「原左都子エッセイ集」昨日の “Popular Entries” に、ほぼ3年前の2013.4.17 に公開した 「患者を『病名』で縛るより、患者の苦悩と向き合おう」 と題するバックナンバーがエントリーしていた。
このエッセイは、元医学関係者である原左都子の“現在実施されている医療に対する反論及び自己のポリシー”を綴り公開した内容である。
私自身が久々に読み返して、3年前の我がポリシーに今尚揺らぎがないことを再確認した。
早速その一部を以下に要約して紹介しよう。
近頃、メディアを通して聞き慣れない疾患名に接する機会が多い。 それが命にかかわる病であったり、周囲よりの介助を要する程の重篤な症状が出現する病である場合、その疾患名を公にして世に広く知らしめる必然性もあろう。
一方、「何となくだるい」「疲労がたまっている」「多少の不安感がある」「気分がすぐれない」 等々…… これら、疾患と言うよりも、一過性の心身体調不良症状を訴える患者をすぐさま検査漬けにした後に「疾患名」を宣告し、大量投薬を施し続けるのが、現在の医療界が安直に実施している“医療”の現状でもあろう。
もちろん、上記のごとくの“何となく”の症状から始まる重篤な疾患もある。 それ故に何らかの不調を感じたらとりあえず病院へ出向き、医師の診断及び指導を仰ぐ事は、一般人にとってとりあえず「正しい行動」と言うべきなのであろう。
その後が肝要だ。
もしも自らが最初に経験した体調不良症状が軽減したならば、それで一旦医療依存を休止するとの選択肢もあるのではなかろうか。 ところが一般人が取る行動とはそうではない。 医療機関(特にその頂点の立場の医師)の指示こそが自分の命を救う最大の拠り所と捉え、いつまでも病院通いを続けてしまう…。 もちろん、来所してくる一人ひとりの患者と真に向き合っている医療機関もこの世に存在する事であろう。 ただ、現在医療機関がどれ程混み合っているかの実態を直視しただけでも、悲しいかな患者に対する手薄な対応の現実・実態が推し量れるものと私は判断しているのだが…
( 中 略 )
一例として、受診した病院より「全般性不安障害」なる(聞き慣れない)病名を叩きつけられる事自体で、一般市民の皆さんの場合、ご自身の症状が重くなるのではあるまいか? 朝日新聞相談コーナーの場合、相談医師氏が親切な方のご様子で「認知行動療法」、すなわち日常において体を動かしたり趣味を見つける等々で不安を少なくする事を示唆されておられるのが幸いではあるのだが…
医療の役割とは、決して一般市民にいきなり「病名」を突きつけて患者を脅す事ではあるまい。
「病名」に依存する医療組織・体制ではなく、患者一人ひとりが抱える「苦悩」にこそ、医療に従事する人々が真に寄り添える医療現場であって欲しいものだ。
(以上、「原左都子エッセイ集」2013.4.17 バックナンバーより一部を引用したもの。)
さて、ここで私事に入らせていただこう。
現在高齢者有料介護施設に入居している義母の場合、施設と提携している医療機関にいつもお世話になっているようだ。 年に何度か当該医療機関より施設へ医師が派遣され、簡単な問診等の診察が実施されている様子である。
つい先だって義母が暮らす施設へ訪れたところ、義母から聞き捨てならない言葉が発せられた。
義母曰く、「あのね○子さん(私のこと)、つい最近医師が私のところへやって来て診察を受けたの。 その前にその医師が書いた前回の『診療のご報告』を見たら、“認知症状が少しみられます。進行を遅延させるための内服の希望があればお申し出下さい。”と書かれていたから、私は急いでその薬を頼んだのよ。」
その義母の談話に驚いた私は、すぐさま、前回の「診療のご報告」とやらを見せて欲しいと義母に指示した。
確かにその文言が書かれているのを確認した私は、再び義母に尋ねた。 「担当医師は、お義母さんのその要求に応じたのか?!?」 そうしたところ、義母から返って来た回答に結果として更に驚かされるはめとなった。
担当医師曰く、「現在既に(義母が)薬を飲み過ぎているから、認知症の薬を飲む場合は他の薬を減らす必要がある。それを何にしようか迷うのだが、大腸炎の薬を減らしましょうか?」 (私論だが、そこまでは許せるとして)、それに応えて義母曰く「それを減らされては困る!」
結果として、担当医師は認知症薬を追加したとの事だ。
ここで一旦私論に入ろう。
いや、分かるよ。 人生経験不足の若手医師など、極論を言えば認知症高齢者など家族は死んでもよいと考えていると判断しているのではあるまいか!?
