◎黒谷村に和銅沢、銅洗堀と称する所あり
豊国覚堂の「我が多胡碑に潜める羊氏と多治比氏との関係」(『上毛及上毛人』第二一号、一九一八年七月)を紹介している。
本日は、その二回目。【 】は原ルビ、〈 〉は引用者による読みである。
〇和銅の銅坑、鋳銭司、羊の太夫
続日本紀〈ショクニホンギ〉に和銅元年正月乙巳、武蔵国秩父郡献和銅云々。扶桑略記に云【いは】く、慶雲五年戊申正月拾日、改為和銅元年、是依武蔵国秩父郡始献和銅也と。右につき富田永世〈トミタ・ナガヨ〉翁曰く、銅を出しゝ地は黒谷村【くろやむら】の山中にて今も和銅山【わどうさん】と云ふ。武蔵野話〈ムサシヤワ〉に黒谷に鋳銭沢【ちうせんさは】と云ふ地名ありと云へるもの是れ也と。
此事につき『埼玉県志』に曰く、元明天皇の朝【てう】、武蔵国銅を献ず、天皇始めて国銅を得たるを喜び、元を改めて和銅と命じ給ふ。この銅は即ち我が埼玉県秩父郡黒谷村(上武線黒谷駅より十町許り〈バカリ〉の処)より採掘せし所のものなり。今其遺跡を尋ぬるに口碑伝ふる所二個所あり。一は大字【おほあざ】黒谷蓑山【くろやみのやま】の一支脈祝山【いはひやま】北東の渓谷にして和銅沢【わどうざは】と呼ふ所是なり。付近に銅洗堀【どうせんほり】と称する所あり、銅を洗滌【せんでう】せし所といふ。一は同山脈中、同所を距【さ】ること南方約七八丁の山脈に金山【かなやま】と称する所あり、長方形の坑穴【こうけつ】七個あり、其中なるものは直径四五尺、深さ七八間に及び、後人〈コウジン〉の再掘に係るものなりと云ふ、孰【いづ】れが真なるか詳【つまびら】かならずと。いま覚堂〔筆者の号〕按ずるに右両所ともに其遺址【イシ】なるべし、其故【そのゆゑ】は当昔【そのかみ】銅を朝廷に奉献せし後、同所は奈良朝廷の直営【ぢきえい】となり製銅所【せいどうじよ】の外に鋳銭司【ちうせんし】さへ置かれ、彼の『和銅開珍』なる通貨を鋳造されし事実あり。而【しか】して我が多胡碑【たごひ】の主人公たる羊の太夫〈ヨウノタユウ〉、即ち朝鮮の帰化人たる羊氏は、右製銅所の技師として将【は】た鋳銭司の官吏として同所に出仕したる者なるべし、古書に羊の太夫が日日【ひゞ】奈良朝に日参して勤仕したりと称するは、即ち我が多胡郡【たごこほり】より武州秩父なる奈良朝廷の直営にかゝる鋳銭司並【ならび】に製銅所へ日勤したるを称する者にして、其功労に依りて後年【こうねん】に及び緑野【みどの】、甘楽【かんら】、片岡の三郡を割きて、新たに多胡郡【たごこほり】を置き、之を羊氏に賜ひしものなるべし。此事は甚だ余の臆断に似て、敢て古書の之を確証するに足るもの無しと雖も、余は永年【えいねん】調査研究の末、種々の材料を綜合考察して此事あるを深く信じ、先年著述せし多胡碑集説〔『上毛及上毛人』第三号、一九一六〕中にも之を論じ、以て天下の識者に問ひたりしに、幸ひ多数学者の賛同を得るに至りたるは、余の私【ひそ】かに愉快とする所なり。
尚ほ武州秩父の一角に、高麗人【かうらいじん】が多数帰化移住したる為め、高麗郡【こまぐん】の名称が付せらるゝに至り、後又其韓人【かんじん】が我が上野【かうづけ】に移住したる関係上、甘楽【かんら】は即ちカラ(韓)の意より出でゝ遂に郡名になりたることや、続日本紀〈ショクニホンギ〉に天平神護二年五月壬戊、在上野国新羅人子午足等一百九十三人、賜姓吉井連(此族は多胡郡吉井付近より甘楽郡に散居したるなり)と云ひ、又姓氏録に吉井宿祢は高麗人伊利須使主男麻弖臣之後也と云へるに就て、上武関係又は羊の太夫即ち羊氏に関しては、多胡群落合村の宗永寺、又は群馬郡【ぐんまこほり】惣社村【そうじやむら】釈迦尊寺等の干繋【かんけい】を探求して論ずるの要あれど、▲【そ】は他日に譲ることゝせり。【以下、次回】
(注)▲が、プレビューで出ませんが、「開」という字の門がまえの中の字です。