◎嵐寛寿郎と『鞍馬天狗・天狗廻状』(1952)
柏木隆法〈リュウホウ〉氏の「隆法窟日乗」は、依然として快進撃を続けている。紹介したい記事が山ほどある中で、本日は、アラカンこと嵐寛寿郎〈アラシ・カンジュウロウ〉について、氏が回想されているところを紹介したい。「隆法窟日乗(8月11日)」、通しナンバーは84。
【前略】久々に嵐寛寿郎の自伝『鞍馬天狗の叔父さんは』をひっぱりだして読み始めた。三度目である。この本は実に面白い。竹中労の筆の冴えも立派だが、寛寿郎さんのキャラは作られたものではなく天然自然であった。確か『木枯らし紋次郎』の撮影中だったが、拙が寛寿郎さんのお世話をしているとき「先生」と呼んだら、寛寿郎さん、少しムッとした表情になり「わて、あんたはんの先生と違う、アラカンでおます」と。拙曰く「アラカンさんの名演技の作品をよく見ていますので、つい」というと、「何、見はりましたんや」実はあんまり劇場では見ていない。記憶にあるのは『明治天皇』くらいで、それも小学生の低学年だ。記憶になんか残っていない。苦し紛れに『天狗廻状』です、といったら寛寿郎さん「あんたはん、いくつでおます」と。あとからよく考えてみると『天狗廻状』が新東宝から封切りされたのは1952年、昭和27年である。拙は三歳である。拙が映画にかかわったのは1968年から1973年までである。その後、10年くらいは人脈の顔を効かせて撮影所に出入りしたが、製作には関わっていない。寛寿郎、いやアラカンさんは拙の嘘を感じ取っていた。恐るべきは鞍馬天狗である。アラカンさんは一部の映画評論家や嘴の黄色い映画青年が知ったかぶりをして芸術論を滔々と述べることを嫌っていた。【中略】松本さんは『戦国の剣豪』でお世話になりました。戦後、あの作品が一番よかった。視聴率が悪くて中止になってしまいましたが、あの上泉伊勢守〈コウイズミ・イセノカミ〉の役はチャンスがあったらもういっぺん演りたい。訥々と思い出しながらこんな話をしていた。こんな話を延々と語っていた。アラカンは出演要請があればどんなえいがでも出ていた。稼いだ金も莫大な額であったろう。それでも最後は六畳と四畳半二間のオンボロアパートで親子ほど年の違う奥さんと暮らしていた。何度も離婚と結婚を繰りかえして、その度に全部財産を残して行先も決めずに出ていく生き方であった。その後、『座頭市と用心棒』や『五人の賞金稼ぎ』それに東映の任侠映画でも何度も顔を合わせたが、粛々と自分の出番が終わるとパチンコ屋に直行していた。作品に対する情熱はなくなり、身すぎ世すぎのための出演で、台本も読まず、本番直前に監督から内容とシーンの説明を聞いて「はいな、わかりました」が口癖だった。晩年のアラカンを使いこなした監督はいなかった。昭和の最後の年、アラカンは死んだ。拙は見たわけではないが、遺体には鞍馬天狗の羽団扇〈ハウチワ〉の紋のついた衣装がかけられていたという。【後略】
若干、注釈する。文中、『明治天皇』とあるのは、新東宝映画『明治天皇と日露大戦争』(一九五七)のこと。この映画でアラカンは、明治天皇に扮している。『天狗廻状』というのは、松竹映画『鞍馬天狗・天狗廻状』(一九五二)のことで、大曾根辰夫監督の鞍馬天狗三部作の第三作。もちろん、鞍馬天狗に扮するは、アラカン。また三作とも、杉作役は、少女時代の美空ひばりが演じている。
『戦国の剣豪』というのは、日本電波映画が制作し、一九六四年に日本テレビから放映されたテレビ映画である。「松本さん」というのは、日本電波映画の創設者・松本常保のことであろう。柏木氏は、『千本組始末記』の「あとがき」中で、松本常保の名前を、取材協力者に挙げている。ちなみに、日本電波映画のテレビ映画第一作は、『琴姫七変化』(一九六〇~一九六二、主演・松山容子)であった。
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