「原左都子エッセイ集」に於いて、生活保護者関連エッセイを公開するのはこれが三度目となる。
先だっての10月22日、財務省は来年度予算で生活保護費削減を求める方針を打ち出した。
この財務省案によると、現在の支給制度に於いては物価が下がり続けるデフレを反映していないとして、支給額のうち生活扶助費部分を4%程引き下げる、とのことだ。
加えて、家賃の相場が下がっているとして住宅扶助費の引き下げも提案している。 また、医療扶助費に関しては、「医療費無料」が受給者を増やす原因になっていると指摘し、一部自己負担とするよう提案したようだ。
さらには不正受給を減らすねらいで受給希望者の審査を厳しくすると同時に、受給者に働く意欲を持たせるため「就労インセンティブ制度」も取り入れるよう求めたとのことだ。(朝日新聞10月23日記事より一部引用)
私論としては、財務省は何故この方針をもっと早期に提案しなかったのか不可解だ…。
上記朝日新聞記事の続きを紹介しよう。
この財務省の方針に対して、厚労省は生活保護費を削減し過ぎると最低限度の生活ができなくなると難色を示していて、政府内の調整は難航する可能性があるとのことだ。
厚労省の背部に位置する某団体の言い分とは、生活保護者の多くは高齢者や障害者、母子家庭であるため、医療費の一部負担により最低生活費を割り込み命の危険にもかかわる。 政府は社会保障の充実と言っておいて、一番弱い人の生活保護を切ろうとしている」と批判しているようだ。 (この種の政府直結“天下り団体”組織も無駄な税金を食い潰すべく今尚ネックな存在だよねえ……)
ここで一旦原左都子の私事に入ろう。
月に14万円(この数値こそが現在生活保護者が毎月受け取っているほぼ全国平均額と、何処かで見聞したことがあるが)も貰えりゃ、十分に“文化的最低限度の生活”が可能ではなかろうかと自らの経験から考察する。
と言うのも、私も30代の独身時代(特に二度目の大学入学直後)には、まさにこの程度の生活費で日々やり繰りした経験があるからだ。
私の場合は30歳にて購入した自己所有の不動産資産、及び20台に稼いで貯め込んだある程度まとまった預貯金資産が背後に存在したことは事実であり、その辺の資産状況が生活保護者とは大きく食い違うことであろう。 それでも、当時月々返済していた住宅ローン費用も含めて、14万円程度の収入額で公立大学の学費(あの頃はまだまだ安かったなあ~)も自己負担しつつ十分に文化的に煌びやかな生活を送っていたものだ。
一旦この場で私論の一結論を展開させていただくに、 「お金の使い方」ひとつ取り上げても自分が持って産まれた資質やその後培って来た学識経験等の教養力が、生活を営む上でのキーポイントとなるという話ではあるまいか?
