原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

会話における実感と言葉とのギャップ

2009年11月30日 | 人間関係
 私が今現在、現実世界で人と会話して一番の充実感が得られる相手はおそらく“我が娘”であるように思う。
 娘が幼少の頃からずっと母である私が「お抱え家庭教師」をしつつ育ててきているという特殊事情のある親子関係であるため、娘より“絶大な信頼”を得ている実感が持てる私である。 それ故に、娘が高校生という一種難しい年頃になっているにもかかわらず、今尚娘とは大の仲良しであり会話も大いにはずむのだ。 外では口数の少ない娘であるが、家庭では私相手に大いに弾けてお喋りを楽しみ親子で笑い転げる日々である。
 我が娘との会話においては、実感として思っていることと口にしている言葉とのギャップ感はほとんどなく、“ツーカー”で通じ合っている感覚が持てる親子関係を築けてきた歴史を幸せと捉える私である。


 さて、11月28日(土)朝日新聞夕刊“こころ”のページの“悩みのレッスン”は、28歳会社員男性による「本音を話せない」と題する相談だった。
 私の場合、他者に対して「本音を話せない」との感覚自体もなきにしもあらずなのだが、それ以前の問題としてこの男性の相談内容の一部が、人との会話において私が日常経験している感覚とピッタリ重複するのだ。
 今回の相談の中からその“ピッタリ重複”部分のみをピックアップして、以下に紹介することにしよう。

 私は話をするときに、実感として思っていることと口にする言葉のギャップがあるような気がして、居心地の悪さを感じている。表面的な話はできるが、どうも薄っぺらく、ウソっぽい感じがする。 例えば何かを見たり読んだりしたあとの感想を聞かれると困る。できるだけ伝わるようにしたいと思うが、うまくできた実感が持てない。他人との会話においても、本音で話していないような気がする。
 (以上、“悩みの相談”内容より一部のみ抜粋引用)


 私論に入るが、相談の上記の部分に関してまったく同感である。

 私も既に中学生位の思春期頃から同様の感覚があり、今尚他者との会話等においてこの種のジレンマ感が否めない場面が多いのだ。

 もしかしたら、会話の場面において常に自己表現に意欲的で多弁な人とは、自己の内面に抱いている情景や感覚を言葉というツールに置き換えることが得意で、リアルタイムでいくらでも対面している他者相手に、自己を十分に表出することが可能であるのかもしれない。
 ところが人間関係を客観的に捉え、他者が共存する時間空間の中で自己があるべき立場の整合性を取るべく相対性を描いてしまう人種にとっては、その場でどのような対応をするのがベストか、などという命題が常に脳裏を過ぎってしまうのである。
 そんな私のような(“客観性”があると豪語させていただくが)人種が全体の整合性を捉えようとして発言を見計らっている合間に、先導力があって(?)多弁な人の独断場となってしまうのが、人間同志のあらゆる会話の場における現実であり宿命であるのではなかろうか。 
 ただ、場をわきまえず自己を小集団内で披露して喋り続ける人種が展開する話とは、大抵の場合は独りよがりでつまらない内容であり、端で聞いていて忍びない場合がほとんどであるのも事実ではなかろうか。

 そもそも人間が複数集まる会合の場において先導を切って喋り続ける“多弁型人種”が「実感と言葉のギャップ感」に悩むことなどあるのだろうか?? 恐らくそういう感覚を持ち得たためしがないからこそ、他者相手に一人で延々と喋り続けられるのであろう。 その種の人種が一体全体、如何なる内在心理や思想を抱えて生きているのか、それで満足し得る人生を歩めているのか解明したい気もする私である。


