礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

羊氏を朝廷に推挙したのは多治比三宅麿か

2016-11-18 05:27:20 | コラムと名言

◎羊氏を朝廷に推挙したのは多治比三宅麿か

 豊国覚堂の「我が多胡碑に潜める羊氏と多治比氏との関係」(『上毛及上毛人』第二一号、一九一八年七月)を紹介している。
 本日は、その三回目で、「武蔵七党中の丹党と多胡碑」の節の前半である。【 】は原ルビ、〈 〉は引用者による読みである。

 〇武蔵七党中の丹党と多胡碑
 中古武蔵に於て勢力を振ひし武士は、桓武平氏【くわんむへいじ】と嵯峨源氏【さがげんじ】なりしが、続いて清和源氏が大いに全国に勢をを得【う】るに至りたりき、是等【これら】源平諸氏の爪牙【そうが】となり、彼等をして勇武を張ることを得せしめたるは、武蔵七党の力、与【あづ】かりて多きに居【を】ることを知るべし。その七党中に於ても丹党【たんたう】は常に最も雄位【ゆうゐ】を占め党中の白眉なるが如し。我が多胡碑に署名せる多治比真人【たぢひまひと】は即ち此党の最初の人たり。
 丹党の祖を丹治武信【たんぢたけのぶ】と云ふ。彼【か】の熊谷の次郎丹治直実【なほざね】も亦此党の出【しゆつ】なり。丹党とは丹治党の義なり、丹治は多治比【たじひ】に同じ、多治比は宣化天皇の皇子【こうし】上殖葉王【かみえばわう】の後【のち】なり、即ち皇子の子十市王【といちわう】、其子古手【ふるて】、古手の子嶋【しま】の時に多治比の姓を賜はる。是れ有名の左大臣嶋なり、嶋の子に県守【あがたもり】、水守【みづもり】、三宅麿【みやけまろ】、広足【ひろたり】などの兄弟あり、皆当時の顕職に就き、長兄の県守は元正天皇の初世に造宮卿【ぞうきうけう】に任ぜられ、養老元年遣唐押使【けんたうあうし】を命ぜられて入唐〈ニットウ〉し翌年帰朝し、同三年には武蔵守【むさしのかみ】に任ぜられ、相模【さがみ】、上野【かうつけ】、下野【しもつけ】の按察使〈アゼチ〉を管す、四年蝦夷反す、県守これを平【たひら】ぐ、功を以て中務卿〈ナカツカサキョウ〉に任ぜられ、聖武天皇の御世〈ミヨ〉中納言正三位に進み、天平九年七十歳にて薨去【こうきよ】されし人なり。多胡碑に署名せる勅命の伝宣者は即ち県守朝臣【あがたもりあそん】の次弟三宅麿と云へる人にて、比人は続紀〔続日本紀〕に霊亀元年五月、従四位上多治比真人三宅麿、左大弁と為るとありて、此の和銅四年より霊亀元年迄を数ふるに漸く五年後のことなれば、此頃は尚ほ左中弁にてありしを知るべし。是より先き、大宝三年の正月に此人は東山道の巡察使として関東に来られ、和銅の奉献もは実は其手を経たる関係上、和銅改元の始め、直ちに催鋳銭司〈サイチュウセンシ〉の長官をも兼任せられたり。即ち左中弁の官に在りて東山道巡察使、催鋳銭司長官の二役を兼務せられ、親しく秩父にも下向せられ、羊の太夫の為人〈ヒトトナリ〉も熟知され、其功績を現認せられたるを以て、此人より朝廷に奏聞〈ソウモン〉して、上野の三郡を割きて新たに多胡郡を置き、羊氏を其郡宰【ぐんさい】に推挙せられたる者なるべし。又其弟の広足も聖武天皇の天平五年、遣唐使として入唐され、其後天平十年の八月に至り、是亦武蔵守に任ぜられことことあり。丹党の祖武信は実に広足八世の孫たり。朱雀〈スザク〉天皇の天慶年間、武蔵押領使〈オウリョウシ〉として京都より下向し、高麗郡【こまぐん】加治郷【かぢがふ】に住し、其子孫土着して一門四十四氏を出し、安保【あほ】、勅使河原【てしがはら】青木等は其主〈オモ〉なる者にて元の賀美郡【かみぐん】即ち今の児玉郡賀美村に大字【をほあざ】勅使河原村【てしがはらむら】あり、其他此【この】付近村落は蓋し此の族の蕃衍【ばんえん】せし所なるべし。尚ほ同地方神流川【かんながは】沿岸は、旧【も】と上野に属せしものが、河流の変遷と共に、近古武蔵に編入せられしものも少なからず。【以下、次回】

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