その一分野の事象として、どうやら生活保護受給者とは病気をしやすく安易に医療機関を頼っておられる様子だ。 これに関して言えば、医療に関するバックグラウンドがありある程度自己診断可能な私など、現在に至って尚月々の医療費など微々たるものである。
我がエッセイ集少し前のバックンナンバーに於いて、(少し先の将来にその有効性が現れる対策に過ぎないかもしれないが)生活保護費削減のための第一方策とは 「学校教育充実改革」ではなかろうかとの記述をしている。
(要するに早い話が、今後日本を生きていく子ども達をちゃんと育てよう!との提案である。)
今回のエッセイではこれに関する私論を展開することを趣旨としているのだが、その前に「原左都子エッセイ集」2007年9月のバックナンバーである 「『横並び教育』の所産」 と題する記事を以下にその一部を要約して紹介しよう。
バブル経済崩壊後の長引く不況の中、若者のフリーターやニート、そして引きこもりが増加の一途を辿っている。 これら若者の組織や社会からの逸脱の諸現象は、現在の学校の「横並び教育」の所産であるように私は思えてならない。
近世において欧米等諸国が“民主主義”を市民が流血の末に勝ち取ったのと比較して、我が国の場合それを敗戦により米国から与えられたという経緯があるためか、どうもこの国は今もって「人権」に対する意識が低く、かつ「自由」や「平等」の解釈を履き違えているのではないかとの感が否めない。
私は“もはや戦後ではない”と言われた時代にこの世に生を受けた。 そんな私の小学生時代(1960年代)の学校教育は、時代背景的に決して「横並び教育」ではなかった。 私の印象では“学業成績第一主義”であったように記憶している。これも大いに歪んだ教育ではあるのだが、子どもにとってある意味での“わかりやすさ”はあったように思う。例えば学級委員等クラスを統率する生徒や、学芸会や音楽会等での中心人物は担任教員の一任で成績順に決められていた。
現在の公立小学校を保護者の立場から垣間見ると、何事にも当番制、輪番制が取り入れられ生徒全員に“一見”「平等」な機会を与えているような錯覚に陥る。加えて、学級委員や学芸会、音楽会等の出演者決定には“立候補”制が取り入れられていて、あたかも「平等」に加えて自主性をも演出しているつもりであるのは理解できる。 しかし、実はこの“立候補”制にも大きな落とし穴があり、その実態は単なる「横並び」でしかなく立候補のフォロー(少なくとも立候補には責任が伴うことを指導し、立候補した子ども達にその責務を全うするべく努力させるべきである。)がまったくなされておらず、何年経ってもいつも同じ子ども達が立候補し、毎年同じパフォーマンスが繰り返されるのだ。 これはまさに違った形での“横並び”でしかない。
「横並び」が平等だと勘違いしている公教育で育った子ども達は気の毒だ。その子ども達が学校を卒業(中退でもいいが。)し、一旦社会に進出すると(大変失礼な言い方ではあるが公務員になる以外は?)そこには厳しい競争社会の現実が待ち構えている。 その現実社会へスムーズに移行しきれずあえぐ若者が多いのではなかろうか。
決して「横並び」イコール平等ではない。 個人の能力や個性に応じた平等こそが真の平等であると私は考える。 今の学校では「横並び」を平等と勘違いし(あるいは、指導が容易なためあえて「横並び」を選択し)、現実社会の厳しさから逃避している。 このような学校教育の勘違いや現実逃避が子どもの人格形成に悪影響を与え、ひいては社会の退廃を招いているのではないかと私は常々推し量っている。
偏差値や歪んだ受験競争等、人為的な序列化や競争は当然ながら否定されるべきである。が、健全な社会には必然的に競争は存在し、自然に序列化がなされ淘汰されていくものと私は考える。
「横並び」を平等と勘違いした現状の学校教育の下では、自然発生的な競争にさえ耐えられない人材ばかりを育成してしまうのではないかと、私は懸念するのだ。
(以上、「原左都子エッセイ集」2007年バックナンバーより一部を引用)
上記教育関連エッセイを綴った後既に5年以上の月日が流れているが、現在の公教育現場はその頃から少しは変貌を遂げ前進しているのであろうか??
