原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「EQ」なるものと大学合格ゲットとの相関関係

2011年05月30日 | 教育・学校
 一昨日(5月28日)と昨日(29日)の土日は台風の影響で雨足が強まる中、我が子の大学進学関連の所用で連日外出した原左都子である。


 一昨日は我が子が通う高校の進学保護者会に出席した。

 普段より情報収集力がある私にとって特段のトピックス的収穫はなかった中で、目新しい話題と言えば、慶應義塾大学が本年度入試からセンター試験利用方式を全面廃止するとの情報だった。 この廃止の理由が知りたい私であるが、残念ながらその説明は聞けないままだ。 高校教員経験者としては多少気になる今回の廃止措置である。
 慶應と言えば“一応”日本に名立たる私学である。(“一応”と表現するのは、何分原左都子は私学受験の経験すらなく私学とは無縁の人生を歩んでいるため、世間が言うところの早慶GMARCHナンタラ等私学の“地位”のレベルの程が実感として把握できないためである。)  大学を目指す若者の8割が受験するセンター試験の合格結果を公にする事とは、その地位の整合性を証明する大いなる手段となるはずであるのに何故廃止するのだろう??  それとも万人が受ける巷のセンター試験など、歴史と伝統を誇る慶應にとって相応しくないとでも判断したのであろうか??  あるいは慶應を含めた名立たる私学とは、未だに著名人及びその卒業生子女を優先入学させているのが現状のようだ。(例えばアナウンサーになった元“モーニング娘”の何某氏とかねえ~) それら慶應生が卒業後もそのレベルの程はともかく著名度のみで「慶応」の名を世間に知らしめてくれるのをいいことに、センター試験などくそ食らえとの魂胆なのだろうか?? 
 我が娘が来春慶応を目指そうという訳ではないため個人的にはどっちでもいいと言えばそうなのだが、今回の慶応大学のセンター試験全面廃止措置とは、歪んだエリート特権意識に基づいた思いあがり思想とも受け止められそうだ。
 我が国が歴史的大震災を経験して尚、“学問の府”であるべき大学の中に自己の利益を追求するがあまり、身の程知らずに視野の狭い大学が存在することに多少うんざりの原左都子である。


 そして昨日は、我が娘の第一志望大学のオープンキャンパスに足を運んだ。
 今年度初めて開催されたオープンキャンパスに於いて“全体説明会”を聞くのが一番の目的だった。 大卒生が大いなる就職難に瀕しているこの時代において、何処の大学も学生の就職率を売り物とするのが現在の大学説明会の特徴のようだ。
 やはり昨日娘に同行した大学でもこの“就職率”が一番の話題であった。 担当講師先生曰く「我が大学は学生の“内定先”ではなく“就職先”でものを言っています。 例えば同様に高校に於いては“大学進学実績”ではなく学生の“大学合格率”を提示して自校の大学進学実績としているようですが、これに誤魔化されないようにして下さい。」
 そう言われてみれば、その通りである。 昨日我が子在籍高校で聞いてきた今春卒業生の大学進学に関する実績とは、単に“大学合格実績”に他ならないのだ。 結局、学業成績上位に位置する一部の生徒が複数合格した大学を“高校全体の”実績としてまとめているに過ぎない。 まあこれに関しても、我が娘は高校が欲するようないわゆる“有名大学”への進学を志している訳ではないため、関係ないと言えばそういうことだろう。
 
 ただ上記に展開した大学進学関連の話題は原左都子にとってはすべて情報収集済み“想定内”範囲であり、大雨の中足を運んだ割には特段のインパクトはなかったと言える。


 そんな中、大学受験生を持つ保護者としてマイナス面で大いに気にかかったのは娘の高校教員の講話である。 その学年主任教員は進学保護者会の場で驚く事に「EQ」の話題を持ち出したのである。

 ここで「EQ」に関して少しだけ説明しよう。
 「EQ」とは( Emotional Intelligence Quotient)の略である。
 心の知能指数とも言われている「EQ」とは、自己や他者の感情を知覚しまた自分の感情をコントロールする技術を指すようだ。 比較的新しい概念であるのため、その定義は未だ明確でないのがその特徴である。 この「EQ」は従来の知能指数を示す「IQ」とは区別して用いられているのであるが、「EQ」に関して知能と知識の区別が曖昧であるとの問題点を含有しているとの専門家の指摘があるのも現状だ。
 世界規模で様々な科学者達がこの「EQ」に関する諸学説を述べてはいるものの、その統計学的研究及び結論にまでは到底及ばすして「EQ」概念が一般庶民の興味を引く話題であるため、我が国においてもマスメディアを中心に“面白おかしく”この「EQ」が取り上げられ一人歩きしている現状ということであろう。

