今回の我がエッセイテーマは、決して元旦を迎えるには相応しい内容ではない事実を冒頭から断りしておく。
実は3年程前から、私は某臨床医師先生(M先生とさせて頂こう)を尊敬申し上げていた。
当該gooに医学関連専門記事ブログを公開されているM医師先生より、我が「原左都子エッセイ集」に読者登録を頂戴したのは、2016年の事だった。
ブログの紹介文を読ませて頂くと、何でも「60代に臨床医にして心筋梗塞にて倒れたものの、その現場がご自身の臨床職場だった故に一命を取止めた」」云々とある。
ついでにM先生のブログ読者を拝見すると。 これが何故か「医学」ド・ド素人の(高齢域に達した??)女性ばかりではないか!!
この現状に正直申し上げてゲンナリさせていただいているうちに月日が過ぎ去り…。
何がきっかけだったかの記憶が薄れているのだが…
私の方からもM先生宛に「読者登録」をさせて頂いた後に、こちらから初コメントを記入させていただいたところ。
M先生よりの初コメント返答が、今でも忘れられない。
「原左都子さんからは初コメントでしたか? ずっと以前よりお知り合いだったような感覚です」云々の回答を頂戴した。
このご返答に気を良くした私は、その後M先生のブログに随時コメントを入れさせて頂く事と相成った。
例えば、M先生が1995年1月17日に勃発した「阪神神戸大震災」直後に医療ボランティアとして現地に駆けつけられたブログ記事を読み、大いに感動した私は。
「M先生は、あの日医療ボランティアとして現地で活躍されたのですね! 」と題するコメントを記入させて頂くと共に、2018-01-17の我がエッセイテーマとしてその内容を記載し公開させて頂いた。
その内容のごく一部を反復させていただくと。
阪神大震災時のボランティア活動に際し、「余りの状況に足が動かなかった事」、さらにはそれを被災者の皆さんが支えて下さり励まされたとのご記述。 その現実をあれから23年が経過した今、赤裸々に語られるM先生の素晴らしさに感激申し上げました! 等々の記載をさせて頂いた。
これに対し、2018-01-17 22:14:46に頂いたM先生のご回答とは。
原さん、今晩は。
あの日、偶然にも夜勤でした。仮眠中の物凄い揺れに驚いたものでした。 幸い当病院の建物に被害は無く。 幾らか冷静さを取り戻したのですが、神戸への入り口に充、尼崎市の病院には懇意にしている医者が居りその人に連絡をいれました。 偶然にも夜勤でした。 彼の病院は被害は軽微であること、神戸の方の状況は不明であること、分かり次第連絡をしてくれるということでした。
夜勤明けの看護師たちと話し合い、勤務開けに緊急の医療資材の確認やそれを持ち出すことが可能か、などを手分けして行う、同時に足の確保などを話し合い等‥準備を整える作業に入りました。
尼崎から連絡が入り、4病院が倒壊の恐れがあること、また病院の多くが臨時的に野戦救護所的に運営されつつある事など、また「合流したい」との申し出もあり、私たちは平常勤務の医師との申し送り(時間前だったが)も済ませ、尼崎に向かいました。
合流場所の阪神尼崎駅からは、緊急チームが急遽編成され、自己紹介もそこそこに彼らの道案内で長田地区に向かいました。
後はもう何が何だか分からないままに、動いていました。 現地では、野戦救護所みたいな状況でしたが、病院関係者の手伝い、消防や警官のグループに合流、応急処置と病院への橋渡し役などを手分けして行ったのを記憶しています。
現地では、被災をしたけれど比較的軽症だった人たちが中心になって、倒壊した家屋、火災した家屋の確認や、行方不明となっている人の捜索などが行われていました。
というような状態でしたが。 取り敢えず「動けた」ことに、幾らか「使命の一端を担えることが出来た」のではないかと自負もしています。
私は緊急医からその一歩を踏み出していたので、その点は自然に動けたとも言えます。
長くなりましたが、今から23年前の出来事はある意味私の原点の一つでもあります。
折に触れ、3・11とかなりの部分重なり合うのですが、これからも記述していこうと考えています。
