◎国民は大根なみに扱われて、なぜ激昂しないのか
昨日の続きで、本日も、亀井勝一郎著『日月明し』を紹介する(初出、一九四五年七月二〇日)。本日、紹介するのは、「第三の手紙 或る指導者へ」の一部である。引用は、『亀井勝一郎全集 第十五巻』(講談社、一九七一)によった。
戦争以来、様々の古典的言葉が教訓として引用されました。最高度の尊い言葉が濫発されました。人心を緊張させようといふその意図は善いにしても、結果として食傷を起させなかつたでせうか。人はいかに尊い言葉に対しても、濫発すればつひには驚きや畏敬を感じなくなり、慢性の状態を呈します。現代ほど古典が読まれながら、現代ほど古典が迫害されてゐる時代はなかつたかもしれません。普及とはたしかに迫害です。「承詔必謹」とか「撃ちてし止まむ」のごとき史上至高の言葉が、スローガン風に喧伝〈ケンデン〉され、或る時期を過ぎると忽ち〈タチマチ〉忘却されました。スローガンは、言葉の俗化と功利化の極端な手段であり、怠惰な精神にとつてはまことに恰好〈カッコウ〉の化粧道具となることは私の屡々くりかへし言つたところです。怠惰な精神は、この道具を次々と利用しつゝ時局の波に乗つて行く。かゝる風潮を、私は戦時における最も非道徳的行為の一つとみなすものであります。今日、新聞ほど非道徳的なものはありません。しかも最も道徳的な言辞を弄して〈ロウシテ〉ゐるのは彼らです。
【一行アキ】
肉体の異常なとき脈搏が平静を失ふやうに、精神も戦時においては屡々脈搏が乱れてきます。精神の脈搏とは、云ふまでもなく言葉のことです。沈着が失はれたとき、過度にどぎつい言葉や悲観的な嘆息や流言が流布〈ルフ〉するのは当然で、こゝに一国民の思想状態が端的にあらはれます。脈を正しくみる名医が現在ほど必要な時はありません。言葉の乱れるときが、国の乱れるとき、最悪の場合には国の亡びる前兆です。日本国民はすべて至尊の赤子であり、おほみたからであり、臣〈オミ〉です。これを指して「人的資源」と呼び、「根こそぎ動員」するさうですが、この恐るべき蕪雑な唯物的用語が平然と用ひられてゐるかぎり、勤労の和【なごやかさ】がもたらされるなど思ひもよらぬところです。これはほんの一例にすぎません。自分が大根なみに扱はれてゐるのに対し、国民は何故道徳的に激昂しないのであるか。国のいのちともいふべき母国語に対し、国民の感受性はかほどまでに鈍つたのでせうか。恐るべき事実です。
【一行アキ】
さゝやかな親切、深い思ひやり、これは戦時において一層光りを増す尊い宝であります。道徳的な顔をしない真の道徳は、つねに隠れてゐて、わづかの行ひやいたはりを通して、人心の底に無限の光りを与へるものです。そのおのづからなる姿を、そのまゝ尊ぶことを知らねばなりませぬ。これを人工的に粉飾し、さかしらを加へて、世の戒めにしようなどと思ひこむや否や、道徳は破壊されるでせう。道徳は、世のいはゆる美談や説教に対して、厳重に身を守つてゐなければなりませぬ。粗暴な手に対しては脆い〈モロイ〉花びらのやうな趣をそなへてゐます。美と同じやうに「隠れる」ことを第一とします。道徳の敵は、まことに道徳的な顔をして常にその周囲をとりまいてゐるでありませう。あたかも信仰の敵は、誰よりも信心深さうな顔をして主に扈従〈コジュウ〉してゐるやうに。
【一行アキ】
最近のこと、郵便局の窓口で女の事務員と大喧嘩して負けました。主事を呼出しましたが一向要領をえません。局長まで呼出して談じこまうと思つたほど立腹したのですが、こんなことは私としてもはじめての経験でした。理由は不親切だからです。わづかの指示で手数を省けるのに、それを怠つてゐるのが我慢ならなかつたのです。いくら不親切を責めても、また相手がそれを承認しても、結局私の郵便物を出して貰へない以上は、あきらめて帰る以外にありません。私の方が正当であつても、私の方が必ず負けるやうに出来あがつてゐるその仕組に対して腹が立つてたまりません。原因は一体どこにあるのでせうか。
官吏や事務員の甚しい多忙、疲労、混雑、神経のいらだたしさ、すべて同情すべきことが多い。しかし厖大な組織がもたらす責任の相互回避が、根本原因ではないかと私は思ひます。必ずしも官庁のみではありません。到るところにみらるる厖大な組織性は、一種の魔術力を発揮するもののごとくであります。個々の官吏、一人一人の事務員に接すれば、とくに不親切な人間もゐないし、悪人もゐない。家庭人として私人としての彼らは我々と同じです。ところがひとたび役所の門をくゞると、俄然人間が一変するやうです。厖大な組織性は人間を機械化するのか。生々〈イキイキ〉した自発性は死なねぱならぬのか。まるで魔術にかゝつたやうに別人になるのです。役所の前を通るたびに、その門にかう書かれてゐるのではないかと私は疑ひたくなります。「一切の希望を捨てよ。汝等こゝに入るもの。」