 以上のように世界的に科学的研究実績が未だ確立していない“俗語”の範疇とも言える「EQ」概念を、高校の保護者会、それも大学受験を目前にした生徒保護者相手に持ち出す教員の学術センスの程は如何なるものなのだろうか??
 この教員の口から「EQ」の言葉が発せられた時点で唖然としてしまった私は、その講師先生の講話を真面目に聞いていないのであるが、もしかしたらAO、推薦入試においてこの「EQ」が重要だと言いたかったのかもしれない…。 

 まあ、それにしても昨日参加した大学のオープンキャンパス「全体説明会」の場においては、未だ学説としての地位を築いていない「EQ」なる言葉が一切発せられなかったことに一安心である。


 上記のごとく、ここにきて「大学センター試験」を全廃すると言い始めた慶応義塾大学の意図するものは何なのだろうか、原左都子には計り知れないものがある。(学習院大学も元々そうであったらしいのだが…) “一応”名立たる大学として長年その名を轟かせつつこの先進国に君臨している以上、その全廃理由を国民の前で明言して欲しいものである。

 大学の存在意義とは一体何であるのか今後さらに混沌としそうなこの世に於いて、来春には“学問の府”であるべく大学へ我が娘を送り出そうとしている私である。

 とにかく本人がやりたい事を最優先することを第一義として、「EQ」ならぬ本人持ち前の個性を最大限尊重しながら、大学入学後4年間本人が将来目指す分野の学問に精進することを視野に入れつつ、今は親として我が子を志望大学へ送り出すことに全力投球したいものである。
 もしも娘が早期にAOまたは推薦入試で合格をゲットしてくれた暁にも、大学センター試験は高校までに培ってきた一番分かり易い学習成果判定基準として我が娘に1月に受験させる所存の原左都子である。
 (最低限でも8割程度の得点を挙げて高校を卒業して欲しいものだぞ! 今後も「お抱え家庭教師」としてバックアップするから、頑張れ!!)
                         
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「ママ友」達よ 新時代をどう渡る?

2011年05月27日 | 人間関係
 朝日新聞5月20日のテレビ番組欄“記者レビュー”に於いて 「たかがママ友、でも…」 と題する記事を発見した。

 この朝日新聞“記者レビュー”との記事は、朝日新聞の一記者が気になったテレビ番組をピックアップして、それに対する短めのコメントを述べるコラム欄であるようだ。 
 参考のため、今回の記事の対象番組「名前をなくした女神」(フジ系火曜夜9時から放映中)を私は見ていないし、今後も見る意思はまったくない。
 それでも今回の朝日新聞記者によるこの番組に対するコラムは、読者、特に現役の「ママ友」達に何らかの影響を及ぼす発信力があると捉えるため、以下に要約して紹介することにしよう。

 主人公の侑子は悪気のかけらもない専業主婦だが、息子が通う幼稚園で母親達のバトルに巻き込まれていく。 周囲には売れっ子モデル母、神経質な夫に管理される母、夫の浮気を確信する母等々、様々な「ママ友」仲間がいる中で、売れっ子モデル母に憧れて無理な背伸びをして悪意のある嘘を重ねる一母に至っては呆れて言葉も出ない。
 しかしここにきて、それよりも違和感を感じるようになった母がいる。 それは主人公の侑子だ。 どう見ても不条理な目にあっているのに彼女は何の反撃もしない。 「ママ友なんて所詮子供が小さい時だけの付き合い」という侑子のセリフが折に触れ何度も出てくる。
 生まれも育ちも価値観も異なる「ママ友」達と一定の人間関係を築かねばならない心労は想像に難くないが、ただ侑子のごとく息をひそめて嵐が通り過ぎるのを待つことが賢明なのか? このドラマは一体どんな答を用意しているのだろう。
 (以上は、朝日新聞“記者プレビュー”より要約引用)


