元医学関係者の原左都子だが。
その身にして「医学・医療」に対する我がポリシーの程を実に揺らぎ無く端的に綴ったバックナンバーが、昨日の“Popular entries top10”にランクインしていた。
早速、2012.03.29公開「医療の限界を超越して生き延びるには…」と題するバックナンバーを、以下に再掲載させていただこう。
前回の我がエッセイに於いて、 医療・医学の分野とは科学全般に共通しての例外ではなく“おごりや限界”が存在すること、 それを承知の上で医療従事者とは日頃医療現場において最大限の努力を続けていること、 医療を超越して患者を救える分野や方策が存在し得ること、 医療とは一般市民にとって生命維持のために無くては成らないにもかかわらず一番分かりにくい分野でもあるという致命的な宿命を背負っていること、 等々に関して綴り公開した。
ここで私事に入るが、先だって(2012年)3月中旬に2度目の大学(及び大学院)ゼミOB生達と会合を持つ機会があった。 その場で「私の外見が昔と少しも変わっていない」事が話題となった。 (いえいえ、決してそんなことはあり得ないのだが、皆さんお酒が入っていたことや、当日の天候が雨天で視界が悪かったことにより一見そのように映ったのであろう。😖 確かに、体型に関しては長年まったく変化が無いが。)
その2次会の場において、男性H氏が冗談半分で私に尋ねる。
「普通20年会わないと誰しも外見が変貌しているものだが、〇さん(私のこと)はまったく昔と変わっていないのに驚く。 何か特殊な薬でも飲んでいるのか??」
応えて私曰く、「おそらく20年前と精神構造が変化していないのが多少若く見える一番の理由かと思う。 薬に関してはまったく逆で、私は元医学関係者という理由もあってある程度の医学判断力があるため、医療機関にほとんど頼らない日々を送っている。 その結果人体にとってダメージも大きい投薬や医療的諸検査を回避出来ていることが、もしかしたら現在の外見的若さに貢献しているのかもしれない。 加えて、HDL(善玉)コレステロールが特異的に多いことも何らかの影響があるかも??……」
それに反応してH氏曰く、「という事は、〇さんはたとえ病院で薬を処方されてもそれを飲まないで捨てるタイプだね!」
「まったくその通り!」と応えつつ、私の場合そもそも病院へはよほどの事でもない限り行かないため、実は薬を処方されることも無いに等しい人生なのだが…
(いつもの事ながら、読者の皆様には決して私の真似をせず良識的な判断で医療機関に頼っていただきたい、ということを元医学関係者の責任範疇として添えておこう。)
病院へ行くことの弊害とは他にもある。
それは素人の身にして、病院側から呈示される病名や異常な検査結果を突きつけられる“厳しい現実”であろう。 それらが医学の心得の浅い患者さん達にとって、特に精神面に於いて大衝撃となることを想像して余りあるのだ。
医学が発展を遂げた今の時代に於いて先進国に生きる患者さんとは、自分の病的症状を軽減することに優先して、その症状の「疾患名」を明確にすることを医師に嘆願する傾向があるのではなかろうか。
それに応えることも当然ながら医療機関の一つの使命ではある。 ところが実はこれが容易なことではないのだ。 ただ医療機関として救われるのは、病院に訪ねてくるほとんどの患者さんの容態が命に別状のない疾患である現実と私は心得る。(大抵の場合は「風邪でしょう」程度で済んでいるでしょ??)
その中に於いても、命にかかわる重病や難病の患者さんの存在を見落としてはならぬ目的で、念のためスクリーニング諸検査を患者対象に実施するのが現在の医療の実態であろう。 これに引っかかる(すなわち異常結果が出る)と二次検査に入るが、確率的に言うと二次検査までもつれこむ患者さんは少数であろうし、たとえ二次検査に至ったとて一部を除き、幸いな事にその患者さんの命にはさして別状がないのが医療現場に於ける現状ではなかろうか。
ところが医療・医学を心得ない患者さんの場合、医師より一旦その検査異常値やそれに基づく疾患名を突きつけられるや否や、「もはや自分は病人…」とのレッテルを自分自身の心身に貼り付けてしまい、特に精神面に於いて参ってしまう事と推測する。
そんな疾患名を聞きさえしなければ、症状が軽減するにつれ自分が病気だったことも忘れ去れたであろうに、一旦自分自身でレッテルを貼ってしまうと「私は〇〇病を患っています」と会う人毎に自己紹介し、既に回復しているにもかかわらず再発を恐れつつ日々を送る運命となろう。
この医療の現実に一番打撃を受けているのが、判断能力が低下しているお年寄りであると認識する私だ。
我が国の医療・医学がさほどの進化を遂げていなかった時代に生きてきたお年寄り達が、年老いた現在医療こそ自分が生き延びる道筋と信じ、全面的に依存しても決して不思議ではないのかもしれない。
特に経済的にある程度余裕のある日本のお年寄り達にとって、「病院通い」とは老後の一つの趣味であると言っても過言でない現実だ。 我が高齢の実母や義母の事例を挙げると、彼女達もその例外ではなく日々病院通いをしている。 そして大量の薬を処方され、それを飲むのを日課としている。
加えて、どうもお年寄りとは「注射」がお好きなようだ。 具合が悪くなると病院で「注射」をしてもらうと治ると信じている。 実母には「何の注射なのか医師に必ず事前に確認するように!」と私から口酸っぱく指導しているにもかかわらず、「聞いても分からないし、素人の年寄りがそんな事を聞くと医師や看護師に嫌われて今後病院へ行けなくなるから聞きたくない」との返答だ…。 (せいぜい栄養剤か生理食塩水でも体内へ入れているのならば害も少ないだろうが…)と思いつつも、悲しいかなこれが年寄り医療の実態である。
そんな限界ある医療の現状に於いて、人がそれを超越して生き延びるには如何なる対策を取ればよいのか?