(以上、臨床医M先生宛に記したコメントに頂いた返答だが、これ程までに誠意ある詳細のご回答を頂戴した。)
これなど、ほんの一例に過ぎない。
ただ一ブログファンからのコメント返答として、ご自身の臨床医師としての“極み”を語って下さったM先生の人生の一部に私は魅了されたものだ。
その後もM先生のキャパシティの大きさに甘えさせて頂いた私は、好き勝手なコメントを入れさせていただいた。
その最後のM先生よりのコメントへ返答させて頂いた我がコメントが、M先生との最後の交流となった。
その我がコメント文章を以下に紹介させて頂こう。
パラメディカル分野で医学を学んだ私ですが、もしも我が学生時代にM先生の「講義」を拝聴できたならば、基礎医学方面ではなく臨床現場への就職も視野に入れたかもしれません。
当時の(特に私が学んだ過疎地では?)医学教育に於いて、“患者さんと如何に向き合うか、等々「医療倫理」分野の教育が全くなされていなかった記憶があります。 その意味で医学教育も進化を遂げている感覚を抱きます。
患者としてのM先生が周囲の医療チームに恵まれておられるのは、M先生のご人格の賜物でしょう。 “類は友を呼ぶ”と申しますか、M先生のお弟子さん医師先生達が、先生の教えを受け継がれている様子が十分に伝わりました。 確かにM先生は“恵まれた患者さん”かもしれません。 M先生はそんな恵まれた医療体制の下、今後も急速に快方に向かわれる事でしょう! 雑談の中に重要な命題がある事を、私も日頃よく経験します。
(以上、私と臨床医M先生との最後の交流コメントを紹介したもの。)
「医学」分野出身の原左都子が、臨床医師先生であられるM先生とgooブログ上で交流させて頂いてわずか3年足らずだ。
その間に、M先生より学ばせて頂いた功績の程は絶大だ。
本日2018.12.31の大晦日に、突然ブログを閉鎖(終焉)されたM先生。
その行動に出た(?)M先生のポリシーが痛い程理解出来る気もする一方。
やはり辛くも悲しくもある。 せめて、M先生が生命を繋げておられる事を私は信じ続けたい…。
実は3年程前から、私は某臨床医師先生(M先生とさせて頂こう)を尊敬申し上げていた。
当該gooに医学関連専門記事ブログを公開されているM医師先生より、我が「原左都子エッセイ集」に読者登録を頂戴したのは、2016年の事だった。
ブログの紹介文を読ませて頂くと、何でも「60代に臨床医にして心筋梗塞にて倒れたものの、その現場がご自身の臨床職場だった故に一命を取止めた」」云々とある。
ついでにM先生のブログ読者を拝見すると。 これが何故か「医学」ド・ド素人の(高齢域に達した??)女性ばかりではないか!!
この現状に正直申し上げてゲンナリさせていただいているうちに月日が過ぎ去り…。
何がきっかけだったかの記憶が薄れているのだが…
私の方からもM先生宛に「読者登録」をさせて頂いた後に、こちらから初コメントを記入させていただいたところ。
M先生よりの初コメント返答が、今でも忘れられない。
「原左都子さんからは初コメントでしたか? ずっと以前よりお知り合いだったような感覚です」云々の回答を頂戴した。
このご返答に気を良くした私は、その後M先生のブログに随時コメントを入れさせて頂く事と相成った。
例えば、M先生が1995年1月17日に勃発した「阪神神戸大震災」直後に医療ボランティアとして現地に駆けつけられたブログ記事を読み、大いに感動した私は。
「M先生は、あの日医療ボランティアとして現地で活躍されたのですね! 」と題するコメントを記入させて頂くと共に、2018-01-17の我がエッセイテーマとしてその内容を記載し公開させて頂いた。
その内容のごく一部を反復させていただくと。
阪神大震災時のボランティア活動に際し、「余りの状況に足が動かなかった事」、さらにはそれを被災者の皆さんが支えて下さり励まされたとのご記述。 その現実をあれから23年が経過した今、赤裸々に語られるM先生の素晴らしさに感激申し上げました! 等々の記載をさせて頂いた。