 原左都子の私論に入ろう。

 私は本エッセイ集の2009年5月のバックナンバーに於いて、「ママ友付き合いの過酷な試練」 と題する“ママ友”関連の記事を既に綴り公開している。
 (「原左都子エッセイ集」は今現在記事本数が600本に近づいているが、必然的に記事のテーマがバックナンバーと交錯する事がある。 今回も上記2009年5月の我がバックナンバーの記事の趣旨を再度ピックアップしつつ、現時点での原左都子の見解も交えながら以下に私論を展開させていただくことをご容赦いただきたい。)

 以下は、2009年5月バックナンバー「ママ友付き合いの過酷な試練」の要約である。

 「ママ友」ねえ。
 この言葉自体に子どもを産む以前よりアレルギーがあるとも言える私であるが、一応子育てをしている私もそういう“苦難の時代”を経験してきている。
 高齢出産で子どもを設けた私であり、当時としては周囲のママ達より一回りも二周りも上の年代の私であるし、また長い独身時代に仕事や学業に励むことを生業としていた私にとっては、女性よりも男性の友人が圧倒的に多かったのが事実である。 そんな私はその特殊なバックグラウンド故に子供を産んだ後も「ママ友」と直接対峙する機会は少ないのではないかと“安易”に考えていた。
 子どもが高校生になっている今現在は、既に「ママ友」というべき相手との義務的付き合いは修了して正直なところ心より“清々”している私である。 だが、子どもが小学校卒業までの期間は、やはりこの私も「ママ友」付き合いの“鬱陶しさ”を避けては通れなかったものである。 その実態を我が子幼き頃から振り返ると、例えば“公園デビュー”、“習い事” “学校のPTA” それらの場面で「ママ友」との付き合いを望まずとて強要される機会は数多かったものである。
 「ママ友」付き合いとは、自分独り身で統治できる範疇を超えて、可愛い我が子がからむが故に難儀さを伴う人間関係である。そのため母親が苦悩に陥らざるを得ない事象であろう。 それを承知の上で、例えば何故に“公園デビュー”するのか“習い事”をさせるのか等々を親として再考する余裕を持つべきなのだ。 如何なる場にあっても親である母自身が友達を作るのはもちろん大いに好ましい事である。 そこで今一度初心に戻って子どもを育てるという観点から、母が一人格者の立場で付き合う価値がある相手か否かを自らが判断していけばよいことではあるまいか。
 友達関係とはあくまでも自然発生的に出来上がってくるものと私論は捉えている。 気がついたらどういう訳か親しくなっているというのが、友達という存在なのではなかろうか? 下手に故意に仕立て上げた人間関係というのは弊害が大きく、早期に脆く崩れ去る運命にあるものだ。 可愛い我が子のためらば尚さら「ママ友」付き合いは無理をせず、慎重に対処するべきと捉えて、私は子どもを育ててきているのだが…。
 

 上記の記事を綴った後2年が経過した今現在、我が子は高3生となり大学受験直前期に突入している。
 そんな状況下にあるつい先だって、娘の学級のPTA(要するに「ママ友」連中)から、子供の推薦入学を有利にゲットしようとの魂胆かどうかは計り知れないが、ママ達が担任の先生を誘って居酒屋で懇親会を開くからそれに参加せよ、云々の伝達文書が流れてきた。
 我が子は私学在学中なのだが、私学では「ママ友」連中が学校の教師達にこのような形で“迎合”しないと子供の大学推薦はゲット出来ないものなのだろうか!?? との大いなる疑義を抱かされる原左都子なのである。(なんせ幼稚園から大学院まで国公立しか知らない私である…) 確かに学校の教師達といえども“ママ連中”に「先生、一杯いかが~。ウッフ~ン」などと迎合されるとその気にもなりそうだよね~~。???
 だが、我が人生を自己の“実力”のみで渡ってきている原左都子としては、こんな場面で「ママ友」どもとつるんで教師に迎合している場合ではないのだ! 我が子が自分の実力を今後さらに充実させてくれることに期待しつつ、厳しい受験戦争を親子で乗り越えていきたいものである。


 話を朝日新聞“記者レビュー”の「ママ友」話題に戻そう。

 ドラマの主人公である侑子さんの思いが原左都子は分からないではない。 このドラマにおいて侑子さんとは、どうやら社会経験が乏しい若き専業主婦との設定であるようだ。 そうした場合においては、生まれも育ちも価値観も異なる”「ママ友」どもとの人間関係を今後築いていけるのかとの現状に瀕して、大いなる不安材料を感じてしまう侑子さんの心理状態は自然であろう。 そこで、ここは「ママ友なんて所詮子供が小さい時だけの付き合い」と割り切って息をひそめつつ子育て年月を過ごすという侑子さんの“解決策”は否定できないのではあるまいか。
 