その答えは「予防医学」であり、国民に対する「医療・医学教育」であろう。
これらに関しては医学界においてずっと以前より提唱され、例えば「栄養学」のごとく国民に対する栄養教育が既に実行されて長年が経過し発展を遂げている分野もあろう。
ところが、例えば暴飲暴食等の生活の乱れにより「生活習慣病」を患い医療に頼る国民が、相変わらず後を絶たないのが現実でもある。
一方で、人間とは誰しも「老い」を迎えるものである。 それを個々人が受け入れていく教育も不可欠と私は心得る。
老化現象により体のあちこちが弱り痛むのは実に辛い現状ではあろうが。 だからと言って老人を医療現場に放り投げて検査漬け、薬漬けの老後を歩ませる事が“人の尊厳”であろうはずがない。
今回のテーマは人それぞれの「死生観」にも直結する課題であろう。
病的な症状を持ち苦しむ人を掴まえて、「病院へ行く前に、少し自分なりの哲学を持って“死生観”について考えてみましょうよ」などと未熟な私の立場から提唱できるはずもないが、原左都子自身はそのような人生を歩みたいと欲している。
何て偉そうに言ってみても先だって急逝した我が友のように、明日“くも膜下出血”で倒れるかもしれないしね……
ここで私事に入るが、先だって(2012年)3月中旬に2度目の大学(及び大学院)ゼミOB生達と会合を持つ機会があった。 その場で「私の外見が昔と少しも変わっていない」事が話題となった。 (いえいえ、決してそんなことはあり得ないのだが、皆さんお酒が入っていたことや、当日の天候が雨天で視界が悪かったことにより一見そのように映ったのであろう。😖 確かに、体型に関しては長年まったく変化が無いが。)
その2次会の場において、男性H氏が冗談半分で私に尋ねる。
「普通20年会わないと誰しも外見が変貌しているものだが、〇さん(私のこと)はまったく昔と変わっていないのに驚く。 何か特殊な薬でも飲んでいるのか??」
応えて私曰く、「おそらく20年前と精神構造が変化していないのが多少若く見える一番の理由かと思う。 薬に関してはまったく逆で、私は元医学関係者という理由もあってある程度の医学判断力があるため、医療機関にほとんど頼らない日々を送っている。 その結果人体にとってダメージも大きい投薬や医療的諸検査を回避出来ていることが、もしかしたら現在の外見的若さに貢献しているのかもしれない。 加えて、HDL(善玉)コレステロールが特異的に多いことも何らかの影響があるかも??……」
それに反応してH氏曰く、「という事は、〇さんはたとえ病院で薬を処方されてもそれを飲まないで捨てるタイプだね!」
「まったくその通り!」と応えつつ、私の場合そもそも病院へはよほどの事でもない限り行かないため、実は薬を処方されることも無いに等しい人生なのだが…
(いつもの事ながら、読者の皆様には決して私の真似をせず良識的な判断で医療機関に頼っていただきたい、ということを元医学関係者の責任範疇として添えておこう。)
病院へ行くことの弊害とは他にもある。
それは素人の身にして、病院側から呈示される病名や異常な検査結果を突きつけられる“厳しい現実”であろう。 それらが医学の心得の浅い患者さん達にとって、特に精神面に於いて大衝撃となることを想像して余りあるのだ。
医学が発展を遂げた今の時代に於いて先進国に生きる患者さんとは、自分の病的症状を軽減することに優先して、その症状の「疾患名」を明確にすることを医師に嘆願する傾向があるのではなかろうか。
それに応えることも当然ながら医療機関の一つの使命ではある。 ところが実はこれが容易なことではないのだ。 ただ医療機関として救われるのは、病院に訪ねてくるほとんどの患者さんの容態が命に別状のない疾患である現実と私は心得る。(大抵の場合は「風邪でしょう」程度で済んでいるでしょ??)
