原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

画家 城戸真亜子氏が描く「水」の躍動感

2012年03月31日 | 芸術
 (写真は、4月1日まで東京国際フォーラムに於いて開催中の「アートフェア東京2012」会場内 P10「B-gallery」ブース にて原左都子が撮影した 画家 城戸真亜子氏。)


 一昨日の3月29日、原左都子が上記「アートフェア東京2012」を訪問するきっかけをいただけたのは、美術家及びギャラリー主宰者としてご活躍の 長はるこ氏 よりその招待状を頂戴したことによる。(長はるこ氏のHPへは左欄ブックマークの“B-gallery"よりお入り下さい。)
 長はるこ氏 のご活躍の程に関しては「原左都子エッセイ集」“旅行カテゴリー”2008年11月バックナンバー等々に於いて公開させていただいている。 (2008年当時、長はるこ氏が受賞された国際版画ビエンナーレ受賞式に、何のお役にも立てないにもかかわらずインドまでのこのこと同行させていただいた時の旅行の程が、実に感動的だった我が思いをバックナンバーで綴っておりますので、よろしければご参照下さい。)

 今回、長はるこ氏は「城戸真亜子氏、瓜生剛氏、長はるこ氏の3人展」とのテーマでご自身が主宰する“B-gallery"をアートフェア東京に出展されている。

 ここで余談となるが、国内外からのギャラリー出展参加総数160を超える今回の大規模アートフェアの中で長はるこ氏の“B-gallery"のP10ブースとの場所が、原左都子に言わせてもらうと実に絶妙な好位置なのである。  我が交通経路の場合、東京メトロ有楽町駅から降り立って直ぐ近い場所に東京国際フォーラムが位置しているのだが、フォーラム内に入ってすぐの場所からガラス越しに地下の展示ホールの全貌が一望できる建物構造となっている。 とりわけ 長はるこ氏が出展されている“B-gallery" は建物の柱の影響も受けず通行人の誰でもがすぐ真下にギャラリー展示を見渡せる場所に位置している。
 その中でも、長はるこ氏が今回ギャラリー出展のメインに位置付けられたと思しき 城戸真亜子氏作 “YUKA-③” と題する油絵大作が、展示室に燦然と輝いている風景を一般通行人がガラス越しに見下ろせる場所に掲示されていることを、ここでこっそり伝えておこう。
 (いえいえ、せっかく「アートフェア東京」を訪問されるのであれば、是非共地下の展示ホールに下りて個々のブースをじっくりご観賞することをお勧めするのはもちろんのことである。)


 さて、原左都子が一昨日訪れたアートフェア東京のオープニングレビュー会場は、上記のごとく国内外から160以上の企画画廊が参加する国内最大のアートフェアの場であり、古美術・工芸品から日本画・洋画、現代美術まで時代とジャンルを超えた作品が展示販売されていた。
 娘と共に訪れた会場入口では入場制限をしているのかのごとく大勢の訪問客でごった返していて、長蛇の列に並びやっと入場出来る有様だった。 何とこさオープニングレビュー会場内に入れた暁には、凄い熱気とファッショナブルな人種で溢れているではないか!  長はるこ先生情報によるとフランソワーズ・モレシャン氏やデビ夫人も来館されていた様子であるが、我々にとってはとにもかくにもご招待いただいた“B-gallary"のブースへ急ぎたいものだった。