断っておくが、原左都子は元教育者の立場からもあくまでも「弱者保護」観点を貫いているつもりだ。
学校現場が勘違い教育を施し続ける事により、無責任にも “元々弱者” を “更なる弱者” に仕立て上げて社会に送り出してはならない事など歴然である。
特にベルリンの壁崩壊後、全世界規模で政治経済分野は“資本主義化”の流れにある故に、学校に於ける「偏差値」等馬鹿げた“人為競争”は今後も自粛するべきであるのは当然だ。 子どもが一旦社会に出たならば皆が“自然競争”に打ち勝っていく厳しい課題を突きつけられるはめとなる。 それに学校教育が対応できない現実こそが諸悪の根源であろう。
「社会的弱者」を排出し続ける学校教育の弊害 イコール 「生活保護者」を量産し続ける現実社会と捉える原左都子である。
今後は目先の偏差値等“人為競争”から脱却せんとの広い視野と見識をもって、真の“自然競争”に打ち勝てる人材を育て上げるべく学校教育は機能して欲しいものだ。
先だっての10月22日、財務省は来年度予算で生活保護費削減を求める方針を打ち出した。
この財務省案によると、現在の支給制度に於いては物価が下がり続けるデフレを反映していないとして、支給額のうち生活扶助費部分を4%程引き下げる、とのことだ。
加えて、家賃の相場が下がっているとして住宅扶助費の引き下げも提案している。 また、医療扶助費に関しては、「医療費無料」が受給者を増やす原因になっていると指摘し、一部自己負担とするよう提案したようだ。
さらには不正受給を減らすねらいで受給希望者の審査を厳しくすると同時に、受給者に働く意欲を持たせるため「就労インセンティブ制度」も取り入れるよう求めたとのことだ。(朝日新聞10月23日記事より一部引用)
私論としては、財務省は何故この方針をもっと早期に提案しなかったのか不可解だ…。
上記朝日新聞記事の続きを紹介しよう。
この財務省の方針に対して、厚労省は生活保護費を削減し過ぎると最低限度の生活ができなくなると難色を示していて、政府内の調整は難航する可能性があるとのことだ。
厚労省の背部に位置する某団体の言い分とは、生活保護者の多くは高齢者や障害者、母子家庭であるため、医療費の一部負担により最低生活費を割り込み命の危険にもかかわる。 政府は社会保障の充実と言っておいて、一番弱い人の生活保護を切ろうとしている」と批判しているようだ。 (この種の政府直結“天下り団体”組織も無駄な税金を食い潰すべく今尚ネックな存在だよねえ……)
ここで一旦原左都子の私事に入ろう。
月に14万円(この数値こそが現在生活保護者が毎月受け取っているほぼ全国平均額と、何処かで見聞したことがあるが)も貰えりゃ、十分に“文化的最低限度の生活”が可能ではなかろうかと自らの経験から考察する。
と言うのも、私も30代の独身時代(特に二度目の大学入学直後)には、まさにこの程度の生活費で日々やり繰りした経験があるからだ。
私の場合は30歳にて購入した自己所有の不動産資産、及び20台に稼いで貯め込んだある程度まとまった預貯金資産が背後に存在したことは事実であり、その辺の資産状況が生活保護者とは大きく食い違うことであろう。 それでも、当時月々返済していた住宅ローン費用も含めて、14万円程度の収入額で公立大学の学費(あの頃はまだまだ安かったなあ~)も自己負担しつつ十分に文化的に煌びやかな生活を送っていたものだ。
一旦この場で私論の一結論を展開させていただくに、 「お金の使い方」ひとつ取り上げても自分が持って産まれた資質やその後培って来た学識経験等の教養力が、生活を営む上でのキーポイントとなるという話ではあるまいか?
その一分野の事象として、どうやら生活保護受給者とは病気をしやすく安易に医療機関を頼っておられる様子だ。 これに関して言えば、医療に関するバックグラウンドがありある程度自己診断可能な私など、現在に至って尚月々の医療費など微々たるものである。
我がエッセイ集少し前のバックンナンバーに於いて、(少し先の将来にその有効性が現れる対策に過ぎないかもしれないが)生活保護費削減のための第一方策とは 「学校教育充実改革」ではなかろうかとの記述をしている。
(要するに早い話が、今後日本を生きていく子ども達をちゃんと育てよう!との提案である。)
今回のエッセイではこれに関する私論を展開することを趣旨としているのだが、その前に「原左都子エッセイ集」2007年9月のバックナンバーである 「『横並び教育』の所産」 と題する記事を以下にその一部を要約して紹介しよう。
