原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

孤独を貫いても守りたい事がある。

2011年11月28日 | 人間関係
 原左都子自身は 「孤独」 という言葉とはさほど縁の無い人生を送っているのかもしれない。

 長い独身一人暮らし時代を歩んで来た私だが、何分その頃は超多忙な日々を送っていたため「孤独」と向き合う時間すら取れなかった故であろう。
 それでもそんな私なりに、これぞ「孤独」と表現するべきか? との心理状態に苛まれた経験はある。


 独身時代に年に一度程郷里に帰省していた私だが、おそらく30歳を迎えようとしていた頃のある時、郷里から大都会の我が一人住まいの住居地に戻る航空機の中で“孤独感”らしきものに苛まれたのだ。
 田舎で数日間のんびり過ごした事が、我が心理状態を一時かき乱したものと分析する。

 当時さしあたって結婚願望のなかった私は、このまま大都会の喧騒の中で今後も一人身で生きていかねばならない現実だった。 当時とりあえず周辺には近しい恋人や複数の友人や職場の同僚等々、日常的にかかわっていく相手がいるにはいたのだが、日々流れ行く浮世の中で人間関係とははかなく移り変わるのがこの世の常という事も承知していた。 いつか私の周辺に、私と係わりを持つ人間が一人としていなくなる日が訪れても何ら不思議ではない。 その時、私はその孤独に耐えられるのだろうか???
 郷里よりの飛行機の中で突然襲われたこの “来たるべく孤独想定恐怖感” は私にとっては結構切実だったものだ。

 ところが当時はやはりまだまだ若気の至りだった事に救われたものである。 帰省した翌日から、またもや我が身には多忙な日々が押し寄せてくる。 “孤独想定恐怖感”など何処かに吹っ飛んでしまったようで、その後の我が心理状態の記憶はない。


 そんなことよりも現在に至って尚私にとって一番耐え難いのは、生身の人々と場を共存しているにもかかわらず感じさせられる「孤独感」である。
 これは実に辛い。 

 原左都子が集団嫌いであることは本エッセイ集のバックナンバーに於いて幾度となく綴っているが、“心の交流感のない集団”程 「孤独感」 を煽られるものはないと私は実感しているが、皆さんは如何であろうか?

 これに関しては何度も経験がある。
 たとえ親しい仲間同士とは言えどもそれが“集団化”した場合、個々の人間の個性の表現の機会が制限されることはやむを得ない。 それ位のことは私とて心得ているが、あまりにも極端に一部の人間が自己存在をアピールする集団会合においてはもはや自分の居場所などあるはずもない。 
 集団を好む人物とは元々個々人が築き上げる深い人間関係における心の営みなど二の次であり、傍観者としてのメンバーを集めて自己存在をアピールしたいのみではないのかと私は結論付けている。
 それ程に原左都子にとっては“集団”とは「孤独感」が苛まれる虚しい場でしかないのだ。
 結局私が集団嫌いである根本原理とは、対等であるべき人々が多く集まった場で羞恥心もなく自己アピールをしたい人物の背後で、鬱陶しい思いばかりが募ってしまい何の収穫もない故である。
 (いえいえ、例えば何某氏かの輝かしい祝勝式典会合に招かれた場合など、私もその立場をわきまえて当該人物を心より祝福していますよ~♪)


 「孤独」がテーマだったのに、話が“集団嫌い”の原左都子の持論に偏向してしまい恐縮である。

 話を戻して、今回私が 「孤独」 関連の記事を綴ろうとしたきっかけとは朝日新聞夕刊“こころ”のページに遡る。  朝日新聞夕刊“こころ”「生きるレッスン」を担当しておられる3名の有識者の皆さんも、どうやら人間の「孤独」を肯定しておられるようだ。
 今回の朝日新聞記事である「孤独を楽しむ」とのテーマの回答執筆者であられる3氏の題目のみ、以下に紹介することにしよう。
 創作家の明川哲也氏  「ものが見え聞こえる時」
 哲学者の森岡正博氏  「世の美しさ感じられる」
 作家のあさのあつこ氏  「自分と向き合う時間に」

 上記3氏も訴えておられるが、人間がこの世に生きていくに当たって 「孤独」 とは避けて通れない命題であると同時に、その経験を通じて人間性を磨くチャンスでもあると原左都子も捉えている。