 相談内容の後半部分であるが、「何かを見たり読んだりした後の感想を“直後”に聞かれると困る」に関しても、まったく同感の私である。
 既に小学生時代から、私もその感覚に悩んでいたものである。 例えば、国語や道徳の授業で何らかの教材を見聞した直後に「皆さんはどう思いますか?」と担任が尋ねる。それに即座に我先に「ハイ!」「ハイ!」と反応する単純な生徒が何とまあ、多いこと…  私など、当時から物事を多角的、論理的に捉えようとする心理習慣があったがために即答など出来やしないのだ。 それで時間をかけてあれこれと思いを巡らせていると、必ずや担任から「○○ちゃん(私のこと)も積極的に発表しなきゃダメよ!」  (もう、勘弁してよ…) の心理状態を引きずったものである。


 今の時代は言葉による“プレゼンテーション力”も重要とのことで、小学生時代から義務教育のすべての子ども達に「発表力」を習得させるべく国語教育も展開されているようである。 その“成果”であるのか? 確かに、若い世代に「発表力」が育ってきているような場面にも出くわす。
 ところが、実は一番肝要なのはそのプレゼンテーションの“内容”であるということが、まだ義務教育段階では認識されていないように見受けられるのだ。 独りよがりに何を喋っても認められる訳がないことを教育せずして、ただただプレゼンテーションとは“人前で堂々と話す度量”との教育は意味をなさないことを教育関係者は再確認するべきである。


 人との“会話における実感と言葉のギャップ”に悩むごとくの繊細さ緻密さや他者に対する配慮こそが豊かな会話関係、ひいては人間関係を創りゆくことを学習して、真に充実した会話を日々楽しもうじゃないですか。
       
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肝炎患者のみ救済して済まない

2009年11月28日 | 時事論評
 薬害肝炎患者を救済すること自体に異議を唱えようとしている訳ではないのだが、どうも今回「肝炎対策法案」が衆院本会議で可決された“経緯”に関して、個人的に釈然としないわだかまりがあるのだ。

 全国に約350万人いるとされるウィルス性肝炎患者の医療体制の整備を盛り込んだ肝炎対策基本法案が、11月26日に衆院本会議で可決された。今後参院に送られて、今国会で成立する見込みである。
 この法案の骨子として、肝炎ウィルス感染の一部に国の責任があることや、国や地方公共団体において肝炎対策を進める責務があること、厚労相が肝炎対策の基本指針をつくること等々が盛り込まれている。 この法案成立により、肝炎患者の経済的負担を軽減したり肝炎予防策が推進されることにとなる。
 (以上、朝日新聞記事より抜粋)


 既にご存知の方も多いであろうが、この法案を成立させる目的で今回民主党衆院議員として立候補し初当選したのが、元薬害肝炎九州訴原告団代表の福田衣里子氏である。
 この人物、(あくまでも個人的な好みの範疇の話に過ぎないが)原左都子としてはどうも“いけ好かない”のだ。
 年齢未だ28歳! という若さ。 外見もまずまずと言ったところだが同性から見ても“一応いけてる”範疇であろう。 (その“一応いけてる”外見故と断言するが)例外なく小沢氏に打診されて立候補し当選した“小沢ガールズ”(“小沢チルドレン”とも言われている)の一員である福田氏が、その“ガールズ”の中で一番の「正統派」扱いでマスメディアで取り上げられているのだ。 なぜ「正統派」扱いなのか??  それは自ら薬害肝炎と闘病した過去を売り物にして、同じ薬害に苦しむ患者を代表して闘っている姿を前面に演出しての立候補だったからに他ならない。

 ここでちょっと言いにくいことをはっきり言わせていただくと、原左都子は“過去の不幸”を売り物にしてのし上がろうとする人間には、基本的に大いなる嫌悪感を抱くのだ。 それがたとえ病気であろうと容赦ない。(当ブログのバックナンバー「癌をいつまでも売り物にするな!」を参照下さい。この私だって、癌闘病を経て手術後の傷跡という置き土産を体に抱えつつ今尚力強く生き抜いているのだが、それを売り物して世にのさばろうなどという発想は毛頭ない、…とのごとくの詳細について述べております。)