 その入り口に美しいお姿を披露されていたのが、女優・タレントであり画家としても活躍されている長身の城戸真亜子氏であられた。(上記写真をご参照下さい。)
 そのご本人自身の美しさに見とれつつも、まずはブースの正面に掲げられていた城戸真亜子氏の大作を真っ先に観賞させていただく私だ。
 「こんばんは」と優しくお声を掛けて下さる城戸真亜子氏に、私は恐れ多くも早速お声を返すことと相成った。 
 「パンフレットでも拝見していましたが、この(正面の)作品は素晴らしいですね!」と切り出す私に、城戸真亜子氏が即刻作品に関する説明をして下さるではないか。
 それをいいことに、原左都子が展示されている城戸作品に対して次々と(ヘボい)質問をさせていただいた事に対して、城戸真亜子氏も画家の立場として返答を重ねて下さるのだ。  城戸真亜子氏のご返答の一部を紹介するならば、「この作品は私が“水”の躍動感を描いた作品です。」 「絵のモデルとしては19歳の女性を描いています。」 「まさに19歳の彼女には若き力があるが故にその前進力を水の躍動感に転化して描きたかった作品です。」……
 (城戸真亜子さん、わずか20分程の短時間に伺った会話を美術素人の原左都子がこんな場で勝手にアレンジして公開し、真に申し訳ない思いでおります。 もしも、原左都子の城戸真亜子氏作品の解釈が大幅に誤っておりましたらここで謝罪申し上げます。)


 それにしても芸術素人の原左都子の視線からしても、城戸真亜子氏の作品に於いて描かれている「SWINNING POOL」の中で19歳の少女(女性)の動きに応じて波立つ水面の“躍動感”の描写の程は素晴らしいと感じさせていただけた。
 我が娘が出生以来苦難の歴史を超えて現在18歳となり、来週4月には大学へ入学可能とまでに躍進を続けている事実が我が脳裏に重複するからであろうか??

 今回、城戸真亜子氏制作「escape」と題して同じく水の躍動感が描かれている作品の“ジグレー版画”版をアートフェア会場で購入させていただいた我が親子であるが、その仕上がりを心待ちにさせていただくことにしよう。

医療の限界を超越して生き延びるには…

2012年03月29日 | 医学・医療・介護
 今回の記事は、前回の「原左都子エッセイ集」記事 「医療のおごりと限界」 の続編の形となる。

 前回の我がエッセイに於いて、 医療・医学の分野とは科学全般に共通しての例外ではなく“おごりや限界”が存在すること、 それを承知の上で医療従事者とは日頃医療現場において最大限の努力を続けていること、 医療を超越して患者を救える分野や方策が存在し得ること、 医療とは一般市民にとって生命維持のために無くては成らないにもかかわらず一番分かりにくい分野でもあるという致命的な宿命を背負っていること、 等々に関して綴り公開した。


 ここで私事に入るが、先だっての3月中旬に大学(及び大学院)ゼミOB生達と会合を持つ機会があったが、その場で「私の外見が昔と少しも変わっていない」事が話題となった。 (いえいえ、決してそんなことはあり得ないのだが、皆さんお酒が入っていたことや、当日の天候が雨天で視界が悪かったことにより一見そのように映ったのであろう。

 その2次会の場において、男性H氏が冗談半分で私に尋ねる。
 「普通20年会わないと誰しも外見が変貌しているものだが、○さん(私のこと)はまったく昔と変わっていないのに驚く。 何か特殊な薬でも飲んでいるのか??
 応えて私曰く、「おそらく20年前と精神構造が変化していないのが多少若く見える一番の理由かと思う。 薬に関してはまったく逆で、私は元医学関係者という理由もあってある程度の医学判断力があるため、医療機関にほとんど頼らない日々を送っている。 その結果人体にとってダメージも大きい投薬や医療的諸検査を回避出来ていることが、もしかしたら現在の外見的若さに貢献しているのかもしれない。 加えて、HDL(善玉)コレステロールが特異的に多いことも何らかの影響があるかも??……」
 それに反応してH氏曰く、「という事は、○さんはたとえ病院で薬を処方されてもそれを飲まないで捨てるタイプだね!」
 「まったくその通り!」と応えつつ、私の場合そもそも病院へはよほどの事でもない限り行かないため、実は薬を処方されることも無いに等しい人生なのだが…
 (いつもの事ながら、読者の皆様には決して私の真似をせず良識的な判断で医療機関に頼っていただきたい、ということを元医学関係者の責任範疇として添えておこう。)