 まだまだ今後の人生が末永く続く私であるが、表題に記した通り私には 「孤独を貫いても守りたい事がある」 ことは事実だ。
 とにかく安易に他者には迎合したくない私である。
 今後年齢を重ねるにつれ、私のような“強情張り”の人間はこの世に生き辛いであろうことも想像がついている。

 “孤高”とまで言える境地には決して到達しないであろうが、今のところはとりあえず自分自身の信念を貫きながら一種の 「孤独」 を肯定しつつ我が人生を歩み続けたいと欲している。

足が腐った男

2011年11月26日 | 時事論評
 昨夕、私は普段乗り慣れないJR路線の電車内で “足が腐った男” に遭遇した。

 他人のプライバシーにかかわる内容であるため、勝手ながらその男性ご当人が「原左都子エッセイ集」の読者でないことを願いつつ、今回の記事を公開する事にしよう。


 昨日所用があって出かけた先から帰宅するため、JR線に乗り込んだ。 夕刻のため電車内は相当混雑しているのだが、私が乗り込んだ車両のドア近辺のみはなぜか乗客数が少ない。

 その理由が直ぐに理解できた。
 浮浪者らしき不審男性が3人分の座席を占領して眠りこけていたのだ。 “眠りこけている”との表現通り、まさに正体なきがごとく爆睡中である。
 私はその人物に背を向ける形で車内に立った。 乗車直後は気付かなかったのだが、電車のドアが閉まり動き始めると背後から異様で強烈な悪臭が鼻をつんざいてくる。 何日も風呂に入っていない浮浪者特有の匂いとはまた異質の、今まであまり経験しない悪臭である。
 ターミナル駅で乗客が大量に入れ替わった後、私はその人物の斜め前方の座席に腰掛けた。 そこで分かったのは、この浮浪者がおそらく30代か40代位の比較的若い世代の男性であることだった。 この晩秋の時期に、薄手のシャツ一枚、短パンにゴムのサンダル履きのいで立ちで、その片方の素足に包帯が巻かれていたことにも気がついた。
 やはり電車が駅を発車してドアが閉まる毎に強烈な悪臭が車内に漂う。 それに耐え切れない乗客が次々と他車両へ移動して行く。 私も移動するべきとは思いつつ、後2駅で乗り換えだから耐え忍ぼうと我慢を続けた。

 そしてついに、私は強烈な悪臭の正体を発見するはめと相成った。

 なんと、浮浪者の足が“腐って”いたのだ!  (要するに“壊死”状態である。)

 下肢の包帯が巻かれている部分は見えないのだが、巻かれていない足先の指が腐って朽ち果て、第4指と第5指が溶けるように無くなっている惨状をサンダルの先から見てしまった…
 こうなったら、さすがの私ももう限界だ。 強烈な悪臭の原因が追求できてしまった私はもはやその匂いに耐えられない。 乗り換え駅手前辺りから吐きそうになり、マフラーで口を押さえつつ下車した。 空腹状態のため胃液のみが口まで上がってくるのを飲み込みながら、“死体が長期間放置され腐敗すると強烈な悪臭を放つと言うがおそらくこんな匂いなのだろう”、などとの想像が吐き気を増強する。
 夕食の食材など到底買う気にもなれず、家へ直行した。


 吐き気に耐えつつの帰路、我が頭には浮浪者青年が置かれてきた人生の程が渦巻く…。

 そもそもあの青年は何らの持ち物さえ所持していなかったが、一体どうやって電車に乗り込んだのだろう?  おそらく浮浪者である青年にとっては暖かい電車内はまたとはない睡眠場所であり、ああやっていつも電車の中で薄着状態で爆睡しているのであろうか?

 足の壊死症状と言えば私が一番に思いつくのが“糖尿病”であるが、あの青年は不摂生の日々を重ねる中大酒でも食らってあの若さで糖尿病が悪化したのであろうか?  足に包帯を巻いているということは、何処かの医療機関で医学的処置を受けているのだろうか?
 
 それにしても、青年の親はどうしたのか?
 この青年は一体どのような環境で育ってきたのか? 育った環境が悪いのではなく、本人の意思で現在その行動を取るに至っているのか?
 