 ところが、どうもこの国の国民性として“お涙ちょうだい”が未だに好まれるようなのである。 福田氏が今回の法案通過の“実績”を上げる以前より“小沢ガールズ”の中で一番注目されているのは、選挙以前より単に“お涙ちょうだい力”が大きいだけの要因なのではなかろうか。 それが証拠に福田氏のバックグラウンドを調べさせていただところ、寂しいことに国会議員に当選するべく実績が「薬害肝炎」以外に何一つないのだ。
 
 しかも私は憶えているぞ。
 福田氏は、国会議事堂初登庁時のマスメディアのインタビューに応えて「“先生”とは呼ばないで“えりちゃん”と呼んで下さい。」……  今時、国会議員を「先生」などとは国民の誰一人として奉ってもいないのに、あの若さにしてその時代錯誤のコメントに、聞いている方が恥ずかしかった思いである。 この人物はどうも「先生」と呼んで欲しい深層心理の持ち主のようで、民主党新人議員がまだ自粛段階に雑誌のグラビアに登場したりもして、いかにも自己顕示欲が強そうな若造である。
 (所詮まあ、国会議員になりたい人種とは大なり小なり自己顕示欲が強いのだろうけどねえ… )

 福田衣里子氏に関しては、今後くれぐれも国民の血税からなる多額の国会議員歳費特権を無駄にすることなきよう、議員任期中は薬害肝炎“以外の分野”の勉強にも精進なさることに期待申し上げよう。


 そんなことよりも原左都子が今回の記事で訴えたかったのは、薬害訴訟や医療過誤に苦しむ国民は「肝炎」のみに限らないということである。
 一例を挙げると、「薬害エイズ」「スモン訴訟」 その他“向精神薬”“抗てんかん剤““ステロイド剤”“各種抗生物質”“筋弛緩剤”…   今話題のワクチンに関してもインフルエンザをはじめ、三種混合ワクチン、等々…   これらの薬害により命を落としたり、重度の後遺症と闘っている国民は今尚数多い現実である。
 各種医療過誤事件も数多く発生している現状である。 それらの犠牲者の大多数が今尚“泣き寝入り”状態を強いられて生きているのだ。

 この私とて、医療過誤の経験者である。
 我が子の出産時の異常事態に関しては、当ブログのバックナンバー「医師の過失責任」において記述済である。(プライバシー保護の観点から詳述は避けますが、よろしければバックナンバーを参照下さい。)
 医療訴訟を起こしたところで出産時に我が子が受けたダメージが回復不能なことや、当時は一般庶民からの訴訟により医療機関が簡単に過誤を認める時代ではなかったこと、はたまた、我が家はある程度の経済的な余裕があったこと等が理由で、事を荒立てることは回避したいきさつがある。

 それにしても、我が子が小さい頃に発生した医療費はそれはそれは多額であると同時に、親の労力的負担も多大なものだった。
 医療機関で定期的に受ける診察費や、脳波、CT、MRI等々の検査費用は医療保険料3割負担でも1回の診療に何万も費やしたものである。 加えて私的機関での指導相談費用など年間何十万にも及んだものだ。 当時我が家が居住していた地方自治体にも「3歳児まで医療無料制度」はあったのだが、それを利用するには医療機関で証明書の発行をお願いした上で、その証明書を役所まで足労して提出するという煩雑さだった。 当時のその制度は医療機関を受診する事が稀な一般家庭のみを対象にしていたようで、育児に世間の数倍手間がかかる子どもを抱えている家庭の現状において、現実的に利用不能な制度だったのである。
 やっと子どもが中3になって以降のほんの束の間の期間のみ、「中学生まで医療無料制度」の恩恵に授かった以外、我が家ではどれ程の多額の医療費自己負担を担ってきていることやら…


 一人の20代のうら若き女性が今回の“政権交代”国政選挙をまんまと利用して(させられて?)国会議員となり、その女性が一部で人気があってマスメディアで取り上げられているという理由で、その人物が主張する法案がいとも簡単に国会を通過して成立する…
 悲しいかな、今はそれ程に軽薄な時代なのであろう。
 それにしても、国会議員に立候補し法案を成立しようと欲せずとて、助けるべく国民はちまたに大勢顕在することを肝に銘じ、その女性はじめ新政権には今後もその方面の犠牲者達の救済のために地道に精進して欲しいものである。 
      
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政治とは期待する性質のものか?

