礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

豊国覚堂の「多胡碑」論(1918)

2016-11-16 06:21:42 | コラムと名言

◎豊国覚堂の「多胡碑」論(1918)

 先日、某書店の「百円均一」の棚から、『上毛及上毛人』大正七年分の復刻版(上毛新聞社、一九七六)を拾い上げた。同誌第二一号(一九一八年七月)に、豊国覚堂〈トヨクニ・ガクドウ〉の「我が多胡碑に潜める羊氏と多治比氏との関係」という文章があり、帰りの電車の中で、興味深く読んだ。
 本日は、この文章を紹介したい。
 原文は、総ルビに近いが、このルビには問題が多い。そこで以下では、適宜、取捨・訂正しながら、「読み」を紹介する。【 】は原ルビ、〈 〉は引用者による読みである。

我が多胡碑に潜める
 羊氏と多治比氏との関係
  主として上野と武蔵との史実に就て
          豊 国 覚 堂
 〇慈光寺と羊太夫の大般若経
 武蔵国【むさしのくに】比企郡多比良村【たひらむら】に慈光寺と云ふ古刹〈コサツ〉あり。和漢三才図会〈ワカンサンサイズエ〉に『坂東九番比企慈光寺』。山吹日記に『役の行者〈エンノギョウジャ〉の開基』とあるのも是れなり、後【のち】広恵上人仏院を造【つくり】て聖場【しやうぢやう】と云ふ。清和帝の御宇〈ギョウ〉、良峰朝臣【よしみねあそん】に勅して当山の四至〔境界〕を定め賜ふ、亦【また】天台別山一乗法華院の額を給ふ。〔源〕頼朝卿の文書二通あり、建久二年千二百町歩の田畝【でんぽ】を寄付せらる、其時は七拾五坊有りしに、今は僅かに四坊残れり。
 此寺に羊【よう】の太夫【たいふ】の大般若といふありて巻毎〈カンゴト〉に奥書【おくしよ】あり、貞観〈ジョウガン〉拾三年(歳次辛卯)三月三日、配檀主前上野国権大目従六位下安倍朝臣小水麿とあり、一筆ならず別筆も交れり、云々。(此事は武蔵演路〈ムサシエンロ〉にも見ゆ)
 右は北武蔵名跡志に之を挙げ、著者富田永世〈トミタ・ナガヨ〉翁付言して曰く、羊の太夫は上野国【かうつけのくに】の多胡郡【たごこほり】の碑にも伝へて和銅の頃の人なりといへど定【たし】かならず、かなたに委【くわ】しく弁ず(即ち翁の著せる上野名跡志に詳か〈ツマビラカ〉に弁ずとの意也)。又貞観は和銅より百六拾年も後也、三代実録に貞観七年正月七日乙酉、従五位下安倍朝臣真行為上野介と見ゆ、此人の親族などか、良峰朝臣も同拾一年三月四日、為上野権介とあり、云々と付記せり。覚堂【がくだう】〔筆者の号〕按ずるに、上毛伝説雑記拾遺巻第二の総社記等にも羊太夫【ようだいふ】の事跡を載せ、又大般若経書写の事も詳しく記【しる】しあれど、孰【いづ】れも怪異を説きたるものにて信拠し難き節【ふし】無きに非【あら】ず。余思ふに右安倍朝臣小水麿と云へるを直【たゞち】に羊太夫なりとするは当らず、寧ろその子孫などにて、大般若経書写は却て〈カエッテ〉其祖先たる、羊太夫の冥福を祈る為に書写【かきうつ】したるものにはあらざる歟【か】。尚ほ次項に於て之を弁明すべし。【以下、次回】

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