 などとの思いが頭の中で堂々巡りするこの原左都子とて、今回何の手立ても取れずにただただ吐き気に耐えつつ帰宅している始末だ。
 せめて下車後、JRの係員に車内に不審浮浪者が寝ている事だけでも伝えておくべきだったと後で反省しきりである。
 ただ、私がそうしたところでどうなったのだろう? この青年にその後如何なる措置が施されたのであろう?  足の壊死には気付かないJR係員から、せいぜい“電車の中で寝るな!”と叩き出され、這いずりつつ何処かへ逃げたのかもしれない。 少し希望的推測をするならば、警察か役所へ連絡が入ったかもしれない。 そうであったとしても、その後どうなると言えるのか??
 おそらく如何なる機関の如何なる担当者であろうが、この種の人間とは迷惑この上ないことが想像できてしまうところが、現在の社会システムの辛い現状ではなかろうか…


 私は過去において後進国と言われた国に何度か旅立ったことがある。
 それらの国々に於いてほんの少しだけその地に生を営む人民の貧しさを垣間見て、マイナスの意味合いで感慨深い思いを痛感してきたつもりであった。

 そんな原左都子が昨日偶然経験するはめとなった我が国の大都会に於ける “足が腐った男” の光景と強烈な悪臭は、今現在の荒廃した世に生きる人間集団の片鱗として切実なインパクトを私に叩きつけたのである。 
 (この男性が昨夜の夢の中で登場し私に無理難題を押付けるべく迫ってきて、私は一晩うなされ続けたのであるが……)


 国や自治体等の役所においては、市民自らが役所に出向いて申請書を提出する“能力”を保有している(ある程度恵まれた)“弱者”に対しては、例えば「生活保護」対象とする等手厚く支援している有様である。 
 片や、上記のごとく電車内で“腐った足”を晒して眠りこけている人種が役所にその種の申請書を提出しているとは到底考えられない現状だ。
 
 私に言わせてもらうと、この種の“真正弱者”こそを国や自治体は最優先して救うべきではないのか??
 もしかして近いうちに命を失うかもしれない青年が、何故に電車内で“腐った足”を晒さねばならないのかの元を辿れば、それも国政の教育力の無さ故であると断定できよう。
 
 理由の如何によらず、少なくとも国民が困った時に役所に相談する程度の事は義務教育課程で教育できたはずである。
 国や自治体がそれを怠ってきた結果として、この青年は足を腐らせて電車の中で寝るしか生きる道が見出せないでいると原左都子は判断して、心を痛めるのだ……  

芸術鑑賞の正しいあり方

2011年11月24日 | 芸術
 ここのところ朝日新聞「声」欄において、美術館等芸術鑑賞の場でのマナーに関する議論が交錯している。

 原左都子にも素人にして芸術鑑賞の趣味があるため、この「声」欄読者の議論の交錯を興味深く注視してきた。


 上記朝日新聞「声」欄に於いて一番最初に掲載された読者の投稿とは “美術館では静粛にするべき” との見解であったと記憶している。
 残念なことにその新聞スクラップを誤って廃棄処分としてしまったのかどうしても見つからないため、我が記憶に頼ってその投稿の内容を以下に紹介することにしよう。
 美術館等芸術鑑賞空間に於いて、掲示作品の前で声高く個人的な批評を展開する入場者には辟易とさせられる。 出来れば小声で会話をして欲しい。  加えて、美術館内で大きな靴跡を立てて移動する鑑賞者の存在もいかがなものか。 ましてや、美術館の係員がハイヒール等の靴跡を高々と響かせつつ館内を見回る風景にはうんざりだ。

 この投稿に大いに賛同した私である。
 事実、上記のごとく非常識行為に遭遇することが私にも少なからずある。 故に私は芸術観賞とは“混雑していない”時に行くのが鉄則だと本エッセイ集に於いて訴え続けているのだが、大都会に暮らしているとそうもいかないのが実情だ。

 相当昔の話なるが、2005年に東京上野の東京都美術館に於いて「プーシキン美術館展」が開催された。 芸術素人の私が好んでいる アンリ・マチス の傑作と言われる大作「金魚」を一目観賞したく、混雑は承知の上で出かけた。
 平日であるにもかかわらず東京都の宣伝効果もあって、入場制限措置が取られる程のそれはそれは予想以上の大混雑状態だったものだ。 
 それだけでも耐え難いのに、平日故かお年寄りの鑑賞者が多い中、ある年配女性が私の背後でかなり大きな声で身勝手な芸術論を展開し始めるではないか。「マチスって芸術力では評価されてないよね。“色の魔術師”と言われているが、単にドギツイ色彩を使って幼稚な絵ばかり描いて何故か認められた作家だよね」……
 マチスに関しては一部でその種の否定的見解が存在する事は私も心得ているが、それを好む人間もいるというのが人の感性の多様性であり、芸術の世界というものじゃないのか? と反論したい思いだったものだ。

