礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

久慈氏はわかってくれ「今後は邪魔しない」と言った

2022-05-01 03:11:54 | コラムと名言

◎久慈氏はわかってくれ「今後は邪魔しない」と言った

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その二十七回目で、第二部「農地改革」の7「適地選定委員会」を紹介している。この章の紹介としては二回目(最後)。

 会議が始まったが、すぐに分科会に入り、委員たちは小グループに分かれて議案の審議を開始した。彼らは江刈村の問題の出ている小委員会の丸テーブルを外側からぐるりと取囲んでしまった。私には策の施こしようがない。唯一人の知人である藤原青年のところに行って相談しようとしたら、皆で見ているから、あまりそばに来ないでくれという。三上委員は別の分科会にいる。なすところなくそこに立っているのが辛くて、私は後を大村氏に頼んで、似鳥〔吉治〕氏の宅に来て床にはいった。健康はまだ回復不十分で、身心くたくたになっていた。数時間たってのち、大村氏が帰って来た。議題は保留になり、雪の消えるのを待って、現地の再調査をやることに決定したという。小委員会でこれを不適地にせよと主張した委員は、九戸郡出身の県会議員久慈辰己だという。関羽ひげは、盛岡で市乳〈シニュウ〉会社を経営している小泉一郎という男であることも判った。彼は大村氏の知人だというので、数日後二人で彼の自宅を訪問し、私の真意を伝えた。彼は私をひどく誤解していた。地主たちの口からだけ聞いている彼から見れば、私は共産党で、村の酪農の破壊者だったのである。会ってみたら、彼は弘前高校から東大農学部を出た男で、クリスチャンでもあり、画家でもあった。私は村の酪農を、限られた一部のものから、全農家のものにするために開拓をやるのだといって諒解を求めた。彼はこれを判ったようでもあったが、急展回も出来ない様子だった。彼は市乳の足りない分を、守山の工場から分譲して貰ったり、その他にも守山商会との関係があったので、この争いにまき込まれ、私の敵にまわることになったらしかった。
 適地選定委員の久慈辰己氏には、同じ九戸出身の県会議員、中野吉郎氏(いまの議長)から話して貰うことにした。中野氏は私の養父母とも知合いであり、遠い縁つづきでもある由で、前に一度面識があったので、盛岡の宿に彼を訪ねた。事情を話したら、彼は久慈氏を電話で呼んでくれた。久慈氏は江刈村の問題は利害があるわけではないが、古くから畜産関係の仕事をして来た人で、いわば畜産界の代表議員をもって任じているのだ。そこへ従前の村長仲間の岩泉氏から、江刈村の現村長のやろうとしている開拓政策が実現すれば、酪農は壊滅するから力をかしてくれと頼まれ、簡単にそう信じたまでだという。私が種々説明したら、よく判ってくれて、今後は絶対邪魔しないといった。
 こうした問題を背負っているとき、知己をもつことともたないことの差はひどいものだ。私は岩手を去って二十年にもなり、県内には知己というものが皆無に近かった。中学時代の友人たちもどこにどう散らばっているか、見当もつかない。これと反対に、岩泉兄弟たちの知己は広汎な範囲に亘っている。共に盛岡農学校の出身だが、この学校は県内各地方の富裕農家の子供たちがはいる学校で、その卒業生は各町村の有力者となっており、町村長となっているものも圧倒的に多い。それに長く村長をやっていると、県下の主要な人間とは皆面識をもつことになる。ハンディキャップはこれだけではなかった。向うは闘争資金をふんだんに持っていたが私たちの方には皆無であった。村の政策だとするのは私だけで、議員たちは開拓を憎んでいる。村長交際費を一万円計上したら五千円に削られた。それすら、この必要に充てられるものではなかった。
 適地選定委員会の終った夜、地主たちの一行は、県の関係各課の人々と県農地員の全員を、盛岡一の料亭に招待し、盛大な酒宴を張ったと聞いた。われわれには手の出ないことであった。

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