 病院へ行くことの弊害とは他にもある。
 それは素人の身にして、病院側から呈示される病名や異常な検査結果を突きつけられる“厳しい現実”であろう。 それらが医学の心得の浅い患者さん達にとって、特に精神面に於いて大衝撃となることを想像して余りあるのだ。

 医学が発展を遂げた今の時代に於いて先進国に生きる患者さんとは、自分の病的症状を軽減することに優先して、その症状の「疾患名」を明確にすることを医師に嘆願する傾向があるのではなかろうか。
 それに応えることも当然ながら医療機関の一つの使命ではある。 ところが実はこれが容易なことではないのだ。 ただ医療機関として救われるのは、病院に訪ねてくるほとんどの患者さんの容態が命に別状のない疾患である現実と私は心得る。(大抵の場合は「風邪でしょう」程度で済んでいるでしょ??)
 その中に於いても、命にかかわる重病や難病の患者さんの存在を見落としてはならぬ目的で、念のためスクリーニング諸検査を患者対象に実施するのが現在の医療の実態であろう。 これに引っかかる(すなわち異常結果が出る)と二次検査に入るが、確率的に言うと二次検査までもつれこむ患者さんは少数であろうし、例え二次検査に至ったとて一部を除き、幸いな事にその患者さんの命にはさして別状がないのが医療現場に於ける現状ではなかろうか。


 ところが医療・医学を心得ない患者さんの場合、医師より一旦その検査異常値やそれに基づく疾患名を突きつけられるや否や、「もはや自分は病人…」とのレッテルを自分自身の心身に貼り付けてしまい、特に精神面に於いて参ってしまわれる事と推測する。
 そんな疾患名を聞きさえしなければ、症状が軽減するにつれ自分が病気だったことも忘れ去れたであろうに、一旦自分自身でレッテルを貼ってしまうと「私は○○病を患っています」と会う人毎に自己紹介し、既に回復しているにもかかわらず再発を恐れつつ日々を送る運命となろう。

 この医療の現実に一番打撃を受けているのが、判断能力が低下しているお年寄りであると認識する私だ。
 我が国の医療・医学がさほどの進化を遂げていなかった時代に生きてきたお年寄り達が、年老いた現在医療こそ自分が生き延びる道筋と信じ、全面的に依存しても決して不思議ではないのかもしれない。

 特に経済的にある程度余裕のある日本のお年寄り達にとって、「病院通い」とは老後の一つの趣味であると言っても過言でない現実だ。 我が高齢の実母や義母の事例を挙げると、彼女達もその例外ではなく日々病院通いをしている。 そして大量の薬を処方され、それを飲むのを日課としている。
 加えて、どうもお年寄りとは「注射」がお好きなようだ。 具合が悪くなると病院で「注射」をしてもらうと治ると信じている。 実母には「何の注射なのか医師に必ず事前に確認するように!」と私から口酸っぱく指導しているにもかかわらず、「聞いても分からないし、素人の年寄りがそんな事を聞くと医師や看護師に嫌われて今後病院へ行けなくなるから聞きたくない」との返答だ…。 (せいぜい栄養剤か生理食塩水でも体内へ入れているのならば害も少ないだろうが…)と思いつつも、悲しいかなこれが年寄り医療の実態である。


 そんな限界ある医療の現状に於いて、人がそれを超越して生き延びるには如何なる対策を取ればよいのか?

 その答えは「予防医学」であり、国民に対する「医療・医学教育」であろう。 
 これらに関しては医学界においてずっと以前より提唱され、例えば「栄養学」のごとくに国民に対する栄養教育が既に実行されて長年が経過し発展を遂げている分野もあろう。
 ところが、例えば暴飲暴食等の生活の乱れにより「生活習慣病」を患い医療に頼る国民が、相変わらず後を絶たないのが現実でもある。
 
 一方で、人間とは誰しも「老い」を迎えるものである。 それを個々人が受け入れていく教育も不可欠と私は心得る。
 老化現象により体のあちこちが弱り痛むのは実に辛い現状ではあろうが、だからと言って老人を医療現場に放り投げて検査漬け、薬漬けの老後を歩ませる事が“人の尊厳”であろうはずがない。