 今一度、「ママ友」ねえ。
 我が子の高校卒業と共にもうすぐその種の自分が望まない“鬱陶しい”人間関係が完全終焉を迎えることにウキウキ、清々感が否めない原左都子である。
 正直言って、産んだ子供がたまたま同世代という理由のみで、何でこんなにも人生観も価値観も生き様も異なる相手達と時空間を共有せねばならなかったのかとのつまらない記憶の「ママ友」達は、我が脳裏からすぐさま消え去ることであろう。

 それにしても、時代は大きく変遷しているように私の目には映るのだ。
 大都会に暮らす我が家の近くを行き交う若い母親達が“つるんで”いる姿を見ないようになった。 よく言えば、今の世代の人達とは日本古来の自分が望まない“集団力学”などに左右されることなく、交友関係を創り上げているとも表現できるのではなかろうか?

 ドラマの侑子さんも何もくだらない「ママ友」関係のせいで、息をひそめて暮らすことなどないのだ。 自分にとって鬱陶しいのみで何らプラスにならない「ママ友」どもとの関係など思い切ってぶった斬って、母親として毅然とした方がむしろ子供とは健全に育つものであるとアドバイスしたいものだ。
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続編 「ザ・コーヴ」におけるドキュメンタリーのあるべき姿

2011年05月23日 | 時事論評
 昨日(5月22日)、私はNHK総合テレビ夜9時からの“NHKスペシャル”として放映された「クジラと生きる」と題するドキュメンタリー番組を見聞した。

 上記NHKスペシャル「クジラと生きる」の趣旨は、2010年に米国アカデミー賞を獲得したドキュメンタリー映画 「ザ・コーヴ」 において取り上げられたがために反捕鯨派にとって諸悪の根源のごとく世界中の“晒し刑”に遭ったともいえる和歌山県太地町において、現在尚捕鯨を生業として生きる漁民の切実な現状とその思いを綴ったものであった。
 
 大河ドラマを見終わった流れでテレビを付けていた私は、このNHKのドキュメンタリー番組に釘付けとなった。
 何故ならば、この話題は「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いても取り上げているためである。


 ここで私が本エッセイ集2010年7月のバックナンバー 「『ザ・コーヴ』におけるドキュメンタリーのあるべき姿」 に於いて展開した私論を、今一度以下に要約させていただくことにしよう。 

