◎小磯内閣の瓦解と菊水一号作戦
この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
本日は、『永田町一番地』から、四月四日の日誌を紹介し(一八九~一九〇ページ)、そのあと、『原爆投下は予告されていた』から、四月四日から六日までの日誌を紹介する(七一~七五ページ)。
『永田町一番地』
四月四日
今暁、久しぶりに帝都周辺に対する空襲があつた。爆弾を主とした攻撃である。横浜、鶴見、川崎、大森、荏原、新宿等および近県一帯の軍需工場、交通線が爆撃目標となつた。わが方の反撃が少く、爆弾投下の音を間断なく耳にした。如何ともなし難き気持は暗い。
【一行アキ】
繆斌は八日、福岡発、上海に帰還することに内定した。陸軍は東京からの飛行機に座席をとることは出来ぬ、帰へるのならば、列車で福岡に行くがよいとの冷然たる態度である。
夜、小磯総理が辞意を固めたことを知る。昨日、杉山陸相、米内海相、重光外相がそれぞれ参内し、陛下に拝謁仰せつけられた。ついで小磯総理が参内、陛下に拝謁した。繆斌問題(註)の結末である。小磯総理は、ここにおいて、総辞職を決意するに至つた。
【一行アキ】
夜、九時半、折柄〈オリカラ〉の冷雨の中を緒方国務相は総理官邸日本間に小磯総理を訪問した。明日午前九時臨時閣議を開き、総辞職を決定することになつた。
霙〈ミゾレ〉の降る寒い夜である。想像したやうなあはただしい退陣風景ではなかつた。さらりとした内閣の投げ出しである。小磯内閣の瓦解。そこに、更まつて〈アラタマッテ〉の深い感動も起らなかつた。
『原爆投下は予告されていた』
四月四日 (水) 晴
午前八時半起床。現地時問では午前七時半に当たるので、そんなに朝寝坊でもないわけだが、理屈にはならない。もちろん田原はよく寝ている。
午前九時、ゆっくりと朝食を食べる。九時半ごろから洗濯物を洗濯していて大体終わったころか、遠く近く空襲警報のサイレンが吹鳴〈スイメイ〉している。大急ぎで洗濯物をかかえて内務班に帰り、よく寝ている田原を起こす。鉄帽を渡してやる。
自分が内務班に帰ったのと同時くらいに飛行場方面からドォーン、ドォーンという地響きの音がつづいて起きる。B29が五、六機くらいはいるようだ。高射砲陣地からの発射音がドーンドーンと聞こえる。【中略】
午後四時、服装を正して勤務に上番する。下番者田中は、「本日はB29五機で、やはり梧州から珠江沿いに筆慶で艦船を攻撃しつつ下って三水や仏山でも艦船を攻撃し、広東に入っては天河、白雲両飛行場の付帯設備を攻撃、さらに黄埔、順徳、白土でも艦船を攻撃し、逆に珠江に沿って肇慶、徳慶を経て梧州から退去致しております。本日は艦船対象で、午後は午前の反対で、まったく静かであります」と報告してくれた。
自分が勤務してからも、どこからも電話もなく情報も流れず、静かな時間が流れてゆく。
その静けさを破ったのが午後十時のニューディリー放送であった。
――こちらはニューディリー、ニューデリーでございます。信ずべき情報によりますと、本日午前十時ごろより米軍B29二百機は関東南部より京浜地区および静岡地区を空襲し爆撃しました。繰り返し申しあげます。…………。――
こちらではB29五機を追っかけているのに、内地ではB29二百機で、さぞ大変なことだろう。いつも思うことだが、第一航空情報連隊は情報の輻輳〈フクソウ〉で、予測はまったくつかないだろう。【中略】
午後十二時、田原が上番して来た。きちんと上下番の挨拶をし、申し送りもきちんとして下番する。下番後はすぐに眠る。
四月五日 (木) 晴
午前八時過ぎに一勤の田原が下番してすぐ横になっている。とにかく音がしてやっと目がさめる。目がさめたが起きられず、一時間近くたってやっと起きる。洗顔し歯刷子〈ハブラシ〉を使う。田中がかけた布巾を取り、朝食を食べる。朝食時間は午前九時である。【中略】