 今回のテーマは人それぞれの「死生観」にも直結する課題であろう。
 病的な症状を持ち苦しむ人を掴まえて、「病院へ行く前に、少し自分なりの哲学を持って“死生観”について考えてみましょうよ」などと未熟な私の立場から提唱できるはずもないが、原左都子自身はそのような人生を歩みたいと欲している。

 何て偉そうに言ってみても先だって急逝した我が友のように、明日“蜘蛛膜下出血”で倒れるかもしれないしね……

医療のおごりと限界

2012年03月26日 | 医学・医療・介護
 NHK連続テレビ小説「カーネーション」の主人公糸子が 尾野真千子氏から夏木マリ氏へ交代して後2週間が経過した。

 原左都子がこのドラマを我がエッセイ集に於いて取り上げるのは、今回で4度目と心得る。
 それ程までの「カーネーション」ファンである原左都子の個人的希望としては、尾野真千子氏の小原糸子こそを最終回まで観賞したかった思いだ。 同じ思いの「カーネーション」ファンが全国に大勢存在したと推測するのに、何故NHKはドラマの佳境で主役を交代させたのかと残念無念である。
 主役好演により絶好調の番組に於いて、あえてその主役を降板させねばならなかった答を私が想像するに、NHKと芸能プロダクションの関係等々視聴者には理解不能な裏の事情もあるのだろう。

 夏木マリ氏にバトンタッチした後は、尾野真千子氏の糸子の頃より物語が展開する時代が変わり年月が経過した事にも助けられ、私の感覚としては“別のドラマ”を見ていると頭を切り替えて引き続き楽しむ事にしている。


 さて、その夏木マリ版「カーネーション」に於いて、先週 “医療とファッションのせめぎ合い” とでも表現できそうなストーリーが展開した。
 これが元医学関係者であり、またファッションにも大いに興味がある私にとって実に興味深かったのだ。

 糸子が通院している病院から、患者さん達を元気付ける趣旨で病院内に於いて職員をモデルとしたファッションショーを実施するとの企画を、88歳の高齢にして尚ファッションデザイナーとしての世界を広めている糸子が引き受ける事と相成る。
 その企画に対し、糸子は是非患者にもモデルになって欲しいと病院に提案する。 その糸子の要望に対し、医療を施す側の基本的姿勢の観点から当初難色を示していた病院側であるが、結局は糸子の熱意により患者も対象として病院内でモデルを募集することに踏み切った。
 
 そうしたところ、重症患者も含めて数多くの院内通院・入院患者よりモデル希望が舞い込んで来たのだ。
 その応募書類を眺めつつ、糸子は「今回モデルに応募してくれた患者さんの“生きる希望”をファッションという手段を通じて是非共開花させたい。 だからこそ先が短い重症患者さんにこそモデルになって欲しい」と総看護婦長に訴える。 それに対し山田スミ子氏演じるところの総看護婦長が反論したセリフこそが、病院に勤務する医療従事者たるべく発言だったのではなかろうかと原左都子も心得るのだ。 
 「我々医療従事者には患者の命を守り抜く使命が課せられている。重症患者本人がモデルを志そうと、医療的側面から考察して今現時点で患者が余儀なくされている病状を考慮した場合、我々としては多大に体力を消耗するであろうファッションショーのモデルを許可する訳にはいかない。それも理解願いたい!」 (あくまで私の記憶のみに頼っているため、詳細部分において不正確である点をお詫びする)
 この総看護婦長の反論に対して、如何に糸子が再反論するのだろう?と興味深く見守っていたところ、さすがの糸子もこの場面においては看護婦長の見解に同意する結論となった。
 原左都子にとって一番関心があったたのは、この場面で国営放送局ともいうべきNHKが、ドラマのシナリオ内で総看護婦長に如何なる返答を用意しているのかとのことだった。 その婦長の反論に対し、さらに糸子がどう応じるかに関しても大いなる関心があった。
 そうしたところ、元医学関係者の私の想像と意向通りに会話が展開したことに、ひとまず安心した次第である…。


