◎日本に映画の演出論なし(溝口健二)
昨日の続きである。大日本映画協会編『映画演出学読本』(大日本映画協会、一九四〇)から、溝口健二の「映画監督の生活と教養」を紹介している。
順序は前後するが、本日は、「2」の途中から紹介してみたい。
演出家が一本の映画を成功的に製作するには演出家であると同時に俳優でもあり、カメラマンでもあり、対照的には正反対の側にある観客でもなければ、本当に良い映画を作ることが出来ないと云はれるのも一般的なものと特殊的なものとの弁証法的法則を知ることの必要を説いたものなので、若し演出家が映画的にのみ物をみようとするならば、その人の作る映画には何らの社会性もない、かつての前衛映画のやうなものしか生れないといふことになり、一般観客から見離されたその演出家は、生存権さへ否定されてしまふだらう。そこに演出家の第二の「態度」の必要さが生れて来るのである。
一般的なものを常に正しく観ることがそれである。一般的なるものは現象的にあるものであり、印象的なものは自然的にあるものだとしたら、その一般的なるものの中から生れる特殊なるものを、自己の中に形象しなければならない。その場合、演出家たらんとするものは、一般的なるものの或る部分としての特殊なるものを、その一般的なるものとの連関を見失ふことなく掴み出さなければならない。その方法が学となる時論理学と名づけられる処のものなのだ。
演出家に論理学が必要だなどと云ふと笑ふ人があるかも知れないが、若し笑ふ人があるとすれば僕は言はう。演劇の理論であるドラマツウルギイは、では演劇の論理学ではないのかと。それは演劇にとつて、演劇が演劇として発展して来るためには当然なくてはならない骨格をなす一つの学だつたではないか。
演劇に演劇の論理学としてのドラマツウルギイがあるとしたら、映画にもそれに匹敵すろやうな一つの理論体系をなす論理学が無くてはならないことは寧ろ当然だと云へよう。
だが、映画の現実はそれが日本へ来てからで既に四十年になるのに、未だ一冊の演出論さへ持たないのは学として映画が未だ一度も反省されず、それが只企業として変態的な成長にのみ任されてゐたためだと思ふ。演劇のドラマツウルギイに対して、映画の理論的体系が未だ立てられない侭でゐるといふそのことは、直ちに日本映画の貧しさとなつて現れざるを得ないのである。【以下、次回】
【クイズ】「ク」ではじまる難読語・『百家説林 索引』より
1 藕糸 □□□
2 公廨 □□□
3 嚔 □□□
4 櫛笥 □□□
5 国栖奏 □□□□
6 口遊 □□□□□
7 海月 □□□
8 車寄 □□□□□
8 胡桃 □□□
10 慈姑 □□□
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