 美術館に於いてこの種の自分勝手な“能書き”を垂れる鑑賞者は少なくないが、これを端で聞かされる身としては実に鬱陶しく興醒めである。

 
 その後上記の「声」欄の投書を受けて、美術館での会話も時と場合によっては許されるべきとの反論を展開した投書が何通か掲載された。
 これら反論は、海外の美術館での体験を通して感じた意見が目立った。
 投書の一つは、イタリアフィレンチェの美術館に於いて孫らしき子どもに楽しそうに絵を説明している男性の姿が印象的だった、との事例を挙げている。 片や投書者自身は国内美術館において小声で会話した時に係員より高飛車に注意され観賞熱が覚めた経験があり、美術鑑賞とは四角四面に肩ひじ張ってするものなのか? と疑問を呈する内容であった。
 もう一つもドイツの美術館にて絵の前で熱い討論を続ける女子大生達に対し、学芸員が端でニコニコと眺めていた事例が紹介されている。 それを受けて、美術作品の観賞とは心の中に何かが生まれることであり、特に子ども達には絵を見て率直に感想を言い合う経験が必要と述べている。

 私事に入るが、海外に於ける芸術鑑賞と言えばこの私もフランスパリのルーブル美術館や、エジプトカイロの国立博物館、アレキサンドリア博物館、ギリシャアテネの国立博物館、韓国ソウルの国立博物館、アジアアートフェア等々… を経験している。
 アートフェアは別として、これらのメジャー大規模施設とは芸術鑑賞の場というより、もはや観光スポットと言うべきであろう。 芸術観賞マナーへったくれよりも世界中の旅行者が物見遊山で訪れる場であり、例えばそこで「モナリザを見たよ」「ツタンカーメンを見てきたよ!」と帰国後周囲に吹聴することに意義があるといえよう。 (参考のため、ソウルの国立博物館は決してそうではなく展示物の分野が多岐に及び“芸術鑑賞の場”として十分楽しめた。)

 上記の「声」欄の投書内で紹介されている海外の美術館は、おそらくその種の大規模施設ではないのであろう。 
 ただ、それら鑑賞者の会話は“外国語”で行われていたものと推測する。 意味不明の言葉とはたとえそれが大音声であろうが、単なる雑音の範疇と解されるのではなかろうか。 それ故に投書者には好意的に捉えられたように思われる。 これが日本語で展開されていたとすれば、私のマチスの例のように周囲の鑑賞者に何らかの不快感をもたらす要素もあったのではないだろうか?


 昨日、私は娘と共に東京六本木赤坂界隈に位置する「泉屋博古館分館」及び「大倉集古館」を訪れた。
 泉屋博古館に於いては「住友春翠と茶」と題して住友コレクションの茶道具と香道具類等が展示され、大倉集古館では「移り変わる文様の世界」と題して文様が施された宮廷の装束や調度工芸品等が展示公開されていた。
 両美術館共に普段より風格ある落ち着いた趣が特徴なのだが、昨日は祝日だった事と今回の企画展示のテーマによると思われるが、珍しくも女性年配鑑賞者グループで混雑していた。 こうなると、必然的に風格ある美術館内に“お喋り声”が響く運命と相成る。

 静粛であって欲しい美術館も、ある程度の鑑賞者が集まるとどうしても人の会話は避けられない。 その中でも“ヒソヒソ会話”はさほど気にならないものだ。 音声が小さいと自ずとその会話の内容までは聞き取れないのに加えて、配慮心が周囲へ伝わるからであろう。
 あるいは、「わあ、きれい!」だとか「これ好みだわ」等自然に発する肯定的な感嘆詞も私には受け入れ可能である。

 それに対して、やはり作品の前で大声で能書きを垂れるのだけは勘弁して欲しいものだ。 何もあなたの信憑性の低い中途半端な能書きを聞かされずとて、館内には解説書が掲示されている。 今時ネット情報もごまんとあり、正確な情報を得る手段には事欠かない。
 私など一度耳にした情報が頭にこびりつき易い人間であるのか、その信憑性のない“能書き”が意に反していつまでも記憶に残ってしまうところが実に迷惑なのだ。


 芸術鑑賞会場に於ける会話を全面的に否定する訳ではないが、どうか“ヒソヒソ声”で会話を楽しんでいただきたいものである。 

男は弱音を吐かない、ってほんとか??

