礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

通常、戦勝国の不法行為責任は表面化しない

2016-11-13 11:51:36 | コラムと名言

◎通常、戦勝国の不法行為責任は表面化しない

 一又正雄「阿波丸事件の解決について」(『判例時報』第二一巻第八号、一九四九年八月)を紹介している。本日は、その四回目。

 四 国際法からみて注目すべき諸点
イ 戦時不法行為に対する賠償責任
 前述のように、本件では、不法行為国が責任を認めているが、この不法行為にもとづく請求権の放棄によってその責任が解徐されても、不法行為自体が合法化されるものではないのである。その点は、不法性がうやむやにされるのと違って、戦勝国でも明瞭に不法牲を認めたのであって、請求権の放棄とは関係がない。そこで、戦争中における不法行為(本件のような特定の協定に対する違反のほか、一般的には、へーグの陸戦法規条約およびその付属陸戦条規の違反をも含む交戦法規に対する違反より生ずる)にもとづく賠償責任であるが、戦敗国の方は、講和条約その他によって、厳重に負わされることは勿論であるが、戦勝国の方のそれらの行方はどうなるか、というと、現在の国際法の下においては、多分に、終戦時における状態や事情にもとづぐ当事国間の政治的考慮による妥協的合意によって支配される。例えば戦争が敵味方互角で終った場合、そしてその一方交戦国が敵以外の第三国から圧迫されるようなことがない場合は、双方の責任は平等に負われるであろうが、一方の敗退の度合が大なればなるほど、何としても他方の発言権は比例的に大となることは、国際社会において、戦争の結果による征服、即ち国家の滅亡という旧観念的なものが、いまだ消失し切らない現在、さらには国際的永久管理が世界平和的秩序という新観念の上に行われる可能性のある現在、やむを得ないことであって、都合のよいときにのみ理想面を強調して、現実面を不当化することは、実際的に不可能なことであって、許されるものではない。現在は、かかる差等をもって戦争が終った場合は、通常、不法行為は不法行為としたままで、戦勝国は戦敗国をして、それに対する請求を放棄させる方式をとる。条約の表面には、戦敗国の責任のみが強調され、戦勝国の責任は、請求権の放棄ということによって、あっさりと解除されるから、結果的には、戦勝国側の不法行為責任が表面化しないが、これは戦勝国の面子の観念から従来そうされているのであって、これによって不法行為が合法化されるものではない。或は「戦敗国に至りては、実際上対手国の交戦法規違反の責任を問う道がないのである」(立作太郎〈タチ・サクタロウ〉「戦時国際法論」昭和十九年版、三三頁)といった方が、もっと素直かも知れない。かかる点からみれば、本件で戦勝国側の不法行為に対する責任自体に関して明瞭とされたのは、むしろ例外的ですらあると言い得るであろう。
 戦敗国によ戦勝国に対する請求権の放棄についての最近の事例を挙げて見ると、古い時は、講和条件中に、軍費賠慣、即ち戦争にかかった費用をも戦敗国に賠償させるという意味における償金が定められたが、その場合は、戦敗国の戦勝国に対する請求権の如きは、問題にされなかったし、或は、挙げて償金のうちで相殺されると考えられた。しかし第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約では、かかる償金の観念を捨てて、攻撃行為に原因する損害賠償の観念における賠償という語を用いた。そして、ドイツの「攻撃に因りて強いられる戦争の結果」同盟及び連合国の政府及び国民が「被り〈コウムリ〉たる一切の損失及び損害に付ては、責任」がドイツに在ることを断定し、ドイツがこれを承認した後(第二三一条)、ドイツ国民の財産権利又は利益に関して、戦時中又は戦時準備のため行われた一切の作為又は不作為について、ドイツ国又は、ドイツ国民はその何れの地に居住するを問わず、同盟国もしくは連合国を相手方として……請求又は訴訟を提起できないと規定している(第二九八条付属書二)。次に今次の世界大戦に対する最初の平和条約たるイタリアその他の諸国との平和条約(一九四七年二月十日パリにて署名)ではどうかというと、対伊平和条約第七六条では次のように規定されている。

 一、イタリア国は、直接戦争から生じたか、又は当該同盟若しくは連合国が一九三九年九月一日にイタリア国と戦争状態に在ったと否とにかかわらずヨーロッパにおける戦争状態の存在によって右期日の後に執られた行動から生じた同盟及び連合国に対するいかなる種類の請求権をもイタリア国政府又はイタリア国民のために左のものを含んで一切放棄する。
(イ)同盟又は連合国の軍隊又は官憲の行為の結果として被った損失又は損害に対する請求権。
(ロ、ハは略する)
(ニ)交戦権の行使又は交戦権行使の目的をもって執られた措置から生じた請求権。
 二、この条の規定は、こゝに掲げられている種類の一切の請求権を完全且つ最終的に打ち切る。この請求権は、利害関係者が何人であるかを問わず今後これを消滅させる。(以下略)

これと同樣の規定は、対ハンガリーの第三二条、対ルーマニアの第三〇条にもある。終戦後、本講和条約締結前すでに連合国側に参戦したイタリアに対する比較的好意的な平和条約においてすら、かくの如くである。但し米国政府は、米イ両国間の平常な財政経済関係の回復のため、且つイタリアの経済的安定のため、右の平和条約の締結後、一九四七年八月十四日、ワシントンで「ある戦時請求権及びこれと関連する事項の解決に関する了解覚書」が署名され、前記第七六条が再確認されて、これについての詳細の取極〈トリキメ〉が行われると共に、イタリアの対ドイツ戦争勝利への貢献が考慮されて、米国側の請求権も放棄され、一応相互的放棄の形式が採られたが、この場合米国側の放棄した請求権は、軍事的救済計画にもとづいて供給された軍用以外の需品、武器貸与法により引渡された需品、イタリアの将校捕虜への給料支払、捕虜送還の際の給与費その他にもとづくものであって、それらの放棄は恩恵的なものであって、イタリアの放棄すべきものとは比較にならぬことは当然である。
 従って、本協定の内容をなす阿波丸事件に対する請求権といえども、例外をなすことなく、他のものと一括して、講和条約中の請求権放棄規定によって、処理されるであろうことは想像に難くない。払うべきものは払い、取るべきものは取る、とか、本件の賠償は国際法上当然これを取り得るということは、実際には行い得ないことであって、償金とか、徹底的な補償を課せられるよりはまだましだとして、戦敗国は、妥協的考慮によって、かかる請求権放棄の方式を「好みはしないが、されど欲する(tamen voluit)」のである。
 次に、かかる請求権の放棄を国家が勝手に行うのは個人の権利利益を侵害するものであるという議論も聞かれる。これについては二つの面から考えねばならない。第一は、現在の国際社会においては、国民たる個人の権利利益は国際社会の最高且つ最終の単位たる国家によって最後的に代表される。国家をはなれて自力でこれを防禦することばできない。平時において、外国人として一国の裁判所に訴訟を起したりすることは、当該国の国内法秩序において起り得るとしても、それは国家対国家の合意によって優越されることは勿論である。阿波丸事件の請求権もかくて、国家の意思によって最後的に打切られた以上は、個人も出訴し得る国際私法裁利所でもない限り、国民たる個人にはもはや救済の方法はない。これは、国家および国際社会の本質から見てまた国際法における個人の主体制がそこまで認められていない現在では、やむを得ないところである。また、国内的にいって、見舞金で片付けられることの不当をいうものもあるが、これは国民の受けた戦災負担の公平という見地から、特に海上の損害のみを手厚く考慮することはできない、といわれていることに満足しなければならないであろう。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2016・11・13(9位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする