原左都子自身は 「孤独」 という言葉とはさほど縁の無い人生を送っているのかもしれない。
長い独身一人暮らし時代を歩んで来た私だが、何分その頃は超多忙な日々を送っていたため「孤独」と向き合う時間すら取れなかった故であろう。
それでもそんな私なりに、これぞ「孤独」と表現するべきか? との心理状態に苛まれた経験はある。
独身時代に年に一度程郷里に帰省していた私だが、おそらく30歳を迎えようとしていた頃のある時、郷里から大都会の我が一人住まいの住居地に戻る航空機の中で“孤独感”らしきものに苛まれたのだ。
田舎で数日間のんびり過ごした事が、我が心理状態を一時かき乱したものと分析する。
当時さしあたって結婚願望のなかった私は、このまま大都会の喧騒の中で今後も一人身で生きていかねばならない現実だった。 当時とりあえず周辺には近しい恋人や複数の友人や職場の同僚等々、日常的にかかわっていく相手がいるにはいたのだが、日々流れ行く浮世の中で人間関係とははかなく移り変わるのがこの世の常という事も承知していた。 いつか私の周辺に、私と係わりを持つ人間が一人としていなくなる日が訪れても何ら不思議ではない。 その時、私はその孤独に耐えられるのだろうか???
郷里よりの飛行機の中で突然襲われたこの “来たるべく孤独想定恐怖感” は私にとっては結構切実だったものだ。
ところが当時はやはりまだまだ若気の至りだった事に救われたものである。 帰省した翌日から、またもや我が身には多忙な日々が押し寄せてくる。 “孤独想定恐怖感”など何処かに吹っ飛んでしまったようで、その後の我が心理状態の記憶はない。
そんなことよりも現在に至って尚私にとって一番耐え難いのは、生身の人々と場を共存しているにもかかわらず感じさせられる「孤独感」である。
これは実に辛い。
原左都子が集団嫌いであることは本エッセイ集のバックナンバーに於いて幾度となく綴っているが、“心の交流感のない集団”程 「孤独感」 を煽られるものはないと私は実感しているが、皆さんは如何であろうか?
これに関しては何度も経験がある。
たとえ親しい仲間同士とは言えどもそれが“集団化”した場合、個々の人間の個性の表現の機会が制限されることはやむを得ない。 それ位のことは私とて心得ているが、あまりにも極端に一部の人間が自己存在をアピールする集団会合においてはもはや自分の居場所などあるはずもない。
集団を好む人物とは元々個々人が築き上げる深い人間関係における心の営みなど二の次であり、傍観者としてのメンバーを集めて自己存在をアピールしたいのみではないのかと私は結論付けている。
それ程に原左都子にとっては“集団”とは「孤独感」が苛まれる虚しい場でしかないのだ。
結局私が集団嫌いである根本原理とは、対等であるべき人々が多く集まった場で羞恥心もなく自己アピールをしたい人物の背後で、鬱陶しい思いばかりが募ってしまい何の収穫もない故である。
(いえいえ、例えば何某氏かの輝かしい祝勝式典会合に招かれた場合など、私もその立場をわきまえて当該人物を心より祝福していますよ~♪)
「孤独」がテーマだったのに、話が“集団嫌い”の原左都子の持論に偏向してしまい恐縮である。
話を戻して、今回私が 「孤独」 関連の記事を綴ろうとしたきっかけとは朝日新聞夕刊“こころ”のページに遡る。 朝日新聞夕刊“こころ”「生きるレッスン」を担当しておられる3名の有識者の皆さんも、どうやら人間の「孤独」を肯定しておられるようだ。
今回の朝日新聞記事である「孤独を楽しむ」とのテーマの回答執筆者であられる3氏の題目のみ、以下に紹介することにしよう。
創作家の明川哲也氏 「ものが見え聞こえる時」
哲学者の森岡正博氏 「世の美しさ感じられる」
作家のあさのあつこ氏 「自分と向き合う時間に」
上記3氏も訴えておられるが、人間がこの世に生きていくに当たって 「孤独」 とは避けて通れない命題であると同時に、その経験を通じて人間性を磨くチャンスでもあると原左都子も捉えている。
まだまだ今後の人生が末永く続く私であるが、表題に記した通り私には 「孤独を貫いても守りたい事がある」 ことは事実だ。
とにかく安易に他者には迎合したくない私である。
今後年齢を重ねるにつれ、私のような“強情張り”の人間はこの世に生き辛いであろうことも想像がついている。
“孤高”とまで言える境地には決して到達しないであろうが、今のところはとりあえず自分自身の信念を貫きながら一種の 「孤独」 を肯定しつつ我が人生を歩み続けたいと欲している。
長い独身一人暮らし時代を歩んで来た私だが、何分その頃は超多忙な日々を送っていたため「孤独」と向き合う時間すら取れなかった故であろう。
それでもそんな私なりに、これぞ「孤独」と表現するべきか? との心理状態に苛まれた経験はある。
独身時代に年に一度程郷里に帰省していた私だが、おそらく30歳を迎えようとしていた頃のある時、郷里から大都会の我が一人住まいの住居地に戻る航空機の中で“孤独感”らしきものに苛まれたのだ。
田舎で数日間のんびり過ごした事が、我が心理状態を一時かき乱したものと分析する。
当時さしあたって結婚願望のなかった私は、このまま大都会の喧騒の中で今後も一人身で生きていかねばならない現実だった。 当時とりあえず周辺には近しい恋人や複数の友人や職場の同僚等々、日常的にかかわっていく相手がいるにはいたのだが、日々流れ行く浮世の中で人間関係とははかなく移り変わるのがこの世の常という事も承知していた。 いつか私の周辺に、私と係わりを持つ人間が一人としていなくなる日が訪れても何ら不思議ではない。 その時、私はその孤独に耐えられるのだろうか???