2011年11月21日 | その他オピニオン
 原左都子は女であるが、“弱音を吐かない”人間であることを自負しているぞ。

 ただし、私が弱音を吐かなくなったのはある程度年齢を重ねて後のことかもしれない。


 などと言いつつ、つい最近の私はこの「原左都子エッセイ集」に関してあちこちに弱音を吐く醜態を晒しているようだ。
 と言うのも、2本前のバックナンバーで“お知らせ”した通り、「原左都子エッセイ集」に於いて突然コメント欄閉鎖(一時休止)の措置を取る事と相成った。 そのお知らせを公開したところ、実に有難い事に早速あちこちの長期読者の方々よりメッセージにてご心配を頂戴したのである。
 本当に弱音を吐きたくないのならば、涼しい顔をして「現在多忙につきコメント欄を閉鎖しています」等々と適当に流せば済んだはずである。 にもかかわらず私も偉そうに振舞っている割には、結局は読者の皆様より“ご心配リアクション”を頂戴するのを待っていた裏心があった事に気付かされるというものだ。
 (ここでこの度頂いた長期読者の方々よりの温かいお心遣いに心より感謝申し上げます。  お知らせ公開から数日が経過し、エッセイ集開設後5年目にして初めてコメント欄を閉鎖することによるメリットを味わい、解放されている現在で~す♪)


 さてさて、今回の「原左都子エッセイ集」において上記表題のエッセイを綴ろうと思ったきっかけとは、朝日新聞11月12日付の“とある記事”に目が留まったからに他ならない。
 「『男の鎧』重すぎませんか」 と題するその記事の表題を一見して、私の内面より “女だって重い鎧を背負って生きてるんだよ!” との反発心がメラメラ湧き出て来たのだ。 

 それでは早速、上記朝日新聞記事の前半部分を以下に要約して紹介しよう。
 弱音を吐かない、涙もみせない、そんな「男の鎧」を脱いで疲れた心を解きほぐすべく講座が大阪市において開催されたのだが、この講座に定員の2倍近くの応募があった。
 「会社とは実に狭い世界であり“タテモード”で生きていると自分の気持ちすら見えなくなる。会社以外に自分の言葉で語れる場を持つことが大切だ」と語った講師の一人も心が折れた経験者だ。 その人物は大手企業で50人以上の部下を率いる課長職として「24時間闘う男」だった。 当時体がSOSを発信している事にすら気付かなかったが後に十二指腸に3つ穴があいていることが分かった。 47歳で早期退職した時には心も限界だった。 退職後うつ症状の自分の救いは明るく活動的な妻であり、一緒に散歩から始まって様々な市民活動にかかわり症状は改善していった。


 原左都子の私論に入ろう。

 何とも甘えた軟弱野郎だよなあ、というのが第一印象。
 そして、奥方の存在が一番の救いになっただと?? じゃあ、あんたが独り身だったなら一体誰に頼ったんだ???  男って実に狭い人間関係の世界で生きているのだなあ、というのが次の印象である。

 と言うのも、この私も民間企業に勤務していた時には「24時間働く女」とまでは言わないが、部下を十数人抱える係長として日々重圧の下悪戦苦闘したものだ。 その経験故に民間企業においてある程度の地位を維持して生き抜いていく厳しさは心得ている。  十二指腸潰瘍も患った。 この頃患った十二指腸潰瘍は我が持病とも言え、その後も何度か再発している。
 それでも独身の私には家に帰ったって甘える相手などいるはずもない。 もちろん相談できる恋人や友人はいたが、それらの相手とは四六時中一緒に過ごしている訳ではない。 独り身の立場としては「体や心が折れる」前にすべての物事を自分自身で解決せねばならない。 自己管理力の塊であらねば、独身の立場で職場という戦場でなど闘っていかれないのだ。

