。 あるまじき差別やいじめの意識。 重厚でも新奇でもない儀式。 五指に余るが、今回の五輪で最も印象的にダメだったのは、一つの方向へ進み始めると止められない、という日本の悪癖だろう。
その典型が、東京の将来をめぐる議論だったのではないか。 某社会学者氏は、この五輪を敗戦処理だと見抜いていた。 前回1964年東京五輪の延長線上で、価値観の転換もなく今回を迎えてしまった、と。
日本が直面する人口減少を考えても、東京は地方から若年人口を吸い込み、出生率を下げるブラックホールと形容される。 東京は既に壁にぶつかっていると、多くの人たちが考えている。
でも、一極集中を止められない。 某人物は、「考えたところでいまさら野暮なことを言うなとか、ええじゃないかで走ってしまうのだから、どうしようもない。」と言う。
そのまま。57年後にも当てはまるのが恐ろしい。 この五輪は、世界有数の大都市、東京の未来を考える好機だったはずなのに、私たちは、首を傾げたまま走り続けている。
新国立競技場を囲むフェンスが、議論や異論をはね返す壁に見えてくる。
(以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)
原左都子の私見に入ろう。
今現在未だパラリンピック開催中のためなのか?
2020東京五輪は既に終了しているにもかかわらず、この種の“開催後議論”を見聞する機会が滅多にない。
元々、(コロナ禍にかかわらず)2020東京五輪開催反対派だった私としては、早くこの議論に入りたい!と志しているのに。
政権や都は、未だ開催後の議論に全く手つかずだ。
過去の長野五輪に関しても大会終了後の総括及び反省がなされないままに、諸問題がうやむやにされたままなし崩しになっている…、との情報も目にする。
特に今回の2020東京五輪は、“コロナ禍”との世界中を震撼させている感染症が驚異的に拡大している時期に平然と開催されてしまった、過去に類を見ない空恐ろしい大会だった、と言えよう。
このまま、2020東京五輪を政府や都や大会組織委員会が言うままの「大成功だった」との文字で安易に葬ってしまって済む訳がない!😨
上記引用文中にも記されている通り。
新型コロナとテロ、二重の対策は分かるが、これほど国民と断絶した「平和の式典」っていったい何なのか。 日本のダメなところを煮詰めた五輪運営だった。
あるいは上記朝日新聞記事内で記載されているごとく。
日本が直面する人口減少を考えても、東京は地方から若年人口を吸い込み、出生率を下げるブラックホールと形容される、等々。
東京は既に壁にぶつかっていると、多くの人たちが考えている現状だ。
大都市東京が抱えるこれらの諸問題を、五輪を開催した事実を大いなる今後の有効資料として活用し議論をさらに深めることにより。
私が40数年前から好き好んで居住地としているこの東京が、より素晴らしい大都心としての機能を果たしつつ発展することを、願ってやまない。