2009年11月25日 | 時事論評
 鳩山新政権発足後2ヶ月以上が経過し、国民の新政権への期待感に“かげり”が生じ、支持率が低下し始めている様子である。

 「原左都子エッセイ集」を継続してお読みいただいている方々には既存の事実であるが、当ブログの筆者である私は、民主党が選挙戦において“政権交代”を高らかに掲げていた8月の総選挙以前から、予算編成のための“事業仕分け”作業に躍起となっている現在に至るまで、一貫して民主党を中心とした新政権の支持派ではない。
 何故に支持派でないのかの理由を一言で簡潔に説明するならば、新政権は未だ「何らの実績も上げていない」ためである。 故に、新政権の今後の実績によっては考えが変わるかもしれない。


 さて、少し古くなるが朝日新聞11月15日の「期待感にかげり」と題する記事によると、鳩山新政権に対する国民からの厳しい意見が表れ始めているようだ。
 郵政人事、閣僚発言のブレ、依然として厳しい不況…  これらに対し、「何か一つでいいから景気が良くなることをやって欲しい」、「東アジアより蒲田にお金をかけてよ」、あるいは「マニフェスト実現のために予算を上乗せするのなら意味がない」、はたまた「事業仕分けをしている人は地方の現状を見ていないのではないか」……
 その他、鳩山首相の献金問題への批判もあれば、景気対策に関しては麻生さんの方がまだしも積極的だったという意見、加えて私論同様に「もともとそんなに変えられると思っていなかったから、失望もしていない」等々との国民からのコメントもある。


 それにしても鬱陶しくて耳障り極まりないのは、政権発足後2ヶ月以上も経過した今に至って尚、新政権の総理や民主党幹事長が国会やマスメディアで豪語し続けている「国民の“皆さんの期待”に応えるべく新政権は責任を担っている。だから、マニフェストは遵守を貫く!」云々のフレーズである。 あれを耳にする度に、「皆さん」って一体誰? 実在の証明できない“空虚な期待感”にどれ程の重みがあるの? と不快感ばかりが募る私である。

 8月末の総選挙で民主党“圧勝”と伝えられた割には、投票率や得票総数を冷静に算出し直すと、民主党が全国民から得た得票率は過半数に大きく満たないのだ。 要するに、実質過半数の国民は民主党をはじめとする新政権に当初より“期待”などしていない現実である。 このような単純計算は当然ながら新政権とて舞台裏で実施済みであろう。
 であるにもかかわらず、いつまでも「国民の皆さんからの期待」を受けているという新政権幹部の発言パフォーマンスによる“溺れる者、藁をも掴む”ごとくの段階は既に過ぎ去っているという現実を、新政権はもういい加減見据えるべきである。
 “初心者政権”であることを大目に見るとしても、できるだけ早い時期に「国民の期待」への依存から“自立”するべきである。 あの発言により新政権支持派ではない国民層をいつまでも敵に回していないで、その層からも少しでも多くの支持が得られるよう真摯に国政に臨んだ方が、新政権にとって得策ではないのか。
 いつまでも“空虚”な「国民の皆さんの期待」ばかりに依存しそれを公の場で政権幹部が反復していることでは、見識ある国民の目からは何とも頼りない政権との印象しか持てないのが実態だ。 新政権が何らかの実績を上げた暁にはその実績を認めようとの意思のある「潜在的支持者」の存在にも、少しは気付くべく行動を取るべきである。


