礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

岩波文庫教科書版『古事記』改訂版(1937年3月)の解題

2014-07-12 04:56:25 | コラムと名言

◎岩波文庫教科書版『古事記』改訂版(1937年3月)の解題

 昨日のコラムでは、数種類ある幸田成友校訂の岩波文庫『古事記』のうち、一九二七年(昭和二)一一月発行の再版に載っている「解題」を紹介した。
 本日は、一九三七年(昭和一二)三月発行の、岩波文庫教科書版『古事記』改訂第一刷に載っている「解題」を紹介してみよう。【  】は原ルビを示す。

 解題
 古事記は今を去ること一千二百余年、元明天皇の和銅五年に出来た書物で、撰者を太朝臣安万侶といふ。我が国で書かれた記録で、現存してゐるものとしては、これが最も古い。しかし古事記より前に又種々の記録のあつたことも、明らかに証拠がある。
 天武天皇は、それ等の記録に伝へて居る事実に彼是誤謬があるので、それを改定して後世に伝へようといふ御思召で、舎人稗田阿礼に勅して、「帝皇の日継、及び先代の旧辞」を誦み習はしめられたといふ。天皇は崩御あらせられて二十余年、和銅四年九月に至つて、元明天皇は新に太安万侶に詔し、阿礼の誦む所の御歴代天皇の御紀及び古来の言伝へを撰録せしめ給うた。乃ち翌年正月出来上つたのが古事記三巻である。されば古事記撰述の目的は、我が国古代の伝説及び史実を忠実且つ精確に伝へるにあつた。古事記が出来てから九年目に、日本書紀が勅撰せられた。同じく我が国古代の歴史を書いた書物であるが、これは悉く漢文で書いてある。然るに古事記は漢字こそ用ひてあるが、我が国語を以て書いたもので、訓【ヨミ】を主とした、いはば国文である。
 古事記の本文を熟読すると、決して一人の語る所を筆録したもの、又は一箇の史料を潤色削減したものではないと考へられる。一人の物語や一箇の史料によつたものとすれば、叙述は自から単純で、矛盾撞着が有るべき筈はない。日本書紀には本文にあげた事項と多少相違のある説は、「一書に曰」として、本文の次に一字下げて列挙してある。書紀の編纂に際して、多数の史料を有してゐたことは、これで明瞭である。然るに古事記は、或事項については、書紀の本文よりも、又書紀に謂ふ所の一書のどれよりも委しい記事がある。即ち書紀の本文に用ひられた史料や、これと多少相違のある若干の史料などを綜合して書いたのではないかと思はれる筋合がある。又前後に無関係な記事が中間に介在してゐる場合もある。又一条の物語中、同一であるべき神の名や物の名が前後相異つて居る場合もある。是等の点から考へると、古事記は稗田阿礼一人の物語を筆録し、一箇の史料を潤色削減したものとは、どうしても思はれない。
 古事記といひ、日本書紀といひ、何れも我が国古来の伝説及び史実を後世に遺さうとしたもので、この二書が殆ど時を同じうして出来た所以は、当時の国民の自覚心が大いに高まつた為であらう。即ち海外諸国に対して、日本あることを知り、光輝ある我が国家の起源を語り、尊厳無比なる我が皇室の御由来を明らかにしようとした結果が、二大記録の編纂となつたのであらう。但し重ねていふ如く、古事記は訓を主とし、書紀は文を宗〈シュウ〉としてゐるので、後世書紀の方が弘く行はれた。書紀の古写本は種々残つて居り、中にも応神紀の残欠には、奈良時代の筆写と認められるものさへあるのに、古事記の方は、最も古いと言われてゐる真福寺本(名古屋市真福寺宝生院所蔵国宝『古事記』)さへ、今を去る五百六七十年、建徳二年及び文中元年に僧賢瑜〈ケンユ〉の書写したものである。古写本の少いことも、その書の行はれなかつた一証であらう。それを近世本居宣長が発奮、刻苦して古訓を考へ、古意を極めて『古事記伝』四十八巻を著し、本書を弘く世に行はしめたのは、顕著なる功績と言はねばならぬ。宣長の門下長瀬真幸〈ナガセ・マサキ〉は、後、『古事記伝』により、文字も訓も新に正しく刻まして新刻古事記三巻を世に送つた。これが世に謂ふ宣長の『訂正古訓古事記』である。当文庫本は、その『訂正古訓古事記』の初版、即ち享和三年癸亥十月発行のものを底本としたのである。
 昭和十二年春    幸田成友

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