 さてその後「カーネーション」のドラマの物語が進み、病院ファッションショーの直前の場面となる。
 その場において、今一度ファッションデザイナーである小原糸子と病院の総看護婦長との会話バトルが再燃するのだ。

 これも圧巻だった。
 参考のため私はNHKの朝ドラしかテレビドラマを見ない人種であるが、こんな短時間のドラマに於いても今時は臨床医学面の監修が徹底しているのだろうか?、と実感したのである。
 主人公糸子に先立って発せられた総看護婦長のドラマ内での発言が、明確に脳裏に刻まれた原左都子である。
 「末期癌の患者さんに対して我々医療従事者が何をしてあげられるというのか? 現在の医学・医療が一体如何程のものなのだろう!?  そんな虚しい思いを抱きつつ、それでも我々医療従事者とは患者さんに日々接するのが任務である。 医学を含めた科学の限界を推し量ったならば、医療以外に患者さんを助けられる方策が存在して不思議ではないことなど、我々医療従事者としては重々認識できている事実である……。」 (これもまた原左都子の記憶に頼っているため、不正確な点をお詫びしたい。)


 いやはや、たかがテレビドラマ内でこれ程に現在置かれている医学・医療現場の“おごりと限界”に即した苦悩の現実を語ってもらえるならば、私が当「原左都子エッセイ集」においてその分野のテーマに下手に悪戦苦闘せずに済むというものでもある。

 それにしてもメディアとは、時代や公民の組織を問わず関係機関よりの圧力を大きく受けつつ存在することを余儀なくされている事には違いないであろう。
 そんな中、NHKの一ドラマが(我が国の医師会や製薬会社等々関係諸機関からの今後の圧力に耐えつつも)医学・医療という一般市民にとって最重要であるにもかかわらず一番分かり難い分野のその“おごりと限界”に関して、現在これ程突き詰めた描写・表現力を持つに至っているのを確認出来て大いに喜んでいる私である。

  そんな意味合いに於いても、今週末で終了する「カーネーション」はやはり素晴らしいドラマだったと讃えるべきであろう。

突然届いた訃報

2012年03月24日 | 人間関係
 “訃報”とは、いつの時代もどなた宛にも「突然舞い込んで来る」性質の便りであろう。

 それを承知の上ではあるが、一昨日原左都子の手元に届いた“訃報”は今までの我が人生最大のショックであり、現在も憔悴し切っている…。


 それにしても今年の年度末は、どういう訳か我が身にビックイベントや予期せぬ出来事が次から次へと展開し、我が心身がそれに何とこさついていっているような有様である。

 まずは我が子の高校卒業式に謝恩会。 その通過儀式に於いて親としての役割が一段落した後、今度は恩師の文化勲章叙勲受章お祝いパーティへ出席させていただくことと相成った。
 その3日後のお彼岸の日に訪れた我が嫁ぎ先親族の墓参りにおいては、いよいよ義母の介護の重荷を背負う覚悟を決める段取りとなった事を自覚した。
 来る4月2日には娘の大学入学式に出席予定、引き続いて4月4日に亭主が定年退職を向かえる。 
 それに先立ち来週中のビックイベントとして、アートフェア東京にギャラリーを出展される知人より招待状を頂戴し、オープニングレビューに出席させていただけるスケジュールとなっている。 そのパーティ会場で女優・タレントとしてもご活躍の 画家 城戸真亜子氏 にお目にかかれる予定である。(詳細につきましては、後日当エッセイ集にて報告致します。)

 そのアートフェアに着ていく衣裳でも考えつつ、少しは腰を落ち着けて現在最終段階に入っている娘の大学入学準備課題を応援しようと思っていた矢先、我が身に舞い込んできたのが予期せぬ“訃報”であった。