バブル経済崩壊後の長引く不況の中、若者のフリーターやニート、そして引きこもりが増加の一途を辿っている。 これら若者の組織や社会からの逸脱の諸現象は、現在の学校の「横並び教育」の所産であるように私は思えてならない。
近世において欧米等諸国が“民主主義”を市民が流血の末に勝ち取ったのと比較して、我が国の場合それを敗戦により米国から与えられたという経緯があるためか、どうもこの国は今もって「人権」に対する意識が低く、かつ「自由」や「平等」の解釈を履き違えているのではないかとの感が否めない。
私は“もはや戦後ではない”と言われた時代にこの世に生を受けた。 そんな私の小学生時代(1960年代)の学校教育は、時代背景的に決して「横並び教育」ではなかった。 私の印象では“学業成績第一主義”であったように記憶している。これも大いに歪んだ教育ではあるのだが、子どもにとってある意味での“わかりやすさ”はあったように思う。例えば学級委員等クラスを統率する生徒や、学芸会や音楽会等での中心人物は担任教員の一任で成績順に決められていた。
現在の公立小学校を保護者の立場から垣間見ると、何事にも当番制、輪番制が取り入れられ生徒全員に“一見”「平等」な機会を与えているような錯覚に陥る。加えて、学級委員や学芸会、音楽会等の出演者決定には“立候補”制が取り入れられていて、あたかも「平等」に加えて自主性をも演出しているつもりであるのは理解できる。 しかし、実はこの“立候補”制にも大きな落とし穴があり、その実態は単なる「横並び」でしかなく立候補のフォロー(少なくとも立候補には責任が伴うことを指導し、立候補した子ども達にその責務を全うするべく努力させるべきである。)がまったくなされておらず、何年経ってもいつも同じ子ども達が立候補し、毎年同じパフォーマンスが繰り返されるのだ。 これはまさに違った形での“横並び”でしかない。
「横並び」が平等だと勘違いしている公教育で育った子ども達は気の毒だ。その子ども達が学校を卒業(中退でもいいが。)し、一旦社会に進出すると(大変失礼な言い方ではあるが公務員になる以外は?)そこには厳しい競争社会の現実が待ち構えている。 その現実社会へスムーズに移行しきれずあえぐ若者が多いのではなかろうか。
決して「横並び」イコール平等ではない。 個人の能力や個性に応じた平等こそが真の平等であると私は考える。 今の学校では「横並び」を平等と勘違いし(あるいは、指導が容易なためあえて「横並び」を選択し)、現実社会の厳しさから逃避している。 このような学校教育の勘違いや現実逃避が子どもの人格形成に悪影響を与え、ひいては社会の退廃を招いているのではないかと私は常々推し量っている。
偏差値や歪んだ受験競争等、人為的な序列化や競争は当然ながら否定されるべきである。が、健全な社会には必然的に競争は存在し、自然に序列化がなされ淘汰されていくものと私は考える。
「横並び」を平等と勘違いした現状の学校教育の下では、自然発生的な競争にさえ耐えられない人材ばかりを育成してしまうのではないかと、私は懸念するのだ。
(以上、「原左都子エッセイ集」2007年バックナンバーより一部を引用)
上記教育関連エッセイを綴った後既に5年以上の月日が流れているが、現在の公教育現場はその頃から少しは変貌を遂げ前進しているのであろうか??
断っておくが、原左都子は元教育者の立場からもあくまでも「弱者保護」観点を貫いているつもりだ。
学校現場が勘違い教育を施し続ける事により、無責任にも “元々弱者” を “更なる弱者” に仕立て上げて社会に送り出してはならない事など歴然である。
特にベルリンの壁崩壊後、全世界規模で政治経済分野は“資本主義化”の流れにある故に、学校に於ける「偏差値」等馬鹿げた“人為競争”は今後も自粛するべきであるのは当然だ。 子どもが一旦社会に出たならば皆が“自然競争”に打ち勝っていく厳しい課題を突きつけられるはめとなる。 それに学校教育が対応できない現実こそが諸悪の根源であろう。
「社会的弱者」を排出し続ける学校教育の弊害 イコール 「生活保護者」を量産し続ける現実社会と捉える原左都子である。
今後は目先の偏差値等“人為競争”から脱却せんとの広い視野と見識をもって、真の“自然競争”に打ち勝てる人材を育て上げるべく学校教育は機能して欲しいものだ。