 「ザ・コーヴ」とは2010年度アカデミー賞受賞直後より、世界中に物議を醸し続けている米国映画作品である。
 この映画作品をご存知ない方のために、ここでその内容をごく簡単に説明しよう。
 我が国の和歌山県太地町において昔から伝統漁業として鯨・イルカ漁が行われ、地元では学校給食にも捕獲調理された鯨やイルカが食されている現状であるらしい。 これに目をつけたイルカ保護団体がそれの残虐性にのみ焦点を絞り、太地町の許可を得ずに隠し撮りや捏造、恣意的な編集、漁民への挑発や俳優に演技をさせた“やらせ撮影”等々の手段によりイルカ漁の“悪魔性”を強調して制作したのがこの「ザ・コーヴ」であるとのことである。
 このアカデミー賞受賞作品である「ザ・コーヴ」を鑑賞した見識者の意見は分かれている。
 肯定派の中には、一つの映画作品としての“娯楽性”が優れている、という見解がある。 イルカ漁をする漁民は悪、これを残酷と捉えるイルカ保護団体こそが善、との図式がこの作品において明快であるため、観賞する側としてはこの単純性に一瞬惹き付けられる魅力があるらしい。 あるいは、映画全般を通しての“スリル感”が十分に描かれていて、映画作品としてアカデミー賞を受賞するのは理に叶っている、との見解もある。
 この映画を観た日本人には、中立派、慎重派が多いようだ。 現在の日本人の多くは鯨・イルカ漁の存在さえ知らない現状において、米国からこれを「日本の伝統文化だ」と押し付けられてもまずは困惑する、との見解がある。 あるいは、映画自体がよく出来ていて娯楽的に面白いあまりに、鑑賞者が制作側の主張のみを鵜呑みにしてしまう危険性を孕んでいる、という見解もある。 また、これはドキュメンタリー映画というよりもイルカ保護団体のプロパガンダ(宣伝)映画と位置づけるべきであろう、との見解も存在する。
 否定派の意見も紹介しよう。 地元太地町からは当然ながら、「嘘を事実のように表現された」ことに関する反発が大きい。 ただ、この映画がアカデミー賞を獲得したことにより「反イルカ = 反日本」の図式が成り立ってしまうのかと思いきや、世界の反応は思いのほかクールであることを実感させられる一面もあるようだ。
 朝日新聞2010年7月20日文化欄の記事によると、この映画を鑑賞した日本国民の反応は以外や以外冷静であるようだ。 その中で、この映画が“ドキュメンタリー”だったことに対する朝日新聞記者の憤りは大いに原左都子にも伝わる思いである。 映画であれ何であれ“ドキュメンタリー”と名付けて制作する以上、その表現には一切虚構を用いてはならず、制作側の客観性のある冷静沈着な取材や記録に基づき事実のみを伝える内容ではくてはならないはずである。 その意味で、この「ザ・コーヴ」はそもそも“ドキュメンタリー”との冠を付けてはならなかったのだ。 
 最後に原左都子の鯨イルカ等の捕獲漁に関する個人的見解を述べると、正直申し上げて“反対派”である。 我が国は既に一応先進国に位置している。その種の国では、食性において“世界標準”に従うべきではないかと感じるのだ。 世界の数多くの国々が嫌悪感を抱く食材をあえて食さずとて、“世界標準”の食材を国民に分配することにより国民の健康は十分に満たされる時代のはずである。 我が国においては歴史的に決して特殊な宗教が蔓延っている訳でもない。その観点からも生産者側、消費者側両面での“世界標準”の食糧指導は容易なはずである。
 それにしても、一国一地域の食性問題とこの映画「ザ・コーヴ」の存在意義はまったく異質の議論であり、この映画は娯楽部門でアカデミー賞にエントリーすればよかったとも捉えられると言いたいのが、原左都子の結論である。

        ~~~以上は「原左都子エッセイ集」バックナンバーよりの要約~~~


 昨日の“NHKスペシャル”は、朝日新聞テレビ番組欄でも「日本伝統の捕鯨に危機 反捕鯨との壮絶な闘い 漁師の怒り」の文言で紹介されている通り、あくまでも太地町において今尚鯨・イルカ漁を続行している“漁師氏達の側面”からNHKが取材編集したドキュメンタリー番組であった。
 それは承知の上で、原左都子にとっても大いにインパクトはあった。
 地元の伝統漁として遠い先祖よりずっと受け継いできた漁を守り抜き、その地に力強く生きている漁師氏やそのご家族の様子は重々伝わった。 これが例えば一般に食されている海産物であるのならば何の物議も醸さず、この地で漁業を営む人達は代々平和に暮らしていけたのであろう。

 私が一番印象に残ったのは、若き漁師氏の娘さんが通う中学校に於いて「太地町に於いて今後も鯨・イルカ漁を続行するべきか」との議論が交わされた場面である。 議論の中心存在の女子中学生は、どうやら“反対派”であるようだ。 それを黙って横で聞いている漁師の娘さん。 学校におけるその議論を家に持ち帰り、家族で今一度話し合う漁師一家…。 その切実な風景に涙せずにはいられなかった私である。

 一方原左都子が大いに気になったのは、海洋環境保護団体の一つである“シーシェパード (Sea Shepherd Conservation Society)” に関して、このドキュメンタリーに於いてNHKが放映した影像や音声に関してである。
 確かにこの団体が過激な言動を展開する場面を、普段ニュース報道等で見聞する機会は多い。
 だがもしも、今回のNHKの太地町に関する鯨漁番組に於いて、シーシェパードの“悪態”ばかりを強調して番組をしつらえたとするのなら、それは米国アカデミー賞受賞作「ザ・コーヴ」に於ける歪んだ表現と同レベルの話となると私は解釈するのだ。 これでは到底ドキュメンタリーとは言えず、単に日本国民に“お涙頂戴”を煽ったのみで、今後何らの解決策とは成り得ないのではなかろうか??
 上記のごとく食性における“世界標準”の観点から捕鯨・捕イルカに反対を貫く原左都子としては、正直言ってこの番組からそんな“偏ったNHKの意図的匂い”を感じ取ってしまった事は残念の極みである。
 やはりドキュメンタリー番組とは放映権を持つ団体の主観を交えずに放映してこそ、その番組に真の生命が宿るというものではあるまいか。

