◎阿波丸事件(1945年4月)とは何か
今月六日に、『判例時報』第二一巻第八号(一九四九年八月)から、筆者不明の「公法学会だより」を紹介した。この記事が載っていた『判例時報』の同号には、一又正雄〈イチマタ・マサオ〉による「阿波丸事件の解決について」という報告が載っていた。これが、なかなか興味深い報告であり、史料としても貴重だと思ったので、紹介してみることにする。
なお、ウィキペディア「阿波丸事件」は、この一又報告を参照していないと思われる。
阿波丸事件の解決について 一 又 正 雄
一 阿波丸事件の内容
二 第五国会における阿波丸事件
三 阿波丸事件解決のための日米協定
四 国際法からみて注目すべき諸点
イ 戦時不法行為に対する賠償責任
ロ 休戦後最初の条約としての締結経緯
あ と が き
一 阿波丸事件の内容
去る四月六日(一九四九年)の外務省発表その他を綜合すれば、阿波丸事件の経緯はこうである。太平洋戦争の末期、米国政府は、アジア地域にある連合国側の捕虜と抑留者に救済品を送りたいから、右救済品のための船舶を提供するように、日本政府に申入れてきたので、日本政府は、一九四四年(昭和十九年)十一月、米国から極東ソ連領に輸送してあった二千余トンの救品を受取り、これを内地、満洲、朝鮮、中国方面に輸送したあとの残り約八百トンを、日本郵船会社の阿波丸(一万一千重量トン)に積んで南方諸地械に送ることになった。同船は往復の途中連合国から攻撃、臨検またはいかなる干渉も受けないという保障を得た上(即ちいわゆる安導券【セーフ・コンダクト】を得たのである)、一九四五年(昭和二十年)二月十七日門司を出帆、南方諸地域に航行し、使命を果した後、二千四名の乗客および乗組員を乗せて、三月二十八日シンガポールより帰途についたが、その途中、四月一日真夜中ごろ、台湾海峡で、米国潜水艦のために撃沈され、二千三名の人命と貨物とが失われ、生存者は一名しかなかった(後述、今村議員の陳述を参照)。
本件はその後、日本の利益代表国たるスイス国政府を通じて、日米両国政府間に交渉が行われた結果、終戦直前の七月五日、米国政府は日本政府に対して、同船撃沈に対する責任を認めるとともに、損害賠償問題については、敵対行動終止後これを考慮する用意のあることを保証してきた。これに対して日本政府は、具体的な損害賠償(二億二千万)の要求を提出、終戦後も引続き米国側との間に話し合いを続けてきたが、まだ解決に達していなかったのである。
以上のごとく、本件そのものは、戦争中に、一方交戦国が、他方交戦国との間に、当該戦争中に締結した約定に違反して、生ぜしめたところの不法行為事件であり、その不法行為を行った国自らが、それに対する責任を認めている極めて単純な事件なのである。【以下、次回】