◎柏木隆法さんを偲ぶ
先月二八日、宗教研究家の柏木隆法さんが亡くなられたという。柏木隆法さんとは、一九九〇年代の半ばに、代々木の正春寺でお目にかかって以来、いろいろな形でおつきあいをいただいてきた。名著『千本組始末記』の復刊のお手伝いをしたこともあった。「隆法窟日乗」と題する通信を送っていただいたこともあった。ご了解を得て、その通信の一部を、当方のブログで紹介させていただいたこともあった。思えば、昨年の一〇月二一日、築地本願寺でお目にかかったのが最後だった。
本日は、故人を偲び、「隆法窟日乗」のうち、二〇一五年六月二〇日の分を紹介させていただく。これは、同年六月一三日に、一括して拝受していた二十数日分(「未来」の日付のもの含む)のうちの一枚で、「口に出して云えない映画界の現実」と題して、同年六月二〇日の当ブログで紹介させていただいたものである。
隆法窟日乗(6月20日) 通しナンバー433
命の灯が消えかかっている拙に新しいものを書けというのは土台無理な注文だ。仏教では命の連鎖を灯に喩えて無尽燈〈ムジントウ〉という。高野山や比叡山には何百年も尽きることなく燃え続けている聖火があるそうだが、文化も無尽燈であらねばならぬ。本もその伝達方法の一つではあるが本そのものが目的ではない。アンデスのマチュピチの遺跡に実際に行ってみたことがあるが、軍艦島と同じでそこは廃墟に過ぎない。廃墟にどれだけ立っていても誰も何にも教えてはくれない。インドのブッタガヤ、パリのカルチェラタンに行っても古跡は古跡、生きている人がいなければ何も語らない。その場所に行くことを追体験というが、文化というものは追体験しようもない。拙も生まれて65年、その間に起こったことを全部書くのは不可能だ。15歳のころまでは近所の悪ガキと遊んだ思い出しかなく、15歳から18歳までは二度と味わいたくない高校時代。せいぜい初体験で童貞を如何に失ったか、そのくらいしか語るものがない。これをいちいち『十牛図』〈ジュウギュウズ〉に当て嵌める暇人がいるがそんなことをやっても最後まで辿り付かない。18歳の大学入学から拙の記憶は鮮明に残っている。それは年齢的にも当たり前のことで、拙なんか野獣を野に放った時代だったと思っている。だから振り返ってみると当然の如く、経験しなければならなかったもの、経験しなくてもいいものを経験したことなんか複雑に絡む。この稿に対する読者からの御注意を挙げておくと、まず圧倒的に多いのは「映画のことを書いてくれ」と仰る方が多い。成程、拙は1968年から1972年までは京都で撮った映画の大半に関係していたから書けないことはない。しかしあまりにも忙しくて叙述するほど順をおって書くことなんかできない。それに拙は一介のアルバイト学生に過ぎない。朝、撮影所に行って大部屋か企画室でお茶を飲みながら駄弁っているとその日の予定が決まる。忠臣蔵の討入りのようにカットを繋げる出演のコマは少ない。エキストラと違うのは出るのではなく撮る側に立っていなければならないということだけだ。監督や進行係の滅茶苦茶な要求にも応えた。ドタキャンした俳優の穴埋めにも出演した。それで自伝なんか書けるはずもない。鮮明に記憶に残っておるものは2、3本しかない。そもそも芸術映画なんか出たこともないのだ。チンピラ兄ちゃんが町を闊歩するところとか、御用提灯を持って走るシーンとか、ラッシュで見て初めてどのシーンの撮影だったかわかる程度なのである。だが時が経つといろいろなことが判ってくる。三島由紀夫が切腹したのは『人斬り』〔フジテレビ・勝プロダクション制作の映画〕の半年後のことで、何故あれほど切腹のシーンに拘ったのか、あんな難しいシーンを三島が駄々をこねるようにして撮らせたのか、よくわかったような気がした。大友柳太朗は立ちまわりのシーンで居合の型に拘っていた。鏡を見て右足を前に出したり、左足を前に出したりして目線の高さを確かめていた。これも結果から考えてみると既に痴呆症の症状が出始めていたからであった。こういうことが拙にも伝わったのは更に10年がすぎてからであった。『花山大吉』〔東映制作のテレビ時代劇〕を撮っている時、近衛十四郎〈コノエ・ジュウシロウ〉が赤ん坊を高く持ち上げるシーンでどうしても持ち上がらず、苦労していた。末梢神経症が右手にあらわれていた。『戒厳令の夜』〔白夜プロダクション制作の映画〕の時、長門勇〈ナガト・イサム〉はマシンガンを撃つシーンが撮れなかった。60代の半ばから彼もまた痴果症の症状があった。こういう現場を拙は見てきた。そこまでして映画やテレビの出演したのは準主役クラスの人々でも生活が楽ではなかったからである。それは口に出して云えない映画界の現実があった。