◎江湖新聞は佐幕主義にて都下の人気に適ふ
古典社編『書物語辞典』(古典社、一九三六)から、「しんぶんし」という項を紹介している。本日は、その二回目。『以下では、條野伝平(採菊散人)が『文芸俱楽部』第二巻第九篇(一八九六)に寄せた「新聞紙」という文章が、転載されている。
『新聞紙(條野伝平)採菊散人 新聞紙の日本に始めて刊行成たるは文久の年間本所に万兵といふ書肆〈ショシ〉ありてバタビヤ新聞といふものを発行尚同店にて香港で出板をする西洋の昔咄し様なものを刊行したる同時に六合新報といふものを幕府の開成所にて出板せらる是は漢字にて重に西洋各国の事が多し其以前には香港にて出板する遐邇貫珍、澳門月報とて何れも漢字にて支那及び西洋の事を載たるものなり是は幕府の御祐筆教所抔〈ナド〉の手許にありて極密のものなり好事者は伝書を求めて漸く謄写をする位ゐの事なりし其後文治六年に本間仁茂といふ者と播州網干の舟頭彦蔵〔浜田彦蔵〕といふ者と中外新聞といふ物を発行せり是は其年の三月に始りて八月に廃刊となりぬ。又慶応年中横浜百壱番館の米国人ベリーといふ者が萬国新聞を発行せり是は石版摺〈セキバンズリ〉なり其後慶応二年柳川春三氏が中外新聞を発行し、続て橋爪貫一氏が内外新報、福地桜痴居士が江湖新聞、横浜にて岸田吟香〈ギンコウ〉氏の藻汐草〔もしほ草〕等の出板ありて何れも時期に適し毎号四五千部を発兌為すに至れり然るに江湖新聞は佐幕主義にて不恭順の文字尠なからざりければ其当時都下の人気に適ひたり、然るに其筋の忌憚〈キタン〉に触れたる事ありて桜痴居士は糾問局へ拘留せられたり、居士が拘引の時散人〔條野伝平〕は居士が池の端の宅に遊び居りて親しく之を目撃したるに壮士体〈テイ〉の男垢染み〈アカジミ〉たる小倉〈コクラ〉の袴に木綿布子〈モメンヌノコ〉を着して居士の玄関に来り、私は稲田九郎兵衛手附〈テツキ〉の者なるが少しく先生に御尋ね申度き〈モウシタキ〉事の候へば何とも御苦労ながら俺同道にて和田倉内元会津邸の糾問局迄御出被下度〈オイデクダサレタシ〉とありけるに居士は異議にも及ばず承諾せり散人は糾問局といふを以て大に気遺ひ跡より出頭せらるゝとも同道は然るべからずと忠告せしに居士は仔細無し〔めんどうなことはない〕懸念をあらせそと下婢に命じて朋友某の許へ袴を借に遣り彼の壮士と通立て戸外へ出るを散人は窓より覗き見れば家五六戸を離れたる頃物蔭より壮士体の者七八人ばらばらと出来り〈イデキタリ〉居士の左右を囲みて往たり【以下、次回】