 ただ、和歌山県太地町において鯨・イルカ漁に励む漁師の皆さんが、今現在その漁に励むことにより日々の生を営んでいる姿はこのNHK番組を通して大いに伝わった。
 こんな善良な市民の皆さんが営む漁が「米国アカデミー賞」なるものを通して世界規模で大々的に取り上げられてしまった…。 そのせいで、世界中においてマイナスイメージで一躍著名になったからと言って、今尚この地が海洋保護団体から日々下劣な暴言を吐かれバッシングされて苦しむ現状を、決して我が国は捨て置く訳にはいかない事は明白である。

 今後和歌山県太地町の漁村が歩むべき道筋を国家や自治体が提案しつつ、その生活を保障していくのも大いなる役割なのではあるまいか。

 今は大震災対応で大変だろうが、是非とも国や自治体は日本の一漁村の善良な市民を世界規模のバッシングから防御するべく動くべきなのだ。
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今は“習う”より“励み”たい

2011年05月21日 | 自己実現
 「習い事」といえば昔は子供の専売特許だったものだが、今やむしろ大人、特に現役をリタイアしたり子育てを終了した年配者の方がこれに熱心なのではなかろうか。

 本日(5月21日)の朝日新聞別刷「be」RANKING のテーマも、「女性がリタイア後に楽しむ習い事」だった。
 この記事の調査結果(アンケートの対象年齢は不詳)によると、女性が習いたいことのベスト5は、「外国語」「ヨガ・ピラティス」「書道」「菜園作り」「生け花・フラワーアレンジメント」と続くようだ。 6位以下には「楽器」「絵画・イラスト」「料理」「陶芸」等々がランクインしている。


 ここで早速、原左都子自身が過去において経験した「習い事」の話題に移らせていただくことにしよう。

 私は小学生の頃に「書道」を習った。 熱血師範先生の下で6年間みっちり頑張った成果があるのか、今でも筆を持つと当時練習した“楷書”に関してはその基本の“ハネ”“トメ”等を手が自然と憶えている。 我が親としては元々“左利き”だった私に右手で硬筆を上手に書かせることを目的に習わせたようだ。 ところが「硬筆」と「毛筆」は元々別物のようで、肝心の硬筆は一向に上手にならなかった私である。 小学6年生の時に、書道の県大会特選に同じ学校から2名のみ入選して代表で授賞式に参加できた時には、子供心にも今まで「書道」を頑張って来た成果があったとの感覚が持てたものだ。
 同じく小学生の頃に一時期「そろばん」も習ったのだが、こちらは指導者が熱心なタイプではなかったせいか、さほどの上達心を持てずに短期間で辞めた。 ただその後も「そろばん」を使うことは結構好きで、独身時代は家計簿をつける時にはいつもそろばん使用だった。 30代に再入学した大学の簿記論の授業でも周囲の学生皆が電卓を使用する中、私一人そろばんで計算し通したものである。(そろばんとは数的論理性が高く“桁違い”のミスを防ぐ高度な計算器であると今尚認識している私である。)

 その後大人になってからは、多忙な仕事の合間に様々な趣味に取り組んだ私である。
 その多くは個人的あるいはグループ活動として、当時の我が医学関係の仕事とは異分野のあくまでも“趣味”の範疇で取り組んだ活動である。(例えば、ロックバンドのボーカル、ギター、ディスコダンス、カラオケ、はたまた 英会話や茶道等々…)
 そんな中、音楽好きな私がこれだけはある程度の技術力を確保したいと志したのが「ダンス」と「キーボード」であった。 
 私は20代前半に“ジャズダンス”を習うためにプロダンサーが主宰する都内の某スタジオを訪ねた。 年に2度公開公演を行っているこのスタジオの底辺クラスに所属させてもらったのだが、そのレッスンはそれはそれは厳しいものだった。 原左都子持ち前の高身長スリムな“ダンサー体型”のみは大いに評価され重宝してもらったものの、体の柔軟性が乏しい私は肝心のダンスの実力がまったくついていかず、結局たったの1年でギブアップと相成った…。
 片や「キーボード」に関しては、家庭でも演奏し易い“エレクトーン”の形でヤマハ音楽教室の個人指導を受けた。 こちらはメキメキと上達し、グレード6級まで取得したことに関しては「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いても披露している。 今尚、我が一趣味として娘も交え家庭内でエレクトーン演奏を楽しめるのはうれしい事である。