 “訃報”の差出人は故人のお姉様であられた。

 頂戴したお便りの文面を少し紹介しよう。
 「突然のお便りをお許し下さいませ。 私は○子の姉でございます。
  ○子、2月5日(推定) 蜘蛛膜下出血のため死去いたしました。
  生前仲良くしていただきましたことを、○子より伺っておりました。有難うございます。
  2月23日に身内にて葬儀を執り行いました。
  近く△△霊園にて両親のもとに送ってやりたいと思っております。
  ○子の冥福を祈っていただければ幸甚に存じます。
  ………                            」

 唖然……、 としか表現しようがない。

 この故人を私は「ヨーコちゃん」と呼んで懇親にさせていただいていた。

 私がヨーコちゃんと知り合ったのは、30代後半に新人として赴任した高校教員時代に遡る。 職場の大先輩であり人生の大先輩でもあるヨーコちゃんとはお互いに「独身」という共通項があったことが一番の理由と分析するが、とにかく直ぐに意気投合した。 私よりも13歳年上であられたヨーコちゃんを、そのように呼称しても許されるごとくの仲良しだった。(あちらも私のことをいつも“○ちゃん”と呼んで下さっていた。)

 ヨーコちゃんは「原左都子エッセイ集」のバックナンバーにも匿名、別名で何度か登場しているが、我が黄金独身時代を実質的に支えてくれた第一人者であると言い切れる。 ヨーコちゃんに頼らなくてはおそらく私の独身時代は成り立たなかったと言える程に慕わせていただき、応援いただいた人物である。
 例えば、ヨーコちゃん自身はお酒が一滴も飲めない体質であるにもかかわらず、酒好きな私に付き合って居酒屋やカラオケにもよく同行し一緒に楽しんで下さった。 職場の近くにヨーコちゃんのご自宅があるのをよいことに、仕事帰りに頻繁に立ち寄らせていただいたりもした。 ヨーコちゃんが職場異動した後にも、私は合鍵を持たせてもらい勝手に部屋に上がりこんでヨーコちゃんが作っておいてくれたおでんを温めて酒を飲みつつ、ヨーコちゃんの帰りを待ったりもした。 お母上からご伝授されたと言う手作りの“たまり醤油漬けらっきょ”をヨーコちゃんはいつも常備されており、それをさかなに飲むお酒が何と美味だったことだろう…

 ヨーコちゃんとのお付き合いは、私の婚姻・出産、職場退職後もまだまだ続く。
 私の結婚式は「親族版」と「友人・知人版」を別枠として2本立てで執り行ったのだが、ヨーコちゃんには「親族版」にもご出席いただいた。 何故ならば、上京後の私にとっては遠方に暮らす親族よりも、ヨーコちゃんこそが我が実質的親族であると判断したためである。 それ程までに私にとってヨーコちゃんの存在とは親族よりも濃い間柄だったと表現できるのだ。
 我が娘の誕生直後にも遠路はるばるお起し下さった。 
 40歳にして私が癌を患い闘病を余儀なくされた時に、弱音を吐きたくない私がその現状を一番に知らせたのもヨーコちゃんである。(もう一方「梅さん」とおっしゃる我が尊敬すべき恩人にもお知らせし、ご両人のみに闘病中の私を見舞っていただいたのだが…。)
 その後もヨーコちゃんには我が子の成長を見守っていただいている。 親子でヨーコちゃんのご自宅に押しかけたこともあれば、我が子のバレエの舞台の招待状を送らせていただきご観賞いただいたこともある。

 我が子の中学受験の頃からヨーコちゃんとは少し疎遠となってしまったのだろうか?? 
 それでも、例えば職場の同窓会合に出席する等何らかの用件があれば電話をさせて頂いたり、また年賀状は毎年かかさず投函させていただいていた。 
 2年程前に“目を患った”と訴えれらていたヨーコちゃんである。 その目の症状に関して尋ねたところ「片目は十分見えていて、○ちゃん(私のこと)が送ってくれた年賀状の写真はとても美しいのは分かってるよ!」などと昔ながらに気丈かつご配慮心をもって返答を頂戴したものだ。
  
