礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

首相は押入のなかにいるのではないか(迫水久常)

2020-01-25 03:34:14 | コラムと名言

◎首相は押入のなかにいるのではないか(迫水久常)

 迫水久常の『機関銃下の首相官邸』(恒文社、一九六四)から、「首相は無事か」という章を紹介している。本日は、その三回目。

 福田秘書官の方をみると、やはりびっくりして死体をみつめている。岡田首相の死体ではないとすると、いったい首相はどうなっているのだろうか、やはり殺されてしまってどこかにころがされているのか、それとも妻がでがけにいったように、生きていてどこかにかくれているのだろうかと私の心は千々に乱れた。さいわいなことに、部屋のなかには福田秘書官と私の二人しかいない。おたがいの耳に口をよせあって、ともかくこの松尾大佐の死体をそのまま総理大臣の死体であるとしておしとおすことを打合せた。もう涙もなにもでないが、ここが芝居のみせどころだと思い、ハンカチでわざと目をおさえながら部屋をでると、とたんに待ちかまえていた中尉が「岡田閣下のご遺骸に相違ありませんね」と念をおしてきた。私たちは「それに相違ありません」と答えたものの、 気になるのは岡田総理の安否である。いまはまだたしかめる術〈スベ〉もない。どうしたものかと考えているうちに護衛の膂察官は全員殺されてしまったらしいが、妻のない首相の身のまわりの世話をしていた、サク、絹という女中が二人のこっているかもしれないと思いあたった。そこで私は「この家のなかには女中が二人いたはずですが、どうなっていますか」ときいてみた。「女中さんならあちらの部屋におります」という将校の答えに「それではちょっとあいたいから、案内していただけないだろうか」とたのんでみると、案外たやすく案内してくれた。その部屋は台所に近い八畳であったが、その部屋にはいった私は部屋の異様な空気にはっとした。というのは入口の襖をあけると、すぐ右手にある一間の押入の前に二人が一枚ずつの襖を守るかのように背中にあててすわっており、異様に緊張した表情でこちらをにらんでいたのである二人の様子はまず普通ではない。
 私はとっさに首相はこの押入のなかにいるのではないかと感じた。私たちのうしろには、兵士たちがじっと私たちを監視しているのである。うかつにものはいえない。まず私が「けがはなかったか」と口をきった。すると一人が小さな声で「はい、おけがはありません」と答えるではないか。自分たちのことに「お」をつけるはずがない。この言葉で、「これはたしかに首相が無事でこのなかにいるのだな」と私は万事のみこめた。ほんとうにとび立つ思いであった。そうとわかれば長居は無用と考えた私は女中に「あとで迎えにくるからしっかりしていてくれ」といいながら、福田秘書官をのこして、足早やにその場を立ち去ると、ついてきた兵士たちは私といっしょに広間の方へと移動した。歩きながら私は、「総理の最期の状況をおきかせください」とはなしかけた。
 中尉は「武人として実にご立派なご最後でした。私どもは心から敬意を表します」といったが、私自身としては、そんな話など耳にもはいらない。さて、これからどう措置すべきかと、ほんとうに当惑した心持であった。この間数秒、後にのこった福田秘書官は、女中から総理が押入のなかにいることを確認し、必ず救いだすからといいおいてきたのである。

 ここまでが、「首相は無事か」の章である。明日は、これに続く「防弾チョッキを着こんで」の章を紹介する。

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