 で、心が折れてしまったから早期退職して、たった一人頼れる存在である奥方に甘えるだと?
 あなたの場合は“人のいい”奥さんをもらっといてよかったのだろうが、普通47歳位だとまだ子供の教育費がかかる頃だし、子供の進学問題で奥方は手一杯のはずだよなあ。 もしこの夫婦に子供はいないにしても、47歳の若さで亭主に退職された奥方は迷惑この上ないはずだよ。 今後どうやって食っていくの? 奥さんに働いて稼げというのか? それでもいいとして、今度は奥さんが仕事の重圧で心が折れたらあなたに心の支えになれるキャパがあるのかねえ? 軟弱なあなたにその力量がなさそうに私には思えてしまうところが辛いのよ。

 心が折れてしまった以上は当然そのケアに励むべきだが、そもそも理由の如何にかかわらず“心がポキリと折れる”人種とは元々それなりのキャパしか備わってないのではないかと、酷ではあるが原左都子から指摘しておこう。


 このような厳しい見解を述べると必ずや噴出してくるのが、「人の痛みが分からないでいつも偉そうな事を言う奴だ」、「自分も同じ思いをしてみたら少しは心優しくなれるのに…」等々の反発バッシングであろう。

 そこで今回、原左都子が滅多な事では“弱音を吐かない”実態の程を少し紹介することにしよう。

 実は我が身内も5年程前より「鬱病」を患っている。 (コメント欄で少し述べたことはあるが、エッセイ集本体で公にするのは今回が初めての事だ。)
 何分弱音を吐きたくないのだ。 そして私は自分や身内の弱点を暴露して“お涙頂戴”したり、不幸を売り物にして名声を上げようなどとの発想がまったくない。 それ故にいつも陰で一人で闘っている。

 私の場合、上記の新聞記事の例ような“人のいい”奥方とは程遠い人格である。 あくまでもその対応は日々冷静であると言えよう。
 我が身内の場合、鬱病を発症したのが働き盛りの年齢を既に過ぎ去り定年退職まで後5年程だったこともラッキーではあったが、とにかく私は身内に一つだけお願いした。 職場に長期療養申請をして仕事を休んでもよいが、定年まで籍だけは置いておくよう要望した。(身内の鬱病の場合、仕事や職場がその発症要因とは考えられないとの事情もある。)  何分、高齢出産で産んだ娘は未だ中学生の年齢だった。 病気とは言えども、娘の前で父親の役割の一切合切を放棄することは身内自身も惨めであろうとの配慮もあった。 そして身内は私の要望に従い、その後体調の浮き沈みに合わせて長期療養と出社を繰り返しつつ現在に至っている。 「鬱病」とは実に浮き沈みが激しい病気であり、体調が良い時はむしろ職場に出勤して仕事に励む方が良い結果をもたらしている事が目に見える。
 そして私がケアに一番力を入れたのは、病状が悪い時に病院での診察に付き合う事だった。  病院(現在の精神神経科は予約制を取ってはいるが“ゲロ混み状態”!)の長い待ち時間を共有することで身内本人が安心すると同時に、元医学関係者の私としては担当医師の見解を聞いて参考にする事が、身内の病状把握の一番手っ取り早い方策だったからに他ならない。
 参考のため、定年を5ヶ月後に控えている現在も身内は長期自宅療養中である。 このまま定年に突入することとなろう。 私のケアは今後も末永く続く…


 いえいえ元々“気丈”が取り得の原左都子ゆえ、ご心配は一切御無用である。 
 我が娘も父親の病気にかかわらず母の私が普通に振舞っていることが功を奏していると自負しているが、至って普通に健全に成長している。

 それでもこのような新聞記事を目にして一言訴えておきたいのは、「女だって重い鎧を身に付けて一生を生き抜いているんだぞ!」 ということだ。

愛すべき生命体たち

2011年11月19日 | 芸術
   (写真は、東京都葛西臨海水族園の東京湾コーナーにある“アマモ”の水槽)


 我が故郷の過疎地に 「鳴門水族館」 と称する水族館が存在していた事を記憶している。
 小学生時代の遠足で海の近くに位置するその水族館へ何度か出かけた。
 当時の我が身丈の2倍程高さがある水槽が、子供心にとてつもなく大きく映った。 科学技術力がまだまだ低い時代背景において、透明性の低いガラスから覗き込む水槽の中は私にとってまさに神秘の世界だった。 数種の魚類が混在して泳ぐ水槽の中で、直径1m程ある“エイ”の奇妙ながらも悠々たる勇姿が幼心に一番印象深かったものだ。