家族としての本音を言えば、それでもよいであろう。 ところが医学を志した医師ならばもっと細部にまで気配りが欲しいものだ。
実際問題、高齢者を抱える家族の身としては高齢身内の「死に方」こそが肝心だよ。 私が想像するに、薬の副作用程度では高齢者とてすっきりと死に至れないだろう。 そうした場合、高齢者を薬の副作用で苦しめるよりも、取るべき手段は他にあるだろうと言いたくもなる。
ここで、義母が現在投薬されている「疾患」の数々を紹介しよう。
「高血圧」 「腰部脊柱管狭窄症」 「骨粗鬆症」 「うつ症状」 「不安神経症」 「過敏性大腸炎」 「胆石症」 「緑内障」 「尿鮮血」
これらはすべて、医学の心得が一切ない義母が体調を崩した時点で即刻医師に受診し続けた結果、診断されてしまった「病名」の数々だ。 私に言わせてもらうならば、これらのうちほとんどは「病気」と言うよりも「老化現象」の範疇であろう。 あるいは、大量投薬の副作用にて二次的に発生した症状の恐れも高い。
若い頃より医療依存度が高くめくら滅法医者にかかっている義母だが、どうしてその受診を義母にやめさせなかったのか! と亭主に迫ってみたとて、義母の血筋である我が亭主も今現在医療に頼る日々だ…
とりあえず私が採れるべき手段として、施設看護師氏に「今回義母がお願した認知症内服薬の処方を中止してもらえないか」と尋ねた。
そうしたところ、それが可能との看護師氏の返答に一旦安堵した私だ。
更には、次回の義母担当医受診時に私が同席したい旨を告げて、義母の介護施設を後にした。
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
高齢者医療とは、特に本人に「認知症状」がある場合、担当医師も困難を極めるであろう事は想像がつく。
それでも医療の基本とはまさに、「患者を病名で縛るより、患者の苦悩と向き合う」事ではあるまいか?
いや、それでも私は重々理解しているよ。 確かに「信じる者は救われる」との医療の観点も。
医師が処方する薬さえ飲んでいれば、本気で病気が治ると信じている市民がほとんどなのであろう。
高齢者に劇薬を沢山盛ったところで、副作用に苦しめられたとて基本的に死に至る病状では無い高齢者はすぐさま死なないだろう。 ただそれを医療機関(医師)から無責任に大量処方された続けた場合、劇薬副作用の程が更なる認知症状に拍車をかけるのではないかと、恐れる私だ。
このエッセイは、元医学関係者である原左都子の“現在実施されている医療に対する反論及び自己のポリシー”を綴り公開した内容である。
私自身が久々に読み返して、3年前の我がポリシーに今尚揺らぎがないことを再確認した。
早速その一部を以下に要約して紹介しよう。
近頃、メディアを通して聞き慣れない疾患名に接する機会が多い。 それが命にかかわる病であったり、周囲よりの介助を要する程の重篤な症状が出現する病である場合、その疾患名を公にして世に広く知らしめる必然性もあろう。
一方、「何となくだるい」「疲労がたまっている」「多少の不安感がある」「気分がすぐれない」 等々…… これら、疾患と言うよりも、一過性の心身体調不良症状を訴える患者をすぐさま検査漬けにした後に「疾患名」を宣告し、大量投薬を施し続けるのが、現在の医療界が安直に実施している“医療”の現状でもあろう。
もちろん、上記のごとくの“何となく”の症状から始まる重篤な疾患もある。 それ故に何らかの不調を感じたらとりあえず病院へ出向き、医師の診断及び指導を仰ぐ事は、一般人にとってとりあえず「正しい行動」と言うべきなのであろう。
その後が肝要だ。
もしも自らが最初に経験した体調不良症状が軽減したならば、それで一旦医療依存を休止するとの選択肢もあるのではなかろうか。 ところが一般人が取る行動とはそうではない。 医療機関(特にその頂点の立場の医師)の指示こそが自分の命を救う最大の拠り所と捉え、いつまでも病院通いを続けてしまう…。 もちろん、来所してくる一人ひとりの患者と真に向き合っている医療機関もこの世に存在する事であろう。 ただ、現在医療機関がどれ程混み合っているかの実態を直視しただけでも、悲しいかな患者に対する手薄な対応の現実・実態が推し量れるものと私は判断しているのだが…
( 中 略 )
一例として、受診した病院より「全般性不安障害」なる(聞き慣れない)病名を叩きつけられる事自体で、一般市民の皆さんの場合、ご自身の症状が重くなるのではあるまいか? 朝日新聞相談コーナーの場合、相談医師氏が親切な方のご様子で「認知行動療法」、すなわち日常において体を動かしたり趣味を見つける等々で不安を少なくする事を示唆されておられるのが幸いではあるのだが…
