◎総ルビの文献を読む際に注意すべきこと
今月一六日に、松田幾之助の「ルビ付の活字」という文章を紹介した。また、一八日および一九日は、原田譲二の「白蓮家出」という文章を紹介した。いずれも、大阪朝日新聞社整理部編『新聞記者打明け話』(世界社、一九二八)に収録されていた文章である。
この本を印刷したのは、東京市小石川区の共同印刷株式会社であるが、「ルビつき活字」を使用していることは、ほぼ間違いない。なぜそれがわかるか。
たとえば、「市内版」の「版」に「はん」というルビが振られている。わざわざルビを振るのであれば、「ばん」と振るべきであろう。そこを、「版」に「はん」というルビがついた活字を用いてしまったものと推量される。
また、「星島二郎」は、星に「ほし」、島に「じま」、郎に「らう」というルビがあるにもかかわらず、「二」には、ルビが振られていない。わざわざルビを振るのであれば、「二郎」の読みは、「じらう」〈ジロウ〉でなく、「にらう」〈ニロウ〉であることを、読者に対し、明確に示すべきであった。しかし、「二」にルビつき活字がなかったため、あえてルビを振らなかったものと推量されるのである。
さらに、「伊藤伝右衛門」の場合、伝に「でん」、右に「う」、衛に「ゑ」、門に「もん」と振られている。わざわざルビを振るのであれば、「伝右衛門」全体に、「でんゑもん」と振るべきだと思うが、ルビつき活字を用いようとするから、こういうことになるのである。
以上のような例から、共同印刷株式会社が、この本を、「ルビつき活字」によって組んでいることは間違いない。そして、明治中期以降の日本においては、この本に限らず、「ルビつき活字」というものが、相当に普及していたと思われ、およそ「総ルビ」で印刷された文献というのは、まず、「ルビつき活字」によって組まれていると捉えるべきであろう(もちろん、断定はしない)。
さて、このように、ルビつき活字で組まれた文章を読む際に、いくつか注意すべきことがあるように思う。
第一に、そこに施されているルビが、文章の書き手が求めている読みと一致している保証はない、ということである。書き手がルビを細かく指定し、それに忠実に従った形で、製版がなされていれば、問題はない。しかし、書き手がルビを指定しておらず、編集者がルビを指定するような場合や、文選工にルビつき活字の選定が委ねられるような場合もあったはずである。つまり、ルビつき活字で組まれた文章は、その「読み」に関する限り、不確定な部分があり、テキストとしての安定性を欠くということである。
第二に、ルビつき活字で組まれた文章の場合、基本的に、漢数字にはルビがついていない。上記の「星島二郎」も、その一例である。当時、漢数字については、ルビつき活字を造らないという不文律でもあったのだろうか。ともかく、そこでたとえば、次のような問題が起こる。「一に」という表記があった場合、その読みの確定が難しい。「いつに」と読むべきか、「ひとつに」と読むべきか、「いちに」読むべきかは、前後関係で判断する以外ない。ことによると、原稿には、読みの指定があったのかもしれない。しかしおそらく、それが活かされることはなかったであろう。
ルビつき活字は、製版する側にとっては便利でなものである。また、ルビつき活字で組まれた文章は、読むほうにとっても読みやすい。勉学途上の者にとっては、漢字の勉強にもなる。しかし、文章を細かく読みこむ必要のある者、それをテキストとして引用しようとする者などにとっては、意外にメンドウな存在であることを知っておく必要がある。【この話、続く】
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