 話を現在に移すと、原左都子の場合は未だ子育て中の現役母親の身である。
 その種の事情が大きいのかもしれないが、今ここで何か新しい物事にチャレンジしようとの意欲が我が内面から湧き出てこないというのが実情である。
 それと共に、たとえ「習い事」に通ったとて、巷のそのレベルの程を推し量ると一抹の虚しさが漂ってしまうのである…。

 例えば今現在、私は健康維持目的でスポーツジムに通っている。  ジム入会当初はダンスの一種である「ヒップホップ」や「エアロビクス」クラスに参加して、メンバーの皆と一緒に踊ってみたりもした。 ところが、スポーツジムで実施しているこれらのプログラムとは“習う”という性質のものではなく単に“汗を流す”レベルの運動に過ぎないのだ。 これに物足りなさを感じた私は、結局この団体レッスンを辞めることと相成った。 その後はジムのフリースペースにて、我が過去のダンス歴を生かしつつウォークマンのイヤホンを耳に一人で自主的に踊っている有様なのである。

 この期に及んで“年配者”の皆さんと共に何らかの「習い事」に通う事とは、その分野が如何なるものであれ“場の同調性”を意識させられ気疲れする反面、得るものは少ないのかとの空虚感が漂ってしまうのだ。 よほどその分野に興味があれば別問題なのだろうが…。
 その一方である程度人生経験を積んできている者としては、指導者の先生にも気兼ねをせねばならない。 例えば原左都子程の年齢になると、巷の「習い事」の指導者達とは皆既に年下である。
 専門分野の実力の程は素晴らしいレベルであるとしても、人格面で懸念材料が見え隠れする指導者が存在することに関しては、我が子の「習い事」に散々付き合って来た原左都子としては既に重々把握している。 たとえ子供の「習い事」とてこんな人物に我が子を託す訳にはいかない!との判断の下、残念ながらその「習い事」をやめさせたり教室を替えた経験も数多い。 


 以上のように考察してくると、たかが「習い事」と言えども一筋縄にはいかないのである。
 いえいえ、その「習い事」が定年退職したり子供さんを立派に育てて現役をリタイアされた方々ご自身にとって今現在“生きがい”になっておられるならば、当然ながらそれを続行されるべきである。

 どうなのだろう。 今はまだ子育て中で日々心身共に張り詰めている状態の私の立場からは想像しにくいのだが、我が子に本気で自立された暁には、何でもいいから「習い事」に励みたいとの一種“寂しい時代”が訪れるのであろうか???

 原左都子としては今後さらに年齢を重ねていく中で、例えばこの「原左都子エッセイ集」のごとく自分自身がこれまで培ってきた所産や経験則を活かしつつ、今さら「習う」よりも(自己の内面をさらに深く掘り下げるべく)「励む」人生を歩みたいと欲するのだ。
 皆さんは如何であろうか?? 
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家電の便利さとは“不便”と背中合わせ

2011年05月19日 | 時事論評
 民間企業における節電対策の一環として、自動車業界は工場の休日を土、日から木、金曜日に移行するとの報道を、本日(5月19日)昼間のニュースで見聞した。

 産業界に於いては、一週間のうち木、金曜日の電力消費量が最大であるとのことだ。 民間企業を含めた一般的職場では現在土日を休業日と設定している所が多く、電力使用料が少ないこの両日に自動車工場を稼動させ、替わりに木、金を休業日と設定するとの報道である。
 近頃は人の生活パターンや価値観が多様化しているという背景もあり、休暇が必ずしも土日でなくともよい人達が増加しているのではなかろうか。
 自動車業界におけるこの種の節電のアイデアは、大震災そして福島第一原発事故後の慢性的な全国的電力不足の流れを受けた今、大いに評価に値する提案である。

 「原左都子エッセイ集」の前記事においても批判したが、「スーパークールビズ」などともっともらしく名付けてお上が短絡的に国民皆に同じ恰好をさせるべく前時代的な指導に走るより、上記のごとく産業界をはじめとする電力需要が莫大な組織機関が、大規模節電に向けて具体的に動くことに今後も期待したいものだ。