医療の役割とは、決して一般市民にいきなり「病名」を突きつけて患者を脅す事ではあるまい。
「病名」に依存する医療組織・体制ではなく、患者一人ひとりが抱える「苦悩」にこそ、医療に従事する人々が真に寄り添える医療現場であって欲しいものだ。
(以上、「原左都子エッセイ集」2013.4.17 バックナンバーより一部を引用したもの。)
さて、ここで私事に入らせていただこう。
現在高齢者有料介護施設に入居している義母の場合、施設と提携している医療機関にいつもお世話になっているようだ。 年に何度か当該医療機関より施設へ医師が派遣され、簡単な問診等の診察が実施されている様子である。
つい先だって義母が暮らす施設へ訪れたところ、義母から聞き捨てならない言葉が発せられた。
義母曰く、「あのね○子さん(私のこと)、つい最近医師が私のところへやって来て診察を受けたの。 その前にその医師が書いた前回の『診療のご報告』を見たら、“認知症状が少しみられます。進行を遅延させるための内服の希望があればお申し出下さい。”と書かれていたから、私は急いでその薬を頼んだのよ。」
その義母の談話に驚いた私は、すぐさま、前回の「診療のご報告」とやらを見せて欲しいと義母に指示した。
確かにその文言が書かれているのを確認した私は、再び義母に尋ねた。 「担当医師は、お義母さんのその要求に応じたのか?!?」 そうしたところ、義母から返って来た回答に結果として更に驚かされるはめとなった。
担当医師曰く、「現在既に(義母が)薬を飲み過ぎているから、認知症の薬を飲む場合は他の薬を減らす必要がある。それを何にしようか迷うのだが、大腸炎の薬を減らしましょうか?」 (私論だが、そこまでは許せるとして)、それに応えて義母曰く「それを減らされては困る!」
結果として、担当医師は認知症薬を追加したとの事だ。
ここで一旦私論に入ろう。
いや、分かるよ。 人生経験不足の若手医師など、極論を言えば認知症高齢者など家族は死んでもよいと考えていると判断しているのではあるまいか!?
家族としての本音を言えば、それでもよいであろう。 ところが医学を志した医師ならばもっと細部にまで気配りが欲しいものだ。
実際問題、高齢者を抱える家族の身としては高齢身内の「死に方」こそが肝心だよ。 私が想像するに、薬の副作用程度では高齢者とてすっきりと死に至れないだろう。 そうした場合、高齢者を薬の副作用で苦しめるよりも、取るべき手段は他にあるだろうと言いたくもなる。
ここで、義母が現在投薬されている「疾患」の数々を紹介しよう。
「高血圧」 「腰部脊柱管狭窄症」 「骨粗鬆症」 「うつ症状」 「不安神経症」 「過敏性大腸炎」 「胆石症」 「緑内障」 「尿鮮血」
これらはすべて、医学の心得が一切ない義母が体調を崩した時点で即刻医師に受診し続けた結果、診断されてしまった「病名」の数々だ。 私に言わせてもらうならば、これらのうちほとんどは「病気」と言うよりも「老化現象」の範疇であろう。 あるいは、大量投薬の副作用にて二次的に発生した症状の恐れも高い。
若い頃より医療依存度が高くめくら滅法医者にかかっている義母だが、どうしてその受診を義母にやめさせなかったのか! と亭主に迫ってみたとて、義母の血筋である我が亭主も今現在医療に頼る日々だ…
とりあえず私が採れるべき手段として、施設看護師氏に「今回義母がお願した認知症内服薬の処方を中止してもらえないか」と尋ねた。
そうしたところ、それが可能との看護師氏の返答に一旦安堵した私だ。
更には、次回の義母担当医受診時に私が同席したい旨を告げて、義母の介護施設を後にした。
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
高齢者医療とは、特に本人に「認知症状」がある場合、担当医師も困難を極めるであろう事は想像がつく。
それでも医療の基本とはまさに、「患者を病名で縛るより、患者の苦悩と向き合う」事ではあるまいか?
いや、それでも私は重々理解しているよ。 確かに「信じる者は救われる」との医療の観点も。
医師が処方する薬さえ飲んでいれば、本気で病気が治ると信じている市民がほとんどなのであろう。
高齢者に劇薬を沢山盛ったところで、副作用に苦しめられたとて基本的に死に至る病状では無い高齢者はすぐさま死なないだろう。 ただそれを医療機関(医師)から無責任に大量処方された続けた場合、劇薬副作用の程が更なる認知症状に拍車をかけるのではないかと、恐れる私だ。