郷里よりの飛行機の中で突然襲われたこの “来たるべく孤独想定恐怖感” は私にとっては結構切実だったものだ。
ところが当時はやはりまだまだ若気の至りだった事に救われたものである。 帰省した翌日から、またもや我が身には多忙な日々が押し寄せてくる。 “孤独想定恐怖感”など何処かに吹っ飛んでしまったようで、その後の我が心理状態の記憶はない。
そんなことよりも現在に至って尚私にとって一番耐え難いのは、生身の人々と場を共存しているにもかかわらず感じさせられる「孤独感」である。
これは実に辛い。
原左都子が集団嫌いであることは本エッセイ集のバックナンバーに於いて幾度となく綴っているが、“心の交流感のない集団”程 「孤独感」 を煽られるものはないと私は実感しているが、皆さんは如何であろうか?
これに関しては何度も経験がある。
たとえ親しい仲間同士とは言えどもそれが“集団化”した場合、個々の人間の個性の表現の機会が制限されることはやむを得ない。 それ位のことは私とて心得ているが、あまりにも極端に一部の人間が自己存在をアピールする集団会合においてはもはや自分の居場所などあるはずもない。
集団を好む人物とは元々個々人が築き上げる深い人間関係における心の営みなど二の次であり、傍観者としてのメンバーを集めて自己存在をアピールしたいのみではないのかと私は結論付けている。
それ程に原左都子にとっては“集団”とは「孤独感」が苛まれる虚しい場でしかないのだ。
結局私が集団嫌いである根本原理とは、対等であるべき人々が多く集まった場で羞恥心もなく自己アピールをしたい人物の背後で、鬱陶しい思いばかりが募ってしまい何の収穫もない故である。
(いえいえ、例えば何某氏かの輝かしい祝勝式典会合に招かれた場合など、私もその立場をわきまえて当該人物を心より祝福していますよ~♪)
「孤独」がテーマだったのに、話が“集団嫌い”の原左都子の持論に偏向してしまい恐縮である。
話を戻して、今回私が 「孤独」 関連の記事を綴ろうとしたきっかけとは朝日新聞夕刊“こころ”のページに遡る。 朝日新聞夕刊“こころ”「生きるレッスン」を担当しておられる3名の有識者の皆さんも、どうやら人間の「孤独」を肯定しておられるようだ。
今回の朝日新聞記事である「孤独を楽しむ」とのテーマの回答執筆者であられる3氏の題目のみ、以下に紹介することにしよう。
創作家の明川哲也氏 「ものが見え聞こえる時」
哲学者の森岡正博氏 「世の美しさ感じられる」
作家のあさのあつこ氏 「自分と向き合う時間に」
上記3氏も訴えておられるが、人間がこの世に生きていくに当たって 「孤独」 とは避けて通れない命題であると同時に、その経験を通じて人間性を磨くチャンスでもあると原左都子も捉えている。
まだまだ今後の人生が末永く続く私であるが、表題に記した通り私には 「孤独を貫いても守りたい事がある」 ことは事実だ。
とにかく安易に他者には迎合したくない私である。
今後年齢を重ねるにつれ、私のような“強情張り”の人間はこの世に生き辛いであろうことも想像がついている。
“孤高”とまで言える境地には決して到達しないであろうが、今のところはとりあえず自分自身の信念を貫きながら一種の 「孤独」 を肯定しつつ我が人生を歩み続けたいと欲している。