◎林芙美子の疎開生活(長野県穂波村角間)
最近、林芙美子の『婦人の為の日記と随筆』(愛育社、一九四六)という本を読んだ。林芙美子原作の映画は、これまでいくつも見てきたが、よく考えてみると、林芙美子の本というものを読んだ記憶がない。
この本は、世の婦人に対して、日記をつけ、随筆を書くことをすすめる趣旨の本のようだが、実際は、林芙美子が、自身の「日記と随筆」を披露したものになっている。
同書のなかから、本日は、「童話の世界」という随筆の一部を紹介してみよう。
童 話 の 世 界
私は長野県の山の中で二冬を疎開してすごした。そこは下高井郡穂波村〈ホナミムラ〉角間〈カドマ〉といつて、農民相手の小さい温泉村で、戸数は六十戸あまり、主として炭焼きだとか樵夫の多いところである。山のなかの夏の暮しはあわただしく過ぎてゆくけれど、冬になると、やりきれないほど寒さが長くて、朝から晩まで炬燵〈コタツ〉にゐるか炉〈ロ〉のそばにゐるかの所在のない月日を過さなければならない。
疎開者として割合ながくゐたので、私の部屋借りの小さい炬燵にも村の百姓衆は遊びに来てくれた。このには、湯小舎〈ユゴヤ〉が三つあつた。一つは大湯といつて、泊り客たちがはいりにゆくところ、村はずれにある二つの湯小舎は、一つは夏になつて湯びらきをするところで、吹きさらしの囲ひだけの簡単な小舎であり、その次のは角間の村の衆だけがはいりにゆく小舎である。三つとも、温泉といふにはあまりに素朴なところで、文化的なそなへは何もない。旅館は、おそろしく古風な宿屋が五軒ほどあつた。どの宿も自炊の客が多くて、宿から七輪〈シチリン〉を借りて、近所の何処からか炭を求めて来て、それで自炊をするのである。宿は五軒ほどあつた。夏になると、宿の縁側に着物をぬいで全裸で大湯まで歩いてゐる客があつて、かつと陽が照りつけてゐる小さい道を、大湯へ出はいりしてゐるうだつた〔茹だった〕やうな裸の姿をみてゐるのは面白い。
戦争が終りごろになると、毎日空襲さわぎなので、この山のなかの温泉にも灯火がつくといふことがなく、夜になると暗い湯にはいりに行つた。
二年ゐる間に、この村では三人のおばあさんが亡くなった。
この村ではひとが亡くなると、近隣のひとたちが穴掘りにゆき、死者を土葬する習慣だつた。私も土地の習慣にならつてシャベルを借りて穴掘りに行つた。
【中略】
私は何一つ書く気もしない、ものうい、そのくせ重苦しい気持のなかで「牛」といふ童話のやうなものを書いた。長い冬の間、私の二階へたづねてくれる百姓衆は、いろいろなおもしろい牧歌的な話を持ちこんで来る。
どの話も狐に化かされた話が多い。
日本の狐はよつぽど人をだますことが好きとみえて、どのひとの話もだまされた話ばかりである。私は狐物語を書いてみたいと思つた。ジャク・ロンドンのやうなかたちで、長い冬ごもりの間ぢゆう聞かされた一つの筋にまとめて書いてみたいと思つた。この村には角間河といふ大きい河もあつたので、河を背景にした河童の話も相当あつた。狸の話、山鷹の話、鹿が温泉にはいりに来た話、で、自然に私はかうした牧歌的なものに興味を持つやうになり、「蛙県蛙村の蛙どん」といふ童話を書いて村の子供たちに話してきかせた。
村の子供たちは、私のことを先生と呼んでゐた。村の子供たちは、この蛙県蛙村の蛙どんの話を面白がつてくれて、「先生、もう、ほかの話、何かつくつたけえ?」と責めたてに来る。その次に書いたのが、「鶴の笛」といふ童話だつた。丁度、秋のころで、村にはさゝやかな祭があつたし、私の知りあひのお百姓が笛を上手に吹いたのからヒントを得て書いた。童話を書いてゐると、何ものにも拘束されない自由な思ひがひれき〔披歴〕出来た。読者はほんの五六人の村の子供たちだつたので書く方もなかなか力がはいつた。
この小さい読者は、時々、塩あんでつくつた大きいおはぎを丼いつぱい持つてきてくれたり、手打ちのうどんを持つてきてくれたりした。私には八十歳になる母と、赤ん坊がゐたので、雪の深い日は、四キロもある隣村へ配給米を取りにゆくことが出来なかつたので、この子供たちがスキで取りに行つてくれたりした。
村では面白いことに、廻覧板といふものもなかつたし、米、麦、うどん、味噌、醤油以外の配給物といつてはとんとないのだ。
戦争はだんだん激しくなり、私にはいつ東京に戻れるといふあてもなかつた。戦争のあらゆる障害に対して、この現実を相手にして物を書くといふことは、それ自身罪のやうに思へ、どうしていゝのか支へすらもないみじめな田舎暮しのなかで、私は童話を書くことが唯一の救ひであつた。
襁褓〈むつき〉を洗ひながら、もう、一年、この率直さの方がいゝのだとも思つた。
私のノートには、「蛙県の蛙村の蛙どん」の話を最初にして、二年の間に七十篇ばかりの動物集がたまつていつた。その動物たちはみんな平和な国をあくがれてゐるものばかりだつたのも、そのころの私のさゝやかな願ひの表現だつたのだらう。
そのころ、政府の或一人の表現として私たちの眼に焼きついてゐることは、等しからざるを憂ふといふ文句があつたけれども、かんじんの皇族方や、華族、財ばつの階級には誰もふれてゆかないで、只庶民のほんの少しの凸凹〈デコボコ〉な暮しむきだけを責めたてられてゐるやうな押しつけられるやうな云ひかたがあつたものだ。
貧乏人の一家で、同じ食卓に出てゐるものを、お前の皿は盛りがいゝぞ、俺の皿は盛りがすくないと云ひたてゝ、争ふことばかりさせられて、かんじんの他家のところは目かくしをさせられてゐるやうな小さいいざこざを庶民のこころに成長させる教育といふものが私には何となく腑に落ちなかつた。庶民はいつの間にか、きちやうめんに戦闘帽をかぶり、国民服を着るやうになり、胸には名前をつけて歩くやうになつた。それが楽だからでもあらう。人が一寸でも自分より変つた思想、変つた性格、変つたなりふり、変つた生活をしてゐやうものなら、お互ひに責めあひ、争ふことが目立つてきてゐた。【後略】