 その年賀状の返答が今年に限って、律儀なヨーコちゃんから届かない事が大変気掛かりな私と娘だった事には間違いない。
 
 我が子が大学に入学した暁には、じっくりとヨーコちゃんに連絡を取って再会しようと志していた私の判断は、実に残念な事に時既に遅しだった……


 本日、ヨーコちゃんのお姉様宛に“霊園でのご法事には是非共出席させていただきたい”意向のお手紙を綴り投函させていただいた私だ…

 それにしても前回の記事に於いても公開したが、墓前で既に帰らぬ人の冥福を祈ろうがその思いが故人に届かない虚しさを実感させられるのは私だけなのだろうか…。
 私の場合、ヨーコちゃんご生前の時期にご連絡差し上げる手立てが十分あったにもかかわらず、それを一時怠っていた間にヨーコちゃんが死に至ったことが、実に、実に、実に悔やまれるのだ……
 そんな正に“お悔やみ”の思いをせめてもご遺族にお伝えすることが今の私に残された最後の任務と心得て、是非共ヨーコちゃんのご法事には末席に参列させていただきたいと欲している私である……

先祖の供養より遺族の介護が先決問題

2012年03月21日 | 時事論評
 昨日(3月20日)春分の日の彼岸中日に際し、私は久しぶりに嫁ぎ先の墓参りに参上する事と相成った。


 いきなり私事で恐縮だが、我が嫁ぎ先一族の「お墓」の今後のあり方に関して、5年程前に義父が死去して後、義母と義姉の間で壮絶とも言える見解の食い違いが発生した。

 そもそも原左都子の嫁ぎ先の発祥地とは“お江戸日本橋”近辺の地であり、以後ずっと東京をその生活基盤としている。
 それにもかかわらず、先々代(もっと先代の時代かもしれない)の先祖が伊豆の伊東に別荘を建て、現在の伊東駅の近辺に位置する寺を菩提寺にしたことに我が嫁ぎ先の「お墓」の話が遡る。
 
 義父がまだ存命だった頃、この私も二度程義父母と共に家族旅行がてらに静岡県伊東市に位置するその菩提寺を訪れたことがある。 伊豆の海を展望できる高台にある墓地は、海からの潮風が心地よく届く景観の良い立地にあった。
 当時身内との婚姻後年月がまだまだ浅い私としては、(こんな絶好の観光地に菩提寺があるならば、今後年に2度のお彼岸には墓参りがてらに家族旅行が出来てラッキー!)などと、軽薄な発想をするのが関の山だったものだ……

 その後年月が流れ義父の死去後、身内一族で菩提寺のあり方に関する議論が白熱することとなる。
 特に(身内で実質的に一番の権力を誇る)義姉が提案するには、「伊東という遠隔地に菩提寺がある事により発生する無駄な消費金額が多過ぎる。 今時、先祖の供養に余分な多額の出費をする時代ではない。 早急に伊東の墓を撤退するべきだ!」
 一族にとっては部外者である“嫁”の立場の私としては、この件に関して一切の発言を慎むべきとまず判断した。
 それにしても義姉の提案に目を覚ませてもらえた気もした。 ある意味で義姉がおっしゃる通りである。 伊東の菩提寺に存立する墓への出費は寺からの“強制的お布施”等々が年額にして100万円を超える額だったようだ。 これが一旦葬儀ともなると、もっと多額の一時金を寺がぼってくるらしいのだ…
 (ちょっと、政府の宗教法人対策はどうなっているの??  こんな冒涜ぶりを野放図に放置しておいて許されるの?と言いたくなるようなその“お布施”の多額の実態であるぞ。)

