礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

コトバの遊戯にダマされるな(上野陽一)

2020-01-06 00:01:35 | コラムと名言

◎コトバの遊戯にダマされるな(上野陽一)

 雑誌『光』創刊号(一九四五年一〇月)の紹介に戻る。
 本日は、上野陽一の「コトバの遊戯にダマされるな」というエッセイを紹介してみたい。本日は、その前半。

  コトバの遊戯にダマされるな  上 野 陽 一

 その昔、大政翼賛会で国民協力会議といふものを開いたことがある。その席上政府側の一首脳者は、「この大東亜戦争を勝ちぬくためには、不可能を可能ならしめることが必要である」と叫んだ。列席者は拍手した。また「2+2=4ではいけない、2と2とを合せて5とする熱意がなければならない」ともいつた。「よせ算ではいけない、かけ算でいかうではないか」とつけ加へた。聴衆は、理窟なしに賛成し感奮〈カンプン〉した。そして翌日の新聞には「不可能を可能に」と題して、その記事が麗々しく掲げられてゐた。
 私は委員席でその演説を聞いてゐたがこんなデタラメのコトバにダマされる国民の不合理さには、まことに困つたものであると秘かに眉をひそめたものであつた。不可能といふのは可能でないことをいふ、もし可能になるならば、それは不可能ではなくして、可能なのである。不可能を可能にすることは、絶対にできない。
 2+2は4であつて、5にはならない。ことにアメリカでは4にしかならないが日本ではこれを5にして見せると、力んだところで絶対に5にはならない。そんな不合理なことを盲目的に信じこんで、拍手をおくるやうな不合理な頭をもつてゐながら、科学戦に勝たうなどとおもふのは、トンでもない心得ちがひである。
「よせ算でなく、かけ算でいかう」といふのも、要するに、コトバの弄び〈モテアソビ〉にすぎない。ドウいふ仕事の仕方がよせ算であり、それをドウ改めるのがかけ算なのかサッパリ内容はわからないではないか。たゞコトバのアヤにダマされて、拍手喝采してしまふところに、国民のダラシない不合理さがある。
【一行アキ】
 かういふ考へをもつ指導者たちが、始めた戦争である。数字の上からいふと、勝利は不可能といふの外はない。それを承知で、その不可能を可能としなければならんといつて、指導して来た。だから戦争の仕方も、大きく四つに組む横綱の相撲ではなくして、行司の合図をまたずに、いきなり相手の横ビンタをヒツパタクといふやうなヤリ方にならざるを得ない。
 ヒツパタカれた方では、「この野郎! ヤツタナ、覚えてろ」といふワケで、憤激その極に達し、その抗戦力は二倍三倍した。何のことはない、敵の戦力をコチラで、あほつてやつたことになつてしまつた。
 自分の犬が他の犬と喧嘩してゐるとき飼主が自分の犬を助けるツモリで、相手の犬をヒツパタクと、却つて相手を憤激させて、自分の犬がマケル原因を作つてしまふ。この間の事情を知つてゐるものは、ワザと自分の犬をヒツパタイて、その戦力を倍加してやるのである。
 この心理乃至生理は、人間の場合においても、おなじことである。初期の指導者が真珠湾の不意打ちによつて、アメリカ国民を極度に憤激させ、反対に日本国民をして、いはゆる赫々たる戦果に酔はせてしまつたのは、敵を強くして、味方を弱くしたといふ結果を招いたのであつた。結果からいふと、これこそ利敵行為であつたのである。
 アメリカでは、初から終ひ〈シマイ〉まで、イヤ戦ひが勝利に終つた今日に至るまで、「真珠湾を忘れるナ」といふ標語一本でおし通して来てゐる。これに反して、わが日本では、国民精神総動員、職域奉公、一億一心からはじめて、殆ど一ト月ごとに新しい標語が宣伝せられ、開戦以来三年目になつて、「一億憤激総蹶起運動」といふのがはじめられた。アメリカでは昭和十六年〔一九四一〕十二月八日から、一億三千万の国民が憤激して総蹶起してゐるのに、十九年〔一九四四〕になつてから、ヤツト憤激をしろといふお達しが政府筋からでたやうな始末である。これでは拍子ぬけがして、蹶起どころか、ドツコイシヨとヤオラ立ちあがるくらゐが精々であつたらう。【以下、次回】

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