 そもそも政治とは国民が“期待”するべく事象であるのか??
 この私など、そういう発想は選挙権を得て以降一切ないとも言えるのだ。 本ブログのバックナンバーでも何度かその旨記載しているのだが、国政に何かを期待したことなど我が人生において皆無であるが故に、我が職業選択として「国会議員」という発想は一切なかったし、国会議員という職業に対して何の魅力も感じ得ないのだ。 (実は地方自治体の議員に関しては少しだけ出馬の意向があったことについては、当ブログのバックナンバーのコメント欄で記載済であるのだが…)
 
 世襲や縁故や個人の私利私欲ではなく、真に国民のリーダーとなり国政を担って国を救い発展させたい思いで国会議員を目指す人物が、果たしてこの国この世に存在し得るのか??
 そんな人物を見たためしがないというのが、大方の国民の正直な思いではなかろうか。
 その国民の一人である私はそれ故に、元より新政権発足以降未だ“何一つ実績を上げていない”現政権に期待などし得るはずもないのである。

 新政権発足から2ヶ月以上が経過した今、もうそろそろ実体の乏しい「国民の期待」にぞっこん頼ることから卒業して、“初心者”新政権も今後国民の真のリーダーと育つべく、今一度内部から我が身を立て直して地道に精進して独り立ちしましょうよ。
 あなた方が真に国民依存より自立して国政を担う力量のある政権に成長するべく兆しが見えたなら、この私とて応援してもいいんですよ。
       
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学位よりも研修制度の充実を

2009年11月22日 | 教育・学校
 文科省が教員免許更新制を2010年限りで廃止し、それに代わる教員の質向上策として教員養成課程を6年制にすることを検討し始めている。
  
 この「教員養成6年制」は民主党がマニフェストで掲げた政策であり、学部の4年だけでなく大学院修士課程もセットで義務づけ、手厚い体制で教師を育てようとするものである。
 この「6年制」の背景としては、世の中が複雑になって子どもへの対処や学校運営が難しくなっていることや、大学院修了という肩書が保護者や子どもへの「箔づけ」になるという考えが教育関係者の間であるらしい故だそうなのだ。
 民主党の某国会議員は、「先生が先生というだけでは尊敬されない時代になった。うつになる人も多い。修士をとってもらってきちんと育てる必要がある。」と力説しているとのことである。

 この新政権による「教員養成6年制」マニフェスト政策には、一般社会より既に様々な懸念点が上げられている。
 6年制に伴う学生の学費負担増加の問題や、それに伴う志願者の減少問題、あるいは「教師の仕事は忙しい割には収入がさほど多くないため、魅力を感じる人が少なくなる」との見方もある。

 (以上、朝日新聞11月21日記事より要約引用)


 それでは、修士の学位を取得し高校教員経験もある私の立場から私論を述べさせていただくことにしよう。

 「教員養成6年制」移行への新政権のマニフェストの考え方のお粗末さ加減に、辟易とさせられるばかりの私である。

 “世の中が複雑になって子どもへの対処や学校運営が難しくなっている”との部分に関しては同意するが、その対策として、“大学院修了という肩書が保護者や子どもへの「箔づけ」になる”とは一体どうしたことか? 新政権が本気でこのような発言をしているとすれば、その思考の旧態依然ぶりは国民に見限られて野党に成り下がった前政権よりもおぞましい限りである。

 本来学位を取得することとは「箔づけ」目的ではないはずだ。 「箔づけ」などという軽薄な目的で学位を取得する人が多い現状ではあろうが、表立った目的がそうであってはならないし、そのような軽薄な目的がもたらす効用は“自己満足”でしかあり得ないのは当ブログの前々記事でも述べた通りである。 大学院を目指す以上は、あくまでも学問を極めるという正当な目的で学位取得に臨むべきである。
 さらに、今となってはむしろ現実社会の方が学位取得者本人よりもずっと進化を遂げていて、真に実力社会が到来しつつある実感もある。 大学院の質の問題もあるが、希望さえすれば猫も杓子も入学できる大学院が溢れる時代と化している我が国の大学院事情の下で、元より学位が「箔づけ」たる価値を得るはずもない。 「先生が先生として尊敬されない」時代であるのは明らかな事実だが、「学位」などを売り物にして実力が伴わなければ、さらに教員が社会的信用を失うのみであるのは明白だ。