 今回葛西臨海水族園を訪れ、原左都子にとっての水族館の“原風景”とも言える我が郷里の 「鳴門水族館」 が脳裏に蘇った。
 そこで鳴門水族館がいつ閉館したのか等の情報をネット上で検索したところ、興味深い情報を得たので以下に少し紹介しよう。

 鳴門水族館は昭和30年代から昭和57年まで開館していた。 この水族館は規模(の小ささ)などからB級スポットのように思われているが、日本の水産業並びに水族館史において不滅の業績がひとつある。 それは「鯛の人工繁殖」つまり「養殖」に初めて成功し、その業績をもって全国各地の水産試験場に「鯛の養殖」が普及したということである。 このことは、地元の名産ともいえる「鳴門の鯛」と併せて考えると、実に大きな貢献をしたことが分かる。 (以上、ネット情報より引用)

 そうだったのか!
 あのマイナーな水族館がそのような誉れ高き業績を残していたとは、今までまったく心得ていなかった私だ。
 そして昭和57年まで開館していたという事実にも驚かされる。 私自身は小学校の遠足以来訪れていないため、もっと早期に閉館したものとばかり認識していた。


 さて先だって晩秋にして暖かく晴れ渡るある日、私は東京都江戸川区に位置する葛西臨界水族園を訪れた。
 この水族園を訪れるのは、私にとっては今回で4度目の事である。

 初めて訪れたのは恐らく葛西臨界水族園開園後間もない頃だったと思うのだが、今を遡る事20年程前の我が30代後半の高校教員時代である。
 高校の遠足(校外活動)行事で生徒を引き連れ(連れられて?)この地へ訪れた私が水族園を堪能できるはずもない。 水族園で何かを見た記憶は一切なく、学校を離れて解放感に浸っている男子生徒の一グループと心底語り合った思い出のみが印象深い。(彼女の話等々、生身の男子生徒との会話が私にとって一番印象的だったものだ。)

 我が子が小学校高学年の頃、夏季休暇中に連れて訪れたのが2度目である。 夏休み中で園内は“ゲロ混み”、しかも猛暑で私は“くたくた状態”…  これまた水族園を堪能するには程遠い劣悪な環境だった。

 3度目はほぼ半年前の春の日のことだ。 これに関しては、我がエッセイ集バックナンバー 「パンダの憂鬱、カバの退屈」 と題する記事においても少しだけ述べているが、何と言っても水族園も動物園も“混雑していない時”に行くのが鉄則であることには間違いない。

 今回4度目となる葛西臨海水族園訪問は、原左都子にとって実に印象深いものがあった。

 実は先週この水族園を訪れる以前より、私はこの「原左都子エッセイ集」のコメント欄を閉鎖しようかどうかと大いに迷っていた。 
 そのような心に迷いがある時に水族園を訪れても私の心が晴れるはずもないと心得つつ、それでも私は水族園を訪れてそこに息づく生命体を見ることを志したのである。
 これが大正解だった。

 晩秋の晴れた日に訪れた水族園は、大都会にして人がまばらであった。
 水族園という大いなる環境制限はあるものの、その環境下で生き抜いている生命体の一つひとつを熟視する事が叶った事は私にとっては今回が4回目にして初めてだったのかもしれない。

 上記写真は、葛西臨海水族園においてはさほど目立たない場所にある小さな水槽の展示物である。 それでも、私は今回この水槽の“アマモ”に一番心を奪われたのだ。
 “アマモ”とやらの海草の正体が知りたくて先程ネット上で検索したところ、東京湾で生き抜いているアマモの本来の色彩は青緑色であるようだ。 私が水族園で見た“アマモ”は人工飼育故に既に痛んでいたのであろうか?? 写真の通り黄色黄緑色系の色彩だった。
 ところが(アマモには申し訳ないが)、この色彩が生命体を人工的に演出しているに過ぎない水族園に於いては、まるで美術館で傑作絵画を見るがごとく素晴らしい“芸術”として光輝いていたのである。

 その他の生命体の写真も多数撮影してきているのだが、今回私は上記“アマモ”の水槽が一番美しいと判断したためこれを公開することと相成った。


 生命体の生き様とは、それをじっくり観察すると実に芸術的で素晴らしいものがある。

 利潤目的も伴って経営されている水族園や動物園とは、ある方面からは“動物虐待”と批判される一面も共存していることは承知の上だ。 だが特に都会に生きる人間にとっては、それらの施設とは生命体を間近に観察できるまたとはないチャンスであり環境である事には間違いないであろう。