礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

陸軍も海軍も危局を理解してゐない(小磯総理)

2016-04-05 08:02:59 | コラムと名言

◎陸軍も海軍も危局を理解してゐない(小磯総理)

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『永田町一番地』から、四月五日の日誌を紹介する(一九〇~一九三ページ)。

 四月四日
 小磯総理が辞意を固めるに至つた理由は繆斌〈ミョウヒン〉問題ばかりではなかつた。その大きな動機となつたものに、この外に、総理の現役復帰の問題がある。
 小磯総理は、杉山〔元〕陸相が陸軍の都合で辞めるといふので、総理がかねて希望した現役復帰をこの機会に実現せんとした。現役に復帰して陸相を兼任し、阿南〔惟幾〕大将を国務大臣に任命、陸軍次官を兼任せしめる予定であつた。ところが、小磯総理の現役復帰は、陸軍の三長官会議(杉山陸相、梅津〔美治郎〕参謀総長、畑〔俊六〕教育総監)の結果、拒否された。小磯総理は、かくなる以上、内閣を退くより外はないと考へたのである。そこに繆斌問題に関し、御沙汰を拝した。小磯総理としては、もはや内閣を維持するわけにはいかない。一方、杉山陸相の後任には、陸軍で阿南大将を決定した。その発令が近日中に迫つてゐる。小磯総理はどうせ総辞職に決意したからには、阿南陸相の発令前に決行するのが、阿南大将に対するせめてもの思ひやりであるとした。このため、総理は米内〔光政〕海相に意中を打ち明け、急速に総辞職を行つた。
【一行アキ】
 小磯総理の内奏の要旨は次のやうなものである。
 米内大将と並んで、組閣の大命を拝して以来、国内の明朗化を目標に、広く人材を求める意味で大和一致、国難打開に赴いたが、その政治に辛辣性を欠く憾みがあつた。幸ひ国民にも漸く明朗濶達の気風が起つたのであるが、これも戦局日に悪化したため、国政運用の努力にかかはらず最近では委靡〈イビ〉沈滞の風が見えるに至つてゐる。
 他方、国務と統帥の調整についてはさきに最高戦争指導会議が開設されつづいて総理大臣が大本営の議に参画するの思召しを受けたが、現状のままでは到底困難を打開するを得ないことを痛感するに至つた。
 この上は、さらに有為なる人材に譲り、以て宸禁〈シンキン〉を安んじ奉る〈ヤスンジタテマツル〉べきであると信じここに骸骨を乞ひ奉る。
【一行アキ】
 午後七時、情報局より次の如く発表した。
 時局の重大性に鑑みさらに強力なる内閣の出現を冀ひ〈コイネガイ〉現内閣は茲〈ココ〉に総辞職することとし小磯内閣総理大臣は閣僚の辞表を取り纏め本日之を闕下〈ケッカ〉に捧呈せり。
【一行アキ】
 これより先、午後五時より宮中で重臣会議が開かれ、後継内閣の首班につき討議四時間余、八時半に及んで散会した。その結果後継総理に鈴木貫太郎大将を奏薦することに決定した。鈴木大将は同十時、参内、組閣の大命を拝した。
 右の事情をもう少し細く記せば、大体次の様になる。小磯大将の内閣投げ出しは木戸〔幸一〕内府には、意外に唐突の感じを与へた。とまれ、後継首相の詮衡のため宮中で直ちに重臣会議が開かれた。重臣会議の空気は大体、今度は海軍に担当してもらひたいといふのであつた。東条大将が最も多く発言し、と戦争遂行についての意見を開陳した。ひとわたり各重臣から意見が述べたれたのを機に近衛〔文麿〕公が、会議の締めくくりの意味で、鈴木大将にお願ひするのがよい、との意見を述べた。すると東条大将が、それは非常によい、是非、鈴木大将にやつてもらひたいと直ちに賛成の意を表した。鈴木大将は、自分は耳も悪いし、老齢その任に堪へないとて辞退したが、鈴木大将に異論もないやうだからとて、会議は最後には簡単に打ち切りとなつた。木戸内府はこの重臣会議の決定を上奏、大命は鈴木大将に降下した。
 政変は、今年になつてから時期の問題とされてゐた。組閣当初から二ケ月にして倒れるとまで極言されただけに、倒閣の観測は終止、この内閣につきまとつてゐた。それが、最近の重臣の動きによつてやや具体性を持ち始めた。主観的には小磯総理の肚〈ハラ〉一つで時期が決定したのである。而かもそれが意外に早かつたのは、阿南陸相の内定があつたからからである。
 小磯大将はこの夜、流石〈サスガ〉にほつとして疲れも一度に出たのであらう。元気がなく何となく淋し相〈サビシソウ〉に見えた。後の首相はあの問題(国務と統帥の問題を指す)を始めから決めてかからねば同じ苦労をするよ………この前、畑〔俊六〕に会つた時、君、現役復帰をせねば駄目だよといふので、そいつはやるが、むつかしいだらう、さうなつたら、おい君、君の方にお鉢がまはるよと言つてやつた。そしたら畑が、そいつは困つたナと言つてゐた………と話した。
 国務と統帥の調整問題、具体的には戦争指導は政治でなくてはならないといふことで、この内閣も潰れた。この問題こそ、近年の日本政治を一貫する暗礁である。近衛内閣以来心ある殆どすべての総理がこれで悩み抜いてゐる。日本も悩んでゐる。客観的情勢のみが今となつてはこれが解決の唯一の力である。その力も然し今日に至つてなほ有効たり得ない。沖縄本島はすでに侵された.潅された。それにもかかはらずなほ勝ちつつありとの妄想に捉はれてゐるところがある。小磯総理はしみじみ語つたといふ、この期〈ゴ〉に及んで陸軍も海軍も危局を真に理解してゐない、と。

 小磯国昭首相が、辞職に当たって、「この期に及んで陸軍も海軍も危局を真に理解してゐない」と語ったというのが本当だとすると、この人は、意外にマトモな神経の持ち主だったのかもしれない。少なくとも、彼がその政治生命を賭した繆斌工作は、日本を危局から救おうという意図から出たものだったに違いない。
 沖縄本島に米軍が上陸し、菊水一号作戦(特攻作戦)も始まろうとしている中、重臣会議は、後継内閣の首班を決定するためだけに、四時間もの時間を費したという。まさに、「戦時ニッポン」を象徴するような光景と言えよう。
 原文では、このあとに、やや長い(註)があるが、これの紹介は、次回。

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