 
 「箔づけ」よりも今後の教員養成制度が目指すべきは、教員としての真の「指導力」であろう。
 そのために私論が掲げたいのは、まず第一に教員たるべく「適性」である。 これに関しては、やはり学校教育現場における「研修」が欠かせないのではなかろうか。

 ここで私事を述べるが、私の場合は大学時代に高校中学2教科の教員免許を取得するべく教員養成課程の科目取得に臨んでいる。 その教員養成過程制度の下で一番印象が強いのが、何と言っても当時は2週間だった学校現場での「教育実習」である。
 実はそれまで中高生との接触など一切ない環境で暮らしていた私にとって、教職免許取得を目指している割には自分が教員としての適性などないのではないかとの懸念もあった。 ところが、あの「教育実習」の2週間は私にとって大いにインパクトがあったのだ。何とまあ、実習先の高校生達が人間味に溢れていて可愛らしいこと、この上ないのだ。 生徒達から多くのパワーをもらえた2週間のあの経験があったからこそ、後々の私の高校教員生活の道程へと繋がったとも言える。

 それにしても教員志望者にとって2週間の実習期間は極度に短い。
 子どもの教育とは、人命を預かる医師の仕事に匹敵するほどに人間性の育成への影響力が強いことを鑑みると、医師に準ずるごとくの「研修制度」は設けるべきであろう。
 今は野党に成り下がっている前政権において、教員の長期研修制度について議論されていたような記憶もある。 新政権においても、今後教員を目指す候補者に対して既に形骸化している陳腐な「学位取得」などではなく、将来の教員就業に向けて自分の適性を見て取れる「研修制度」こそを充実させるべきではなかろうか。


 上記朝日新聞記事内に「教職の魅力づくりを」と題する某大学准教授のコメントがある。 その一部を以下に紹介しよう。
 教員養成を6年化しても資質が向上する保証がなく、逆効果になる可能性が高い。大学側にも多額のコストがかかる。実習をどう指導するかも問題だ。ここ20年教員の免許法はほぼ毎年改正されているが、今必要なのは教職の魅力づくりと既設制度の中身の充実ではないのか。

 新政権さん、旧態依然とした発想で教員の「箔づけ」などと言っていられた時代は当の昔に過ぎ去っていますよ。 表向きの一見斬新そうな改革で素直に右に倣う国民の“めくらませ”ばかりをしている場合ではなく、地道に教育の現状改革をして真摯に子ども達の明るい未来を育成していきませんか? 
     
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いっそ、一人で生きる覚悟をしたら?

2009年11月19日 | 恋愛・男女関係
 現代社会における“人間関係の希薄化現象”の行き着くところが、今マスメディアで盛んに報道されている「婚活詐欺による複数男性不審死事件」であろうか。

 犠牲者には大変申し訳ないが、「いい大人が何故にネットで知り合った女ごときに騙されるの?」との思いがどうしても私の頭を過ぎってしまう。


 ご覧の通りこの私も我がブログをネット上で公開している関係から、ブログを通してコメントをいただく等のネット上の人間関係はある。
 以前は「原左都子エッセイ集」の宣伝活動のために、某ブログコミュニティを積極的に活用していた時期もあるため、そのネットコミュニティを通じて不特定多数のブロガーと交流した経験もある。