 それでも義母の見解にも耳を傾けねばならぬ、いわば第三者的立場の嫁の私である。
 義母曰く、「私は自分が小さい頃から慈しんできた伊東の墓に死後入りたいし、そう思って後々の“お布施”も後世のために溜め込んでいる。 私が死んだ後はお墓をどう処分してもいいが、少なくとも私のお骨は一旦伊東の墓に納めて欲しい…」 (その義母の気持ちも重々分かるのが辛い……

 結果としては、今後何年生き延びるかもしれぬ義母及びそれに付随して発生する多額の“お布施”総額を考慮して、義姉が最終決断を下した!
 その決断とは、やはり伊東の墓は撤退して身内一族の墓を東京都内に即刻移転することだった。
 そしてこの度「集団墓地」と成り下がったものの、都心の義母の住まいのすぐ近くにその移転が叶ったのである…。


 昨日の春分の日に、義母のお誘いによりその「集団墓地」に初めて墓参りした我が一家である。
 墓地自体は「集団お骨格納形式」ではあるものの、とにかく義母が日々歩いて通える場所を選択してくれた義姉のせめてもの粋な計らいに、部外者の私として感謝したい思いであった。


 さて、この話はこれで終わらない。

 もう既に他界した義父を始めとする他の先代先祖に対しては、遺族とは墓前で献花し線香を燃やし手を合わせて少々の涙でも流しつつ拝めば、それで済ませられるから気楽なものとも判断できよう。

 一方、年老いて生きている遺族(すなわち義母)の対策とは如何にあるべきなのか?
 それを我が身として痛感させられたのが、昨日の墓参りであった。

 と言うのは、義母がしばらく会わないうちに急激に老いぼれて、今や歩行が困難状態にまで落ちぶれていたのだ…
 2ヶ月に一度程の会合を持っている我が家と義母だが、いつも義母が招待してくれる食事処で座って飲み食いする会合を重ね、その後も義母はタクシーを利用して帰宅していたため、不覚にもその足の衰えにほとんど気付かないでいた…。
 義母ご自身はよく電話にて「そろそろケアつき老人施設に入った方がいいかも」と我々一家に訴えていたのに対し、「そんなに急ぐ必要はないですよ」などと適当に返していた私なのだが、昨日一緒に墓参りをしてそうは言っていられない事態に直面させられ驚いた始末だ。
 墓地へ行くに当たり義母の自宅近くの駅で待ち合わせをして、JR山手線の電車に乗るその階段の手すりに身を委ね一歩一歩昇る義母…。 咄嗟にその片腕に手を沿えた私であるが、その手が墓地に到着するまで危なっかしくて離せやしないのだ…。 すなわち義母は、公道を一人で歩行することすら困難状態であったのだ。
 こんな身で日常生活を一通りこなすのは到底無理と判断した私は、今後の対策をそろそろ練るべき旨を勇気を持って義母に直言した。
 今までなら、「何言ってるの!私はまだ一人で生きていける!」と反論するはずだった義母が、「もう本気でケアつき老人施設へ入居したい」と改めて訴えてくる。
 こうなるともう潮時なのかもしれない。
 我が娘が4月に大学に入学したら、早速義母のケア施設見学等に付き添うことになり、私の身にもいよいよ老人介護対応の課題が直撃することになりそうだ。


 先祖の墓のあり方など“待った”をかけられる余裕期間が長いし二の次でよいと思うがが、親族の老人介護対応とは今後の命の短小さを慮った場合、“待った”がかけられない程切羽詰まっているのが現実ではなかろうか?

 「介護制度」の導入により、自宅で老人の介護をする人は減少しているのかもしれない。  それでも我が実親も含めて身近に存在している体の不自由な老人が、出来る限り幸せな老後を送って欲しい思いには変わりない。
 年老いた親の介護を自宅で親族が引き受けるのが一番の幸せとの、ある意味で次世代にとって“脅迫的親孝行押付け道義”も今となっては過去の所産であろう。  そんな時代背景を勘案しつつ、我が親族老人達の今後一番の幸せを願いつつ、生きる場や方策を共に模索したいものである。