 それはそうとして、一般庶民の間においても“節電観念”が欠かせないことは当然である。

 原左都子の場合、元々“節電派”であることに関してはバックナンバーにおいて既述している。
 そして“倹約家”をも自称する私の場合、滅多やたらと家電を買い換えないことに関してもバックナンバーのコメント欄で暴露した。
 例えば我が家のリビング設置のエアコンは部品を取り替えつつ既に17年間使用しているが、未だ健在で台所等も含めた24畳の空間を力強く冷やし続けている。 我が家に1台しかない扇風機など私が上京の折に購入したもので、既に30余年活躍している。(手入れが行き届いているため一見新品同様なのだが、古い機種は火を噴く心配があるとの情報もあるのだが実際どうなのだろう?) 
 それからテレビに関しても、先だってやっと地デジ対応型に買い替えたといういきさつである。
 そのテレビを購入するため家電量販店に行って感じたことは、今の時代は省エネ、すなわち節電対応が売り物であるということだ。

 ところが、これに関して大いなる疑問符を投げかけたい原左都子である。
 と言うのも我が家でも故障してどうにも使い物にならない家電(冷蔵庫や洗濯機、電子レンジ等)に関しては当然買い換えているのだが、家電量販店が大々的に提示している程に新製品の節電効果がないような印象がある。 その証拠に月々の消費電力量にさほどの変化がないのだ。 (新型洗濯機の節水能力だけは“本物”だったようで、まめに洗濯機を回す我が家において水道料金が目に見えて減少したのは感激だった。

 しかもさらに煩わしいのは、“機能が進化して便利”との売り物の家電ほど、故障が多発することである。
 例えば電子レンジの場合、私としては“温める”原始的機能だけで十分であるのに他の余分な機能がついているばかりに故障を導いて買い替えと相成ったものである。
 洗濯機に関しては身内の希望により“乾燥機付”に買い換えたのだが、この“乾燥機能”が長時間を要して実際上使い物にならない。 電力消費が多大なこんな機能を使用するよりも、原左都子としては従来通り太陽光と自然風を利用したいものである。
 身内は自分の部屋のエアコンを昨年冬季に最新多機能型に買い換えたようだが、これもどうやら現実味がないとの話のようだ。 結局普段使用するのは冷暖房と除湿の基本機能のみのようである。 空気清浄機能を使うと冬場は寒いらしいし、何分ずぼらな我が身内がエアコンクリーニングを全自動で使用しようとすると騒音がうるさいらしいのだ。 それよりも何よりも、それに消費する電力が如何なるものかと気に掛かる私である。

 多少古くなるが、朝日新聞4月2日付け別刷「be」の RANKING 欄の記事は「暮らしを変えた生活家電」と題して、“便利好き”な日本人に歴代の家電の中で“便利”と思えた読者の回答結果をランキングしたものであった。
 その記事による1位から5位までを順に列挙すると、電子レンジ、エアコン、電気冷蔵庫、温水洗浄便座、全自動洗濯機、とのことのようだ。
 確かに電子レンジなど、その本来の“温め機能”は画期的な革命と言えるであろう。 家庭用エアコンが開発された時には、夏場は高温多湿の日本国民にとって実に感動物だった。 冷蔵庫も確固たる生活必需品である。 清潔好きな原左都子にとって温水洗浄便座も絶対はずせない。(ただし、これも基本機能のみで十分であるのだが…) 全自動洗濯機に関しては、上記のごとく個人的には乾燥機能は節電対策のためにも必要ないとするのが私論である。


 このように考察してくると、まさに家電における“便利さ”と“不便”とは背中合わせであるように感じる。
 もちろん人それぞれの生活習慣や価値観の差が大きいことは否めない。 日々仕事をはじめとする自らの業に追われ家事全般を家電に委ねて生きる人種にとっては、家電の進化とは必要不可欠なものなのであろう。
 片や、私のような“暇人”は自然の恵みを利用して生きていく時間が豊富である。 “暇人”を自負する私のような人種こそが、一底辺庶民として国家レベルの節電に率先して協力するべきなのは言うまでもない事であろう。
 
 節電対策として“工場の稼動曜日変更”との思い切った施策を打ち出した自動車業界を大いに評価すると共に、一庶民の原左都子も今まで通り私なりの節電に励んでいく所存である。
                           
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