 当ブログのバックナンバーでも再三述べているが、私はネット上での人とのかかわりに関して“現実感”や“実体感”が摑みにくい欲求不満感にずっと苛まれていた。 
 ブログにいただくコメントに関しては、「原左都子エッセイ集」はオピニオンブログであるが故にコメント欄は意見交換の場として有効に機能している感覚があり、そういう観点からの満足感は今現在も得られている。
 その一方で上記ブログコミュニティについては、コミュニティの存在趣旨がブログから離れて“ブロガー同士のネット上での友達付き合いの場”に重点が置かれて以降、その目的で利用する意思のない私は現在疎遠状態を貫いている。


 マスメディア報道によると、今回の「婚活不審死事件」の犠牲者一男性が綴ったブログに、追悼のコメント書き込みが殺到しているとのことである。
 「実は婚活中でして、… 今日相手のご家族と会う、云々…」との遺体発見前日に本人が綴った記事に対して、「結婚を信じた○○さんの無念を想像すると、耐え難いほど悔しい」等々、同じくお見合いサイトを通じて婚活を試みている男性らからの多数の書き込みがあるらしいのだ。

 朝日新聞の記事によると、05年の調査資料では未婚男女の9割が「いずれ結婚するつもり」と回答する一方で、男性の未婚率は35~39歳が約30%、40~44歳も22%と現実と希望とのずれが際立っている現状だ。
 上記調査から4年が経過した今現在、未婚者の比率は大きく拡大し、現実と希望のギャップ現象もさらに加速度的に拍車がかかっていることであろう。


 ひと昔前の結婚の出会いの場と言えば、“職場”が圧倒的多数だったのではなかろうか?? あるいは学生結婚等自身の活動範囲内でお相手をゲットするパターンや、田舎の場合は見合い結婚が多かったような記憶がある。 私の周囲にも職場結婚や学生時代からの恋愛相手との結婚、はたまた田舎ではお見合い結婚が蔓延っていたものである。
 “適齢期”当時に結婚願望がほとんど無かった私など、「よくまあ皆さん、手短な相手で満足できること…」などと自分勝手な観点から、当時はその種の“手短結婚”を蔑んでいたものである。(いえいえ、ご本人同志が幸せならば十分でございますぞ~~。)
 
 ところが今となっては結婚対象年齢世代の就業さえおぼつかないために、職場で人に接する機会も制限されざるを得ないのであろう。 あるいは学生時代に恋愛相手をゲットできたとしてもその恋愛関係がいつまで続くことやら…。 ましてや今の時代、近親者からの紹介等の周辺コミュニティによる“見合い結婚”など一部の田舎を除き既に廃退した慣習なのであろう。 かと言って、大手企業が展開している“結婚出会い”産業を利用するにはコストが格段に割高だし、入会資格が厳しいし…

 そうなると、結婚相手との出会いを一体どこに求めるのか?
 その答が、今の時代は「ネット世界」という短絡的結論とならざるを得ないのか???


 それにしてもこの事件において複数男性殺人疑惑で起訴されている女が、殺した複数の男から騙し取った金額の総額が わずか 320万円 との報道が泣けてしまう。
 それしきの金を騙し取るために、何故にネット上で見知らぬ男を漁って何人もの人を殺そうとする発想が出るのであろうか?
 弱者が弱者を標的にして陥れるという、救いようが無いほど荒廃した今の世の中を実感させられざるを得ない、何とも悲しい事件である。

 結婚願望のある未婚者の皆さんには、空虚なネット世界を彷徨って得体の知れない相手をゲットしたつもりで一時の安らぎを得て死に陥るよりも、「いっそ、一人で生きる覚悟をしたら?」と申し上げたくもなる。
 この種の分野は新政権にその対応を期待してもまだまだ時間がかかる問題であるし、新政権お得意の“金のバラまき政策”では社会の荒廃に追い討ちをかけるだけであろう。
 
 とにかく我が身を守るために、ネット上での人との付き合いとは「怪しきは疑ってかかる」ことを信条に、くれぐれもご注意を!
         
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