その中に於いても、命にかかわる重病や難病の患者さんの存在を見落としてはならぬ目的で、念のためスクリーニング諸検査を患者対象に実施するのが現在の医療の実態であろう。 これに引っかかる(すなわち異常結果が出る)と二次検査に入るが、確率的に言うと二次検査までもつれこむ患者さんは少数であろうし、たとえ二次検査に至ったとて一部を除き、幸いな事にその患者さんの命にはさして別状がないのが医療現場に於ける現状ではなかろうか。
ところが医療・医学を心得ない患者さんの場合、医師より一旦その検査異常値やそれに基づく疾患名を突きつけられるや否や、「もはや自分は病人…」とのレッテルを自分自身の心身に貼り付けてしまい、特に精神面に於いて参ってしまう事と推測する。
そんな疾患名を聞きさえしなければ、症状が軽減するにつれ自分が病気だったことも忘れ去れたであろうに、一旦自分自身でレッテルを貼ってしまうと「私は〇〇病を患っています」と会う人毎に自己紹介し、既に回復しているにもかかわらず再発を恐れつつ日々を送る運命となろう。
この医療の現実に一番打撃を受けているのが、判断能力が低下しているお年寄りであると認識する私だ。
我が国の医療・医学がさほどの進化を遂げていなかった時代に生きてきたお年寄り達が、年老いた現在医療こそ自分が生き延びる道筋と信じ、全面的に依存しても決して不思議ではないのかもしれない。
特に経済的にある程度余裕のある日本のお年寄り達にとって、「病院通い」とは老後の一つの趣味であると言っても過言でない現実だ。 我が高齢の実母や義母の事例を挙げると、彼女達もその例外ではなく日々病院通いをしている。 そして大量の薬を処方され、それを飲むのを日課としている。
加えて、どうもお年寄りとは「注射」がお好きなようだ。 具合が悪くなると病院で「注射」をしてもらうと治ると信じている。 実母には「何の注射なのか医師に必ず事前に確認するように!」と私から口酸っぱく指導しているにもかかわらず、「聞いても分からないし、素人の年寄りがそんな事を聞くと医師や看護師に嫌われて今後病院へ行けなくなるから聞きたくない」との返答だ…。 (せいぜい栄養剤か生理食塩水でも体内へ入れているのならば害も少ないだろうが…)と思いつつも、悲しいかなこれが年寄り医療の実態である。
そんな限界ある医療の現状に於いて、人がそれを超越して生き延びるには如何なる対策を取ればよいのか?
その答えは「予防医学」であり、国民に対する「医療・医学教育」であろう。
これらに関しては医学界においてずっと以前より提唱され、例えば「栄養学」のごとく国民に対する栄養教育が既に実行されて長年が経過し発展を遂げている分野もあろう。
ところが、例えば暴飲暴食等の生活の乱れにより「生活習慣病」を患い医療に頼る国民が、相変わらず後を絶たないのが現実でもある。
一方で、人間とは誰しも「老い」を迎えるものである。 それを個々人が受け入れていく教育も不可欠と私は心得る。
老化現象により体のあちこちが弱り痛むのは実に辛い現状ではあろうが。 だからと言って老人を医療現場に放り投げて検査漬け、薬漬けの老後を歩ませる事が“人の尊厳”であろうはずがない。
今回のテーマは人それぞれの「死生観」にも直結する課題であろう。
病的な症状を持ち苦しむ人を掴まえて、「病院へ行く前に、少し自分なりの哲学を持って“死生観”について考えてみましょうよ」などと未熟な私の立場から提唱できるはずもないが、原左都子自身はそのような人生を歩みたいと欲している。
何て偉そうに言ってみても先だって急逝した我が友のように、明日“くも膜下出血”で倒れるかもしれないしね……
(以上、本エッセイ集2012.03公開バックナンバーのほぼ全文を再掲載したもの。)
2021.02 現時点の私観だが。
このエッセイを記す直前期に、私はそれまでの人生に於ける一番の“腹心の友”だった女性を突如発症した“くも膜下出血”にて失っている。
「ヨーコちゃん」と呼ばせて頂いていた彼女は、高校教師時代の先輩教員だった。 当時2人揃って独身を貫いていたのが第一の理由だったと推測するが、すっかり意気投合し、学校の業務終了後(私のデートがない日には😜 )必ずやヨーコちゃんの家へ立ち寄り私は晩酌を楽しんだものだ。(参考だがヨーコちゃんは酒を嗜まないにもかかわらず、いつもそれに楽しそうに付き合ってくれた。)
その関係は私が出産退職後も続き… 産んだ我が娘をヨーコちゃんも可愛がってくれて…
娘が大きく育ったら、またヨーコちゃんと2人の交友を楽しもうと思っていた矢先。 ヨーコちゃんは一人自室にて倒れ、返らぬ人となってしまった…
早いもので、あれから既に9年の年月が流れている。
ヨーコちゃんは理科教諭だったが、普段より自身の生き甲斐(登山が趣味でエベレスト等々世界の山々を制覇している)を最優先し、ご自分の体調管理に関しては“手抜き”だったのかもしれない。
そんなヨーコちゃんへの追悼の思いも込めて、当該我が“医学ポリシーエッセイ”を書いたように記憶している。