これに対し、2018-01-17 22:14:46に頂いたM先生のご回答とは。
原さん、今晩は。
あの日、偶然にも夜勤でした。仮眠中の物凄い揺れに驚いたものでした。 幸い当病院の建物に被害は無く。 幾らか冷静さを取り戻したのですが、神戸への入り口に充、尼崎市の病院には懇意にしている医者が居りその人に連絡をいれました。 偶然にも夜勤でした。 彼の病院は被害は軽微であること、神戸の方の状況は不明であること、分かり次第連絡をしてくれるということでした。
夜勤明けの看護師たちと話し合い、勤務開けに緊急の医療資材の確認やそれを持ち出すことが可能か、などを手分けして行う、同時に足の確保などを話し合い等‥準備を整える作業に入りました。
尼崎から連絡が入り、4病院が倒壊の恐れがあること、また病院の多くが臨時的に野戦救護所的に運営されつつある事など、また「合流したい」との申し出もあり、私たちは平常勤務の医師との申し送り(時間前だったが)も済ませ、尼崎に向かいました。
合流場所の阪神尼崎駅からは、緊急チームが急遽編成され、自己紹介もそこそこに彼らの道案内で長田地区に向かいました。
後はもう何が何だか分からないままに、動いていました。 現地では、野戦救護所みたいな状況でしたが、病院関係者の手伝い、消防や警官のグループに合流、応急処置と病院への橋渡し役などを手分けして行ったのを記憶しています。
現地では、被災をしたけれど比較的軽症だった人たちが中心になって、倒壊した家屋、火災した家屋の確認や、行方不明となっている人の捜索などが行われていました。
というような状態でしたが。 取り敢えず「動けた」ことに、幾らか「使命の一端を担えることが出来た」のではないかと自負もしています。
私は緊急医からその一歩を踏み出していたので、その点は自然に動けたとも言えます。
長くなりましたが、今から23年前の出来事はある意味私の原点の一つでもあります。
折に触れ、3・11とかなりの部分重なり合うのですが、これからも記述していこうと考えています。
(以上、臨床医M先生宛に記したコメントに頂いた返答だが、これ程までに誠意ある詳細のご回答を頂戴した。)
これなど、ほんの一例に過ぎない。
ただ一ブログファンからのコメント返答として、ご自身の臨床医師としての“極み”を語って下さったM先生の人生の一部に私は魅了されたものだ。
その後もM先生のキャパシティの大きさに甘えさせて頂いた私は、好き勝手なコメントを入れさせていただいた。
その最後のM先生よりのコメントへ返答させて頂いた我がコメントが、M先生との最後の交流となった。
その我がコメント文章を以下に紹介させて頂こう。
パラメディカル分野で医学を学んだ私ですが、もしも我が学生時代にM先生の「講義」を拝聴できたならば、基礎医学方面ではなく臨床現場への就職も視野に入れたかもしれません。
当時の(特に私が学んだ過疎地では?)医学教育に於いて、“患者さんと如何に向き合うか、等々「医療倫理」分野の教育が全くなされていなかった記憶があります。 その意味で医学教育も進化を遂げている感覚を抱きます。
患者としてのM先生が周囲の医療チームに恵まれておられるのは、M先生のご人格の賜物でしょう。 “類は友を呼ぶ”と申しますか、M先生のお弟子さん医師先生達が、先生の教えを受け継がれている様子が十分に伝わりました。 確かにM先生は“恵まれた患者さん”かもしれません。 M先生はそんな恵まれた医療体制の下、今後も急速に快方に向かわれる事でしょう! 雑談の中に重要な命題がある事を、私も日頃よく経験します。
(以上、私と臨床医M先生との最後の交流コメントを紹介したもの。)
「医学」分野出身の原左都子が、臨床医師先生であられるM先生とgooブログ上で交流させて頂いてわずか3年足らずだ。
その間に、M先生より学ばせて頂いた功績の程は絶大だ。
本日2018.12.31の大晦日に、突然ブログを閉鎖(終焉)されたM先生。
その行動に出た(?)M先生のポリシーが痛い程理解出来る気もする一方。
やはり辛くも悲しくもある。 せめて、M先生が生命を繋げておられる事を私は信じ続けたい…。