午後四時、上番する。下番老田中候補生の報告によると、「本日正午のNHK放送では、小磯内閣が総辞職し、枢密院議長海軍大将鈴木貫太郎氏に組閣命令が下ったとの放送がありました」という。
昨年一月以来、戦線を走破していたが、総理大臣がだれか名前など知らなかったが、情報室勤務では、その日のうちに知ることとなった。隊長も上山少尉も席をはずされていたそうだが、おそらく十二時の放送なればこの情報は知っておられるとは思ったが、情報として清書させ、隊長の机の上においた。【中略】
午後十二時、田原候補生が上番して来たので、上下番の挨拶をして下番する。
四月六日 (金) 晴
今日も昨日と同じ日課である。勤務の後はそのままの服装で眠ってしまうので、どうしても朝食後は洗濯が第一である。午前十一時半ごろ、煙草を吸いながらぽんやりしていたら、勤務中のはずの田中が帰って来て、「班長殿! 起きておられたら、隊長殿が来るように言われてます」と。隊長のお呼びとは何事だろうかと思ったが、「服装を正して参ります。二、三分待って下さい」といっておくように指示する。
情報室に入ると、隊長は、
「第五航空軍の飛行部隊は、近日中にその主力が台湾に転戦し、台湾より沖縄敵艦船への攻撃となるであろう。そのためもあって、広東防衛の空軍力が弱まることになるので、去る三月下旬、奥地の最前線の野戦高射砲部隊が、広東防衛のために急遽、帰還し布陣を新たにした。現在未使用の回線で高射砲陣地用の国見岳と芦別山の二回線が空いているので、これらの地点に昨日までに保線班によって通信連絡工事を完了し、電話連絡用員を数名ずつ配属させ、本日午前中、試験通信を実施した。なお予備線二回線あるが、その他全部本日正午より通じることになったので、貴様に知らせておく。以上だ」
「操作方法は従来通りでありますか」と質問したら、傍らから上山少尉が、「操作はまったく変わりなし」と答えられた。原隊の部隊が広東に帰って来たと内心喜んだ。とにかく広東市内だ。操作に変わりないのなら、二人の候補生に知らせる必要はないと思って、情報室を後にした。
午後四時からあらためて上番する。下番者田中候補生より申し送りはありませんと報告されたが、上番後も何事もなく静かだった。
午後七時、突然のように静けさを破ってNHKニュースが流され出した。
――大本営発表、大本営発表! 海軍航空部隊は本日未明を期して沖縄方面に菊水一号作戦と称し第一次航空総攻撃を敢行、米軍基地並びに敵艦船に多大なる恢害を与えた模様であります――
久しぶりに聞く快挙であり、両手をあげて万歳を叫びたい気持だった。上山少尉は、あい変わらず哲学者のような顔をして小さな文字で手帳に何か書き込んでおられた。
午後十時、例によってニューディリー放送が流れてくる。
――こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によれば米軍は、本日、沖縄本島の北西部の今帰仁【なきじん】に上陸致しました。また別の信ずべき情報によれば、本日の沖縄戦における日本軍飛行部隊の攻撃は、自ら弾丸をかかえて航空機もろとも体当たりで攻撃して来るという新戦術をあみ出して来ました。尊い命を犠牲にして来る彼らにはまったく論評の余地もなく、われわれには考えられません。繰り返して申しあげます。…………。――
菊水一号作戦とは、まさに特攻攻撃作戦で、むしろ敵側放送によりその凄絶さがうかがえる。命ずる者も命ぜられる者も、その心中いかばかりか。
午後十二時、田原候補生と交替して下番する。下番後横になったが、どうしても寝つかれない。
戦いとは皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る。自分を殺してさらに多くの敵を殺す。理屈はその通りだが、当時者〔ママ〕としては悲痛きわまるものであろう。そして同年兵が同期が征けば負けてなるものか、おれも征くということになるのであろう。もし自分がその仲間なれば武人の最後を飾る花になりたいと思うに違いない。あれこれ考えていたら、なかなか寝つかれなかった。