◎小泉信三、幸田露伴を訪ねる(1941)
書棚を整理していたら、雑誌『世界』の「第22号」が出てきた。一九四七年(昭和二二)一〇月一日発行、「定価金十三円」。
興味深い記事が多いが、本日は、小泉信三のエッセイ「露伴と今日の読者」を紹介することにしよう。
昭和十五、十六年であつたと思ふ。露伴先生が二年続けて、夏、御殿場に家を借りて過ごされたことがある。当時私自身も毎年夏御殿揚で暮らしたので、小林勇君に頼まれ、先生の為めに貸別荘の問合せなどをした。最初の年〔一九四〇〕は、二の岡〈ニノオカ〉といふ、函根〈ハコネ〉から長尾峠を越えて御殿場町〈ゴテンバチョウ〉に出る街道に沿ふた林間の家の一つであつた。二年目〔一九四一〕はそれより少し西へ離れ、富士に面した対山荘と称する一廓中の一軒であつた。私の家も同じ対山荘に属し、大きな声を出せば聞こえる位の距離にあつたから、朝夕出て歩けば、自然 先生の門前を過ぎるので、よく御尋ねして先生の話を聴いた。
先生はよく談じられた。話題から話題へと、殆ど絶間〈タエマ〉なく話を続けられたので、私は何時も〈イツモ〉長坐した。そこで何を先生から聴いたかといはれると、それが実に残念な次第であるが、こちらに素養が足りない為め、先生の話を正確に覚へてゐて書くことが出来ない。これは先生に物を聴かうとした多くの人に共通の憾み〈ウラミ〉ではないかと思ふが、先生の最も得意とする話を聴いて、先づ理解し、従つて記憶するだけの準備がこちらになく、始め暫くは一生懸命に聴いて歩るいて行く中〈ウチ〉、だんだん後れて、遂に全く離れてしまふといふ感じを抱いたことがたびたびであつた。誰れか傍〈ソバ〉にゐてノオトを取つてくれるか、或は誰れか先生の相手をして自分がノオトを取る方に廻るかしたらと、思ふことがよくあつた。多分先生も最も得意とし、私も聴きたいと思つたのは支那の学問文芸に関する話であるが、それを伺つてゐる間に、右にいつたやうに、此方は取り残されて先生が独りで歩いて行つて仕舞ふことがよくあつた。【以下、次回】
小泉信三(一八八八~一九六六)は経済学者、一九三三年(昭和八)から一九四七年(昭和二二)まで、慶応義塾塾長を務めた。幸田露伴(一八六七~一九四七)は小説家。一九四七年(昭和二二)七月三〇日に亡くなっている。すなわち、小泉のエッセイには、幸田露伴を追悼するという意味があった。